第3話
50間近の中年太りの刑事である。
刑事といっても、けして正義と秩序にその身を捧げる崇高な公務員などではない。
暴力的に犯罪を撲滅するタイプでも決してない。
端的に、その男は悪人であった。
数年前、N市で些細な事件が起きた。
小さな殺人事件である。
市で活発に動いていた再開発事業。
その反対派勢力急進派に位置する記者の男であった。
男の死は地元にいる暴力団組織の下っ端によるものであり些細な喧嘩の延長線上に起きた事件という形でこの事件は幕を閉じた。
だが、真実は違う。男はとある人間にとって不都合な真実を知り、それを公表しようとしていたのだ。
そのために口を封じられた。
犯行は確かに地元暴力団によって行われたが、動機が違うのだ。
それを探られないために動き、早期の幕引きを図ったのがこの太川という刑事である。
そして現在。
太川は定期的な地元暴力団組織の会合に顔を出し、いつものように金を受け取り、うろちょろしているチンピラを適当に殴り倒したあとで夜の町で飲み明かし、夜明けごろに町中をブラつくという真似をしていた。
出勤するかどうかはまだ決めていないが、さてどうするかというところで太川はある人間の姿を目撃した。
―――北条の倅だ。
脳裏によみがえるのは数年前のこと。
口封じで殺されたかつての反対派記者と組んでいた、うだつの上がらない町工場の男のことだ。
記者の男が死んでも、無様に再開発反対なんて続けていたのでチンピラを何匹か差し向けたら勝手に踊って勝手に死んだあの男。
当時まだ餓鬼だったあいつ。慥か葬式の席で見たんだったか。
随分とでかくなったものだ。
夜遊びか何かの帰りなのだろうかと考えて、大川は踵を返した。
少なくとも現時点での自分には関係のないことではあった。
少なくとも、現時点では。
7月29日
「何見てんの?」
コンビニの窓際。些々はそこの柱をじっと見ていた。
「うん。これ」
彼女はそこに貼られているポスターを指さす。北条はレジから離れて、些々の傍に近づいた。
初めて会ってから一週間ほどたって、些々も北条に怯えたり会話に鈍りが出なくなってきていた。
それが北条や久遠さん等に対してのみ特別なのか、それとも今まで外を知らなかった彼女が急速に成長しているのか。
どちらかわからないが、北条にとって些々の変化は嬉しいと感じられるものだった。
「……旅行?」
窓際の柱に張り付いていたのは江の島旅行のポスターだった。
画素の荒い海の写真に安っぽいフォントで何やら『今だけお得!』とか『一生の思い出!』とか安っぽいことを書いてある。
「何? 行ってみたいの? 江の島」
「……わかんない」
些々は自信なさげにそう答えた。
けれど目を伏せることはなく、その安っぽいポスターから目を離さなかった。
「海、みたことないから」
「まじ? ちょっと行けばすぐ見えんじゃん?」
些々はふるふると力なく首を横に振るった。
その意味がよく分からなくて北条は首をかしげる。
「んぁ、まあここら辺の小汚いしょぼくれた海何てみてもしょうがねえしな」
ということで納得することにした。
「江の島、おれは一回だけ言ったことあるぜ」
「そうなの?」
勢いよく些々が振り返る。
長い髪がたなびいて、びたびたって北条に当たった。
「あ、ごっ、ごめん」
「いや別にいいけどよ、髪切れよな」
「ごめんなさい……バイト代出たら、ハサミ買うから……。で、でね……その、さっきの話なんだけど……」
床屋行けよ。とツッコミを入れようとしたらその前に遮られた。
「さっきの話……あぁ、江の島に入った話か?」
うんうん。と些々は頷く。
「つっても随分ガキの頃だったからなぁ。親父に連れられて、めっちゃ電車に揺られてな。海と空がきれいなのはいいんだけど、何つーかそれ以外面白いもんなんてなくって……」
そんな言葉を垂れ流しながら、北条は漠然とポスターを見ていた。
随分古ぼけてしまった記憶だった。
彼の父親は大した男ではなかった。見栄をよく張り、酒をよく呑み、たばこもやめられない。
仕事だってうまくはないし、父親らしい威厳もなかった。
父親らしく見栄を張りたかったのだろう。半ば強制的に連れて行かされた記憶がある。
