The words

二河白道

 さよならだけが人生だ。

 高校三年の二学期に、現代文の教師が、

「背徳を教えるのが文学だ」

 と言って、僕らに芥川龍之介の『羅生門』を思い起こさせ、夏目漱石の『こころ』を想起させた上で、森鴎外の『舞姫』を語り始めたときに、これだ、と僕は直観した。

 背徳の文学。

 知と悪の融合。

 その瞬間から、僕は、文学青年を名乗ろうと思った。文学を志したのではない。女の子にもてようと目論んだのだ。

 そもそも僕は女子に人気のある男子ではなかった。ルックスは十人並み。成績が抜群によかったわけでもないし、運動神経は人並み以下。リーダーシップを発揮できる器もなければ、周囲を笑わせる技能も持ち合わせてはいない。といって、ちょっとした悪の香りを振りまいて女の子を虜にするほどの度胸もなかった。はなから、自分にはそんな魅力などない、と自分で決めつけていた僕にとって、 これこそが、女の子を魅了する手管になるものだと確信したのである。


 大学で文学研究会に入部した僕が文学の背徳を語ると、退屈だと思っていた教科書の小説が違って見えたのだろう。

 僕は、何人かの女子学生と稚拙な文学論を交わすようになった。

 前期、最後の受講を終えた日の夕方、クラブハウスに行くと、一人、美乃梨が残っていた。濡れたような、長い黒髪を無造作に束ねただけで化粧っ気のない彼女がなんだか眩しくて、僕は以前から美乃梨に告白したいと思っていた。

 でも、そんな僕の思惑など知らない美乃梨は、

「唐の詩人、于武陵の『勧酒』の結句、《人生足別離》を、作家、井伏鱒二は、《さよならだけが人生だ》って翻訳したのよね」

 そんな話題を持ち出した。

 そのフレーズはどこかで聞いたことがある。

「そうだね」

「それを、詩人、寺山修司が、《さよならだけが人生ならば、また来る春はなんだろう》と二次創作的な詩を作ってから、人口に膾炙するようになったって、知ってた?」

「学校で教えられただけじゃ、面白くもなんともないもんな」

 僕が知ったかぶりをして応じたら、

「そうね、寺山修司だから、それを生きた言葉にすることができたのよね。やっぱり寺山修司は違うわ」

 美乃梨は、神の像に祈りを捧げる乙女のように瞳を輝かせて言った。

 そのとき、天啓のように閃いた言葉を、僕は胸の高鳴りを抑えて口にした。

「さよならだけが人生だけど、僕は君と巡り会ってしまった」


 一年ほど経って、流れる雲に視線を投げてから、

「秋風に吹かれて、雲は冬に向かっていくんだね」

 そんな台詞のあとで口づけをするようになった文学青年もどきの僕に、美乃梨は急にアメリカに留学すると言いだした。

「え? どうして?」

「どうしても」

「語学留学?」

「……」

「じゃあ、僕は待っているよ」

「いつ帰ってくるかわからないわ。もしかしたら、もう日本には帰ってこないかもしれない」

「そんな大げさな」

「大げさじゃない。ほんとうよ」

「だったら、僕はずっと美乃梨を待っているよ」

 それが文学だと思って笑顔を向けた僕に、

「寺山修司、覚えてる?」

 不意に美乃梨はそう言った。

「え?」

「さよならだけが人生だ」

「もちろん、覚えているよ」

「私もそのあとを考えたの」

「なんて?」

 そのとき、僕はまだ文学の〝ぶ〟の字も知ってはいなかった。

「さよならだけが人生だから、あなたは私を忘れていいのよ」


 文学とは、人間を、人生を知る手段の一つである。

 背徳、というよりは、人生に待ち受ける残酷な事実を教えてくれる。

 文学が女の子を魅了するのは、その本質である。似非文学青年の文学論が、その手管になることはない。

「さよならだけが人生ならば、僕は独りで生きていこう」

 そう悟って生きていた僕は、しかし、再び美乃梨と巡り会ってしまった。

 そのとき、彼女は真っ白になった長い髪を無造作に束ねて車いすに乗っていた。

 名字は違っていたけれど、新しく入ってきたその利用者の名前を確かめたときに、僕は美乃梨だと思った。けれど、現在の自分の状況を彼女はよくわかっていないらしかった。

 それでも、テラスから遠い山を眺めている彼女に、

「こんにちは」

 と話しかけた僕を、彼女はひどく罵った。

「とっくに死んだ連れ合いと間違えているんです」

 付き添っていた女性の、申し訳なそうな言葉に、僕は思わず天を仰ぎ、でもすぐに美乃梨の瞳をまっすぐ見つめて、

「さよならだけが人生だけど……」

 と言ってみた。

 彼女は、遠い山にまた目を向けて、もう僕を見なかった。

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