後編
壁は見えない。全て書架で覆われているからだ。よく磨かれた焦げ茶色の木の本棚。部屋の真ん中に立派なオーク材の机。机の上にあたたかい光を放つ蜜蝋の蝋燭。ほんのり甘くて埃っぽい香り。
けれどわたしは、その部屋に「青い」という印象を抱いた。それは壁を覆い尽くす書架の中身が、全て薄青色のキラキラした何かで埋め尽くされていたからだ。
わたしは店主らしき男に目礼し、手近な棚に近寄ってそれが何なのか見極めようとした。薄い……青くて透明な、薄い紙のようなものが端から端までぎっしり詰め込まれているように見える。色からすればとても紙には見えないが、板と呼ぶには薄すぎる、そんなもの。
「これ、何ですか?」
「記憶」
やっぱり寝起きのような気だるい声で男が言った。肩よりは少し短いくらいの黒髪はぼさぼさで、眠たいのか伏目がちなせいで瞳の色は見えない。すごく痩せていて、肌が白い。
「記憶?」
「記憶です。人の記憶。ここは記憶の書庫ですから」
頬杖をついた男が目を上げて、あっと思った。男の瞳が、棚に並んでいる記憶とやらと全く同じ色をしていたのだ。うっすら発光するような、蝋燭の灯に照らされてなおつめたく見える、氷の青。
「……ミント、半分差し上げましょうか」
気づくとそう言っていた。男が軽く眉を上げて、そして独り言のような口調で「もらおうかな」と言う。
長い茎が五、六本あるうちの半分くらいを無言で差し出すと、男は「ん」と言って一本だけつまみ上げ、くるくると丸めると机の上の空のグラスに押し込んだ。そして水差しに手を突っ込んで泳ぐ氷をいくつかまとめて掴み出すと、ミントの上から放り込んで氷水を注ぐ。
「……いいですよね、ミント水。爽やかで」
ぼそりと言ってみると、男は不思議そうにして「爽やか? そうかな」と手元のグラスを見つめた。カラカラと音を立てながらグラスを振って、一口飲むと「うん、冷えた冷えた」と言う。それからごくごくと一気にそれを飲み干してしまってから、あっと気づいたようにわたしの方を向いて「あ、飲みます?」と言った。
「……じゃあ、いただきます」
答えると、男は「はいはい」と言って、わたしの手の中から勝手にミントをもう一本引っ張り出した。そしてそれを同じように丸めて飲み干したばかりのグラスの中に押し込み、手掴みで氷を二つ追加して、水を注ぐ。
「はい、どうぞ」
まさか口をつけたグラスをそのまま出されると思っていなかったわたしはしばらくそれを無言で見つめたが、男の青い視線の中に冗談のかけらが全くないことを見て取ると、小さく「どうも」と言って受け取った。小さなグラスにミントが丸々二本も詰め込まれ、透明よりも緑が飽和しているような感じになっている。
一口だけ、と思って口に含み、一度息継ぎをしてからもう一口飲んだ。
「つめたい」
「でしょう。このくらいミントが多いと、だいぶ冷える」
氷の冷たさでもハーブの清涼感でもない、飲んだ水が喉の奥で凍るようなつめたさだった。凍るような水はすぐに全身に沁み込んでいって、熱を持った血液を冷やす。
「わたしの記憶も、ここに置いてもらえますか」
グラスの中身を全て飲みきって、わたしは言った。底の方で、びしょびしょになったミントの葉が潰れている。残った氷を口に含みたい気がしたが、行儀が悪いので我慢した。
「どんな記憶です? 医者に取ってもらえるものなら、そうしたほうがいい」
男が言った。親切で医療機関の受診を勧めているというより、投げやりに突き放すような声だ。
「全部」
「そりゃできない」
「なぜ」
ひどく落胆して、わたしは半分泣き声のような声を出した。男が面倒そうに顔をしかめ、だらりとしていた姿勢を正して腕を組む。
「自分の記憶を全部書き出すなんて、誰にもできないからですよ。うちでは、該当する記憶を全部書き出してもらってから、抜き取るようにしてる」
親指で書架の方をさしながら男が言った。
「だいたい、なんでまた全部忘れたいなんて思ったんです? 何もかも忘れたいような出来事があったなら、その出来事だけ消してしまえばだいたい事足りますよ」
そう言われて、脳裏を様々な映像が散り散りに通り過ぎていったが、わたしはそのどれもが「理由」にはなり得ないのではないかと漠然と思った。
「なんにもありません。ただ、退屈なんです」
「退屈」
「ええ。全部忘れて、何も覚えていない自分に恐怖しながら生きてゆきたい。少なくとも、今よりずっと刺激的だわ」
「……変わった人だな」
男がひとりごちて、頭をかきながら書架を見上げた。
「例えば……最近来た寄贈者さんだと、父親の顔を忘れたいと言ってました。精神科医が消去してくれるのは殴られたとか夜中に酒を買いに行かされたとか、そういう直接的な虐待の記憶だけだって。けれどその人は、そういう『痛みの記憶』はなくしたくないと言っていた。その人は物書きで、その痛みがあるからこそ血を吐くような文章を書けるんだそうです。だから、不意に脳裏に描かれては自分の内面を
そう言いながら書架の一番上の段の一番右端から、すっと滑らかな手つきで一枚の紙が取り出された。磨り硝子のような半透明に、黒い文字がびっしり書き込まれている。ピアノでも弾きそうな関節の目立つ指の先端には、黒いインクを拭い取ったような染み。黒っぽい服なのでわかりにくいが、よく見ると袖の端にも。