面白いものが何かあった記憶はない。父親の歩く姿はなんだかみっともなくて観光客の中でもよく目立った。
ただ、海と空がきれいだったことしか、憶えていない。
「……まあ、きれいな場所だったんじゃねえの? よく覚えてないけど」
「へぇ、……ねえ、どこにあるの? この海と空」
「あー、そうだな。南のほう。電車に乗っていくんだよ、あっちのな」
北条は窓とは反対側の方角を指さした。
その方角には駅がある。些々がいつもベランダから見ていた、知らないどこかにつながる路線。
「あの駅から本線に乗って近場のS市に行くんだよ。そこで乗り換えてさ、……なんだっけ? シンカンセン? っていうのに乗るのが最近の流行らしいんだけど、まあ普通に電車を乗り換えて、東京に向かうんだ。で、そこから大体、品川、川崎、横浜を通って、藤沢ってとこに言って江ノ電っていう電車に乗るんだ。すると江の島に行ける」
思っていた以上にすらすらと言葉が出てきた。意外とおれは覚えているのかもしれない親父の思い出を。
「って、口で言ってもわかんねえよな」
「ううん。そんなこと、ない、よ?」
「そう?」
「うん。聞いてて、、知らない言葉が、たくさんで、わくわくした……わたし、本当に、何も知らないんだ」
「何も知らないってなにさ?」
「しらない、よ。海のことも、ここ以外の空も、電車や線路に名前があることも、知らなかった。ううん、わたしね、ここで働くって決めた時が、たぶん、初めて自分で何かを決めた時だったの。アルバイトの仕方だって、わたしは知らなかった」
どうしても知れないことが、たくさんあることを知った。
「それは、北条くんのおかげ」
些々がそういって笑顔を見せた。
それがなんだか眩しくて、北条は目を細めた。
もっと、いろんな知らないことを知りたいって思うようになった。
そう、彼女は言った。
※
その日も北条は些々を言えまで送って、それから帰宅する。
だが、その日は今までとは違った。知った顔の男が目の前にいたのだ。
どこか浮つきを帯びていた北条の表情が険しいものになる。
「お前、何の用だよ……ッ⁉」
「ご挨拶じゃねえか北条の倅よ。俺は忠告しに来てやったんだぜ」
彼はその男を知っている。子供の時に何度か見て知っていった。
碌でもない連中とつるみ、親父を死に追いやった悪徳刑事……太川だった。
7月30日
長い髪から垂れる汗が目に染みる。
しばしばと盲いでしまう。
髪を切ったほうがいいのかなと、宵闇の窓辺に写った自分の姿を見ながら些々は思うのだ。
長く淡い髪が顔のほとんどを隠してしまっている。
今までは特段の不便を感じることはなかったけれど、外を歩くときに、この髪が邪魔だと気付いた。
アルバイトをしたらお金が出るというから、その時にハサミを買おうと思う。
そうして髪を切るんだ。
髪を切ったら、自分の姿がどう変わるのかは、まだ全然想像がつかないけれど。
その日は、一日母親が家にいない日だった。
どこか遠くへ行っているらしい。お金の入る日だから明日まで戻ってこないといっていた。
だから些々はその日、こっそり家を出た。
夜ではない時間。太陽がまだ昇っていて、蝉が鳴く、夏の匂いがする。
家から出て、アルバイト先とは違う方角に出てみる。
一歩一歩、足の裏でアスファルトを踏みしめるように。
歩いた道や景色を狭い視界の中に焼き付けるように。
燦燦と降る日の眩しさも、濃い緑色に染まる木々の葉も、どこかの子供の泣き声も。
あとは、古びた市長のポスターとか。
家の割と近くに理髪店があることとか(金銭的にいけないとは思うけれど)。
そういうものがあることを初めて些々は知った。
それだけで、なんだかふわふわするような気がした。
駅のある方角とは反対側に向かうと、小さな山がある。
町はずれにぽっつりと取り残されたかのような小さな山だ。
そこは市民のハイキングコースなどではなく、私有地だ。N市の市長が個人的に所有している場所で、山の周辺にはバリケードがぐるりと囲っている。
些々のお散歩はそこで行き止まりになった。
少しつかれたし、ちょうどいいころ合いだったので些々は家に戻ることにした。
来た道はしっかりと覚えていたから、間違えることはなかった。
