霧芝居

沖 一

霧芝居

 羽城はしろじょうは良く目を引く女だった。クラスの男子の半数よりも高いであろう長身に、指先まで隙がなく美しい華奢な手足。引き締まった身体に滑らかな凹凸は、稀代の彫刻家がその才を賭して造り上げた芸術のよう。首から上もその例外ではない。艶やかな黒髪、胡桃くるみのように大きな瞳、通る鼻筋、形良く微笑む唇は相手に柔らかな印象を与える。

 羽城条は優れた役者だった。条が喜ぶと、泣くと、怒ると、それはさも自分自身の感情のように感じ、条に向けられた笑顔も、涙も、怒りも、それが自分に向けられた物のように思う。観客はその舞台の上に条ではなく自分が立っているのではないかと錯覚する。誰だろうとその作品を観た夜にはもう一度観たいと思いながら床につく事になる。それほどに優れた役者だった。


 まきあらたは今でもそう考えていた。


 ◇  


 五月の終わりも近づいた頃。中間テストが終わって久しぶりに集まった演劇部のメンバーの顔は心なしか明るく、活動前のストレッチさえも楽しそうにしている部員も多い。条も浮かれた部員の一人であった。


「新、そろそろ書いとる?」


「いて、いて、文化祭の、いたた、脚本のこと?」


 そう、という条の返事を聞きながらストレッチのために背中を押されていた新はもう皆も意識し始める頃かと考えた。

 三年生である新が引退までに脚本に関わる劇は残すところ二つ。学校行事の文化祭で行う劇と阪神大会・県大会・近畿大会と続く劇の二つだけだった。

 演劇部が全国大会で引退を華々しく飾るということはない。近畿大会で最優秀賞を獲得して全国への切符を獲得しても、全国大会が催されるのは次年度の夏。近畿大会で選考された劇にいた三年生は、全国大会で演じる際には卒業してその場にいない。

 だから三年生の部員で当て書き——演じる人を決めてから脚本をつくることだ——ができるのは次の文化祭の劇で最後になる。

  

「めっちゃ楽しみにしてる子多いんやで、今日も部活に来る前に声かけられたわ」


「やろうね」


 事もなげに新は答えた。条は以前から学校内でそこそこの有名人であったが新歓公演以来、一年生を筆頭に熱烈なファンの数が爆発的に増えた。

 新歓で新が脚本と演出を務めた劇は、ともかく条が観客を魅せるように構成された劇だった。主人公が災害で失った故郷を想う日々を描いた『海の中のコーヒー』。なによりも優先したのは羽城条ここにあり!と新入生に知らしめることだった。もちろん新はそのために他の演者をないがしろにしたつもりはないし、脚本だって十分なものを書いた。だが条で魅せる劇は想像以上の効果を発揮し新入部員は例年の三倍近くが来て、部員からの支持も今までが比にならないほどになっていた。

 そんなこんなで条は部の内外からもスターの立ち位置を不動のものにして、部外の人間からは注目されなかったものの新の脚本と演出も部員からは仕事が認められた。その結果、条が出る脚本を書くなら新しかいないという認識を得ることに成功していた。これは新にとってまたとない僥倖だった。条は最高の役者だ。新は心の底からそう信じていた。去年の近畿大会は最優秀賞を逃したが、自分が脚本に大きく割り込んで条を活かせるものにできていたのなら今年の全国大会で条の名が轟くことになっていたと本気で信じていた。もう条を全国に連れてゆくことも、全国を目指す大会で新歓の時のような条を主軸に置いた劇をすることも叶わないが、次の文化祭の劇だけはまさしく条に捧げるものにしようと、新はずっと前から決めていた。


