誰一人おれの気持ちをわかってくれる者はない。

 定年延長はしなかった。

 まだ、足腰のしっかりしているうちに、苦労させた妻と温泉に出かけてゆっくりしようと思ったからだ。 

 退職を迎えた日、女子社員から贈られた花束を抱えて帰宅すると、妻はいつも以上に私を丁寧に出迎えた。

「お帰りなさいませ」

「これからは、お前を温泉にでも連れていって……」

「お願いがあります」

 こんな切り口上で妻が私の発言を遮ったことは、私の記憶になかった。

「……何だ」

「別れてください。財産を、もちろん、あなたの退職金も、

 妻は深々と頭を下げて、

「半分いただきます」

 言って、まっすぐ私の目を見た。

 夫の定年退職を機に離婚する熟年夫婦が、もう何年も前に話題になっていたが、まさかそれが我が身に起こることだとは露とも思わなかった。

「いや、お前の気持ちはわかるが、しかし……」

「どう、わかっていらっしゃるんですか?」

「いやいや、どうわかるも何も、お前こそ私の気持ちがわかっていないだろう」

「ええ、わかりません。わたしがあなたの気持ちがわからないように、あなたにもわたしの気持ちはわかりません」


 私は、高校の現代文の教師を思い出した。

 確か、中島敦の『山月記』だった。 虎に変じた主人公、李徴が、旧友におのが身の不幸を語り、《誰一人おれの気持ちをわかってくれる者はない》と心情を吐露するところで、

「誰か、他者の気持ちをわかっている人、あるいは、わかろうとしたことがある人」

 と、現代文の教師は挙手を求めたが、誰も手を上げなかった。

「自分のことは考えるけれど、他者の心情を考えないのが当たり前なら、誰も自分の気持ちをわかってくれないのかと、どうして歎くことができるのか。だとしたら、お前の気持ちはよくわかる、などと安易に口にする者を、我々は信用していいのか」

 この言葉を実感したのは、会社勤めを始めてからだった。

 私の言い分を却下するとき、あるいは不本意な命令に従わせようとするとき、たとえば、左遷を命じたときに、上司は必ず、お前の気持ちはわかる、と前口上を述べた上で、しかし、と続けた。

「お前の気持ちはよくわかる、と認めた上で、しかし、以降で主張を述べる文章構造を、譲歩構文という」

 これも、同じ現代文の教師から教わったことだったが、聴いたときには、受験の知識として知っておいて損はない、といった程度の認識しか持たなかった。

 しかし、私が会社で実践してきたのは、お前の気持ちはよくわかるという枕詞のあとで使う、まさにこの譲歩構文だけだったのかもしれない。あれほど、コミュニケーションの技法を詳述した書籍を読み漁ったにも関わらず、私は妻に対しても、こんな会話術を何度も使ったに違いない。


「応じてくださらなければ、裁判所でお目にかかることになります。今後は、代理人を通じてお話を進めさせていただきます」

 そう言い捨てて、帰宅した私と入れ替わるように、妻はキャリーバッグを持って家を出ていった。だが、妻の実家はとっくに売却されており、一人娘はアメリカに永住している。今さら身を寄せるところなどないはずだから、妻がドアを閉める前に、

「どこに行くんだ」

 声をかけたら、

「しばらく、温泉でゆっくりします」

 そのときだけ、今まで私が耳にしたことがない、女子学生のような明るい声が返ってきた。


 それから五年経って

「一時帰国した」

 と娘から連絡があった。

 留学してそれきり日本に帰って来ることがなかった娘だったから、二十年ぶりの再会だった。

「どうだ、二十年ぶりの日本は。ずいぶん変わっていてびっくりしたろう」

「三年ぶりよ。今までにもときどき帰っていたから、別にびっくりするようなことはないわ」

 妻にそっくりな瞳を向けて、娘は笑った。

「……」

 娘は、言葉を失った私にかまわず、

「ママね、ボケてきちゃったみたいで、一人にしておけないの」

 と切り出した。

「施設に入れるんだけど、保証人だとか入所にかかる費用だとか、パパに任せるね」

 一方的に娘は書類を取り出して説明を始めて、

「私も、年に一回ぐらいは来るようにするからね」

 そう言うとさっさとアメリカに帰ってしまった。


 私は、週に一度、二時間ほど妻の傍いた。ただ、妻にとって私は毎度見知らぬ男でしかなかった。

 娘は、アメリカからいろいろとプレゼントを送ってきていて、約束通り、一年に一度、見舞いに訪れた。

 三年経って、娘が見舞いにきたときに顔を合わせたことがあった。そのとき、妻と娘は親しげに言葉を交わしていたけれど、どうやら、妻と娘の立場は逆転しているらしかった。

「ねえ、あの人、どうしているかしら」

 娘に返った妻が、ふと尋ねた。

「あの人って?」

 問い返されて、

「娘の気持ちなんかわかろうともしないくせに、お前の気持ちはよくわかるって言ってた人……」

 妻はしばらく思い出そうとしていたようだったが、しばらくして、

「誰だったかな…… 忘れた」

 とたんに声を立てて笑いあった妻も娘も、私を一度も見なかった。

 

 

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