富士には、月見草がよく似合う。
佳苗がほのかに想いを寄せていた翔一郎が知識人であることは、自他ともに認めるところであった。
なんでもよく知っている。会社の近くにどんな飲食店があるか、ということから、社内情報はもちろん、芸能やスポーツの最新ニュース、さらには歴史、哲学、法律、科学といった学問的な知識も豊富だった。
「どうすればそんな知識人になれるんですか?」
新年会の宴席で隣に座った若い女子社員が尋ねたときに、
「俺は、月見草なんだよ」
と翔一郎は笑って答えた。
「月見草?」
「1975年、当時、人気のなかったパリーグの南海ホークス、その四番打者だった野村克也が史上二人目となる600号ホームランを打ったときに、巨人の長嶋や王は向日葵で自分は月見草だって、インタビューに答えて言ったんだ」
佳苗は、高校の現代文の教師が、同じ話をしていたことを思い出した。
「つまり、人気球団のスター選手と違って、自分はスポットライトの当たらない選手だけど、それをバネに努力を重ねてきた。野村が大切にしてきたその精神で、俺もいろいろ勉強してきた、ということなんだよ」
「ふうん…… でも、どうして月見草だったんですか?」
「大宰治の『富嶽百景』って、知ってる?」
「知らない」
「高校で習わなかった?」
と確かめた翔一郎に女子社員は、お面のように固まった笑顔を見せて首をかしげた。
それを見て、得たりとばかりに翔一郎は、
「主人公が乗ったバスの乗客のほとんどが富士山を見ているのに、ただ一人、六十歳ぐらいの女性が、反対側の崖に目を向けていて月見草を見つけた、という内容で、その女性の反骨心に共鳴した主人公が、立派に相対峙する月見草と富士山を並べて、《富士には、月見草がよく似合う》と言ったんだ」
と熱く語った。
女子社員は、
「ふうん」
今度は、気の乗らない相づちを漏らしながら、翔一郎の話の終らないうちに、目の前の唐揚げに手を出していた。
自身を、頭の良くないもの知らずだと思っていた佳苗は、まさか翔一郎が自分を選んでくれるとは夢にも思っていなかっただけに、一緒に暮らせるようになって嬉しかった。
「どうして私を選んでくれたの?」
もっと早くに聞いておくべき質問を、ぽつりと投げかけたとき、
「俺の話をいつも熱心に聴いていてくれたのが佳苗だったからね」
そう言って、翔一郎は、
「つまり、大切なのは、人の話をしっかり聴くこと。傾聴なんだ……」
と語り始めた。
「その傾聴を心得ている佳苗は、だから、みんなに愛されているんだよ」
ただ、その言葉を佳苗は素直に受け取ることができなかった。傾聴ができているのではなく、誰かに語ることができる何かを自分は持っていない、と佳苗はずっと思っていたからだ。
しかし、子どもが生まれると、翔一郎の言葉にばかり耳を傾けてはいられなくなった。だからといって、翔一郎が、赤子のおむつを替えてくれることもミルクを温めてくれることもなかった。
自分の話に耳を傾けなくなった佳苗に苛立ちを隠さなくなった翔一郎は、外で飲み歩くようになった。
その夜、通販で購入して育てていた月見草が花を開いた。
佳苗は、それを玄関に飾った。
「おかえりなさい」
授乳していた佳苗は、そのまま翔一郎を出迎えた。
けれど、酔って帰宅した翔一郎は、最初、月見草に気づかなかった。
出迎えた佳苗は赤子にミルクを与えながら、月見草に目を向けて、
「これ」
微笑んだ。
「何だ?」
「月見草」
「これが月見草か」
「え?」
思わず声が出て、佳苗は翔一郎を見た。
その視線に気づいて、
「月見草というのは……」
と語り始めた翔一郎の言葉を、佳苗はもう聞いていなかった。
あからさまに顔を背けた佳苗に、
「俺の話に耳を傾けない佳苗に価値はない」
翔一郎はそう言い放った。
そのとき、現代文の教師の言葉を佳苗はまた思い出した。
「インタビューから、野村が知識を教養として身につけていることがわかる」
あのときは、教養が何か、現代文の教師が何を言っているのかよくわからなかった。
佳苗は、眠り始めた我が子に笑顔を向けるしかなかった。
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