【後】 僕と彼女


 空虚に日々を消費しているうちに僕は、いつの間にかお姉さんの年齢を追い越していた。そしてどういう巡り合わせか、彼女の妹と結婚している。


 妹さんとは中学で通う場所が別れ、大学で再会した。成長した彼女の目元には少しお姉さんの面影がある。でもやっぱり別人だ。髪の長さからまとう空気まで、何もかもが違う。


 昔からお世辞にも仲が良かったとは言えない。今もそうだ。けれど同じ人の死を抱えているせいか、同種の空気を共有できていたんだと思う。


 告白は彼女からだった。それに抵抗なくうなずいた自分が自分で意外だったけど、この人以外と結婚する気も起きなかったから、そのまま承諾しょうだくした。


 大学卒業と共に役所へ婚姻届けを提出し、今日から一緒に住むことになっている。


 二人で借りた広めのアパートには、先に妻の荷物が届いていた。彼女はコンビニに夕食を買いに行ったらしい。段ボール二つ分の荷物を運びこんだ僕は、さっそく共有物の開封作業を始めた。夜までにせめて布団一式を探し当てなくては。



    ◇   ◆   ◇



 一時間かけて浴室と寝室を使えるようにした。一息ついて背伸びをする。妻はまだ帰ってこない。まさかありえないけど迷子だったりするのだろうか。


 彼女の携帯にメッセージを送る。すぐに既読がついた。返信も送られてくる。


『友達と会って話し込んでた! もう少ししたら帰るね』


「そっか。『ゆっくりでいいですよ』……と」


 明るく社交的な妻は、少し歩くだけで顔見知りにぶつかる。実家に近いとはいえ引っ越し初日から知人に会うとは、さすがだ。いつもの調子なら軽く見積もっても、話を切り上げるまで三十分はかかるだろう。


 どうせ夕食には早いことだし、片づけを再開しよう。寝室は終わったから次は……。


 悩んだすえリビングを放置し隣の和室へ入る。四畳半の空間に洋服や雑貨の入った段ボールが積まれていた。手前の箱から手を伸ばす。中身はキッチン用品だった。箱ごと移動して適当に並べていく。


 空の段ボールを潰してしまうとまた和室に戻った。次の箱へ取りかかろうとして、部屋の一番奥に仏壇ぶつだんがあるのに気づく。妻が持ち込んだものだろう。実家から持ってきたのだろうか。


 なんとなく近づいて、扉や引き出しを固定する養生テープを剥がしてしまった。引き出しの中には線香とチャッカマンが入っている。気晴らしに線香でもいてみようかと観音扉を開けた。


 正面に木製の仏様が飾られ、その両脇には何かの掛け軸が下がっている。香炉やお茶碗を置く台はなかった。別の箱に仕舞われているのだろう。


「ん……これは」


 位牌いはいが置かれるべき場所に白い陶器でできた壺がある。仏壇用の花瓶にしてはずいぶんと大きい。僕はその壺の形と大きさに覚えがあった。


「骨壺……?」


 昔調べたときに見た画像と似ている。しかしどうしてカバーもされず、無造作に置かれているんだろうか。


 手にとってみると、ずしりと重い。中身が入っているようだ。僕はあぐらをかき、骨壺を抱えるようにして腰を下ろした。


 恐る恐るフタを取る。


 中にあったのは、白くざらざらとした質感の固形物。一際大きい半球状のものが蓋をするようにして欠片へ覆いかぶさっている。はしには頂点からすべり落ちたのだろう、隆起りゅうきを持つ三角形に近い物体が真ん中に開いた穴をのぞかせていた。


 その球状の下にはまだ、砕かれ粉骨となったものが敷き詰められている。


「うあっ、あぁぁあ」


 口からうめきとも悲鳴ともつかない声がもれた。調べるまでもない。形が残っているこれは頭蓋骨と喉仏のどぼとけ。紛れもない、人間の骨。しかも、


「やっと、会えた……」


 お姉さんだ。僕には分かる。これはお姉さんの骨だ。僕が欲してやまなかった。そして僕のものにならず納骨されてしまったはずの、いとおしい人のすべて。どうしてそれがここにあるんだ。


「見つけたんだね」


 突如降ってきた声に振り返る。そこには妻が立っていた。半開きになったふすまの影に身体の半分が隠れている。その顔には、普段通りの笑みが浮かんでいた。


「いつ帰って──」


「それ、お姉ちゃんの骨だよ」


 僕の言葉をさえぎりニコリと笑って指摘する。いつもどおり過ぎるその態度がかえって不気味に見えた。


「どうしてっ、君がこれを持ってるんです」


 声をどうにか絞り出す。舌が渇いて上手くまめらない。自分の手が震えているのが分かった。この骨がここにある理由を知りたいのに、どうしてか妻の口から聞きたくない。妻は僕の葛藤かっとうなど露知つゆしらず、あっけらかんと答えた。


