久遠廻音さんの収集2 

葉桜冷

第1話

 夏が終わる。

 彼女の夏が。

 ただ、静かな海の潮騒だけが、彼女の終わりを告げていた。

 そんな、夏の日のはなし



7月16日


 うっとおしい蝉の声が安アパートに響いていた。

 網戸に引っ付いている油蝉がないているのだ。

 あと一週間もすれば死ぬくせに、全霊でいのちを叫んでいる。

 そんなちっぽけな虫を死んだ目で14歳の裂咲さくざき些々ささは見ていた。

 化粧の落ちた、荒れた肌に汗が伝った。無意味に長い髪が頬に張り付いていずい。

 夏の不快感が彼女に纏わりついていた。

 手近にあった目覚まし時計を手に取る。100円の軽さが手に沈んだ。

 些々はプラスチックの時計を振りかぶり、網戸に投げた。

 ジジッ、と蝉の断末魔が聞こえる。

 蝉の声がしなくなった。


 そんな妄想をしている。

 実際の所、些々は時計を振り上げるところまではしていた。

 けれど、振り上げたその手を結局は振るわなかった。

 些々にとってその蝉は邪魔だった。五月蠅くて煩わしい。

 けれど、蝉は叫んでいた。生きていると叫んでるようだった。

 夏の日差しが眩しかった。それが目に痛くて、泣きそうになった。

 ひどく、センチメンタルだ。

 些々は座り込んで蝉を見ていた。

 蝉はないていた。

 不意に黒い影が窓辺に突撃してきた。

 烏だった。黒い影は蝉を劈いた。

 断末魔さえなかった。次の瞬間にはカラスはいなくなっていた。

 些々は網戸を開けてベランダに出た。

 蝉の命の名残はなかった。

 アパートのベランダからは電車が見えた。

 なんとか、という路線がどこにつながっているのかを些々は知らない。

 ふと子供のころから、よくベランダに締め出されていたことを思い出した。

 夜の闇の中に、街明かりがあって、その中を一条の線のように電車が走っているのを幼い頃からずっと見ていた。

 あの電車がどこへ向かうのかをずっと空想していた。

 そんなの、わかるわけがないのに。

 だって些々は電車に乗ったことがないから。

 だって彼女はこの小さい町から出たことがなかったから。

 日差しに雲が陰った。

 浅い靄のような情景の中に手を伸ばした。

 ベランダから身を乗り出して、伸ばしてみる。

 当然のようにそのてはどこにも届かなかった。


 そんな惰性みたいな一日だった。それは平和で無意味な一日だった。


7月17日


 朝方に母親が帰ってくる。

 何度か罵倒とともに扉をたたいた後でカギを開ける。

 その音でいつも些々は目を覚ます。

 酒臭い母は靴を脱ぐとドタドタと部屋にあげって眠りこける。

 些々は崩れ落ちるように眠った母親をしり目に制服を着る。

 しわくちゃになっているそれをどうにか指でなおす。

 朝食に冷蔵庫からパンの耳を取り出して食べた。もさもさとした味がした。

 玄関からでると、湿度の高い暑さがあった。

 今年の夏はやたら早かった。



 学校では誰かが誰かを呼んでいる。

 それは、少なくとも自分のことではない。

 たくさんの雑踏。たくさんの雑音。たくさんの音がたくさんの中に埋もれている。

 少しだけ、息が苦しい。

 授業中、些々は窓辺で空を見ていた。

 先生のいっていることを些々はよく理解できないでいる。

 彼女はあまり、頭のいいほうではなかった。

 小学生のころは頑張ってわかろうとしたけれど、「わからない」が積み重なって、先生は、いつまにかやさしい人から宇宙人になっていた。

 いつからか、些々は授業中に教卓ではなく窓辺を見るようになっていた。

 入道雲が伸びていて、青く塗りつぶされた空の画用紙に白を重ねている。

 鳥が飛んでいた。

 群れの鳥が飛んでいた。

 綺麗に列をなして、飛んでいた。

 ああ、いいな。

 って思う。


 いつの間にか、午前中の授業が終わっていた。

 給食の時間だ。それは些々にとって学校に来る理由の割と大きいやつ。

 前にクラスメイトの誰かにそんなことを言ったら、「なにそれ、食いしん坊みたいじゃない」と笑われた。

 そうかなぁって、その時些々は曖昧に笑った。

 給食が、些々にとって唯一おなか一杯になれる時間だったから。

 それを幸せだと思ったのだ。

 確かにそれって食いしん坊かもしれないって、些々は思う。

 そのクラスメイトと会話することは二度となかったのが、ちょっと寂しい。

 

 

