記憶のしおり

福倉 真世

記憶のしおり

 もしも人の一生が一冊の本にたとえられるならば。

 私のおばあちゃんはしおりをはさむのがとてもじょうずな人だった。

 おばあちゃんにお話をねだる、あの頃の私は「しおり」の意味も「記憶」の価値もわからないくらい幼かった。

        *

 「おばあちゃん! おばあちゃん!」

 「何だい、さくら」

 「今日もしおりのお話して」

 おばあちゃんは、せがむ私を抱きかかえるようにしてひざの上にのせてくれた。


 おばあちゃんは、ずっと覚えていたいことに出会うと、「きょうの○○を忘れない、覚えておこう」と強く念じる。

そうすると……おばあちゃんの記憶のなかで、その○○はくっきりとした、「めじるし」になるのだそうだ。

まるで、本にはさむしおりみたいにね、とおばあちゃんは私に教えてくれた。

 おばあちゃんはそれらを「記憶のしおり」とよんでいて、幼い私はおばあちゃんから記憶のしおりの話を聞くのが大好きだった。


 「今日はおばあちゃんの一番最初のしおりの話をしようか」

 柔らかい調子でおばあちゃんが言う。私は「うん!」と元気よく返事をした。

 「おばあちゃんが、さくら位の年のころ、庭の柿の木にいっぱい柿がなって、美味しそうに赤く色づいた。おばあちゃんは、その柿がどうしても食べたかった。

 女の子のおばあちゃんは、それまで木のぼりなんてしたことがなかったけれど、どうしても食べたくて、木のぼりに挑戦することにしたの。

 でも、柿の木っていうのは堅い割に折れやすい木なのね。

 登っていって、柿をとろうとしたら、おばあちゃんが体重をかけた枝がぽきんと折れてしまって。

 おばあちゃんは、枝ごと一緒にじめんにまっさかさま。

 どすん! とおっこちて腰や背中をしたたかに打った。

 いたたたたぁって大声で叫んだわ。

 だけどね、おばあちゃんと一緒に落ちた大ぶりの枝には柿の実がたくさんついてきた。やったぁって嬉しくて、痛みも忘れちゃったの」

 「それで、それで?」

 私はわくわくしながら話の続きをおばあちゃんにうながした。

 「大きく膨らんだ赤い柿の実にがぶりとかぶりついた。そうしたら……ひどく、しぶくて、えぐくて、食べられたもんじゃなかった。

 このまずさ、この味は一生忘れられない、と強く思った。

 その柿の渋さがおばあちゃんの記憶に挟まれた一番さいしょのしおり」

 おばあちゃんてば食いしん坊だったんだね、と言う私に今だって食いしん坊だよ、とおばあちゃんは目を真ん丸にしておどけてみせた。

 いつのまにか翳った日ざしが庭に落ちて、木にとまったカラスが笑うようにカアと鳴いた。

         *

 おばあちゃんのお膝の上にのせてもらうと、お花のようなお線香のような不思議な香りが私を包んだ。私はその独特の香りを嗅ぐととても安らいだ。

 「ねえ、おばあちゃん。今日もしおりの話して」

 「ええ、いいわよ」

 お話をせがむ私におばあちゃんはいつでも優しかった。

 「おばあちゃんが小学生のころ、とても仲が良くていつも一緒に遊んでいた女の子がいた。

 トキちゃんという子だった。

 おはじき、お人形さんごっこ。おままごと、なわとび。

 毎日うんと楽しかったけど、トキちゃんは、お父さんのお仕事のつごうで遠くへいくことになってしまったの。

 お別れする直前におばあちゃんはトキちゃんのおうちに泊まらせてもらったわ。

 『さようなら』や『元気でね』を言ってしまったら涙が一気にあふれ出してしまいそうな気がして、そういうことは一切口に出せなかった。

 トキちゃんも同じ気持ちだったのか、そういうことはおばあちゃんに言わなかった。

