私をさらって
十六で俺を生んだおふくろの趣味はカラオケで、十八番は、中森明菜の『セカンド・ラブ』だった。
小学校に上がる前からさんざん聞かされていたから、
「抱き上げ〜て〜、時間〜ご〜と〜か〜らだ〜ごと〜、私を〜さら〜って〜、ほし〜い〜」
などと、意味もわからぬまま、俺はよく口ずさんでいた。
「それ、セカンド・ラブよね」
と、亜季奈が声をかけてきたのは、高校の文化祭の準備をしているときだった。
クラスで芝居をやることになって、大道具係を引き受けた俺は、そのときも、
「抱き上げ〜て〜」
と機嫌よく歌いながら釘を打っていた。
亜季奈は、どこかの森の美女かなんかだったか、とにかく主演女優だった。話の筋はよく知らなかったし興味もなかったけれど、主演女優が王子様に抱き上げられて、いわゆるお姫様抱っこされて幕になるという物語だったそうだから、きっと抱き上げて、という歌に惹かれて俺に声をかけてきたのだと思っていた。ところが、あきな、という名前が同じだったから好きで聞いていた中森明菜の歌だったからだと、つき合い始めてから明かされた。
現代文の授業で短歌をやったのは、たぶん、バレンタインデーの前だったと思う。
「この、河野裕子の『たとへば君ガサッと落ち葉すくふやうに私をさらって行ってははくれぬか』は、中森明菜の『セカンドラブ』と同じ乙女心を歌った短歌で……」
と語りだした現代文の教師は、
「恋も二〜度〜目〜なら〜」
と歌い始めた。
あとで、
「先生、案外うまかったわね」
などと感想を述べながら、紅いハートを象ったリボンをかけたチョコレートを亜季奈は俺にくれた。
今、思えば、、ガサッと抱き上げてさらってくれる男を、亜季奈はずっと求めていたのかもしれない。
亜季奈と結婚して息子を授かってから、ちょうど五年目だった。仕事を通じて偶然再会した、中学時代の旧友を、週に一度の割合で俺が自宅にも招いて酒を飲むようになって半年ほどした、あれもちょうどバレンタインのころだったろうか。亜季奈はそいつと駆け落ちした。
それからひと月もしないうちにおふくろが倒れて、末期の癌が見つかった。おふくろはやめてくれと言ったが、おふくろと幼かった俺を捨てた男に、俺は手紙を書いて送った。
まさかそいつが病院に駆けつけてくるとは思わなかったが、おふくろの臨終には間に合わなかった。
ただ、その男は、黙っておふくろの掛け布団を払いのけると、まだ傍らにいた医師や看護師の制止を聞くことなく、まさに河野裕子の短歌のように、おふくろの亡骸を抱き上げた。
その腕の中にすっぽり収まったおふくろの手は、ずいぶん枯れて小さくなっていた。
二十年経って、
「話がある」
と息子が切り出したのは、これもバレンタインデーだった。
「どうした」
「お母さんが……」
言って息子は俺の様子を確かめてから、
「もう駄目なんだ」
と言った。
高校生になった息子の前に現れた亜季奈と、息子はときどき食事をしていたらしい。そのころには駆け落ちした男とは別れていて、亜季奈は一人で暮らしていたけれど、今年になって入院したということだった。
「お母さんは、知らせないでくれって、言ったんだけど……」
「もう、長くないのか……」
わずかに頷いた息子から視線を外して、俺は天を仰いだ。
仰いだ俺は、おふくろの枯れて小さくなった手を思い出していた。
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