僕の前に道はない。

 医療機器メーカーに就職して二年目の年が明けてすぐだった。学生時代、アルバイトで塾の講師をやっていたときに知り合った天満から電話があって行くと、

「塾を立ち上げるから、一緒にやらないか」

 と持ち掛けられた。

 天満は、塾の講師が面白くて大学に行かなくなった末に中退して、確か、塾長に請われてそのまま正社員になっていたはずだった。

「今の塾はだめだ。これからは、誰かが予め用意した正解を導くような思考力ではなく、正解のない問題を解決する、そういう本物の思考力を、子どもらに修得させなければならない」

 教育の世界では以前から指摘されている話だ。

「目先の利益ばかり考えて受験テクニックだけ伝授しているような塾はいずれ衰退する。それが、あの塾長にはわかっていない」

 要は、塾長と仲違いしただけなのだろう。

「我々、教育に携わる者は、新たな道を切り開いていかねばならない。我々の前に道はない。我々の後ろに道はできる。どうだ、一緒にやってくれないか」

 高村光太郎の『道程』の冒頭部を使って熱く語る天満を見ながら、私は高校の現代文の教師を思い出していた。

「《僕の前に道はない。僕の後ろに道はできる。》しかし、現実には、僕の後ろはいつも崖っぷち、だったな……」

 天満は、

「退路を断ってこそ道は開けるんだぞ」

 と拳を振ってみせたが、ほんとうに退路を断って道を開こうとしているなら、〝我々〟ではなく、原文通り〝僕〟と言うべきだろう。

 結局、土曜日の夕方から三時間ほど、私は、中学生の英語と数学を引き受けることにした。


 その天満の塾に、亜弥も講師として来ていた。

 五年前、中学三年の夏になってから入塾した亜弥に、天満が国語を指導し、私は数学を教えていた。亜弥は、他の講師の間でも評判の美少女だったが、家庭に問題があって、それが表情に影を落としていた。いや、その影が余計に亜弥を魅惑的にしていたのかもしれない。

 しばらくして、その亜弥と天満がただの塾長とアルバイト講師でないことを知って少し驚いた。しかしよく考えてみれば、天満のような男だからこそ、亜弥は惹かれたのかもしれない。

 塾の売りである、小学六年生から中学二年生をひとまとめにした、無学年制思考力養成講座、と題する、本物の思考力を養成する授業は、天満塾長が自ら担当した。

 それは、たとえば、天満の創った小説や詩を子どもらに読ませて、そこに記された言葉を手がかりに、さまざまな角度から発想を広げていこう、というようなものだった。もちろん正解はない。誰のどんな発言も作文も天満は認め、さらにそこから疑問を投げかけて考えさせた。

 ただ、残念ながら、天満が考える思考力の養成を塾に求める保護者はそれほどいなかったし、天満の塾が評判になることもなかった。


 翌年、転勤することになって、私は天満の塾を辞めた。

 三年後、念願の開発部に配属となって帰ってきたときに、思い出して天満に電話をかけてみたけれど通じなかった。それで、塾のあった古い雑居ビルに行ってみたら、テナント募集の紙が貼られていた。

「僕の前に、道はできなかったか……」

 呟いて、高校の現代文の教師が、高村光太郎の『道程』だけを語ったのではないことを、私はふと思い出した。  

 魯迅の『故郷』の一節を板書して、

「歩く人が多くなると道はできる」

 と言い、芥川龍之介の『トロッコ』の最後の一文を引用して、

「薄暗い薮や坂に、細々と断続しているのも道だ」

 そんな話をしたあとで、

「さあ、道について、考えたことを書いてみよう」

 現代文の教師が出した課題に、果たして素直に取り組んだ者はどれほどいたのだろうか……


 亜弥と再会したのは、開発部に転属して三年目の冬、次期役員と目される上司の娘と見合いをした夜だった。

 そのまままっすぐ帰宅する気になれず、何となく天満の塾のあった雑居ビルの前に足を運んだときに、声をかけられた。 

「先生?」

「あ、亜弥か?」

 久闊を叙して天満の消息を尋ねたら、

「先生がお辞めになった次の年に、交通事故で……」

 と答えた表情に、暗い影はなかった。

「亜弥は、今、どうしているんだ?」

「小さな塾をやっています。すぐそこ」

 そう言って亜弥が指さしたのは、天満の塾があった隣の、さらに古い雑居ビルだった。

「一人で?」

 それにはすぐに答えず、大きく息を吸ってから、

「先生、手伝ってくれますか?」

 一息に言って亜弥は明るく微笑んだ。

 

 目の前に約束された大きな道がある。

 でも、

「薄暗い薮や坂に細々と断続している道でも、一緒に歩いてくれる人がいれば幸せかもしれない……」

 道について生徒に書かせながら、現代文の教師の口にした、そんな言葉を私は思い出していた。

   

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