家の扉を開けて、中に入る。服を脱いで軽く汗を流す。
しばらくして、そろそろアルバイトの時間だなって服をまた着た時。
誰かが扉を開ける音がした。
※
バイト先のコンビニの裏にあるパイプ椅子に座って、北条は天井を見ていた。
古びて薄汚れた天井は沁みだらけで、なんだかそういう儀式でもあったんじゃないかって感じすらする。
そんな見慣れた天井を見ながら、彼は夜明け前のことを思い返していた。
太川から聞かされた些々のこと。それはまあ一市民的にはそれなりに衝撃的なスキャンダル話ではあった。そして当然、太川から口止めはされている。
『俺がお前にこの話をするのは貴様が顔見知りで、訳も分からずとんでもない地雷を踏みに行きそうなのがあんまりに哀れなのが理由だ。まあそれだけではないが……。あと、マスコミにこの話を流しても無駄だぞ。連中はあの人の手の内だからな』
ふらふらと夜が明けない道を帰宅して、北条は帰宅した。
帰ると母親と妹はまだ寝ていた。父親が死んだあと、……否、その前からほとんど女手一つで家を切り盛りしていた母親だった。40を目前にして、その顏は皺だらけで老婆のようにすら見える。
その傍らに眠る妹はまだ小学生になったばかりだ。
言葉や頭が周囲よりすこしばかり遅れていて、まだ心配だ。
夜が明けて、二人が目覚めるまで、北条はその傍らで座りこくっていた。
そのことを、思い返している。
「北条さん。もう出勤時間ですわよ」
「え?」
壁にかかる時計を見たら本当だった。
「あれ? でも、」
大体いつも些々が来る時間らへんが仕事開始の準備にちょうどいいのだが。
「ええ。裂咲些々さんがまだいらしていません」
「……初めてですよね。欠勤って」
「ええ。連絡もありませんでしたし。いかがいたしましょうか?」
久遠さんがそう北条に問いかける。
そのまなざしは、、やはり何を考えているのかわからない。
「いかがいたしましょうって?」
「北条さん。少し、様子を見てきていただけますか?」
「え?」
「裂咲些々さんのお宅はご存知です?」
「え、ええ、知ってますけど」
「では、少し尋ねてみてくださいまし。バイト代は出しておきますから」
「しかし……」
「北条さん。顔に心配だって書いてありますわよ。ワタクシは別に構いませんが……いかがいたしますか?」
「……」
久遠さんの真意は見えない。
ただ、胸騒ぎがするのは事実だった。
「じゃ、じゃあ、ちょっと様子見てきます。欠勤理由ちゃんと聞いてきますから」
「はいはい、ですわ」
北条はコンビニの制服から私服に着替えるとコンビニを飛び出した。
※
夜になる道をかける。
厭な汗が頬や首に伝うのを北条は感じていた。
昨日の太川のいやらしい貌や声音が頭の中で乱流している。
―――あの小娘は市長の娘だよ。
うちの市長はすごい方でね、もう何十年もこのさびれた町の裏も表も支配している。
再開発事業だってあの人の一声で始まったもんだ。
だが面倒な過ちを犯した。くそみてえな売女を孕ませちまった。
表沙汰にしちゃあいけねえことだよな。そう、あの小娘は世間に出しちゃいけねえんだ。
売女に毎月金を出す。その代わり学校以外であの娘の存在を公にすることは許さない。
まあ市役所にばれて学校に通わされているが……それだけだ。
そんな小娘がなぜ家の外でまして、お前みたいなチンピラと歩いてやがる。
しかも朝帰りと来た。
あの小娘はあのボロアパートにあの女のもとで閉じ込められてなきゃいけないんだよ。
永遠にな。
そもそも生きていられて学校まで通うことを許可されてるのが一体どれだけの慈悲だと思っているのか。
このことが市長の耳に入れば大変さ。ああ大変だ。
あの人は自分の下にいる人間を支配できないということが大嫌いだからな。
あの小娘も、アレの母親も。関わりのあったお前やその家族や職場の人間も。
ひどい目に合うぜ。やくざともかかわりのある人だからな。何するかわからんぞ。
まあ自分でやる人でもあるが……。
そんなわけだ。忠告しておいてやる、アレに近づくな。
な? ―――
ふざけると太川を殴りたかった。
市長のもとに殴りこんでやりたかった。
けど、できなかった。握りしめた拳が気づけば解けていた。
