精神的に向上心のないものはばかだ。

 祖父が開いて大きくした病院を受け継いだ父は、私が生まれたときから跡取りと決めていた。小学四年生から、プロと称する家庭教師をつけて、医学部への進学率の高い中高一貫の中学受験を私に強いた。

 ストップウォッチを片手に、計算のスピードアップを図り、速読と解答の時間短縮を試み、

「為せば成る!」

 と、その家庭教師は私を叱咤した。

「精神一到何事かならざらん」

「心頭滅却すれば火もまた涼し」

 といった言葉を好んで投げつける父が見ている前では、私はノートを汚すことに専念した。

 しかし、私は期待に応えることはできなかった……

 だから、高校二年の授業で夏目漱石の『こころ』を音読させられて、《精神的に向上心のないものはばかだ》という言葉が出てきたときには、うんざりして、正直、私は生きているのが嫌になった。

 ただ、私が読み終えたところで、

「精神的に向上心がある、とは、どういうことだろう?」

 と着席した私に問いかけ、

「仮に精神的に向上することが定義できたとして、では、どうして精神的に向上心のない者を、ばかだと断定できるのか?」

 現代文の教師は、そんな疑問をみんなに投げた。

「そもそも、Kは、どうしてこういう信条を持ったのだろうか?」

 小説に登場するKという男は、寺の次男で医者になることを条件に養子にり、養家から学費を出してもらっていたが、医者になるつもりなどなかったために絶縁された人物である。

 現代文の教師の話に、顔を上げて背筋を伸ばした私に気づいた隣席の結美が初めて話しかけてきたのは、その授業後の休憩時間だった。


 《精神的に向上心のない者はばかだ》と言い放つKは、たとい欲を離れた恋でも道の妨げになる、と言うほどストイックに生きていたが、それは、恋愛に疎い自分を隠すための方便だったのではなかったのだろうか。

 結美と同じ大学の医学部に進学して、私はそんなことをふと思った。

 高校でも結美に言い寄る先輩や同級生は少なくなった。キャンパスでも、男子学生と親しげに歩く結美を見かけることがあった。そんなとき、結美は、遠くから私に軽く手を振ることもある一方で、近くをすれ違うときには必ず私を無視した。同じ講義を受けるときには、最後列の窓際に陣取って私はいつも結美の後ろ姿を眺めていた。でも、結美が教室の後ろを振り返ることはただの一度もなかった。

 二年生になってすぐに、

「ねえ、みんな、どうしているかな」

 と話しかけてきた結美は高校のクラス会の企画を私に持ち掛けた。

 私が幹事になって、結美は事務局長として連絡係を受け持つ。夏休み、お盆の前に、適当な場所を、できれば高校の近くに見つけて…… 

 学食でそういった打ち合わせをするたびに、結美は、私の目を見て楽しそうに話していた。けれど、他の男子学生が私たちの間を割って話しかけてくると、結美は私を置いてその男とも話を弾ませていた。

 そんなときに、医者になるための勉強を疎かにはできない、と自分に言い聞かせていた当時の私の心境は、Kと同じだったかもしれない……

 精神的な向上心など欠片もなかったけれど、何かを犠牲にして、たとえば、恋愛だとか遊びだとかには見向きもしないで医師になるための勉強をしている、という方便によって、私は自分の弱点を、周囲はもちろん自分自身にも隠していたのだろう。

 いや、Kと同じなら、医者にはなっていなかったはずだ……


 夏休みのクラス会には、クラスメイトが十人ばかり集まり、それから、私と結美は親しくなった。

 三年になって、思い切って進路の変更を父に申し出たとき、父は烈火の如く怒った。それは想定していたことで、どうしても認められないなら、勝手に退学届を出して家を出るつもりでいることを、断固とした態度で私が表明すると、

「お前のために、どれだけ金をかけたか、わかっているのか?」

 と急に怒りを抑えるように父は言いながら、私の額に触れそうなほど顔を近づけて、

「受験で合格点に足りなかったお前の点数を補ったのは、寄付金なんだぞ。留年せずにこうしてお前が進級できたのも、金のおかげだ」


 卒業後、勤務医として大学の系列の病院で経験を積んでから、私が実家の病院に戻った翌年、父は急逝した。

 私は、病院を人手に渡し医師を辞めた。

 勤務医として働くシングルマザーの結美と再会したのは、私が医学部受験専門の家庭教師に身を転じて三年目の春だった。

 小学四年生になった結美の息子は、最初の授業を終えて、

「どうしてお医者さんになりたいの?」

 と問いかけた私に、

「お母さんと同じ仕事だから」

 と毅然と答えた。

 そのとき、

「コーヒーでよかったのよね?」

 入ってきた結美に、

「ありがとう」

 と言いながら、私はコーヒーカップに手も触れずに辞去した。

 私の役目は、彼女の息子を志望校に合格させることだから……

 

 

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