どうでも、かまわねえや。

 神林は、コートの襟を立てて待っていた。やや猫背で地べたを睨むような姿勢は、高校のときから変わらない。

 伊勢田に一瞥をくれてすぐ、神林は先に立って歩きだした。

 追いかけて、

「摩耶はどうなった」

 伊勢田は、出迎えに来てくれた礼も忘れて、ずっと気になっていたことを神林の背中に投げた。

 神林は、立ち止まるどころか振り返りもせず、

「死刑だ」

 地面を睨んだまま答えた。


 どんなに重要なことでも、些細なことのように神林は話す。

 高校一年の十二月、期末テストの一週間、神林は学校を休んだことがあった。

 テスト期間が終わって登校した神林に伊勢田が尋ねたら、

「妹が死んだ」

 言いながら、神林は朝食代わりの菓子パンをいつものように食べ始めた。

 そのとき初めて、伊勢田は神林に妹がいたことを知った。けれども、神林は家族のことをそれきり語らなかった。


 死体遺棄で捕まった伊勢田は摩耶の関与を否定したが、摩耶は逮捕された。

「どうして死刑なんだ」

 伊勢田の問いに、運転席でシートベルトを引っ張りながら、

「他に、三人、殺しているんだよ」

 言って、神林はエンジンをかけた。

「何かの間違いじゃないのか」

「二人目は、一人目を殺したときに死体を遺棄させた男で、その死体の処理をさせられた男が、三人目の仏だ」

 車を走らせながら、うんざりしたように神林は言った。

「え? じゃあ、俺がキャリーバッグに詰めて運んだ男は……」

「お前が、四人目……」

 伊勢田は息を飲んだ。

「だったかもしれなかったって、ことだ」

 神林は、交差点をゆっくり右にハンドルを切った。

 

 婚約したばかりの伊勢田が摩耶と知り合ったのは、祝杯をあげようと言った同僚と、二件目に入った居酒屋だった。調子のいい同僚が、酒をこぼしたふりをして摩耶に話しかけたのがきっかけだった。

 しかし、その晩、摩耶を抱いたのは、伊勢田だった。いや、摩耶が伊勢田を虜にした、と言ったほうが正確だろう。

 二ヵ月ほどつき合って、物腰のやわらかい、それでいて自分のやりたいように物事を進めてしまう摩耶の言いなりになってしまった伊勢田は、

「しつこい男がいて困っていたんだけど……」

 クローゼットに隠されていた男の屍骸を見せられて、

「手伝ってくれたら、うれしい」

 と言われた。

 その摩耶のマンションの前で張り込んでいたのが、神林だった。


「高校の現代文で、『灰色の月』、やっただろ」

 唐突な神林の言葉に、伊勢田はとっさに思い出せず、眠そうな眼で運転する神林の顔を見た。

「志賀直哉の小説で、現代文の教師…… なんて言ったかな……」

 伊勢田は、現代文の教師の顔すら思い出せなかった。

 神林も、すぐに思い出せないその名前にはこだわらず、

「その教師が、この『灰色の月』は、戦後すぐの話だが、食うに困らなくなった現代でも、《どうでも、かまわねえや》って、思っている人間はいくらでもいる、って言ってただろ」

 そう言って、赤信号を前にブレーキを踏んだ。

「お前が、覚えていないのは、無理もない。そんなことを思うことなく、育ってきたんだからな」

 いつもの寡黙な神林ではない。

 責められているような気持ちになった伊勢田が、

「いや、俺だって、おかげで婚約を破棄されて……」

 信号が変わって、小さく自分を弁護するように言う伊勢田を黙らせるように、神林はアクセルを踏んだ。

「それを、あの女は取り調べで言ったんだ」

 そこで神林が一呼吸置いたのは、伊勢田の言葉を待っていたからではない。

「椅子の上で膝を抱えて、もう、どうでも、かまわねえやって……」

 伊勢田は、窓外に目を向けながら、それでも摩耶をまだ愛おしく思い出したが、もしかしたら、神林も、どうでもいいやって、思いながら生きているのかもいしれない、ふと、そんな気がして神林の横顔を盗み見た。

 車が走る先の、遠くの山を覆った雲間が一瞬明るくなって、間の抜けた遠雷が一つ鳴った。 

 神林は、もう口を利かなかった。

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The words 二河白道 @2rwr

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