明るい窓の向こうに

高村 芳

明るい窓の向こうに

 コンビニの窓際で雑誌に読みふけっていると、若い男性の店員が重たそうにモップを持って近づいてきた。新人だろうか、あまり見ない顔だった。口をへの字に曲げながら、長い金髪で目が隠れている。僕の周囲だけ、掃除が終わっていないのだろう。観念した僕は、もう何度も目を通した雑誌をラックに戻し、あわてて缶コーヒーを買ってコンビニの外に出た。

 気づかぬうちに、夜の藍色はいっそう深みを増していた。混じりけのない冷気が頬を襲い、思わずマフラーの端をぐいと引き上げる。マフラーの内側がみるみるうちに蒸気で濡れていくのを感じながら、僕はコンビニの目の前にそびえ立つマンションを見上げる。僕の視線の先にある、二階の左端の窓にはまだ灯りがついていない。熱々の缶コーヒーのプルタブをあけ、僕は少し口にふくんだ。喉を熱が通り過ぎていくが、足の先はまだ冷たいままだった。今日は何時になれば、部屋に灯りがともるだろう。少しでも体を温めようと、安いコーヒーの香りを感じながらもうひとくち飲む。



 「私が帰るまで、部屋には入らないで」


 決死の思いで彼女に「一緒に暮らしたい」と伝えたとき、ひとつだけ条件をつきつけられた。ローテーブルをはさんで座っていた彼女は喜びを表現しているわけでもなく、ただただ真剣な眼差しで僕を見つめていた。彼女のぴんと張り詰めた雰囲気に気圧され、ひとつ頷くことしかできなかった。春はすぐそこ、若く青い香りをはらんだ風が窓から吹きこむ季節のことだった。

 それから八ヶ月が経つが、冬将軍が忍び寄る今日も僕は彼女より早く部屋に帰らない。


 雪までちらつき始め、ほんのり温まりはじめていた体は、再び寒さに侵されていく。コーヒーはまだ半分ほど残っているが、缶自体はとうに冷えてしまっていた。人々は足早に、白い息を吐きながらコンビニの前を行きかう。意味もなくそれを目で追いながら、コーヒーを一気に飲み干した。

 そのときだった。暗闇の海を照らす灯台のように、二階の左端の窓にぱっとオレンジ色の灯りがついた。僕の腹の奥で、ほんのりろうそくの火がともったように感じた。

 カーテンが勢いよく開き、仕事帰りの彼女が出てきた。コートを着たままの彼女が、ベランダからきょろきょろと周囲を見渡している。僕が空になった缶を持った右手をふりあげると、彼女の視線がこちらに向いたのがわかった。びゅう、と強い風がふたりの間を通り過ぎていく。彼女の肩まで伸びる髪が、雪に遊ばれているのが見える。彼女は口を動かし、何か僕にメッセージを伝えようとしている。僕はコーヒーが残っていないかもう一度缶を煽ってから、コンビニのゴミ箱に捨てた。人を避けながら道路を渡り、マンションの入り口に急いだ。



「灯りがついてると、家に帰れなくなるの」


 ふたりで暮らし始めてから三ヶ月ほど経った、梅雨の日だった。その日は昼間まで雨が降っていて湿気が多かったからか、布団に入ってからも寝付けなかった。寝室の窓から差し込む月明かりでお互いの顔を見つめ合いながら些細な話をしていた。今日から発売されたカフェの新メニューが美味しかったとか、そんな話だったと思う。しばらく沈黙が続いたあとで、彼女は天井の模様を見つめながらぽつりとそう漏らしたのだった。彼女の睫の毛先と、ぴんと上を向いた鼻の頭が月明かりに照らされて、僕は不思議な気持ちになった。綺麗な横顔だと思った。僕が返事をせずとも、彼女は独り、噛みしめるように話を続ける。


「灯りがついている家に帰ると、必ずがいるの。もう家の中は、お酒の匂いでいっぱい。まず玄関で一回殴られる。なんでこんなに遅いんだ、って。学校が終わってスーパーで買い物をして、一目散で家に帰ってたのにね」


 僕は彼女を横から抱きしめる。彼女は天井を見つめたままだ。彼女の柔らかな髪から、トリートメントのバニラの香りがした。


「早く飯をつくれ、って二発目。おまえがいるからこうなったんだ、って三発目。どんどん灯りのついている家が怖くなって、帰れなくなった……」


 痣の残った彼女の体を、強く、強く抱きしめた。心に形があったら、こうして抱きしめてあげられるのにと、何度思ったかわからない。彼女は僕の胸に顔を埋めた。Tシャツが彼女の涙で濡れていくのがわかった。しとしとと、再び雨が降りだしたあの夜を、僕はいまでもふと思い出すのだ。



 玄関のドアの前でダウンコートについた雪をはらってから、ドアを開ける。中からは、かすかに暖気が漂ってくる。パタパタと廊下をスリッパで走る音が近寄ってきた。


「ただいま」


 彼女はコートを脱いだままの仕事着で迎えてくれた。「おかえり」と答えながら、僕をその細い両手で包み込む。彼女の肌はほんのりと温かく、僕の冷たくなった肌を少しずつ溶かしていく。


「またベランダから『ごめんね』って言ってただろ。『ごめんね』禁止」


 彼女は僕の頭に残った水滴を手で拭いながら「ごめん」と言う。


「だから、『ごめんね』禁止って――」


 僕がむくれて注意すると、彼女は嬉しそうに微笑んでいた。つられて、僕も笑ってしまった。これでいいのだ。彼女は一生忘れることはないだろう。僕は彼女の哀しい思い出を、少しずつ塗りつぶしていけばいい。

 明るい窓の向こうに笑顔の彼女がいることが、僕にとっての幸せのかたちなのだから。




  了

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