0円の少女

虫野律(むしのりつ)

第1話

 


 僕の値段は100万円だ。

 男子高校生の平均は2億5000万円。つまり、僕はアウトレットにすらなれない粗悪品なんだろうね。

 今のところ障害や病気はないけれど、そう遠くない未来に完治不可能の疾患に罹り、死ぬ。それが一番現実的なルートだろう。

 今さらどうこうはないけれど、自分と同じくらいの年齢の人が能天気に笑ってるのを見ると……。


「どうした? 難しい顔してっぞ」


 終業式も終わり、教室でぐちゃぐちゃと考えてると実人みひとが話し掛けてきた。


「何でもないよ」


「……今日暇だろ? 帰りに遊びに行こうぜ」


 実人は変わっている。僕を構う。何故かは分からない。


「ごめん。今日は無理なんだ」


「そっか。じゃあ、また今度な」


「うん。ありがと」


 何度も繰り返したルーティンのようなやりとり。実人は食い下がってはこない。いつもあっさり引き下がる。

 自分の席に戻る実人を見る。

 4億5000万円。

 これが実人の値段だ。僕の450倍の価値がある人間。それなのにどうして圧倒的格下に構うのだろうか。

 ガラッとスライド式の扉を開け、担任教師が入って来た。


「さっさと終わらせて、ちゃちゃっと夏休みにすっぞ」


 軽いなぁ。担任の巻き巻きのホームルームが始まった。









 1人帰路にいていると、駅の西口で僕は少女とぶつかってしまった。


「ごめんなさい」


 一言謝罪して立ち去ろうとしたんだけど、少女を見て僕は固まってしまった。

 値段……0円……? なんだこれは……?

 人間には必ず値段が付く。例外はない。それだけに少女の存在は異質だ。

 僕が絶句していると、少女の方から話し掛けてきた。


「大丈夫ですか?」


 透明感のある声。人形のように少し冷たい、整った容姿。尚更0円はおかしい。


「う、うん。大丈夫です。それじゃあ」


 彼女のことは気になるけれど、だからと言って無関係の僕が首を突っ込むのはおかしい。その気もない。

 僕はさっさと立ち去ることにした。


 しかし次の日。


「また会いましたね」


 買い物に来ていた僕を見つけた彼女がそう言って笑いかける。相変わらず0円だ。


「……こんにちは」


 何と返せばいいか分からなかったから挨拶になってしまった。


「はい。こんにちは」


「……」


 え、終わり? いや、いいんだけど何か用があったんじゃないのかな。


「じゃあ、しつれ」


「暇ならちょっと付き合ってよ」


 僕の返事を待たずに、彼女は僕の手を引っ張り歩き出してしまった。

 

「何処に行くの?」


「秘密」


 変なの。いいけれど。大した用はないし。それに彼女のことは気になる。


「ねぇ! 名前教えてよ」


「……れん


「私は夢彩めい。よろしくね」


「……よろしく」


「私は16。タメくらいでしょ?」


「そうだね」


 熱い日差しがチリチリと夢彩の肌を焼いていく。

 でも夢彩は気にしていないみたいだ。日差しを弾き飛ばすように笑っている。

 当たり障りのない、核心に触れない会話。柔らかな羽でくすぐるようなもどかしさを感じる。

 でも聞いていいのか分からない。


「着いた」


 ここって……。


「さぁ行くよ!」


 甘味地獄。スイーツ食べ放題のお店だ。どうやらここが夢彩の目的地のようだ。


「いらっしゃいま……せ……。え、蓮? え?」


 実人が店員の制服に身を包み、僕らを出迎えた。僕と夢彩を交互に見つつ、混乱している。

 でも、すぐに立ち直っていつもの調子に戻ったみたいだ。


「付き合いがわりぃと思ってたら、こーゆーことだったんだな」


 したり顔で頷いている。

 多分勘違いしている。誤解を解こうとしたんだけど、それは夢彩によって阻止されてしまう。


「蓮の彼女やってる夢彩です。蓮の友達ですか?」


 おい。悪ノリしすぎじゃないかな。


「ああ。蓮とはマブだぜ」


 マブって何処の言葉だろう。


「いつも蓮がお世話になってます」


 おい。さっきから何なの?