 二人でいつもと同じ遊びをして、いつもと同じように笑いあって時間はまたたく間に過ぎていった。

 夜遅くまでトキちゃんと一緒にいることができて、おばあちゃんはすごく楽しかった。

 だけどもうすぐお別れなんだと思うと楽しいのと同じくらい切なかった。

 トキちゃんのおうちの壁は、きみどり色のつちかべで、おばあちゃんは、そのつちかべに手をふれてみた。

 ざらざらとしていた。

 そのざらざらを目印にして、トキちゃんのことを、一生忘れないようにしようと強くおもった。

 そうしたら驚くことに本当にずうっと忘れなかったの。

 だから、そのつちかべのざらざらは、おばあちゃんが自分自身ではさんだ、初めてのしおり」

 おばあちゃん、と私は呼びかけた。なんだい? とおばあちゃんは膝の上でうつむく私を覗き込んだ。

「私にも、それぐらい仲がいい友達ができるかな?」

 もうすぐ幼稚園に入る予定の私は不安でいっぱいだった。先生は優しいかな。仲間はずれにされたらどうしよう。素敵な友達はできるだろうか。

 おばあちゃんはいつものようにほがらかな笑顔で「心配しなくても、さくらだったら絶対に大丈夫よ」と言って私の髪をなでてくれた。

          *

 幼稚園から帰ってくると、夕ご飯の時間になるまで私は縁側えんがわでおばあちゃんと過ごすのが日課だった。

 台所から漂ってくるかぐわしい匂いをかぎながら、私はおばあちゃんの背中に抱きついた。

 「ねえ、おばあちゃん。今日もしおりの話をしてよ」

 「さくらは本当にしおりの話が好きね」

 私をいつものように膝の上にのせたおばあちゃんは目を閉じて少し考えていた。

「どうしたの、おばあちゃん?」

 問いかける私の目をじっと見つめながらおばあちゃんは「今日の話はさくらには少し早いかもしれない」と言った。

「だけど、是非聞いてほしいの。そうしてずっと覚えておいて、できるならさくらの子供にも伝えてほしい」

 そう言ってからおばあちゃんはゆっくりと重たい口を開いた。

 「さくらは、さくらが生まれるずっと前に日本が大きな戦争をしていたことは知っているかしら?

 第二次世界大戦だいにじせかいたいせんという世界中を巻き込む戦争だった。

 今は仲が良さそうにしているけれど、おばあちゃんが物心ついたとき、アメリカは日本の大敵だったのよ。鬼畜米英きちくべいえい、なんて言っててね。

 その頃は戦争のせいで食べものがほとんどなくて、おばあちゃんたちはいつもおなかをすかせていた。

 そんなある日、おばあちゃんのお父さんがじゃがいもを一つもってきた。

 食べようよ、食べたいよ、と言ったらお父さんはだめだと言った。

 『こまかく切って庭に埋める。そうしたら夏には、このじゃがいもからたくさんのいもがとれるんだ』

 おばあちゃんのお父さんはそう言って、じゃがいもを細かくして庭に埋めていた。

 じゃがいものかけらから、たくさんのじゃがいもができるなんて、最初は信じられなかったわ。けれど、お父さんの言ったとおり、いくつかのかけらからは芽がでて、すくすく育っていったの。

(もうすぐ、たくさんのじゃがいもが食べられる)

 伸びていく緑の茎や葉っぱを毎日眺めながら地面の下でまるまると太っていくおいもをそうぞうすると、その日がとても待ちどおしかった。

 でも、もうすぐ、収穫、というころに、朝おきたら、庭からじゃがいもの苗がひとつ残らず消えていた。

 泥棒に盗まれてしまったの。

 犯人が誰かはわからなかった。でも、うちの庭でじゃがいもを育てていることを知っている人はそんなに多くなかったから……疑いたくはなかったけれど、親しい人なんじゃないかと予想することはできた。

