発表会の日は雨だった

なぎらまさと

発表会の日は雨だった

「館長ー! おはようございまーす!」

 エスカレーターで上がってきた響子ちゃんが、銀色の大きなスーツケースを右手でガラガラと引きながら元気よくロビーにやってきた。

「響子ちゃん、おはよう。相変わらず元気だね。社会人になってちょっと大人っぽくなったんじゃない?」

「えー、本当ですか? 大人のオーラ出ちゃってます?」

 彼女はちょっと腰を横に突き出してポーズを取った。

 相変わらず楽しい子だ。


 響子ちゃんとここで会うと、今年ももうすぐ終わりだなと実感する。

 彼女が所属しているピアノサークルは、毎年十二月にこのホールで発表会を開いてくれている。

 僕がここに館長としてやって来る前からやっている発表会で、今年で十年目ぐらいになるはずだった。

 響子ちゃんは、大学生になってからこのピアノサークルに入っていて、僕が彼女の演奏を聴くのは、今年で五回目になる。

 最初に聴いたときからよく弾ける子だったけど、それから毎年少しずつ上手になってきていたから、今年はどんな演奏をするのか楽しみだった。


「今年は生憎の雨で残念だったね」

「いいんです! わたしは雨の方が嬉しいからラッキーです」

「え、そうなの? だって一昨年の大雨のときは嫌だって大騒ぎしてたじゃん」

「今年はいいんです! 今年は『水のたわむれ』を弾くんですよ。この曲、雨の日の方が調子がいいんだから」

 ほう、響子ちゃんの今年の曲は『水の戯れ』か。

 『水の戯れ』はフランスの作曲家のラヴェルが書いた、五分ほどの美しい小品だ。

 隙間なく敷き詰められた細かい音符がキラキラと上下して、まさに水の流れを耳で感じることができる名曲だと思う。

 この曲は噴水の様子を描いていると言われているけれど、雨の日の方が調子よく弾けるという響子ちゃんの感覚はわかる気がする。

 「じゃあ、雨の日の『水の戯れ』を楽しみにしておくよ」

 彼女は頑張りまーすと言い残して、ガラガラと控室に向かって行った。


 本番はロビーに設置しているモニターで聴くことができた。

 黄色いドレスで登場した響子ちゃんは、モニターのスピーカー越しでも、演奏に感情がよく乗っているのが伝わってきた。

 『水の戯れ』は音数が多くて技術的に難しい曲だけれど、ミスを最小限に留めていたので音楽の流れが止まることはなく、最後まで気持ちよく響かせていた。

 社会人になってピアノを練習する時間も少なくなっただろうに、よくここまで仕上げてきたな。

 響子ちゃん、がんばってるなぁ。

 今年もいいものを聴かせてもらった。


 発表会が全て終わると、お客様がぞろそろとロビーに出てきた。

 ドレス姿の出演者たちも次々とロビーにやってきて、聴きに来てくれた人たちにあいさつをしている。

 ロビーのあちこちに、出演者を中心とした人の輪ができていた。

 そのお客様の中に、紺色のコートを着た大学生ぐらいの男性がいるのが目に留まった。

 あれ、彼を最近どこかで見たような気がするんだけど……どこだっけ?

 彼はそろそろと、響子ちゃんがいる人の輪に近づいていった。

 それを見て記憶が蘇った。

 そうだ、一週間ぐらい前に、ビルの一階に飾ってあるクリスマスツリーで見かけた彼だ。

 ああ、なるほどね。

 僕は宙を見つめて、うんうんと頷いた。


 お客様とのあいさつが終わり、ドレスから着替えた出演者たちは、支度ができた人から順々に出てきて帰っていった。

 しばらくすると、右手でガラガラとスーツケースを引きながら響子ちゃんが出てきた。

 左手に抱えている花束や紙袋は、聴きに来てくれた人たちからもらったプレゼントだ。

「響子ちゃん、お疲れさま。『水の戯れ』とってもよかったよ」

「だから言ったでしょ。雨の日は調子がいいんだから」

 彼女は少しおどけて、勝ち誇ったような表情をした。

「ほんと、バッチリだったよ。そういえば、発表会が終わってからロビーで話してた、紺色のコートの男の子って響子ちゃんのお友達?」

「んー、お友達っていうか、ちょっと前に夕方に雨が突然降り出したことがあって、そのときに彼がこのビルの入り口で雨宿りしてて、そこでたまたま会ったの。私は車で迎えに来てもらってたから、彼に折りたたみ傘を貸してあげたんだ。雨宿りしてるときに今日の発表会のことも話したから、聴きに来てくれたみたい」

「なーんだ。彼氏じゃなかったのか」

 響子ちゃんは鼻にシワを寄せて、べーっと下を出した。


 僕は、響子ちゃんにちょっと待ってねと言って、ロビーの机に置いていたものを持ってきた。

「その男の子からのプレゼントがあるから、渡しておくよ」

 彼女は、不思議そうに首をちょっと傾けて受け取った。

 それは小さなてるてる坊主だった。

「これね、彼が一週間前にビルの一階のクリスマスツリーに吊るしていた、てるてる坊主。いや待てよ、てるてる坊主じゃないな。頭を下にして吊るすのは何て言うんだったっけ。るてるて坊主?」


 うちのホールが入っているビルの一階には、毎年十二月になると大きなクリスマスツリーが飾られている。

 いつの頃からかそのクリスマスツリーには、願い事を書いた短冊がたくさんつけられるようになっていた。

 サンタクロース宛てに欲しいおもちゃを書いている可愛いものから、恋愛成就、来年の抱負、ときには合格祈願の絵馬が吊るされているなど、七夕とクリスマスと正月が一緒になったような、なかなかカオスな状態のツリーになるのが、このビルの風物詩にだった。


 紺色のコートの男の子がクリスマスツリーに何かをくくりつけているのを見たのは、偶然のことだった。

 吊るしているものが逆さのてるてる坊主だということに気づいて、彼が去った後にそれを見に行った。

 てるてる坊主につけられていた短冊には、こう書かれていた。

 《十二月二十日に雨が降りますように》

 そのときは何かの嫌がらせのようにも思えてちょっと気味が悪く、それで彼の印象が記憶にひっかかっていたのだった。

 でも本当は嫌がらせでも何でもなく、響子ちゃんがいい演奏をできるように、ただ純粋に本番の日が雨になるようにお願いしたのだろう。


「響子ちゃん、雨の日は『水の戯れ』が上手に弾けるんだって彼に言ったんでしょ? 響子ちゃんのために雨乞いしてくれるなんて、いい奴じゃないの。響子ちゃん、男っ気全然ないと思ってたのにねえ」

 彼女は、違うもんそんなんじゃないもんと騒いでいたけれど、耳は真っ赤になっていた。

「とにかく、彼が響子ちゃんのことを思って吊るしてくれてたってことは伝えたからね。おせっかいな館長から話を聞いたって言ってお礼でもしておきなよ」

 それから少し話をして、響子ちゃんは帰っていった。


 その日の業務を終えてビルを出ると、相変わらず雨が降り続いていた。

 朝にホールを開けるときには嫌な雨だなと思っていたけど、今は雨粒が地面を叩く音が心地よく聞こえる。

 響子ちゃん、もしかしたら来年の発表会は彼と一緒にやって来たりして。

 僕は傘を広げて、うんうんと頷いた。

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