「おう、お世話してます」


「あ」


 僕は実人の背後を見てそう漏らす。


「どうした蓮?」


「実人君! お喋りしてないで早く御案内して差し上げなさい」


「あ、はい。サーセン」


 先輩店員らしき人に言われ、実人は素早く僕らを捌いて窓際の席に案内した。 

 

「それではごゆっくり~」


 去り際に綺麗なウィンクをしていった。僕にはできない。


「いい人そうだね」


 夢彩が言う。実人がいい奴なのは知ってるよ。


「よっし! では早速、戦闘開始!」


 ちなみに僕は甘い物がそんなに好きではない。厳しい戦いになりそうだ。 



 











「うぅ……」


 気持ち悪い。せっかくだからと頑張って食べたら普通に具合が悪くなった。もう一生モンブランとフルーツタルトは食べたくない。


「甘いものが苦手なら言ってくれればよかったのに」


「そんな暇無かった。うぇ」


「あーごめんて。怒んないで」


「怒ってはいない」


 ただ純粋に気持ち悪いだけだ。

 夢彩さんを見る。綺麗な顔だ。普通、美人は値段が高くなる。若いなら尚更そうだ。

 夢彩さんは何か重い病気なのだろうか? 余命幾ばくもないのかな……。


「どうしたの?」


 見つめすぎたみたいだ。


「ごめん。何でもないよ」


「そ」


 夢彩さんの値段の理由を知りたい。でも、訊いてしまったら、嫌われてしまうかもしれない。

 結局、この日はこのまま別れることとなった。








 それから僕と夢彩さんは何度も一緒に遊んだ。夏休みということもあって、時間は沢山あったし、仮に時間が無くても気にしなかっただろう。

 僕は夢彩さんに惹かれていた。

 だけど、まだ夢彩さんの値段については尋ねることができずにいた。

 始めは好奇心から気になっていたんだけど、今は違う。何か重大な悩みを抱えていて、いずれ僕の前から消えてしまうのではないかという心配をしているんだ。

 でも、だからこそ訊くのが恐い。今の心地良い関係が終わってしまうかもしれない。そう思うと言い出せない。

 だって、値段0円が持つ意味は軽くない。夢彩さんが自分から言い出さないのには理由があるはずだ。それが僕らの関係に重大な亀裂を作るきっかけになってしまうかもしれない……。


「はぁ」


 かもしれない。所詮は可能性。答えは分からない。

 考え事をしながら歩いていたのが悪かったんだろう、いつか夢彩さんとぶつかった時と同じように、また人とぶつかってしまった。


「すみませ……ん……」


 ぶつかってしまった人に謝ろうとした僕は絶句してしまう。


「いったぁ。気をつけてよ」


「……」


 瓜二つだ。僕がぶつかった少女は夢彩さんと同じ顔、同じ声。

 でも決定的に違うところがある。


「5億……」


 この少女の値段だ。僕の500倍の価値。夢彩さんとは……。


「そうよ! あなたは……え、100……万……」


 急に少女の僕を見る目が、糾弾するものから憐憫れんびんを含んだものに変わる。これが普通の反応だ。慣れている。馬鹿にしてこないだけ、この少女は人間が出来ているのだろう。


「100万円であってるよ。それよりちょっと訊きたいことがあるんだけど、いいかな」


「……何」


 僕の突然の言葉に怪訝な顔を浮かべる。


「君に夢彩っていう姉妹は居る?」


 変化は顕著だった。少女が息を飲み、視線が揺れる。

 何か知ってるみたいだ。夢彩さんの知らないところで、こそこそと嗅ぎ回るのは少し後ろめたい。

 でも、この少女と出会ったのは何か意味があるんじゃないかな。キザったらしい言い方をすれば運命のような何かなんじゃないかって思う。

 焦っていたのかもしれない。なかなか夢彩さんに訊けない自分に苛立っていたのかもしれない。それがちょっとしたきっかけで溢れてしまった。そうやって自分を納得させる。

 しかし、少女の返答は僕の期待したものとは違った。


「……知らない。それに私はひとりっ子よ」


「え……」


 じゃあ、夢彩さんとは他人の空似……? いや、それは無理があるような気がする。同年代のそっくりさんが偶々同じ町に住んでいる確率はどれくらいだ? あり得るのだろうか、そんな偶然が。


「もういい? そんなに暇じゃないの」


「あ、うん。ごめん」


 でも、それじゃあさっきの反応はいったい……?

