空泥棒

そのいち

私の空が盗まれた!


 一足早く年末年始の休みを迎えた私は、朝早起きして近所をぶらぶらと散歩していた。


 行く当ても無く気ままに足を運んでいたつもりだが、気がつけば普段から使う通勤ルートを歩いていた。身に染みついた習慣とは何とも恐ろしいことか。


 ただ普段ならば憂鬱で空気の淀んだこの通勤ルートも、この日は晴れ晴れとした天気でいて、空気さえもおいしく感じた。私をここまでさせる年末年始の連休とは何とも素晴らしいことか。


 かといって、折角の休日に仕事のことを掘り返すのも癪に障る。

 私は強引にでも散歩コースを変更した。


 無作為に彷徨っていたら、海辺の公園に辿りついた。

 仕事に埋没していて忘れていたが、私の自宅は海の近くにある。


 その公園はブランコとベンチがあるだけの小さな公園だが、周囲に視界を遮る物は何もなく、海を一望できるなんとも爽快な公園だった。


 自宅からゆっくり歩いて十分ほどの距離にこんな公園があることを私は知らなかった。思い返してみれば子供たちが「今日は海公園で遊んだよ」など言っていた気がする。


 なるほどここがその「海公園」か、看板には「第三西公園」とあるが子供たちにとっては「海公園」に違いない。そして私としても「海公園」でしかなかった。


 私は海公園のベンチに腰を下ろし、じわじわ登る朝日を眺めた。

 今度の元旦はまた早起きしてここで子供たちと初日の出はつひのでを拝むのもいい。──そんな事を考えていた。


 しばらくそこで茫然と呆けていたら、隣のベンチに背広姿の老紳士がいる事に気付いた。普段の私なら他人に構う事はしないのだが、この日の健やかな心持をしている私は、普段の私とは少し違った。


「おはようございます。気持ちのいい朝ですねえ」

「……そうですね」


 その老紳士は私の言葉に耳を傾けはするが、私に顔を向けずに足元ばかりを見つめていた。どうやら思い悩んでいる様子だ。


 その近づきがたい雰囲気に、普段の私ならそこで会話を終了するのだが、この日の私はいつもの私と違う。この浮かない顔をした老紳士に私の元気を分けてあげようと思い立った。


「それにしても冬の澄み切った空は見ていて心も晴れ晴れとしますね。特に今日なんかは雲一つない青空だ! いやあ、素晴らしい!」


 私の言葉に何か気がかりがあったようで、老紳士はその浮かない顔を向けた。


「……『空』ですか」

「ええ。今日はいい天気ですよね!」


 この空と同じく私も晴れやかに接するが、老紳士のその曇った表情は晴れる事は無かった。


「……『空』とは、また何を言っているのですか?」

「ん? いや、空ですよ、空。ほら私たちの頭上に広がるこの空です」

「申し訳ない。私にはあなたが何を言っているのか分からない。具体的にその『空』とは何処の『空』を指して言っているのですか?」


 耳でも遠いのかと思い、私は同じことを繰り返す。


「いや、だからこの空です。晴れ渡ったこの青い空です」


 特に不可解なことを言っているつもりはないのだが、老紳士は不真面目な生徒を諭す教師のような優しい顔をした。


「ああ、そうか、あなたはまだ『空』があると信じているのですね──」

「はあ? どういうことです?」


 私には老紳士の言っている事に理解ができなかった。


「──残念ながらあなたが思う『空』とはこの地球上どこにも存在しないのです」


 これはひょっとしてボケでも入っているのではないか、この時はそうとしか思わなかった。


「え、何を言っているのですか? ほら、このとおり空はあるじゃないですか」


 私は両手を広げて漠然と空を示して見せた。


「ではあなたは具体的に『空』とは、どの部分を指して『空』というのか答えられますか?」

「いや、だから私たちの上にあるこれが空です」


 今度は直接的に空を指で指し示すと、老紳士はその私の指先を眺めて言った。


「ほう、あなたが指差す数センチ先の空間が『空』になるのですか?」

「え? いや、そこは違います。うーんと、そうだなあ、今日は雲が無いですが、普段なら雲が浮かんでいる辺りが空でしょうか?」


 はっきりとした答えにならないかもしれないが、その部分が空になるだろうと私は考えた。


「そうですか、ならば仮に気球でも飛行機でもいいですが、その雲が浮かぶところまで行くとしましょう。その雲が浮かんでいる位置まで辿りついて、あなたの横にあるそれは『空』ですか?」