 おばあちゃんも、おばあちゃんのお母さんもくやしくて、くやしくて泣いた。

 だけど、おばあちゃんのお父さんだけは泣かなかった。

 『戦争は、人の体だけでなく、人の心をもやせ衰えさせる』

 お父さんは静かに呟いた。

 その言葉をおばあちゃんは心に深く刻み込んだ。

 その言葉はね、とても悲しく重いしおりのひとつ」

 おばあちゃんが話し終えたのと同時ぐらいにお母さんの「ごはんよー」という声が台所から聞こえてきた。

「おばあちゃん」

「なあに?」

 私はおばあちゃんの顔を見ながら「私、もう食べ物を残さないようにするからね」と言った。

 おばあちゃんは黙って私の頭を撫でた。

          *

 幼稚園の年長さんになっても、おばあちゃんのお話を聞くのは私にとって、相変わらずとても楽しい時間だった。

おばあちゃんはいつも縁側えんがわで庭を眺めていて、私が近寄っていくと目を細めて手招きをした。

 「おばあちゃん、おばあちゃん。他のしおりの話はないの?」

 「よしよし、さくら、おばあちゃんのお膝においで」

 ずいぶん重たくなったわねぇ、と言いながら、おばあちゃんはそれでも私をひざのうえによいしょ、とのせてくれた。

 そしてちょっとだけ頬を赤らめながら話しはじめた。

 「おばあちゃんは、若いむすめの頃、しゅうしょくのために田舎から東京に出てきたの。

 最初におつとめした会社は、ぼうしを作る会社だった。

 おばあちゃんは大きな工場で、おない年ぐらいの若いむすめたちとミシンや針や糸を使ってぼうしを作った。

 まいにち、まいにち。

 朝から、晩までぼうしを作った。

 だけどある日、会社の社長さんがとても悪どいことをして警察につかまってしまった。

 詳細は知らされなかったけれどお金にからんだ、汚いことだという話だった。

 しごとを失ってしまって、これからどうしよう、いなかにかえるしかない、と、とほうにくれていたおばあちゃんに、うちの会社ではたらきませんか、と声をかけてくれた人がいた。

 おばあちゃんたちが作ったぼうしをデパートにはこぶ、にもつ屋のお兄さんだった。

 にもつ屋さんでは、たくさんの男のひとたちが働いていて、男の人たちが利用する食堂でごはんをつくる女のひとがひつようなのだという話だった。

 おばあちゃんはそのお兄さんに聞いたわ。

 『私といっしょにはたらいていた女の子たちも仕事をうしなって、みんなこまっているのですが、その子たちもはたらかせてはもらえませんか?』

 するとお兄さんはそれは無理だと首をふった。

 『でしたら、みんなが困っているなかで、私だけがその仕事につくなんて、ずるいことはできません』

 おばあちゃんは失礼しますと言って頭をさげた。

 お兄さんはそんなおばあちゃんを目の前にして『まいったな』とつぶやいて考えるように下を向いていたわ。

 でも、しばらくして顔をあげておばあちゃんを見た。

 『わかりました、では、いなかにかえらず、

 とかいに残りたいと言っているおんなのこたちを、みんな雇ってもらえないか上にたのんでみます』

 と、言ってくれた。

 『ほんとうですか! ありがとうございます!』

 おばあちゃんは心からお兄さんに御礼を言ったの。

 そうするとお兄さんは、『いえ、お礼なんて、言わないで下さい。僕はじぶんのために、そうするのです』

 そう言って照れくさそうに、ぽりぽりと頬を掻いた。

 『どういう意味ですか?』

 お兄さんの言葉の意味がわからずに尋ねたおばあちゃんに、お兄さんは答えた。

 『僕はあなたにいなかにかえってほしくないのです。ここにいてほしいのです』

 そして、真っ直ぐな目でおばあちゃんを見て『あなたが好きでした。ずっと前から』と言ったの。

 おばあちゃんは、とってもびっくりしてしまって何ひとつ口がきけなかった。

 お兄さんの顔はまっかになっていた。耳までまっかっかだった。

 私はそのまっかっかをずっと忘れないと思ったの。

 それが私の素敵なしおりのひとつ」

 話を聞いていた私はすごくおどろいてしまった。

 おばあちゃんにそんなすてきな恋の話があったなんて!