「……それは、変わった人ですね」
そう呟く。自分を
「あなたも似たようなものでしょう」と男が言う。
「全然違うわ。正反対よ」
わたしは少しむっとして、男に言った。
「わたしは、全部なくして自由になりたいの。たとえ苦い部分を全部抜き出したとしても、残ったわたしはそれを知っていた時のわたしの残り物だわ。苦さを抱えて成されたものは、全部苦い味になっているのよ。繋がっているものを何ひとつ残したくない。全部さっぱり忘れて、この何もできない、何ひとつ楽しめない退屈な日常から自由になりたいの。退屈な人間でしかいられないわたしじゃなくなりたいの」
「はあ……なるほど」
男はなんにもわかっていなさそうな顔で、おざなりに頷いた。透明な紙の縁を指で少しだけいじり、再び棚に戻す。同じような紙がぎっしり詰まっているそこに、それは折れることも歪むこともなく、まるで雲の間に吸い込まれるように巣へ帰っていった。
「ねえ、店員さん」
「店員さんじゃありませんよ。司書さんって呼んでください」
「……それ、紙なの」
無視して尋ねると、司書は棚の方にちらりと目を遣ってから「まあ」と曖昧に笑った。わたしはその微笑みをじっと見つめる。彼の凍るような青い瞳も。
「……で、どうするんです? 流石に一生分の記憶をここで書いていくなんて時間は作りませんよ。俺は定時で帰りますから。あと一時間で
閉庫って変な言葉ね、と思いながらわたしは少し考えて、口を開いた。
「ひとつだけ、ここに置いていくわ」
「ひとつでいいんですか。それは、最も苦しい記憶?」
「いいえ、わたしの名前を」
司書は面食らった様子でわたしの顔をじっと見て、そして「やっぱり変わった人だ」と囁くように言った。そして机の引き出しから真新しい紙を取り出し、古めかしい羽ペンとインク壺をその隣に並べる。インクの方は、少なくとも見た感じ普通の黒い色をしていた。
「じゃあ、ここにあなたの名を記してください」
「ねえ、名をなくしたらわたしはわたしでないものになれると思う?」
「さあ、どうでしょう。なくしたことがないのでわかりませんね」
司書はわたしが慣れない形のペンで名を綴り終わるのを待って紙を取り上げ、それをちらりと見下ろしてこちらに向き直った。
「じゃあ、おでこ出してください。施術しますから」
「また来るわ。わたしを構成するものをひとつずつ置きに。全部忘れるまで。そうしたら、あなたはわたしの名が呼べなくて困る?」
そう尋ねたわたしの前髪を手のひらでどかして、司書がわたしの額に自分の額を合わせた。体温が低いらしく、少しつめたく感じる。
見えないくらい近くで、彼が言う。
「いえ、特には。寄贈はおひとりずつと決まっていますので、俺はただ『あなた』と呼んでいればいい」
「そう」
心地良いなと思った。魔法が浸透してくる冷えきった感触も、彼のその距離感も。
「はい、終わりました。ご自分の名前、思い出せます?」
「……いいえ」
頭の中を丁寧にさらう。名前らしきものは色々と出てきたが、そのどれもに他の持ち主がいた。わたしのものは、ひとつも出てこない。
「じゃあ成功ですね」
司書はそう言って、手にした紙に手のひらを押し当てた。すると紙がぼんやりと青く光って、そしてすぐに元のガラスのような半透明に戻る。
「今、何したの?」
「記憶を保存したんですよ。ここに」
「どういうこと?」
催眠術で記憶をなくさせる方法はあれど、そんな──頭の中から抜き出して別のものに封じ込めるような技術など聞いたこともない。
「おや、あなたは『書庫』へ『寄贈』にいらしたのでしょう? ここへ置いてゆくと言ってたじゃありませんか」
「てっきり、あなたが覚えてくれているという意味だとばかり……寄贈ってことは、お金はいらないのかしら」
「寄贈ですからね」
司書が頷いて、わたしはまだ全てがよくわかっていないまま、つられるように首を縦に振った。
「寄贈した名前は……返してもらったり、見返したりできるのかしら」
「できませんよ。ここは書庫であって図書館じゃない。一度ご寄贈いただいた記憶はお返しできませんし、貸し出しもしてません。ただ溜め込むだけの場所です」
「……そう」
わたしはもう一度頷いて、胸に手を当てて自分の名が思い出せないことをもう一度味わった。少しは身軽になっただろうか。まだわからない。
「じゃあ、また来るわ」
「ええ、どうぞ。手土産はまたミントがいいです」
「わかった」
わたしはまともな挨拶もせずに茶色い扉を出て、蜜蝋の香りを少しだけかぎ、そして真っ暗な階段をそろそろと壁に手を沿わせて上がると、地上へ出た。あまりの眩しさに目が焼かれたようになって、しばし立ち止まる。
目が慣れると、わたしはまず霧に覆われた通りの向こうの廃墟を見上げ、割れた窓から青い人影がこちらを見ているのに軽く手を振った。人影はしばらくじっとしていたが、見つめているとおずおずとした動きで、揺らめく光のように見える片手をあげた。
書庫 綿野 明 @aki_wata
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