書庫
綿野 明
前編
海辺の街にしては薄暗いところだった。向こうのほうがほんのり
わたしは灰色の石に青い影の落ちる商店街を見つめ、久しぶりに心から笑んだ。ここはとてもいい。落ち着いていて、霧の彼方から
霧色の紗がかかってやわらかくなった音は心臓の鼓動五回分くらいの間隔で、ざざぁんと、耳の奥で揺れた。わたしの心臓もそれに合わせて、だんだん五分の一の間隔で動き始める。
「お嬢さん、珍しいね。どうだい、オレンジひとつ」
「オレンジより、そこのミントをいただきます」
わたしが指さすと、果物屋の店主らしい青白い人は「ミントだけ? いいけど、宿でお茶にでもするのかい?」と訝しそうにした。
「かぐんです、香りを」
「はあ。お嬢さん……まあ、こんなところに生身でやってくるくらいだ。やっぱり変わった人なんだね。芸術家か何かかい?」
「油彩はやりますが、ただの趣味です」
「はあ、やっぱり絵描きさんってのは人と違うものを持ってるんだねえ」
青く透き通った手が数枚の硬貨を受け取り、紙袋に入れたミントの束を手渡してくれる。へえ、さわれるんだとわたしは少しだけ感心した。彼も、その隣の店の売り子も、みんな同様に半透明の見た目をしている。肉体がないからだ。ここは住人の死に絶えた、死者の町だった。
「ところで、この辺りに『記憶を消してくれる店』があると聞いたのですが」
買い物を終えて「客」になったわたしは、そこで本題を切り出した。幽霊店主はそれを聞いて、嫌悪したように眉を寄せる。
「ああ……まあ噂を聞いたことはあるけどね。お嬢さん、やめときな。そういうのがどうしても必要なら、お医者様にやってもらうんだ。あんたみたいに薔薇色の頬して生きてる人間が、裏路地にあるような店に近寄るもんじゃない」
「噂では、そこのご店主も生者だと」
「生者は生者でも、きっとよくないやつさ。悪いことは言わないから……記憶ってのはね、嫌な思い出ほど後々役に立ったりするものだよ。それにお嬢さんはまだ若い。今は辛くても、いつか笑って話せるようになるさ」
「そうですね」
ああ、話の通じない人だったと見切りをつけて、わたしは上手い感じに笑顔を作って納得したように見せ、果物屋を出た。通りを歩きながら紙袋からミントを取り出し、鼻に寄せる。
わたしは、世の中で言われているようなふうにミントの香りを「爽やか」だと思ったことはなかった。これはつめたい香りだ。霜で凍りついた草原を歩くような、透明でつめたい香り。心を冷やして、冷やして、痛みも何も感じなくさせてくれる。
少し棘の生えていた気分がましになったので、周囲を見回して他に場所を教えてくれそうな人がいないか考えた。心に何か、
もう一度ミントをかいで、宿屋と土産物屋の間の路地にふらりと入る。たいして埃っぽくもなく、湿った匂いもせず、海から運ばれてくる潮の香りだけが漂っている。けれど薄暗さは商店街よりもずっと濃く、どこか空虚な気配がする気がした。
右を見て、左を見て、また右を見る。わたしは少し首を傾げると、より霧の青さが強い左の道へ入った。少し進んで、今度は三叉路だ。ここは真っ直ぐ行こう。
歩き続けていると、少しずつ石畳に当たる靴底がじゃりじゃりいうようになってきた。浜辺から運ばれてきたのか、道の隅の方で白っぽい砂が霧の色に
少し引きずるようだった足取りが、それを見て踊るように軽くなった。わたしにしては本当に珍しく、鼻歌でも歌い出しそうな気持ちで廃墟を目指す。ふと見上げると、上の方の階の割れた窓から、ぼうっと青白い人影がこちらを見ていた。みずみずしい果物を売っていなくて、全く少しも楽しそうじゃなく、「いつか笑えるようになるから希望を持て」なんて言わない人影。そうそう、こういうのよ、こういうの。
「こんにちは!」