「いや、そう言われると……」


 私は仕事でよく飛行機に乗るのだが、飛行中は漠然と「ああ、空にいるなあ」と思いはする。


 ──だが、よくよく考えてみると、それも違う気がする。


 例えば、飛行中の飛行機から窓の外を指差して「私の横は空になる!」と言えるかといえば、それは自信がない。


「確かに横に位置した場合、そこを空とはいえませんね」

「でしょう?」

「ですが、横に無いにしろ、その雲の浮かぶ位置の、更にその上には空があるはずですよ」

「具体的にどの位置ですか?」

「あ、いや、私はそういうのは詳しくないですが、……そうだな、オゾン層だとか成層圏だとか、そういうところがあるではないですか? そこがきっと空になるはずです」

「では、あなたのいうオゾン層だとか成層圏だとかまで、また気球でも飛行機でもロケットでもいいです。そこまで辿りついて、その横にあるのは空ですか?」

「……い、いいえ」

「ですよね。私もかつてはそうでした。でも実際には、『空』は具体的に何処にあるか指し示せ、といわれたら何も答えられないのですよ」


 すぐに返せる言葉が見つからない。


 これまで私は考えてもみなかったが、老紳士の言う通り、空とは指し示せるものではない。


 仮に私が勝手に思い描く「空」の横まで辿りついたとしても、横に位置してしまえば、もはやそれは「空」と呼べる代物ではない。空とは隣り合わせで存在できるものではない。だから「ここにあるのが空です」とは言えないのだ。


 だからといって、それで納得する私でもなかった。


「と、とにかくどこの位置に辿りついてもその上に広がるのが空になる筈です!」

「それではまた私は同じ質問を繰り返します。とにかくその上に広がる、あなたが言う『空』の部分まで行くとして、その横にあるのは『空』になるのですか?」

「だから、その位置まで辿りついてもその上にあるのが空です!」

「あなたも諦めませんね。同じことの繰り返しですよ。──その横にあるのは何ですか?」

「こちらこそ同じセリフを返しますよ! とにかく上にあるのが空です! それに間違いありません!」


 何度も繰り返そうとも私は引くつもりは無かった。


 この老紳士のいうとおり、どうあがこうとも空は横には存在しない。だが、そもそも空とは上に存在するものだ。指し示せと言われたら上を指すだけ、上にあるのが空なのだ! まんまとこの老紳士の口車に乗せられるところだった。


 この揺るぎない決意を示した私に老紳士はゆったりとした口調で告げた。


「では、このまま押し問答を続けて、その先に何があるか分かりますか?」

「な、なんでしょうか?」


 終りの無いと思っていたこの議論だが、その先に何かがあるらしい。

 老紳士には薄らと笑みが浮かんでいた。


「このまま上へ上へと続けていけば、その先は必ず宇宙空間に辿りつきます」

「ま、まあ、そうなるでしょう」

「では、上も下もない無重力の宇宙空間において、あなたの『上にあるのが空である』という理論はいただけない。破たんしていますよ」

「ぐ、ぐむむむっ!」


 確かにこの老紳士の言う通りに上へ上へと進んで行けば、辿りつくのは必然と宇宙になる。そうなるとこれ以上は上に行きようがない。宇宙は「上」の終着点だからだ。


 だが、それが返って核心に近づいた気がする。

 確かに宇宙は終着点かもしれないが、むしろこれはゴールなのではないか?


「そうか! ならばその宇宙空間そのものが空なのですよ! 宇宙と書いて『そら』なんて読んだりしますよね! 答えは宇宙にあったのですよ! 良かった、これで解決です!」


 と、私は言葉にするが、老紳士は動揺を一切見せなかった。


「それも同じことです」

「な、何ですか、この期に及んでまだ反論が?」


 老紳士はゆっくりと頷く。


「そう、あなたが宇宙空間を『空』というなら、あなたがその宇宙空間を漂ったとき、あなたは『空』に包まれているのですか? それに、あなたが最初に言った『雲一つない青空』とはその宇宙空間のどこにあるというのですか! 宇宙は真っ暗なだけで何もない場所ですよ! つまり、宇宙はゴールではなくて場外です。これはコースアウトしただけなんですよ!」

「あ、いやそれは……」


 またも私は言葉に詰まってしまった。


 確かにそれは私が思い描く空の理想像とかけ離れている。


 これは軽率な発言だった。宇宙に精通していない私が、「宇宙は空だ」と、さも当然に口にするのはおこがましすぎるのだ。宇宙と書いて「そら」と読んだところで、ただの当てつけもいいところだ。宇宙旅行すらもまだ一般的でないこの時代に「宇宙を空だ」と認めるには人類はまだ早すぎたのだ。


 ならば、空はいったいどこにあるのか。

 この今も尚、私は空を見て空を感じている。

 少なくともこの地球上に空は存在するはずだ。


 そう考えていると、その私の考えを見透かしたように老紳士は告げた。


「では、そろそろ決着をつけましょう」

「な、なんですか……」

「折角場外である宇宙の話をしたところですし、その外から地球を眺めた場合、地球のどこに空があるとお思いですか?」

「えっ?」


 地球を外から眺めた場合、想像するのは青と白のマーブル模様の球体になる。

 それを想像してみると私の脳裏に旧ソビエト連邦の英雄の顔がガガガーンと浮かんだ。


「そ、そうだ! 有名な宇宙飛行士の名言に『地球は青かった』とあるでしょう! その青い部分が空になるんです! ──ああ、私は何を迷っていたのか、やはり地球には青い空がありますよ! 青と白のマーブル模様は、空と雲のマーブル模様なんだ!」