「次は観客の為でもみんなの為でもない、条の為の劇にしたる」


「こんなワガママあかんのかもしれんけど、楽しみにしてる」


 条は謙遜するでもなく、だが捧げられることを当然とするでもなく、心底楽しそうに笑った。条はそういう女だった。不遜でも謙虚でもなく、たっぷりの自信とそれを裏付けする能力に満ちたカリスマ。それは他人を自然と自分が望むままに動かし、それでいて動かされた側も嫌とは思わない権能。舞台に立っていなくとも、演技をしていなくとも、多くの人間が彼女の見目と所作の前に篭絡されてゆく。それが条という女で、新もそのカリスマに引き寄せられた一人だった。

 しかし今の新の中にはカリスマを慕う忠臣らしからぬ疑念が胸中を渦巻いていた。


 ストレッチが終わり、稽古が始まる。中間テストが終わった今、演劇部は公演まで二週間を切った春公演の詰めに忙しい。春フェスとも呼ばれるこれは一年生にとって初めての公演で、裏方・役者共にここでの経験が文化祭や大会へ反映されていく。

 今しているのは60分丸々でなく、場面ずつに通す稽古。衣装は着ていないし、背景などの大道具だってない。舞台の上で行うリハーサルのような通し稽古と比べれば緊張感は比にならないほど薄い。だというのにテスト明けで久しぶりの部活とは思わせないほどの演技をみんながしている。未経験者ばかりだった一年生で難度の高い長台詞を獲得した者は少ないが、それでも間の取り方は十分だし台詞間違いだってない。それに台詞がない時もちゃんと気を抜いていない。一見当たり前に見えるこれは演劇という環境では非常に大事なスキルだ。ドラマや映画と違い、演劇はモブ程度の役柄であっても出演している間は主役たちと同様に全身が観客に見える。つまり気を抜いたりして変な動きが入ろうものなら、主役たちに向けられるべきだった視線がなんの意味もない端役に向けられてしまったり、主役たちが必死に作り上げた雰囲気をぶち壊したりしてしまう。だから舞台の上で悪目立ちしない事は基本的なスキルの一つで、それをほとんどの一年生が演劇に触れてから短期間で実践しているのはすごいことだ。

 そのハリを生んでいるのは言わずもがな条だ。彼女が佇むだけ、一言を発すだけで皆を世界に没入させる。観客だけでなく演者さえも世界に引きずり込み、演者の意識を逃がさない。そして条という役者を前にして、皆は自分が何を演じ、どう魅せるべきか、舞台での振舞い方の何たるかを理解する。

 それは月に寄せられる蛾の群れとは違う、灯台と船乗りのような関係性。光輝く条がいて、皆が各々の行くべき道を知る。自と他への信頼が絡み合い、どのような振舞いが作品を最もよくするかを考え続け、演じる。そんな彼らの演技を見るほどに演劇こそが条のカリスマが最も輝く瞬間だと新は思う。しかし、その思いが確信に近づけば近づくほど、新の中でゴウゴウと音を立てる暗雲は暗く重くなっていくのだった。


 きっかけは二週間ほど前、テスト前の部活停止期間のなおとの会話だった。尚は条の妹だ。そして演劇部内で最も条を見ている人間が新ならば、演劇部外で最も条を見ている人間こそ尚だった。バス通学の学生が多い中、徒歩通学で同じ方面へ帰る新と条は一緒に下校することが多く、尚が入学してからは三人で帰る仲だ。ちなみに高校入学時に引っ越してきた条が新と仲良くなったきっかけの一つがそれだ。だから三人でいることはままあったが、珍しくその日は尚と二人きりだった。折角だからと、高校生からの条しか知らない新は条の過去を尚に尋ねてみた。何か劇のための面白い材料が知れたらいい程度に考えて。

 なのにそこで知った条の過去こそが今の新の中に立ち込める鼠色の暗雲を呼んだ。


「お姉ちゃんは、小学校の時にやってた体操も、中学の時にやってたバスケも、どっちも全国まで行ったのにやめてるんです」


「へぇ、すごいやん」


 演劇に熱心な条のことだ。今までに他のことに情熱を注いでいてもおかしくはないと考えていたが全国レベルの技能を持っていたとは。とそこまで考えて新は訝しんだ。

 