「私がもらってたから。お寺に預けたっていうのは嘘。こういうの手元供養っていうんだって」


 そう一度言葉を切ったが、僕の顔を見て説明が足りないと気づいたのだろう。すぐ続けて語る。


「お姉ちゃんは私になんでもゆずってくれる人だったんだ。文房具も、お年玉も、家族の愛だって。お姉ちゃんの持ってるなにもかも。『私じゃ遊んでもあげられないから』って言って、私がねだったら全部くれるの。でもある日、お姉ちゃんは言った。骨だけはあげられないって。あげるからって」


 瞳から光が消える。僕を見つめるその目には、薄暗い感情がほのめいていた。お姉さんなら絶対に浮かべないであろう、執着の色。


「それでどうしようもないくらい腹が立って、絶対に手に入れてやるって思った。善は急げ、私はお姉ちゃんの薬を別のものにすり替えたんだ」


 それは軽い口調に似つかわしくない罪の告白だった。お姉さんが毎日飲んでいた薬。机の上に置かれたそれを僕も見ている。中身は知らないが、あの薬は彼女の命を繋ぐのに必要な物だったはずだ。それを奪うなんて。


「そんなこと──!」


「あれっ、あなたに私を非難する権利あるの? 私ね知ってるんだよ?」


 妻が声を低くして、僕を挑発するように小首を傾げる。


「お姉ちゃんが死ぬちょっと前にあなたがよく持ってきてたクッキー。あれ、何か入ってたでしょう。あなたが帰ったあと、お姉ちゃんが洗面器抱えて苦しそうに嘔吐えずいてたから、すぐ気づいたよ。お姉ちゃんはあなたの前だと身綺麗にしたがってたから、吐いてるところは見られたくなかったんだろうね」


 今度は、僕の罪があばかれる番だった。


 お姉さんに教えてもらった毒の花。僕がクッキーに飾ったのがそれだった。僕はあのとき、早くお姉さんの骨が欲しくて、全てが欲しくて。毒と知りながら花びらを使った。お姉さんはなんでもないように食べていたから効いていないのだと思っていた。


 けど違ったんだ。僕が盛った毒は、お姉さんを着実にむしばんでいたのだ。


「私があなたを愛してるのは、あなたが私の共犯者だから。死んだら一緒に地獄へ落ちてゆけるから。私はあなたと同じ場所に行けるのよ。私たちのたくらみを知ってて呑み込んだ、お姉ちゃんとは違って」


 うっとりと笑う。心の底から嬉しそうな笑み。


 言葉が出なかった。お姉さんが自分を殺そうとする相手を糾弾きゅうだんしなかったことも、実妹がそれを知っていて僕を止めなかったことも。


 僕にその真実は重すぎて。


 だからだろうか。こんなにも現実に怯えているのに、妻の質問を誤魔化す気になれなかったのは。


「ねえ、お姉ちゃんはどうしてあなたに骨をゆずろうとしていたの? あなたはお姉ちゃんの骨を手に入れてどうしたかったの? それだけが気がかりで、壺をわざわざ持ってきたの。ほら、教えて」


「……骨を着るんです」


「は?」


 ふらりと立ち上がり答える。妻は怪訝けげんな表情をしている。やっぱり理解されないかと半ば諦めながら、僕は続けた。


「真っ白な骨を身にまとって、着飾きかざる。僕らはそういう約束をしたんです。骨はその人間がのこす全てだから。それを着て、一つになる。お姉さんを僕のものにして、僕はあの人のものになると」


 椎骨ついこつと椎骨を重ね合わせ、指と骨とをからませて。約束を交わしたあの日のように。相手が死んでも、ずっと、変わらず。そうやってオシャレをして、そのたび相手を思い出す。


 けれどこれは、他人にとっては気持ちの悪い願いなのだろう。人々は心中を美談とするわりに、死体や骨そのものは嫌悪するから。


 僕は妻の横をすり抜けて玄関へ向かおうとした。もう終わりだ。たとえ共犯者であろうと、彼女は僕を拒絶するだろう。決定的な言葉を聞く前に逃げてしまおう。そう思って、畳に縫い付けられたみたいに重い足を動かそうとする。


 けれど耳が拾ったのは、喜色にまみれた肯定だった。


「なにそれ…………すてき」


 妻のこぼした言葉に顔を上げる。そこには恍惚こうこつを浮かべた、僕の妻がいた。


「いいな。いいなぁ。互いの全てを、死んだ後も。そんな方法があるなんて! 一緒に死ななくっても、片方だけが死んでも、それでも一緒にいられる──自分だけのものにできる。それはとっても素敵すてきなことよ」