 私の渾身の返しに、老紳士は平然と答えた。


「それは海ではないのですか?」

「んなっ!?」

「いや、もしかしたら大気かもしれませんが、だがいずれにしても、それではまた当初の押し問答に戻りますよ、その青い部分に位置したとき、横にあるのは『空』ですか? 違いますよね? そう、つまり、この地球上に空なんて存在しないのです」

「ぐ、ぎぎぎぎぎいいっ!」


 万策尽きた。

 変な声が出たが、返す言葉は無い。


 空は横にないことは先刻承知済み。ならば上にある筈だと、上へ上へと場外まで進んで行くが、その道中に空は見当たらず、では仮に下に見たところでそこに空は勿論ない。


 これは認めざるを得ない。

 空なんてこの世に存在しないのだ。


「納得いただけましたか? この地球上のどこを探しても『空』なんてありません」

「……それなら、あれは、あれは一体何なのですか!」


 私は両手を広げて頭上に広がるあやふやな存在を示して見せた。

 老紳士は顔を上げず、俯いたままで告げた。


「……私たちの頭上に広がるのは『空』ではなくて『虚空』です」


 その老紳士の言葉を聞いて何か不吉な気配を感じ取った私は『空』を見上げた。

 ──私の頭上に広がっていた筈の『空』は忽然と姿を消していた。


「は、はわあああっ、空が、空がないいい!」


 そこには未知で希望もなにもない空っぽの空間が広がっている。

 その現実を目の当たりにして、私は足腰に力が入らずその場に崩れ落ちた。


「残念ながら、これこそが真実なのです」


 私は地面を這いずりながら老紳士に近づいた。

 身体を地面に押し付けておかないとあの虚空に吸い込まれそうになるからだ。


「で、でも『空』がないと私は、私は……」

「おや、どうかされましたか?」

「元旦にここで子供たちと初日の出はつひのでを拝もうと考えていて……」

「それはまた恐ろしいことを、お子さんにトラウマでも植え付けようとしているのですか?」

「そ、それは違います! 素敵な思い出を作ってあげようと考えて、それに何となくご利益がありそうだから……」

「やれやれ、虚空に浮かぶ火の玉に何のご利益があるというのですか、そんなの墓場に漂う人魂ひとだまと同じですよ。恐怖体験もいいところだ、オカルトですよ、オカルト……」


 当初予定した素敵な思い出をオカルトと一蹴されるも、今の私には返す言葉は残されていない。むしろ腑に落ちている。


 それは既に私から『空』が無くなっているからだった。


「で、では、私はどうしたらいいんですか! お願いです、私の『空』を返してください!」


 老紳士はベンチから立ち上がる。


「申し訳ないがそれはできない。私もあなたと同じ被害者ですから……」


 そのまま老紳士は地面にへばりつく私には目もくれずに立ち去った。


「待って、見捨てないで! 私を、私を助けて下さい!」


 私の叫びは虚空へと吸い込まれ、その虚空から降り注ぐ虚無感が私の身体を襲った。その後、老紳士は戻ってくることは無かった。


 身体を動かすことが出来ない私はしばらくその場にうずくまっていた。

 すると誰かが駆け寄る足音が聞こえた。


「どうかされましたか!」

「……ああ、お巡りさん」


 警官がうずくまる私を心配して駆け寄って来たようだ。


「何事ですか!? 何があったのですか!」

「……それが、大切なものを盗まれまして」

「なにっ! 強盗ですか、何を盗まれたのですか!」

「ええっと、あれは何だったか、確か、大切な……」

「やや、もしやそれは『あなたの心』を盗まれたのでは?」

「あ、でもそれに近いものです」


 心配そうに私を見つめるカリオストロな警官に私は答えようとするが、言葉が出てこない。つい先ほどまで私にもあったはずの存在であるのに、その名称すらもあやふやになりつつあった。


「……あれは何だったか、ああ、そうだ、『空』です」


 やっとのことで答えを捻りだすが、警官は首をかしげる。


「ソラ? はて、ペットのお名前ですか?」

「いいえ、かつて私の頭上にあったはずの『空』です」

「え? それは、この空ですか? いや、あなたは何をおっしゃっているので? このとおり空はあるではないですか」


 警官は両手を広げて漠然とそこを示して見せた。

 何も知らない警官には無理もない。


 私は不真面目な生徒を諭す教師のように優しい顔をした。


「ああ、そうか、あなたはまだ『空』があると信じているのですね──」

「はあ? どういうことです?」


 そして後は、同じ話を繰り返す。




「空泥棒」── 了

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