「でも、条からそんな話聞いたことないで。うちにもバスケ部とかあるけど、迷ってたとかも聞いたこと無いし」


「体操も、バスケも、『いっぱい学べた』言うて、それっきりなんです」


「学べた?」


「体操では身体の扱い方、バスケではチームプレイ。そういう、自分が持って無かったもんを学べたからもうええんよって」


 こんなこと新さんに言うべきやないかもですけど、と一拍おいて尚は言った。

 

 ——自分の見せ方を学ぶ為


「演劇も、そうとしか見てないんじゃないかって、思うんです」


 それがただの同級生の言葉であれば微塵も動揺はしなかった。しかし、他ならぬ尚が言った言葉をただの妄言と捨てることはできなかった。そしてその言葉をしっかりと裏付けるのものがある。条の能力だ。鍛えられた体幹にしなやかな身体。演じながらも共演者を観察し、コントロールする力。それこそは彼女が体操やバスケで会得したものではないのか。

 条にとって演劇とは学習のツールでしかないというのか。あの素晴らしい演技は、その過程での副産物に過ぎないのか。

 ならば、条は小学校以来体操に触れていないように。中学以来バスケに触れていないように。

 演劇にも触れなくなるのだろうか?


 新さん、と自分を呼ぶ声で新の意識は浮上した。後輩のれんが後ろから声をかけてきていた。


「文化祭の劇ってどんな感じなんです?」


 新と同じく裏方担当の漣はいけない事を聞くいたずらっ子のような顔をしている。稽古の最中に不真面目なものだと思いながらも、自分も物思いにふけっていた手前強く叱れない。新は答えようと思ったところで、動かしかけていた口を止めた。漣は気にも留めず口を動かす。


「俺としてはやっぱり条さんが主役の脚本がいいっすよ」


「あんまりそういう事は言うもんやないよ」


「いやー、ゆうてみんなそう思ってますよ。条さんが主役やらんで誰がやるんすか」


 漣の意見はあながち間違いではなかった。文化祭の劇で条が主役をしないとなれば、共演者と観客の両方からブーイングが来てもなんらおかしくはない。それは全校生徒の半数以上から針のむしろにされることを意味する。条はそれほどまでの存在だった。

 しかし、本当にそれが条の為なのか新は分からなかった。


「やとしても、どんな物語にすればええんやろな」


「今更、そんなん言うんすか」


 それは新が滅多に見ない、後輩のあきれ顔だった。


「『海の中のコーヒー』みたいに、条さんが最高に輝くもんにすりゃええやないっすか」


 漣は『1+1』の答えを聞かれた小学生のように目をぱちくりさせながらそう言って、稽古に視線を戻した。漣はそれっきり条たちの演技を見ていたが、新は既に何度も陥った思考の迷路へと再び突き落とされていた。

 ——本当に『海の中のコーヒー』は条にとってのさいわいだったのだろうか?

 新がぐるぐると巡る閉鎖回路の中にその議題がふてぶてしく建っているのだった。

 最も己を輝かしく見せることが条の望みなのか?演劇そのものへの興味が条の中に無いのであれば間違いではないのか?だが技術として演劇に興味があるのであれば、自分を美しく見せることが本望ではないのか?それなら『条の為の劇』という言葉に嬉しそうな反応を返したのはなぜか、それは今まで条が自分の為の劇に出会ってこなったからに他ならないのではないのか?条にとっての幸いとは何なのか?

 条にとっての幸いとは?