 長い髪を揺らし、人混みに消えていく少女を呆然と眺める。少女が視界から何処かへ行ってしまった。

 納得はできないけれどしょうがない。これから夢彩さんと待ち合わせだ。切り替えよう。


 しかし。


「来ない……」


 夢彩さんは現れなかった。連絡も取れない。僕の恐れていたことが起きたんだ。僕はそう解釈した。









 僕の前から夢彩さんが消えた。連絡も取れない。僕は夢彩さんに出会う前と同じ生活に戻っていた。夢彩さんを探し回ったりはしていない。

 あれほど恐れていたのに、いざ起きてみると諦めの感情が僕の心を占拠した。これが僕という人間だと納得する一方で、ちりちりとくすぐったい痛みが身体の奥にある。鬱陶しい。消えてくれないかな。

 

 ピコン。


 ん? 誰かからメッセージが来た。


『よ! 元気か? 暇なら付き合ってくんね?』


 実人……。


『分かった』


『お! マジか! 珍しいな笑サンキュー!』


 何となく誘いに応じてみた。

 実人のことは嫌いじゃない。良い奴だと思う。それでもいつも避けていたのは、僕のくだらない劣等感のせいだ。そうだよ。夢彩さんに惹かれたのだって、自分より下だと思ったからだ。僕はそういうしょうもない人間なんだ。

 最悪だな。










「うぃー」


 如何にもチャラい感じで実人が手を上げる。しかし僕を見て、すぐ真剣な顔になる。


「おいおいおい、どうしたんだよ? 何かあったんか?」


「まぁそうかもね」


「……さてはフられたな?」


 う、鋭い。それとも僕が分かりやすいのかな。

 ため息をついてから、肯首する。


「あっちゃーマジか。ドンマイ」


「いや、いいよ。納得はしてる」


 僕みたいなくだらない人間の浅い底がバレてしまったのだろう。それだけだ。


「まぁまぁそう言うなって。しょーがねぇ、とりあえず今日は遊びまくりますか!」


 本当に何故、実人は僕に構うのだろうか。


「……なんで僕に構うの? 実人の周りにはもっとマシな奴が居るじゃないか」


 実人が固まる。珍しいな。ちょっと面白いかも。あ、再起動した。


「はぁ。言うつもりはなかったけど、ちょっと今のお前はアレな感じだから教えてやるよ」


 アレってなんだ。若いくせに年寄りみたいだな。


「蓮は覚えてねぇかもしれねぇけど、昔、俺の弟がお前に助けられてる」


 うん。覚えてないね。

 僕が首を傾げると、実人は苦笑いをして続ける。


「俺の弟は23万円の価値しかなかった」


「……あ」


「思い出したか?」


 思い出した。

 何年前だろう。僕が小学生の頃の話だ。

 その頃から僕は孤立していた。値段100万円のいつ死ぬかも分からない、あるいは人格、能力に大きな欠陥を持っているかもしれない僕に、積極的に関わろうとする奴は皆無だった。

 いつものように1人で下校していたら、泣きそうな顔の、でもそれを必死に堪えてる小さな男の子を見つけた。


 値段23万円。


 それが小さな小さな男の子の価値だった。

 この世界は残酷だ。如何に可愛らしい見た目の幼子であろうと、低価値の赤の他人を助けようとか、関わろうという考えを持つ人間はほとんど居ない。

 おそらくは迷子だったのだろう。話しかけた僕に返ってきたのは、要領を得ない言葉だったけれど、何となくそうかなって思ったのを覚えている。

 僕がしたことはただ男の子の手を引き、近くの公園に行ってブランコに乗っただけだ。

 暫くそうして遊んでいたら、母親らしき女性と泣いている同い年位の男の子が、小さな男の子を探しに来た。


 ……? あれ?