手をあげて挨拶すると、明るい声が路地裏にわぁんと響いた。こちらを見ていた人影がふっと消える。わたしは彼に悪いことをしてしまったと反省した。
そうっと、崩れた壁の向こうを覗き込む。天井が半分くらい崩落していて、床は瓦礫だらけ。けれど大きく日が差し込んで明るいかといえばそんなことはない。深まってきた霧が奥まで入り込んで、暗いよりもずっとつめたい。
「……あれ、扉がある」
その瓦礫の奥を見つめて、わたしは呟いた。家屋の中に扉があるくらい当たり前のことだが、その扉は少し様子が違ったのだ。すっかり風化している部屋の内装と違って、その扉だけが艶々とした傷のない木製で、美しい深緑に染められている。ペンキを塗った緑でなく、木目が残るよう染料の入った油で染める、手間のかかった高級な仕上げだ。
わたしは崩れた壁の隙間から廃墟に侵入し、大きな天井のかけらの周りをまわって、その扉の前に立った。猛禽類の顔がついた鉄のノッカーがあって、その上に小さな真鍮の板が同じ色の釘で打ちつけられている。エッチングで彫られた文字は「書庫」。
書庫ってことは、探している店とは違うのかしら。
わたしはそう思ったが、こんなところに不自然に存在する扉なんて、中を見ずに通り過ぎるわけにはゆかないとノッカーに手をかけた。この建物は実はかつての図書館で、そこの書庫だけが保存されているのかしら。それとも、書庫という名前の書店だったりして。それも素敵。
カーン、カーンと、ノッカーは硬質な音を立てて案外大きく鳴った。故郷の街にも似たようなものが付いている家はたくさんあったが、ノッカーにも良し悪しというものがあるのだろうか。そういえばこの鷲か何かの彫刻も精緻で、音色だって澄んでいて綺麗な気もする。
返事はなかった。無人なのだろうかと思って、少し迷った後にノブを引いてみる。看板があるのだから民家ではないだろうし、勝手に入ったっていいだろう。
カチャッと、錆びついていない軽い音を立てて扉が開いた。中は真っ暗で、下へ降りる階段があった。地下室の入り口だったらしい。目を凝らすと──ほんの僅かに、オレンジ色の光が見える。
一度背後を振り返り、幽霊にも誰にも見られていないことを確認して、わたしはそっとその暗闇に体を滑り込ませた。後ろ手に扉を閉める。
一段一段、慎重に下りた。手すりがないのだ。つま先を段につけたままそっと伸ばし、カクンと先がなくなったところで、下におろす。足の裏をきちんとつけてから体重移動。
わたしは、ここに明かりがあればこれ以上なく不恰好に見えたに違いない姿勢で階段を途中まで下り、そして中央の踊り場を過ぎてからはごく自然に壁に縋ることもなくトントンと下りた。階段が折れ曲がった先には小さな蝋燭が一本だけ灯されていて、足元が見えたのだ。
親指の半分くらい、もう間もなく燃え尽きようかという長さの蝋燭は、蜜蝋を使っているのか少し茶色く、うす甘い独特の香りがした。それをまじまじと見つめてから、火がついているということは中に人がいるのかしらと目の前の扉に視線を移す。
壁に取りつけられた華奢な燭台の奥には、こちらは表と違って簡素な薄茶色の木の扉があった。ノッカーはないので、手の甲でコンコンと叩いてみる。
返事はなかったが、中で物音がした気がした。もう一度叩く。簡素だが良い材を使っているのか、もそもそしていない良い音がした。
「開いてますよ」
扉の奥から、小さな声が聞こえた。寝起きのようなあくび混じりの男性の声だ。
「お邪魔します」
わたしはそう言って、蝋燭の明かりでぎらりと黄金色に光る真鍮のノブを引いた。微かな軋みを上げて戸が開き、青い部屋の奥の机に突っ伏していた男が顔を上げた。
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