ストーリー

 「雪の中の温度を知っている?」


 今の季節が夏だと言うことを忘れてしまったような、わけのわからない切り口で、僕に話をかけてきたのは、煙草が嫌いな彼女——雪乃さんだった。彼女の両親がヘビースモーカーだったらしく、それが起因し早くに亡くなってしまった、という過去から煙草が嫌い(もしくは煙草を吸う人)になったらしい。


 彼女は煙草反対派として大学内では有名で、煙草を吸っている人を見るたびに嫌な顔をしている事を、記憶しているものの、同じサークルではなかったため、そこまで関わりは深くなかった。それに、喫煙者である僕なんかが関わったらそれこそ、嫌な顔をされる。


 「雪の中の温度、ですか?」


 喫煙者である僕に話をかけてきたことと、考えたこともないその問いに少しだけ戸惑う。正直なところ、その質問に対して真面目に答える必要などはなく、適当に流しておけば良いと思い、僕は限られた脳味噌で頑張って考えています風を醸し出す。


 「どうせ言ってもわからないだろうが、教えてあげる」


 "どうせ"という表現が少しだけ癇に障ったが、突っ込んでもしょうがないので、スルーする。


 「0℃———雪の中の温度は、丁度0℃なんだって」


 その声は、僕の知っている雪乃さんとは違い、優しく世界を包み込むような、そんな声だった。


 

 「そうなんですか?」


 雪乃さんが言ってくれた話題を風船のように膨らます術を知らない僕は、それ以外の返答を知らなかった。


 「そうなの」


 今思えば、この時から僕たちは破滅へと進んでいたのかもしれない。


 雪乃さんが突然話しかけてきたことをきっかけに、僕たちはよく話すようになった。特に好きなものや打ち込めるものがなかった僕は、所属していた吹奏楽サークルを抜けて、雪乃さんが入っていたフォトサークルへと入った。


 雪乃さんの撮る写真は、僕が撮る写真みたいに、F値がおかしかったり、変にスローシャッターにしてしまったりすることはなく、被写体をキチンと捉えて、F値も丁度よく、そのF値にあったスローシャッターをしていて、初めて雪乃さんの写真を見た時「美しい」という水のように透明で純粋な感情を久しぶりに持った。


 それ以来、自分も写真の魅力の沼へと落ちていき、サークル内の活動のみならず、プライベートでも雪乃さんと写真を撮りに行ったりした。


 新宿の汚れた自動販売機、土砂降りの雨と土が混じったアスファルト、退廃的な喫煙所、いつまでも地面を揺らして動き続ける地下鉄、つまらない会話が垂れ流れる喧騒、くしゃくしゃになったシーツ。それら全てが、雪乃さんが写真で撮れば、何もかもが美しくなった。


 そんな風に過ごしていくうちに、時は流れて、季節は冬になっていた。


 朝。アナウンサーの作り笑いと共に、12月初旬だと言うのに都内でも積もるほどの雪が降るという情報を手に入れたのを覚えている。ついでに、その情報を言う時に噛んでいたことも。なぜそこまで覚えているのか。それは、アナウンサーが噛んでいたことが印象に残ったわけでは無い。その日は、雪乃さんにプロポーズをしたからだ。


 銀世界に姿を変えた街中にある、彩度を高めきれていないイルミネーションの前で待ち合わせをしていた。


 「少し待たせちゃったかな?」


 声が聞こえた方に振り向くと、そこにはいつものようなラフな格好は面影も残っておらず、大人の色を醸し出した格好だった。ベージュのコート、淡い水色のマフラー、街路灯の光に輝く銀色のイアリング、落ち着いた茶色のブーツ。それだけじゃない。白い吐息を出した口元に細くて大人な指先を当てている姿も、上目遣いでこちらを見ているつぶらな瞳も。何もかもが、美しく見えた。


 「いえ...僕も今さっき着いたところです」


 そんな姿に見惚れた僕は、遅れて返事をしたと記憶している。




 

 結果から言おう。プロポーズは成功した。その結果に行き着くまでの過程も、本当に本当に途中までは完璧だった。綻び一つない、完全なプロセスだった。しかし、最後の最後になんともまぁ滑稽なことをした。


 


 「雪乃さんの心の中の温度を、0℃よりも暖かくしてみせます!」


 なんていう、意味のわからない新たなナンパにもなり得ない、言葉の羅列としか捉えられないものを、僕は告白のつもりでそんな事を口走っていた。そんなものですら、頑張って解釈して告白だと理解してくれたのは、紛れもない雪乃さんだった。



 それから、僕たちは約2ヶ月程幸せな日々を過ごした。遊園地に行って青過ぎる空に目の奥が染みたり、映画館に行って暗闇の中お互いに手を繋いだ淡い時間を共有したり、花園に行って鮮烈な花々を背景に写真を撮ったり。きっとそれだけじゃない。雪乃さんといれば何気ない日々や時間も、幸せを感じられた。


 そしてそんな幸せな日々は、東京の小さな部屋で終わりを迎えた。その感覚は、夏の終わりに抱くあの特別な感覚よりも退廃的だった。


 「ねぇ、なんで煙草を吸っていること黙ってたの? どうせ、答えられないんでしょ?」


 部屋の小さな棚に入れてあった煙草の箱を指差しながら、雪乃さんは言った。別に煙草を吸っている事を隠しているわけではなかった。ただ、雪乃さんの前では吸わないようにしていた。折角築いてきた関係を壊したくなかったから。でも、それも、すべて言い訳に過ぎないのだろう。"どうせ"という表現をスルーする事も反論する事もできずにいる僕に罵声を浴びせた後、雪乃さんは出て行ってしまった。


 それから僕は、部屋の中で一人後悔をしていた。


 なぜあのとき反論をしなかったのか。説得をしなかったのか。雪乃さんなら理解してくれたかもしれないと言うのに。いまから、追いかければまだ間に合うかもしれない。そんな思いがあると言うのに、動く事はない足に苛立ちを覚える。


 でも、雪乃さんと僕は決して合うことのない歪な歯車のような関係だったのだと思う。そういう運命だったのだと思う。


 気分転換に、棚に入れていた昔から変わらない銘柄の煙草とライターを出して、ベランダに出る。


 ベランダに出ると、全身から寒さが襲ってきて、思わず身震いをする。


 震える手を押さえながらライターで煙草に火をつける。久しぶりに吸ったからか、メントールの刺激が鼻腔に突き刺さる。


 嗚呼、不味い。とてつもなく、不味い。


 


 後悔を吐いた白い溜息と、煙草から出る蜃気楼のような青白い煙が、冬の風に攫われて上空へと上がっていき、消えることなく漂っている。


 それと同時に、空から粉雪が降り始めた。


 流石に寒くなってきた僕は、開けっ放しにしていたベランダの扉から部屋に戻る。


 煙草を灰皿に捨てようと、部屋に戻り、 机に置いてあるクリスタルガラスの灰皿に、煙草の残骸を葬る。


 ふとベランダの窓に備え付けられている電子温度計を見た。








 




 




 


 








 その温度は0℃だった。



 


 

 


 

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雪乃さんは、ゼロよりも冷たい ミヤシタ桜 @2273020

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