「あの時、泣いていたのってもしかして……」


「そうだよ! 俺だよ! いいだろそれは!」


 赤面している実人を見たのは初めてだ。変なの。


「とにかく! お前は、お前が思ってるほど価値の無い奴じゃねぇんだよ! 少なくとも俺にとってはな」


 分かったか? と結んだ実人はやっぱり4億5000万の価値を持ってるんだなって、そう思う。

 でも、ありがとう。少し足掻いてみるよ。


「ごめん、ちょっと急用を思い出した」


「はぁ?」


「次は僕から誘うよ。じゃあまたね」


 ぽかーん、としている実人を残して、さっさと立ち去る。


「はぁぁぁ!?」


 本当に面白い奴。












 当てが無いわけではない。

 夢彩さんとそっくりな少女が着ていた制服はここら辺では有名な進学校のものだ。はっきり言ってストーカーの発想だけれど、せめて夢彩さんの口から理由を聞きたい。それで自分を納得させる。


 だから今は許してほしい。


 彼女はすぐに見つけることができた。彼女の周りには沢山の人が居る。僕とは住む世界が違う。それこそ実人ならば彼女と対等に付き合えるだろう。

 

 いや、その実人が僕も悪くないと言ったんだ。堂々と行こう。


「あの、すみません。少しいいでしょうか?」


 僕が話しかけると、そっくりな少女とその友人たちがしんと静まり返る。少し罪悪感を覚えるけれど、構わず続ける。


「この前のことで少しお話がしたいです」


 ダメでしょうか、と続けようとした僕を遮り、友人たちが騒ぎ出す。


「ちょっと真彩まい! ヤバいって」


「はぁ? 100万? 何こいつ」


「警察呼びますよ」


「何を勘違いしてるか知らないけど、身の程を弁えてくれない?」


「行こ。相手にしない方がいいよ。危ないよ」


 散々な言われ様だ。分かってはいたけど、あんまりにも予想通りで笑ってしまう。


「ひっ」


 笑った僕を見て、友人の1人が怯える。

 彼女たちにとっては、僕は人間ではない。得体の知れない未確認生物が近づいて来たから、こんな反応なんだ。

 でも申し訳ないけれど、僕も必死なんだ。少しだけ我慢してほしい。

 しかし意外にも僕にとって悪くない返答をそっくりな少女から聞かされる。


「……分かった。皆は先に行ってて」


 嘘……。

 僕の気持ちを代弁するように友人たちが反発する。


「ちょっと嘘でしょ?」


「真彩! 危ないって」


「あんたも早く消えろよ」


 しかしそっくりな少女──真彩さんは友人たちの静止を無視し、一歩前に出る。


「大丈夫。いいからここは私に任せて」


 真彩さんがこのグループのボスなのだろう、強く逆らうことはできないようだ。5億円の少女が持つカリスマの為せる技だ。


「場所を変るよ。行こう」


「分かりました」


 やや早歩きの真彩さんの後を追う。












 駅前のカフェ、ではなく、その脇道の奥にある、客の居ない喫茶店へとやって来た。


 マスターらしき初老の男性が一礼して、お冷やを置いて行った。


「私はカフェモカね。あなたは?」


「……アイスコーヒーで」


 真彩さんがマスターを呼び、手早く注文を済ませる。


「ミルクとお砂糖はいかがいたしましょう?」


 マスターが訊いてきた。落ち着きのあるバリトンボイスだ。


「ブラックでお願いします」


「かしこまりました」


 また一礼してカウンターに引っ込んで行った。

 ふと真彩さんが珍獣を見るような目で僕を見ていることに気がつく。なんだろ?


「よくあんな土みたいな物飲めるね」


 土って……。どうやら、ブラックコーヒーは真彩さんにとっては土らしい。ちょっとよく分からない。


「いいじゃないか。それより」


 本題に入りたい。僕の意思を汲み取ってくれたのか、真彩さんは頷いてから、躊躇いがちに語り出した。


「どこから話せばいいのか……」


 真彩さんの話をまとめる。


 真彩さんの両親は長い不妊治療の末に真彩さんを授かったらしい。その際、人工授精にはしばしば起こる現象が両親にも訪れた。

 双子だったんだ。でもそれは珍しいことじゃない。中には3つ子、4つ子の場合もわりとありふれている。珍しい例では5つ子なんてのもある。これは排卵誘発剤が原因と考えられているみたい。