 条が優れた役者だと、新の思いは今でも揺るがない。今も演劇の最中で条が相変わらず輝いている。演劇という世界、舞台という大地、役者という生命で。しかし、はたしてその輝きは条に幸いをもたらしているものなのかと。新は役者たちの世界の外からそう思っていた。

 条にとっての幸いとは何なのか。条の為の物語とは、何なのか。


 結局、その日のうちに答えが出ることは無かった。条が何を求めているのかが分からなかった。新の中の鼠色の嵐は加速していく。渦巻くのは自分が今まで信じてきていた物を揺るがされるような不安、無力感。

 ——条の為の劇をつくりたい、条がいかに役者として素晴らしいかを最もよく示せる劇をつくりたい。だが、それが条の為なのか。

 ——条が演劇から離れるという想像を今までほんの僅かでもしたことはなかった。もし本当に離れるのだとしたら、これは、彼女を堂々と主役にできるの劇ではなく、の劇になる。だとしたら……。

 ——主演・羽城条を見る最後の機会となるならば、最高の劇にしなければ。条の為の最高の劇。しかし、何が、条の為……?

 そこでやはり新は思考の出口を見失う。子どものいたずらで空を目指して枝を登るテントウムシが頂上に近づいたところで天地を返して遊ばれるように、既に通った道を何回も何回も何回も往復し続けた。


 ◇

 

 それから一週間と数日の時が流れた。

 市民ホールの出口に、演劇部員たちの声がガヤガヤと響く。春公演を終えたばかりの彼らは興奮冷めやらぬと言った様子で、特に一年生たちの熱は一際だった。二年生も後輩と先輩を控えながら主演を務めた部員を筆頭に、疲れが見えるものの達成感の波に浸っているようだった。

 彼らが最寄り駅の方へと向かう中、徒歩で帰宅する新と条は二人で歩いていた。こうして並ぶと、条のほうが新よりやや背が高い。歩きながら条が尋ねた。


「どうやった?」


「ああ、良かった。回想パートでの生きてる人間と死者の霊としての演じ分けバッチリ」


「せやんなぁ、手応えよかったもん」


「一年も気合が入ってたし、二年もええ感じ。これからが楽しみやわ」


「ちょっと空回からまわってる子もおったけどな。でも大会も頑張ってくれそうや」


 条はご機嫌そうに笑う。今になっても条の為の劇が何か新は分からなかった。それどころか条が演劇から離れるつもりなのかさえ分かっていなかった。条のあまりに完成された役者としての在り方を見せつけられるほどに彼女が演劇から離れる訳がないと思いつつ、それこそ彼女が被っている仮面ではないのかという疑念は日に日に増大していく。「役者を辞めへんよな」と一言聞いてしまうと、何かが決定的に変わってしまう気がして遠回しに聞くことさえ怖かった。もし最も側にいるべき友人からの言葉がカリスマの心に傷をつけたり、或いは完璧であったその仮面を砕いてしまったら。もし自分の迂闊な発言がきっかけで条の役者としての在り方が損なわれるような事があれば。役者・羽城条が失われるようなことがあれば。新にはそれが一番恐ろしかった。

 しかし、自身の全霊を注ぐ対象として役者・羽城条は十二分だという思いは変わらなかった。今日の公演でまた強く思った。さきほど新が条に伝えた言葉に嘘はない。彼女の演じ分けによるキャラクターの二面性が物語の起伏を強調し、共演者たちの感情の移ろいをより説得力のあるものとしていた。観客だけでなく、舞台の上に立っていた共演者たちも条の演技に没頭していたはずだ。

 そこまで考えた所で『春公演』と『演じ分け』という言葉で一つの思い出が新の脳裏をよぎった。


一昨年おととしの——」

一昨年おととしの——」


 どうやらそれは条も同様だったらしく、思考のシンクロが起こしたユニゾンで二人は少し笑った。続きを言ったのは新だった。


「一昨年の春公演みたいにならんでよかったわ」


「今、同じことになったらダメやろね」


「ダメやろな」


 一昨年の春公演、つまり新たちの初公演を思い出して条は笑い、新は顔をしかめた。主人公三人組が卒業旅行に行った先で、人に幻を見せる懐中電灯を拾う喜劇『レプリカ・アイランド』。新はその劇で『幻に翻弄される人C』、条は『幻に翻弄される人A』の役をもらっていた。その劇で一番長い台詞があった一年生が条だった。新は元より裏方志望だったためとりわけ気にしなかったが、「顔が綺麗なら台詞ももらいやすくてええな」と同級生が陰口を叩いているのを聞いた。演じる仲間同士に対してくだらない事を考えるものだと不愉快に思ったのを覚えている。