 ガシャン。

 音がした。

 些々の机にあった食べかけの給食が落ちたのだ。

「あ、ごめん」

 じゃれあっていた男子がぶつかったのだ。

「悪い、大丈夫か?」

「あ、……う……」

「?」

 申し訳なさそうに、その人は聞く。

 些々はうまく返答することが出来なかった。

 どうしても、うまくその人と目を合わせることが出来なかった。

「あ、う、…………ぅぅぅ……」

 そんな呻くような声を出してしまう。

 結局、零れてしまった給食はその男子が片付けてくれた。

 些々は、申し訳なさそうにその様子を見ていた。

「別に、オレが悪いんだし」

 と、その人は言っていた。

 ゴメンナサイも、言えなかった。

 それにおなかもすいた。

 おなかをすかせたまま午後の授業が始まって、そのまま学校が終わる。

 いつもはわからない嫌な視線が、今日だけは感じられてしまった。

 すごく、息が苦しかった。


 

 長い帰路を辿り、アパートの扉を開けた。

 家の中に入ると些々の母親が些々をぶった。

「アンタ! またアタシの化粧品勝手に使ったでしょ! このクズが!」

 何度かぶたれた。

 母親は髪を振り乱しながら半狂乱。

 化粧品の残雪が舞った。

 本当は昨日、母親が必要以上に使ってしまったことを酒で忘れているだけ。

 でも母親は些々が使ったと思っている。

 昔、彼女が興味本位で母親の化粧品を使ったことがあったから。

 それきり些々は一度も母親の私物に触れてはいないけれど、母親はそうは思っていない。

 

 黙って些々はぶたれてた。

 母親の力は別に強くない。

 だから別に痛みはたいしてない。

 けど痛かった。

 やがて母親は叩きつかれて、泣きだした。

 そして、些々を抱きしめるのだ。

 泣きながら、母親は些々を強く強く抱きしめた。

 些々も、母親の背中に手をまわした。

 母のぬくもりは、昔のままだった。

 昔からずっと変わらないものだった。


 母親は仕事に出かける。

 それを見送った些々は、洗面台で髪と体を洗い、ぶかぶかで灰色の服を着て、転がっている毛布で体をくるんだ。

 窓辺に夜光が見えた。

 青白い微かな光が些々の顔を照らした。

 零れる夜光を見ながら、些々はうとうとと微睡む。

 