 彼女の口から出た言葉が信じられず、自分の耳を疑った。だが次の瞬間、僕はそれが間違いなく本音だと知る。


「欲しいなぁ。どうせ、心は手に入らないから。あなたはお姉ちゃんのなんだもんね」


 妻が僕の胸に飛び込んできて身体が大きくゆれた。腹部に鋭い痛みが走る。


「だったらせめて、あなたの骨をちょうだい? 大好きなあなたの全てを、私に! 私だけに!」


 見下ろして、深々と刺さった包丁を見てさとる。彼女は背中に凶器を隠し持っていたのだ。僕を殺すために。そのあと自分も死ぬために。動機はさっき言っていた。共に地獄へ落ちるのだ。


 僕を手に入れるためだけに、彼女はその凶行をよしとした。


 妻が包丁を引き抜く。飛び散った鮮血が辺りを赤く汚した。服のすそで傷口を押さえるが出血が止まらない。


 血は、蓋を開けたまま足元に放置していた骨壺の中にも降り注いでいた。真っ白な骨に血液がしたたって、まるでウエディングドレスに真っ赤な花びらを散らしたよう。


 痛みが思考を鈍らせ、過去にばかり飛んでいく。


 僕はやっぱりお姉さんの全てが欲しかったんだ。僕はずっと、誰かの一番になりたかったから。痩せ細り、一人では生きていけなさそうなあの人なら、僕を求めてくれると思った。


 でも彼女は僕を求めてはくれなかった。彼女は何も持たないからこそ、与える側の人間だった。差し出すことで相手の中に自分の居場所を作る人だった。


 お姉さんの全てを手に入れ、その骨に包まれることで、僕は彼女のものになる。そんな考えは最初から叶わない願いだった。


「ねえ、いいでしょうあなた? あなたの声で聞かせて。骨をあげると言って? その手で差し出して」


 けれど妻は違う。彼女は欲する人だ。奪う人だ。倫理観も道徳心も彼女の純粋な願望をはばめない。それほど強く僕を求めている。


 僕は妻の問いかけに、望み通りの答えを返した。


「いい……ですよ。僕の骨を、あげます……」


 僕は始めて心の底から妻への愛を感じた。お姉さんが死んで、もう二度と人を愛せないと思っていたのに。


 湧き上がる想いが僕に教えてくれる。僕は、僕の全てを求めてくれる彼女にやっと恋を覚えたのだ。


 彼女に贈りたい。僕の全てを。僕の白くなめらかな骨を余すところなく。だって僕は彼女を──


「愛し……て……ます」


「え……? 待って」


 そして願わくば、君が僕の全てを引きずって生きてくれることを。

 君が、僕の骨をまとって微笑まんことを。


「ねえ待って、今のどういうっ」


「──ぅか……」


 どうにか伝えたいことを口にする。それはほとんど吐息に近かったけど、ちゃんと届いたはずだ。


「……どうか……僕の骨で、着飾って……」


 あの時のお姉さんのように柔らかに寂しげに笑って、最愛へ手を伸ばす。


 彼女もあのとき、こういう気持ちだったのだろうか。自分を求めてくれる無邪気な他人に救われていたんだろうか。どんどん冷えていく身体に反して胸が満たされていくのが分かる。この感情を、他人ひとは幸福と呼ぶのだろう。


 小指がからむ。妻の温かさが指先に伝わってくる。


 薄れていく視界の中で、僕は見た。

 小指の上に熱を持ったしずくが振りかかり、僕の皮と肉があぶくとなって溶け落ちるさまを。そして白い骨だけが浮き出て君の指をなぞるのを。


 やっぱり、きれいだ。

 僕の流した赤でいろづいた君の手に、骨の白がよくえる。


 気づくと網膜が光を取り込まなくなり、痛みがどこかに消えて行って、君の熱も感じなくなっていた。ああ、僕はこのまま死ぬのだろう。


 眠るように意識が沈んでいく。最期に見る夢の中で、肉体はもう形を保てなくなった。骨だけになった僕は残暑の坂を上っている。もう少しであの窓からお姉さんの姿が見える。僕を待っている。


 なのにどうしてか、直前で足を止めて小学校のほうを振り向いた。どこからかサイレンの音が聴こえる。どうやら近づいてくるようだ。耳を失くした空洞くうどう頭蓋ずがいに遠く音が反響し、そして──。





        『私の骨で着飾って』 了


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『私の骨で着飾って』 まじりモコ @maziri-moco

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