 「ねぇ、もしかしてそのお兄さんが、おじいちゃんなの?」

 といつめる私をおばあちゃんは笑顔でかわした。

 「ふふ、どうかねぇ」

 「おばあちゃんずるーい、おしえてよー」

          *

 「おや、さくら、いたのかい?」

 小学校から帰ってきた私におばあちゃんが声をかけた。

 「おばあちゃんのしおりの話をしてあげようか」

 「ううん。いいー。いそがしいから、あとでね」

 私はおばあちゃんを見もせずにランドセルをそこらへんの椅子に放り出し玄関に向かって駆け出した。

 おばあちゃんが寂しそうな目で私の後姿を見ていたのは知っていたけれど、振り返るわけにはいかない。

 学校、塾、習い事、宿題、テスト。

 友達とのおしゃべり、テレビ、ゲーム。

 ゆうえんち、プール、クラブかつどう。

 小学生になった私は毎日忙いそがしくて、ほんとうに毎日忙いそがしくて。

 幼稚園の頃と違って、縁側えんがわにいつもすわっているおばあちゃんの相手をする時間なんてないのだ。

 おばあちゃんの話ははじまるととても長いし、おなじ話をくりかえし何回もするし、肩をたたいてちょうだい、なんて言われることもあるし。

 それに、おばあちゃんは、私と違って、いつだっておうちにいて、縁側えんがわでひなたぼっこをしていて、いつだってお話しようと思えばできるんだもん。

 後回し。あとまわし……。

          *

 ある日、私がじゅくから帰ると、家の中はしん、としていた。

 テーブルの上に、書き置きと、千円札が置いてあった。

 『おばあちゃんが倒れました。病院に行ってきます。

 これで夕ご飯を食べてください。

            お母さんより』

 私はお母さんが残した書置きと千円札を交互に見つめた。

 ひとけのない家は夏なのにがらんと寒々しく、まるで自分の家でないようだった。

 次の瞬間、稲光いなびかりがあたりを走り、大きな雷鳴がとどろいた。

 私は身をすくめた。こんなときにおばあちゃんがいてくれたら、と強く思った。

 いつも縁側えんがわにいて私を抱きしめてくれたおばあちゃん。

 わたしはしゃがみこんで雷が止むのを待った。激しい夕立ゆうだちの音が耳に届いたが、動くことはできなかった。

          *

 ……おばあちゃんは、その日をさかいに入院することになった。

 お母さんが洗濯物をとりかえたりなどするために週に三回病院に出向くとき、私は時たまお母さんにくっついておばあちゃんのお見舞いに行った。

けれど入院したおばあちゃんは、白い天井をいつも怖い目で睨んでいて、私のおばあちゃんじゃないみたいだった。

しおりの話もしてくれない。


 私は別人になってしまったようなおばあちやんに話しかけた。

「ねえ、おばあちゃん」

「……」

「しおりの話をしてよ」

「……」

 おばあちゃんは、何も言わず、目をぎょろり、と動かして私を見た。

 まるで知らない人を見るような、そっけのない目だった。

 お母さんはそんな私とおばあちゃんを見てハンカチで目元を押さえていた。


 病院のお医者さんから説明を受けたのか、お父さんや親戚の人たちはのう血管けっかんがどうとか、CTが、レントゲンがなどと、難しいことばかり言っていた。

 大人たちの話をそうごうするに、おばあちゃんから、ものを記憶し思い出すこと、何かを判別はんべつし、考えたりする力はほとんど失われてしまっているらしかった。

 おばあちゃんはほとんど何もしゃべらないし、何かをしようという気配もない。ただ横たわっているだけのお人形のようになってしまった。

 ごはんを自分で食べようとしないから、おばあちゃんは鼻からチューブを通されて胃の中に直接ちょくせつ食べ物を流し込まれるようになった。

 あとは何のためにしているか私にはよくわからないたくさんの点滴てんてきも受けていた。

 トイレも自分でいけないからおっしこの管を通されてオムツまではかされていた。


 私はそんなおばあちゃんを見るのがどんどん辛くなっていった。

 お母さんから病院に一緒に行こうと誘われても断ることが多くなった。

 あそこで寝ているのはおばあちゃんだけど、おばあちゃんじゃない。

 そんな風に思ったのだ。


 お母さんはそんな私に何かを言いたそうにしていたけれど、結局何も言わなかった。


秋がきて、冬がすぎ、また春がきても、おばあちゃんはずっと病院にいた。

おばあちゃんを取り巻く状況に変化がないなか、お母さんとお父さんが夜中に居間で相談しあっているのを私は聞いた。


 もう限界じゃないかな、とお父さんは言った。

 お母さんはうつむいていた。

 本人だって機械につながれてただ生かされている状態(じょうたい)なのは辛いんじゃないだろうか? 俺だったら……。

 お父さんの言葉の途中でお母さんはやめて、と声を荒げた。

 あなたの本物の母親じゃないからわからないのよ! あなたのお義母かあさんが同じことになってもあなたはそう言えるの?


