咳をしてもひとり

 勤めていた会社の業績が振るわなくなって、寺田は、非正規雇用社員の何人かに契約の打ち切りを言いわたしたことがあった。

「要は、多角化に失敗した経営のツケを私たちが被るということですよね」

 確かに、創業者が退いて代替わりした経営者が事業の拡大を急いだことに原因の一端があることは否めなかった。

「この歳でここを追い出されたら、他に勤めるところはありません」

 特に古くから精勤してくれていたパート社員は、悲嘆と困惑を隠さなかった。

「どうして、他の誰かではなく私なのか」

 憤りを露にする者も少なくなかった。

 寺田が、どんなに現状を説明しても、契約を打ち切らざるをえない理由を並べても、納得してくれる者はいなかった。切々と訴えようが事務的に話を進めようが、そういった感情を、寺田は容赦なくぶつけられた。

 その中にあって、ただ一人、解雇を超然と受け入れて去ろうとした男があった。

 寺田は不思議に思って、

「最後に何か言っておきたいことはありますか?」

 と、うっかり聞いてしまった。

 すると、

「非正規雇用で生きる人間の鉄則その一、組織を信用するな」

 彼はそう言って立ち上がると、静かにドアを開けて振り返り、

「お世話になりました」

 一礼してくるりと向けたその背中に、

「鉄則のその二は……」

 思わず投げかけそうになった言葉を、寺田は危うく飲み込んだ。


 それから順調に管理職になって数年して、再び業績が悪化したときに、寺田は上司から早期退職を勧められた。

 会社への忠誠が裏切られた……

 そう覚ったときに、ふと、あの鉄則を思い出した。非正規雇用に限ったことではない。寺田は、早期退職の募集に応じて独立を図った。

 そのおり、寺田は子飼の部下の何人かに、

「ついて来ないか」

 と密かに声をかけた。しかし、誰も寺田に従う者はいなかった。

 もちろんショックはあったが、そのとき寺田は、自分が勘違いしていたことに気がついた。

 組織があって、はじめて部下はついてくる。

 そんな当たり前のことを改めて思い知ったが、組織の肩書きを失った寺田は、結局、事業に失敗した。

 妻も、娘を連れて出ていった。

 

 最初に俳句を学んだのは、小学校だった。

「季節を感じさせる言葉を入れて、五七五の枠にはめれば、誰にでも簡単に俳句は作れる」

 そう言って提出させた子どもたちの俳句のすべてを、若い教師はすべて絶賛した。

「枠に入れればいいんだ」

 ところが、中学校で尾崎放哉や種田山頭火の俳句を鑑賞したときに、無季自由律俳句があることを知った。

「季語がなくても五七五でなくても俳句……?」

 そのときに思ったのは、

「先に枠が決まっていても、あとからそれを壊すものが出てきたら、それも認められるんだ」

 ということだった。

 高校生になって再び山頭火に触れたときに、

「大切なことは、その心情を表現することだ。それができれば、季語だとか五七五だとかいった枠にこだわる必要はない。たとえば、この《咳をしてもひとり》という俳句には、山頭火の孤独がある」

 現代文の教師がさらに山頭火の人生を語り、

「ただし、孤独を知らない者にそれは実感できない」

 と言ったところで終業のチャイムが鳴った。

 高校生なら、孤独は知っている。ただ一人流浪に生きる山頭火が、咳をしても風邪をひいても、誰も頼れない不安を抱えていることも理解できた。

 それだけに、

「孤独を知らない者にそれは実感できない」

 と言った現代文の教師が、どういうことを伝えようとしているのか、そのときはよくわからなかった。

 だから寺田は、無季自由律俳句のように、枠から外れたいと思っていたのかもしれない……


「あのとき、非正規雇用で生きる人間の鉄則の、その二や三を聞いておけばよかったかもしれない……」

 非正規雇用社員として働きながら五十歳を越えた寺田は、夜勤を終えて帰宅した朝、誰の目にも触れない俳句を、狭いアパートの一室で缶ビールを飲みながら捻っている。  

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