 しかし、問題はここからだった。なんと三年生の六人全員が前日にそろって食中毒を起こして休んでしまったのだ。三年生の部員が集まってしていた牡蠣パーティが原因だった。主人公三人を演じるのが二年生たちだったのが不幸中の幸いとは言え、役者四人と裏方二人が来れないとなれば劇がままならない。この三年生まるごと病欠事件はノロ・ショックと名付けられ部内で語り継がれることとなる。

 だが話はここで終わらなかった。皆が頭を抱える中、あっけらかんと条は言ってみせたのだ。


「私が三年生の先輩方の分を全部演じます」


 高校から演劇を始めたばかりの一年生の言葉に誰もが何を馬鹿なと思った。それだと条は元から担当していた役と『アイドル』『動く松の木』『お婆ちゃん』『大学生』を加えた計五役を演じる事になる。誰もができるはずがないと思った。しかし他に急遽代役を務めれる一、二年生はおらず、その手法でも場面進行上の問題も無く、そして条が見せた確かな自信が決め手となって迷っていた顧問を頷かせた。こうして一人の一年生が大任を背負った劇は公演された。結論を言うと劇は成功した。条はミザンス立ち位置も台詞も一つも間違わずに演じ切ってみせた。条を顔だけと言う者はいなくなった。

 新が条を最高の役者と信じて止まないのは、それからだった。


「あれも二年前か」


「あれは大変やったわ」


 そう言って笑う条の顔には苦労を思いだしている色が僅かにあったが、新はもう一度見てみたいとも思った。今や条の演技のクオリティは『役を演じる』というより『役にる』と言った方が正しい。きっと今の条なら、間違いをしないだけでなくより完璧に数々の役に成ってみせるだろう。それは正に百面相と呼ぶのに相応しいものになるはずだ。


 ——見てみたい。


 ストンと音がした。それはさまよい続けていた新の下に、鼠色の暗雲を裂いて輝ける純白の道が天から降って来た音だった。


「なんや、これか」


 不思議な感覚だったが、新にはなぜか正解を掴んだ確信があった。脚本が完成したのは、この三日後だった。


 ◇ ◆ ◇


 霧に包まれた世界を歩く女が一人、自分の目の前にかざした手さえも見えない濃霧の中を歩いていた。自分がどこを歩いているのか、いつから歩いていたのか、そして自分が何者かさえ分からなくなるほど歩いた時、霧が晴れた。どこをどう歩いたのか、彼女は墓地に立っていた。


「ここは……」


 女はふと口をついた自分の声に驚いた。霧に包まれる前の彼女の声は、絹糸で編まれたような楚々な声であった。しかし、彼女が振るわせた喉からでたのは三四半さんしはん世紀は生きた老婆の声だ。変化はそれだけでは無かった。すらりと真っ直ぐに伸びていた身体は歪んで育った樹のように腰から曲がり、美しく伸びていた黒髪は白んで水気がない。彼女は鏡を見たわけでもなかったが、自分が記憶の中の姿とまるで違うものになっていることを理解した。

