【終幕】エゴ
相変わらずビーバーの巣のように積み重なった本の中で、毛布にくるまった多古島が声を上げる。
「先輩のえっち」
「遊びに来ただけなのに、えっちはおかしいだろ」
じっとりとした視線を感じた鮎葉は、手近に落ちていたクッションを投げつけながら言った。
「突然、何のアポイントメントも取らずにレディの家に押しかけて来たあげく、堂々と部屋の中に座ってる先輩にはえっちって言葉がぴったりなんで、すっ」
投げ返されたクッションが顔面の上を跳ねて、本の山の中に埋もれて消えた。次にあのクッションが日の目を見るのはいつになることやら。
あの事件から一週間が過ぎ、とある事情から多古島の家を訪問したのだった。
「なんで急に来るんですか! お部屋のお掃除もしてないのに! ていうかまだ部屋着なのに!」という罵倒を浴びせられながらも中には入れて貰えたが、どうにもまだ機嫌は直り切っていないようだった。
部屋の中の惨状は、正直前回来た時との違いがほとんど分からないのだけれど、それをあえて口に出さないくらいのデリカシーは持ち合わせていた。
クッションをぶつけて少し落ち着いたのか、多古島はころんと横になって問いかけた。
「それで、何の用ですか? 先輩から訪ねてくるなんて、珍しいですね」
「そうか?」
「そうですよ。大体の場合、私が先輩を脅しつけて呼び出して、無理やり言いくるめてどこかに連れてくってのが王道パターンなのに、いつもとテンポが違って調子が狂います。謝罪してください」
いつも通りの横暴さだ。どこに狂っている調子があるというのか、教えて欲しいくらいだった。
「別に大した用事はないよ。元気にしてるかなって思っただけで」
「なんかジジ臭いですね……」
「はっ倒すぞお前」
「きゃー、先輩に襲われるー。無理やり家に押し入ってきた挙句、罵詈雑言を浴びせかけられながら悪逆非道の限りを尽くされるー」
「棒読みで言うんじゃないよ。大体、掃除が必要なら外で待ってるって言っただろ」
「それはそれで、先輩のために掃除した感じがしてなんか癪に障ります」
「もう好きにしてくれ……」
ため息をつきつつも、鮎葉は少し、ほっとしていた。どうやらいつも通りの様子だった。
そんな鮎葉の心境を見通すように、多古島は言う。
「大丈夫ですよ、私は元気です」
「そうか」
「私はむしろ、先輩がダウンしていないか心配してましたが」
そうでもなさそうですね、と、多古島は小首を傾げた。
彼女が言っているのは、砂金のことだろう。
あの件は、鮎葉の中でも、そして恐らく多古島の中でも、既に整理はついていた。
気分爽快とは、口が裂けても言えないけれど。
「僕も大丈夫だよ」
「そうですか」
鮎葉が気にしていたのは、別件だった。
今回の事件。
森野は砂金に殺された。
しかし彼女は、死ぬ直前も、そしてきっと死んだ後も、誰かを憎んでなどいなかった。
ただひたすらに、椎菜と舞花、二人の幸せを願っていた。
もちろん、彼女たちは特殊なケースだ。
ほとんどの場合、殺された人間は、犯人を憎み、呪い、恨みながら死んでいくだろう。
だけど多古島は知ってしまった。
殺されても、誰も憎まずに、ただ大切な人の幸せを願い続ける。
そういう人がいるということを。
「少し、森野さんについて話してもいいか」
「どうぞ」
「僕にはさ、あの日の森野さんは、どこか自分の死期を察しているように思えたんだ。死の本質について語ろうと言葉を遺したり、多古島や僕に意味深な言葉を投げかけたり……。直感的に、自分が死ぬことが分かっていたような気がするんだ」
「先輩らしからぬ、非論理的な説明ですね」
多古島は静かに笑った。
「ですが、死を直感してあらかじめ行動する動物は数多く確認されています。人間にそれができないとは、必ずしも言い切れないですね」
「けど、だとしたらさ。森野さんの願いは叶わなかったことになると思うんだよ。死期を悟ったんだとすれば、あの日の死は、彼女にとって唐突じゃなかったってことになるだろ?」
喫茶店で舞花さんと話した後も、ずっと心がざらついていた理由だった。
結局森野は……どんな風に死を迎えたのだろうかと。
彼女は本当に、幸せだったのだろうかと。
「ええ、その通りですね」
多古島は毛布から出て、窓をがらりと開けた。
ほんの少し春が香り始めた風が、こもった空気を一新した。
