第8話

 埃が目の奥に入って、陽の光がまぶしい。

 しばしばと、盲いでしまうのはどれだけ久しぶりだっただろう。

 長かった髪を切ってから、ずいぶんと見えている景色が変わっていった。

 髪を切るだけで、どれだけ自分が不確かになるかなんて、今まで考えても来なかった。

 もしもまた髪が伸びて、前と同じ長さに変わったら、自分もかつてのように戻るのだろうか。

 そんなことを考える。答えは出ない。

 瞼を閉じる。

 目の奥に埃が入っていたせいか、すこし痛い。

 抱えた花束の香りが顔を覆う。

 夕陽は閉じた瞼をすかすように輝いている。

 電車は微かな振動とともに進み続ける。

 江の島に行って買った、お守りと花束。実はひっそりと貯めていたお金で買ったものだ。


 今朝がた、些々はマリカと最後に朝食をとって、ふたりで玄関先から行ってきますを言って別れた。

 夏の間、ずっと遊んでいた二人だったけれど、お別れは実にあっさりとしたものだった。

 じゃあねと彼女が手を振るから、些々もじゃあねと応えた。

 これでもう会うことはないのだと、二人ともなんとなく察するものがあった。

 彼女を見送った後、些々は江の島に渡ってお守りと花束を買った。

 彼女がいないあの家において、また旅立つつもりで。

 なんというか、そういうものらしいと誰かが言っていた。

 空と海がきれいな場所で、人がたくさんいる場所だった。

 北条くんの言っていた通りだなって、彼のことを思い出す。

 

 やがて、電車は折り返しの終点。

 電車を降りて、歩き出す。

 思えば遠くに流離ってきた。

 思えば随分と彷徨ってきた。

 シオンの花束を抱えて、海沿いを歩く。

 遠くで夕陽が暮れていく。8月31日。

 

 些々は、一歩一歩ゆっくりと歩いた。

 足の裏を劈く痛みも、新しい過去の証だから。

 

 歩きながら、不意に陽の光がひときわ眩い瞬間があって、


 ――自分が刺されていることに気づいた。


「…………」

 見下ろすと、母親がいた。

 自分がかつていたあの町において来た人がいた。

「……どうしてよ」

 母親は言う。絞り出すようでいて硝子を爪で引き裂くような声だった。

「どうしてよォッッッッ!」

 刺さったナイフが抉られて、もう一度刺される。

 口の中に血の味がするのを飲み込んで、些々は母親の手元を抑え込んだ。

 もみ合いで行方のふらつくナイフの切っ先は母親の首を切った。

 母親が倒れた。

 その記憶よりもずっと小さな姿を一瞥すると、些々はふらふらと歩き出した。



 陽が暮れていく。

 暗く、寒く、なっていく夜を歩いた。

 浜辺には誰もいない。

 砂の上に、彼女は倒れた。

 暗く、冷たい。

「こんにちは」

 ふと、聞きなれた声が聞こえた。

「……久遠、さん……」

「はい。お久しぶりですね」

 久遠廻音さんは穏やかに微笑んで、倒れた些々の傍にしゃがみ込んだ。

「裂咲些々さん」

 久遠さんが言った。

 甘い雪のような声だった。

「もう、九月一日です。夏は終わりましたわ。些々さん」

 ああ、思う。

 道理で風がこんなに冷たいんだ。


 不意に、久遠廻音さんが些々の頬に手を当てた。

 気が付けば青空だった。

 どこまでもどこまでも澄んだ青空だった。

 吸い込まれそうなくらいの蒼に、まばらに千切れた雲が流れていた。

 ああ、遠い空だ。

 綺麗だな。

「些々さん。夏休みは、楽しかったですか?」

 久遠さんの言葉。

 それに些々は確かに答えた。

「はい」

 どこか遠くに風が流れた。

 宙に舞ったシオンの花だ。。

 蝉の声は既に途切れ、青空には鳥が飛んでいた。


 彼女の夏が終わった。

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久遠廻音さんの収集2  葉桜冷 @hazakura09

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