 場所も、自分の姿も。以前のものとは違うことだけが確かで、それでも以前の姿がどのようだったかを確かめる術さえ彼女は持っていなかった。


 ◇ ◆ ◇


「すごいなぁ、あれが条さんって思えへんわ」


「信じられへんな」


 幕が上がった体育館の中でかすかに響くそれが、観客席に座る尚の耳に届いていた。それは舞台の上で老婆にる条を見る観客たちのささやき声だ。


「すごい」


 尚も忌憚なく思った。彼女の目をもってしても、よく知る姉の姿は舞台になく、ただ一人の老婆がいた。


 時には家族に先立たれた老婆に、時には恋人に捨てられた男に、時には主人と生きる獣に。千変万化の旅を生きる物語『千里霧中』。

 かつての『海の中のコーヒー』とは違う。より美しくではなく、より多様に魅せる劇。条が長けるのは自分の美しさを見せることではなく、見せたい姿を見せること。美しく見せたい時は美しく、弱々しく見せたい時は弱々しく、猛々しく見せたい時は猛々しく。服を着替えるよりも容易く自分の見せ方を変える。それこそが条が積み上げてきた技術だという事を新は理解した。条の百面相を見たいと新が思ったのは、それが条の成長を最もよく測れるものだったからだ。そして新は『千里霧中』を創った。

 それはまさしく条が望んでいたものだった。


「新、ありがとう」


 その脚本の全てを読んだ時、条は笑った。そして一通り稽古を通した時も、やはり同じように笑った。新にはその笑みの理由が分かった。その笑みは、自分の能力を確認できたから。霧に包まれた世界、無知のヴェールに包まれた自分が如何様にも変化できることを。老若男女、果ては獣にまで成れることを。

 そしてその笑みが帰ってくることが、その劇を条が心から楽しんで演じていることの証明。


 だから、「私の為にありがとう」を込めて笑う条に新は喜びを覚えた。

 だから、きまってこう返したのだった。


「言うたやろ、条の為の劇やから」


 ◇


 もうすぐ幕が上がる。長きに渡って準備してきた文化祭の劇だ。慌ただしく動く者、深呼吸を繰り返す者、手に人と書いて口に運ぶ者、みんなが一度きりの公演のために十人十色に緊張している。そんな緊張する面々の中に珍しくも条の姿があった。共演者や裏方に視線を配り、緊張に押しつぶされそうになっている人に話しかけている様子こそいつも通りだが、一通り話し終えると決まって幕の向こうにある客席を見つめている。そんな条の緊張に気づいているのはどうやら新だけのようだった。

 普段よりも緊張した条の様子を見て新もやはり、これで条が最後にするつもりなのかもしれないと考えると平常ではいられなかった。ただ大人しく眺めることもできずに、祈るように手を組んだ。緊張のせいか指が手の甲に食い込むほどに固く組んでいた。


「大嘘や。これは条の為の物語やない」


 だから、これは緊張した自分がつい口走ったのか、それともいつか口にしたのを思い出しているのかは、新自身が分からなかった。


 条は何者にでも成れる。それが彼女の研鑽の賜物であり、『千里霧中』の中でその多様さを見せてくれることに疑いようはない。観客も皆が見惚れるだろう。演じる条に向ける彼らの目は本物の老婆、男、獣、それらに向けるものと寸分違わぬはずだ。老婆に向ける憐憫、無様な男に向ける嘲弄、忠実な獣に向ける敬愛。それを条が一身に受けた時こそ、彼女の三年間は報われる。自分の積み上げた何者にでも成る技術が完成したという充足が幸いとして条の心を満たすだろう。

 しかし、条が演劇から離れて時間が経って、もしかするとそれは何年も先のことかもしれないが、何者にでもなれる技術を振るうほどにきっと思い出す。何者にでも成れるということが悦びに直結する演劇という世界、役者という生命を。


「僕はまだ、条を見ていたい」


 新が捧げる祈りは祝福ではなく呪いだ。離れがたく忘れがたき役者の悦びを条に刻む為に。完成した技術を演劇からの土産として抱えることではなく、演劇の中での実践こそが己の幸いであると植え付ける為に。自分の心を奪った役者がいつまでも役者としていてもらう為に。その為に書き上げられたのが『千里霧中』。


 だから、これは条の為の物語ではなく、新の為の物語。 

 だから。ここで演じる幸福が忘れられないものになる為に。


 新は条を信じ、祈った。


 霧の中、幕は上がる。

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霧芝居 沖 一 @okimiyage

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