いつのまにか太川は消え、帰宅していた。家族の姿をずっと見ていた。
そんな今朝。
「確か、ここだよな……」
北条は彼女がいるアパートについていた。
遠くはない距離のはずが、いやに汗をかいている。
ぼろいアパートだ。たしか些々は二階の一番端の部屋。
扉の前に立つと、中から物音が聞こえた。
ばたばたと、暴れまわるような物音だった。
耳を扉にくっつけると確かに、些々の悲鳴と知らない女の怒声。
人が人をぶつ音だった。
「おい! おい! 開けろ!」
北条は薄い扉をたたいた。扉を叩きつける音が虚しく響いた。
「くそ!」
ドアノブに手をかける。―――開いていた。
北条は家の中にはいる。
案の定、知らない女――多分、些々の母親だろう――が些々に馬乗りになって殴っていた。
自分でも知らない自分の声を北条は聞いた。
もみ合いになった気がする。
激しい言い合いにもなった気がする。
そこら辺の記憶は曖昧で、多分、自分は裂咲些々の母親を殴ったのだろうという感触が手の甲に残っている。
部屋の隅で蹲り鳴いている女に今日のことを口外したらどうなるのかをできるだけわかりやすく警告した後、北条は些々の傍に近づいた。
険しい表情の北条とは対照的に些々はどこか不思議なものを見る貌をしていた。
「どうして、北条くんが?」
ここにいるの? と聞いてきた。
北条は一度、唾を大きく呑み込んでから。
「お前が、バイト……来ないから……心配で……」
「うん。ごめんなさい……いけなくなっちゃって……」
「いや、……いやそれはいいんだ。……それはいいんだ……。なぁ、裂咲、大丈夫か? ぶたれてたろ? なんで……?」
「今日ね、お昼の外に出たの。お母さんがいなかったから……。でも、知ってたの」
「…………」
「わたし、悪いことしたのかな?」
「……そんなわけ、ないだろ」
「そうなの?」
「そうだよ。おれだって休みの日はいつも勝手に出歩いてる。勝手に外に出て、てきとーにぶらついて、ひとりで電車にのって、こんなところより大きい街で買い食いとかしてるんだ……」
「じゃあどうして、わたしはだめなんだろう」
それは、些々にとって本当になんてことのない言葉だった。
ただ、ふと思ったことが口からこぼれただけのような、本当に何でもない言葉だった。
それだけの言葉で、北条は蹲るように呻くのだった。
それから、些々がバイト先に戻ることはもうなかった。
8月1日
八月が始まって、夏の真ん中が近づく気配がした。
部屋の窓から差し込む光がやけに眩しいのは、それが夏の日差しだから。
蝉が鳴いている声がしている。
一週間しか生きられない命が鳴いている。
蝉が必死に鳴くのは、一週間しか生きられないことを知っているからなのだろうか。それとも、寿命何て関係ないのだろうか。
そんなことを些々は考えた。
「……ううん」
変なことを考えるのはやめよう。
そう考えて、些々は瞼を閉じる。
頭を使うと、どうしても外のことを考えてしまう。
北条くんに告げたバイトをやめる旨のことや、外を歩いた昨日のことや、向かう先のしれない電車のこと。
どうして、自分がそういうことを赦されないのかを彼はぽつりぽつりと溢すように教えてくれたけれど、些々にとってはぴんと来ない話だった。
もっとしていたいことや、もっとやってみたいことや知りたいことがたくさんできてしまったのに。
でもそれを
瞼をすり抜けるように日差しが差し込んで、眩しい。
8月2日
今日も何もない一日だった。
8月3日
今日も何もない一日だった。
8月4日
今日も何もない一日だった。
※
何もない一日が続いた。
母親はやけに家を空けることが多くなったけれど、いてもいなくても何もしないことは変わらない。
それは今までと同じ毎日だ。
おなじ毎日のはずなのに、その日々の渇きをあまりにも強く感じてしまう。
おなじ毎日のはずなのに、苦痛なくらいに退屈で。
おなじ毎日のはずなのに、窓の外の景色にどうしようもなく焦がれてしまうのだ。
それはきっと、知ってしまったからなのだ。
すこしでも知れないことを知ってしまったから。
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