 そういう時はどうするかって言うと、減胎手術ってやつをやる。

 幾つかやり方はあるけれど、真彩さんの母親が受けたのはお腹にいる胎児に注射して心停止させることでお腹の子の数を減らすものだ。死んだ胎児は母体に吸収され、吸収されなかったパーツは出産の際に排出される。

 真彩さんの母親は双子の出産に耐えらる程強くはなかった。だから仕方ないことだ。僕もそう思う。

 

 ここ迄聞いて、僕もなんとなく真彩さんが言わんとしていることが分かった。要するに夢彩さんはその時に殺された胎児の亡霊とでも言いたいのだろう。


 正直、信じられない。でも……。


「私は小さい頃に夢彩と名乗る女の子に会ったことがある」


 ……。


「彼女はもう1人の私と言っていた。簡単に嘘だとは切り捨てられなかったわ。私にそっくりだったし、値段もあり得ない。何より母さんが大切にしている人形、それを母さんは夢彩と呼んでいるの。何かあるんだと幼い私にも分かった」


 それは……何と言ったらいいか……。


「彼女は言っていた。『私は殺されてしまったもう1人のあなた』ってね。その時はよくは分からなかったけど、成長して母さんから私の産まれた時の話を聞いた時、全てが腑に落ちた」


 じゃあ夢彩さんの値段が0円なのは……。


「彼女の値段は知っている?」


「……0円」


 真彩さんは僕の目を見て頷く。


「そう。普通なら絶対にあり得ないよね? それは昔、不都合だからと、いらないからと殺された故の値段」


 なんだそれ。なんだそれ。

 僕はムカムカとするのを抑えることができない。別に僕は善人ではない。減胎や堕胎を悪いとは思わない。

 でも、だからって、その子を無価値とする世界にどうしようもない憤りを感じてしまう。


 そんな僕へ、真彩さんは微笑む。夢彩さんと同じ、だけど何処か違う笑顔は少しだけ僕の心のササクレを取り除いてくれた。


「君が夢彩とどういう関係だったかは敢えて聞かない。でも言わせて」


 綺麗なピーナッツ型の瞳が僕を見る。全てを見透かされているようで少しだけ居心地が悪い。


「夢彩を想ってくれてありがとう」


「僕は……」


 そんなに綺麗な奴じゃない。夢彩さんは僕よりも安いから興味を持った。劣等感を持たずにいられた。


「いいの。君が何を考えていようと、私も、おそらく夢彩も感謝してる。だから泣かないで」


 あれ。僕は泣いているのかな……。

 ぽたり、ぽたりとコーヒーに波紋が生まれる。何をやっているんだろ、僕は。

 どうしようもない、怒りや自己嫌悪、それから寂しさでどうにかなりそうだ。


「失礼。お飲み物をお取り替え致します」


 マスターがさっと僕のコーヒーを下げて、湯気の立つコーヒーを差し出す。


「温かい方が良い時もあります。お嫌でしたかな?」


 マスターを見る。穏やかな顔だ。首を振る。


「お代は要りません。私のサービスです」


 実人といい、なんで皆ウインクがこんなにうまいんだろう……。


「私のは?」


 真彩さんが言う。マスターが虚を突かれたかのように目を見開く。


「仕方ありませんね」


「ふふ」


 変なの。でも優しいな……。

 















 夏休み最後の日。

 僕は実人と一緒に買い物に来ていた。もう夏も盛りを過ぎてショーウィンドウには秋物が並んでいる。


「蓮も変わったよな」


 何だ、急に。その訳知り顔はなんか嫌だ。


「そうでもないよ。人間の根っこのとこはそう簡単には変わらないよ」


 多分、真理だと思う。


「またそうやって微妙にひねくれたことを言う」


「ひねくれてるのはしょーがないね」


 ふと懐かしい影を見た気がした。辺りを探すけど、何も変わったところはない。


──ありがとう。またね。


 唐突に声か聞こえた。驚くも、居ない。


「どうした? 変な顔して」


「……いや何でもない」

 

 また歩き出す。今日は遊び納めだ。

 











 



 これが僕にとって最も印象に残っている夏。

 結局、その後に夢彩さんに会うことはなかった。でも僕は彼女に感謝している。

 

 僕にきっかけをくれた。

 

 僕が初めて愛した人。


 だから、ありがとう。



 

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