「だからきっと森野さんは、唐突さ以外の何かに、答えを――死の本質を見出したんだと思いますよ」
「唐突さ以外の、何かに……」
鮎葉はふと、森野が語っていたタコの死生観について思い出していた。
母親は子を守り続け、やがて子供たちが巣立つとき、息絶える。大海原に泳ぎ立っていく子供たちを眺めながら、その生涯を終える。
あれはもしかしたら、森野自身のことを言っていたのかもしれない。
「どうなんだろうな」
「分かりません。でも、もしそうだとしたら。少し、うらやましいと思います」
一体誰をうらやましいと感じたのか、鮎葉には分からなかった。
「でも、大丈夫です。私はこれからも、自分の信念を貫きます。殺人犯を追い詰め、捕まえ、裁く。それが私の在り方です。だって私は、これしか知りませんから」
大丈夫ですと、多古島は繰り返した。
それが彼女の本心なのかどうかも、鮎葉には分からなかった。
この生意気な後輩が語る言葉の、どこまでが本心で、どこまでが嘘なのか。
分からない。
分からないんだ。
目瞼の裏で、強烈な夕日が一人の女性を照らしていた。
『怖いのですか?』
森野の声が聞こえた。
鮎葉は頷いた。
怖い。
怖いですよ。
多古島の本心が分からないのが怖い。
何を考えているのか分からないのが怖い。
気を抜くと、いつだって脳裏をかすめる不安がある。
もし、もしあの日、鮎葉が多古島を遊びに連れ出していなかったら。
多古島は家族と一緒に死ぬことができたはずだ。
だから怖い。
「私もみんなと一緒に死にたかったです」
いつか多古島が、そう言うのではないか。
いや、本当は心の中では、いつもそう思っているのではないか。
それが怖くて……恐くて怖くて仕方がなくて、鮎葉はずっと、彼女に寄り添い続けている。犯罪者へ抱いた復讐心なら、そんな感情を消し去ってくれるはずだと願いながら、贖罪のように、彼女の隣にいる。
森野が言う。
『……あなたはどこか、似ているから』
そうかもしれない。
森野は姉妹に対して、罪の意識を抱いていた。
自分が彼女たちを育てなければいけない、その一心で、十年近くも共に過ごしてきた。
その背景は、確かに少し、自分に似ている。
森野が言う。
『その献身をエゴにしなさい』
彼女は最後まで、自分の哲学(エゴ)を捨てなかった。
唐突さに死の本質を見据え、自分の最期もそうありたいと願った。
そしてそこに、姉妹を救う未来を重ねた。
献身をエゴにする。
なるほど。中々的を射た表現だ。
献身とは、その身を捧げるということだ。
誰かのために尽くすということだ。
そこに代償を求めれば自己満足となり、そこに罪悪感を抱けば贖罪になる。
けれど人は弱い生き物だから、献身から他の感情をそぎ落とすことなどできやしない。
だから森野は、姉妹を思う心に、自分の哲学を重ね合わせて、そうして死んでいったのだ。
「なあ、多古島……」
「なんですか?」
「エゴって何だと思う?」
多古島は眉をひそめた。
「自我のことですけど」
「知ってる」
「ケンカ売ってるんですか?」
「だったらお前は、いっつも僕にケンカの大バーゲンセールを開いてることになるな」
「今開きましょうか?」
「遠慮しとく」
鮎葉には、森野のような哲学はない。
彼女のように、多古島を救いたいと願う心に、重ねる思いが見当たらない。
あの日以来、ねじ曲がってしまった多古島の生き方を、果たして自分はどのように変えることができるだろうか。
負の感情は、べっとりとした甘さをもって人を狂わせる。並大抵の方法では、多古島を救うことはできないだろう。
森野は自身の罪の意識を、慈愛の形で昇華させた。
なら自分は……。
かぶりを振る。
答えはない。
今はまだ、答えが見つからない。
だけど……いつかきっと彼女を助けたいと、確かにそう思っているから。
その日までは、まだ、
「なあ、多古島」
「なんですか?」
「お前は間違ってないよ」
彼女を肯定する。
肯定し続ける。
鮎葉の言葉は彼女に届いて、そうして多古島はふっと笑った。
「知ってますよ、そんなことは」
その言葉が本当かどうか。
鮎葉には分からなかった。
春風が吹いている。
彼女と眺める早春の景色は、どこか死の匂いがした。
NARRATOLOGY ―あなたが犯人です― 玄武聡一郎 @echogyamera
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