 ……私はお母さんとお父さんに気付かれないように、そっとその場を離れて自分の部屋に駆け込んだ。

 涙があふれてとまらなかった。

 私は元気なおばあちゃんに会いたかった。そして、きちんとした意識をとりもどしたおばあちゃんに改めて尋ねてみたかった。


 ねえ、おばあちゃん


 おばあちゃんの挟んだ、記憶のしおりは、どこへいったの?


 柿のしぶさを、

 トキちゃんのおうちのざらざらを、

 おばあちゃんのお父さんの言葉を、

 にもつ屋さんのお兄さんのまっかっかを、


 大切にしていた、おばあちゃんの

 心はどこへ行ってしまったの?


 人はいつか、みんな、今のおばあちゃんみたいになってしまうの?


 大切な人の顔がわからなくなって。

 大事にしていた思い出は失って。

 嬉しいも、悲しいも、何も感じない。


 私も いつか そうなるの?


 だったら、どうして心なんて、あるんだろう……。


 目を閉じると浮かんでくるのはいつも笑顔で私をひざの上にのせてくれるおばあちゃんの姿だ。

 でもこの記憶だっていつかなくなってしまうならなんの意味があるのだろう。

 悲しくて切なくて涙が止まらなかった。

 まくらに顔をうずめるようにして泣き声をこらえているとすっとふすまがあいてパジャマ姿のお母さんが私の部屋に入ってきた。


 「さくら」


 お母さんは私の布団のところにやってきた。


 「今日は一緒に寝ようね」


 私は泣いているところを見られたくなくて、まくらで顔を隠したけれど、お母さんはゆっくりと、でも強い力でまくらをとりさってしまった。

ぐしゃぐしゃの私の泣き顔があらわになった。

お母さんは指で私の涙を拭ったけれど、それでもあとからあとから涙があふれた。

私はお母さんの胸に顔を押し付けて思い切りわんわん泣いた。


 「おばあちゃんのしおり」

 私はしゃくりあげながら言った。

「全部なくなっちゃった」

 お母さんは黙って私を抱きしめた。目の前のお母さんの胸元から温かい体温が伝わってきた。花のような良い匂いもした。

 お母さんはしばらくそうして泣きじゃくる私を抱きしめていた。そして私がすこし落ち着くと私から少し身を引いて口を開いた。

 「おばあちゃんの記憶のしおりはちゃんとあるよ」

 私の頭と胸にお母さんの温かい手があてられた。私はお母さんの顔を見上げた。お母さんは笑顔だった。


「さくらの、このなかに、ちゃんと全部入っているわ」


 お母さんの手が添えられた、私の頭と心臓しんぞうのあたりがきゅんとなった。


 おばあちゃんのしおりは私のにあるってどういうことだろう。


 お母さんは続けた。

 「かたちあるものは、壊れるけれどかたちのない、ことばや、おもいは、人につたえることができるの」

 「かたちのないものは、人につたえることができる……」

 繰り返した私にお母さんは「そうよ」と言った。


 「かたちのないものはつたわっている限りはなくならないの」


 お母さんはまっすぐな優しい目で私をみた。

  まるでおばあちゃんが真剣に私に何かを伝えようとするときのような。

 やっぱりお母さんとおばあちゃんは実の親子なんだな、と思った。


 お母さんは私の背中を、ぽんぽんと励ますように叩きながら語り続けた。

 「おばあちゃんの記憶のしおり、大事にしてあげなさい。

 さくら自身のきおくのしおりも大事になさい。

 それは、宝物なのよ。

 そして、いつか、おばあちゃんとさくらの、記憶のしおりの話を、さくらの大切な人に伝えてあげなさい。

 おばあちゃんが、さくらにしたように」


 おかあさんは、話し終えると、涙をぽろぽろとこぼし、私を強く抱きしめた。

 あたたかくて、お母さんの匂いがして、ちょっと息苦しかった。

 私は今のお母さんの言葉とこの感触を忘れない、と強く思った。


 あっ


 おばあちゃん、今、わたしの中でしおりが増えたよ。

 わかったよ。(終)

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