 いつもの些々の一日が終わった。



 金が欲しいと、北条ほうじょうは思っている。

 夜の街、彼は普段住んでいるN市から電車に乗って隣のそれなりに大きな都市に来ていた。

 友人たちとカラオケ大会を繰り返し、ファミレスチェーンで一通りバカ騒ぎをして、電車に乗って帰宅しようとしていたら財布が空だったのだ。

「あー、くっそ。マジかよ」

 悪態を付きながら、北条はぶらぶらと都市の街明かりの中でほっつき歩いていた。

 電車代どころか素寒貧であった。

 さてどうしたものかとちょっと考えて、結局歩いて帰るかという結論を付けた。

「まあ、いけんだろ。おれ、地理得意だし。若いし。三時間くらいで着くはず」

 よっしゃやるかと地元に向かって歩き出そうとしたところで。

『そこの制服の少年。止まりなさーい』

 警察に見つかった。

「やっべ」

 咄嗟に北条は駆けだした。

 もともと運動が得意な彼は走るのも速く、地理にも達者なので夜の町をぶらぶらとパトロールしているだけの警官を振り切ることは容易だった。

 軽く息を切らしながらも、薄暗い路地裏に駆け込み無事に警察を撒いたことを事を確認し、息を吐いた。


 北条は警察が嫌いだった。

 幼少の砌に父親が首を吊った。

 N市の大々的な再開発事業により職を追われ、碌でもない連中から金を借りていたのだ。

 警察はその連中を逮捕することはなかった。

 当時の捜査陣の中にいた悪徳刑事がその碌でもない連中とつるんでいたせいだと、噂で聞いた。

 そして,それが真実であると、その悪徳刑事に一目会った時から北条は直感していた。

 その時から、北条は警察が嫌いなのだ。

 連中は平気で嘘を吐くし、悪人の肩をもつ。

 捕まったら何をされるか分かったものではない。

 少なくとも中学2年生の北条はそう信じている。

「……あー、いやなこと思い出したわ……って、お?」

 路地裏に千円札が落ちていた。

「おー。野口さんじゃないっすか。助かります」

 これで歩いて帰宅という常軌を逸した行動に出なくてよくなった。

「しっかしあれだな。金がねえな。バイトでもすっか」

 ざらついた灰色の空に浮かぶ朧になった月の下で、ぶらぶらとそんなことを北条は考えた。


7月19日


 暑い、蝉の鳴き声が響いている。

 N市は比較的寒冷地に存在しているのに、今年はやたらと夏が早い。

 些々の長い髪の中に汗が流れた。

 目の中に入って、色彩が灰色になる。

 ここ最近、そんな感じで盲いでしまうこともしばしばある。

 しばしばと瞬きをしながら曇り空を見ていると。

「最近おれさぁ、バイト始めたんだよ」

 学校で聞いたことのある声が聞こえた。

 ちらりと伺うように声の主を見る。

 見覚えのない少年だった。……もともと、クラスに見知った人なんていないけど。

 いやお前中学生じゃないか。という至極真っ当な周囲からのツッコミをその人は軽くいなした。

「これがまじで人手不足でよ、店長にいっても『そうですわね。人手が欲しいですわ』って言ってるだけで全然入れねえんだよ。お前らさ、いっしょにやらね?」

 彼の周囲の人間が一斉に、やらねーよと合唱する。

 それに乗っかるように「なんだよー」と笑いながら彼はふざけている。

 ああ。そうだ、このまえ給食を零してしまって迷惑をかけた人だ。

 ……困っているのかな? と伺うように些々はその少年をこっそり見やる。

 端整、とまではいかないがどこか愛嬌のある顔立ち。

背は低いがけして小柄という印象はない、それは運動系の部活特有の浅黒い肌にしっかりとした体つき、そして何より明るく自信に満ちた雰囲気がそう思わせているのだろう。

 イケメンではないが少なからず女子との交友関係もあるのが察せられる。


 チャイムが鳴った。

 担任教師が教室に入ってくる。もうすぐ帰りのHRだ。

「おら、お前らさっさと座れ。今日は話すことがあるんだ」

 さっきまで駄弁っていた彼らも含め、生徒たちが一様に座りだした。

 些々はずっと自分の椅子に座っていいたのであまり関係ない。

 全員が座るか座らないかのタイミングで担任は喋りだした。

「今週末、T区のゴミ拾いが市で行われることになる。そこで本校からボランティアの人員を補充することになった。各クラス2名ずつだ。日曜をまるまる使ってやるがやりたい奴はいるか」

 だれも手を上げなかった。

 T区はN市の開発事業から漏れた地区である。かつてはそれなりの工業地帯だったが、やがて寂れていき、いまや市からも見捨てられた過疎地域だった。そこに住んでいるのは職にあぶれた失業者や孤独な老人たちだけ。当然のように治安も悪いし、区内にゴミが溢れているのは当然であるし、それに市が(形だけとはいえ)対応するのは考えられることだし、それに暇で給料のいらない若者を招集しようとするのもまた不思議ではない。

 そしてそんな話に手を上げるような若者はいない。

 いかに暇な田舎の中学生であろうともそんな面倒なことはやりたくない。

 担任教師はいかにも嫌そうな顔をした。

「おい、誰かいないのか? クラスから必ず二人出さなきゃなんないんだぞ!」

 わかりやすく怒声を担任教師は出した。当然クラス中がだんまりを決め込む。

 担任は勢いよく舌打ちをして、先ほどの少年を指さした。

「北条、お前やれよ」

 北条と呼ばれた少年は一瞬きょとんとすると勢いよく立ち上がって。

「は⁉ なんで俺なんだよ!」

「お前、この間警察に追いかけられたろ。うちの制服を着たやつがいたって連絡が来たぞ。おまえのこと警察に突き出してもいいんだ」

「……ッ」

 北条は何も言えずに、座り込んだ。

 その様子に担任教師は満足げな顔をした。

 その顏でその中年男は今度は些々を指さした。

「お前もな、裂咲」

 ひゅっ、と些々は自分の体が縮こまるのを感じた。

 いきなり自分を指定され、教室中から注目されたからだ。

 やりたくないなと些々は思った。

 土日に家にいないと母親がなんていうかわからない。

 だから、断らないと。

「……ぁ」

「給食費も払ってねえ奴が文句つけようってのか?」


 結局、日曜のボランティアに些々と北条は決まった。



 放課後になって、夕景が窓辺から差し込んだ。

 開けっ放しの教室の窓から微かに潮の香りがした。

 潮の香、というよりも魚くさいだけだなと北条は思う。

 N市の漁港はいつだって不漁だ。魚は多く取れず、取れても質が悪い。朝方では買い手がつかず、夕方の市場でたたき売りされている。だから魚の匂いがやたらにするのはいつだって夕方だった。

「……帰るか」

 ボンヤリと五時の鐘の音を聞きながら北条は立ち上がった。

 なぜだか今日は特に意味なく放課後に残ってしまっていた。

 本当に、特に理由のない居残り。理不尽な強制ボランティア指名が思いのほか、みぞおちのあたりに堪えたのかもしれない。

 だれもいない教室を北条は出た。四階建ての校舎の4階から階段で降りていく。

 夕焼けが暗く沈むように西日が目を焦がす。窓がない階段まで差し込んでくるものだから早く帰ればよかったと軽く後悔した。

 階段を二階まで降りたところで不意に一人の女子生徒と遭遇した。

 小柄な女子だった。色素が薄い長い髪が顔を覆って目元がよく見えない。酷くやせていて髪の隙間から見える肌も荒れている。肩を小さくすぼめていて、夕焼けに照らされた彼女の姿は触れたら壊れてしまいそうな気がした。

 彼女のことを北条は確かに知っていて、けれどぱっと思い浮かばない。

 だれだったか? と考えて北条はしばらく動きを止めていた。

 そのため、その女子が困り顔をしているのに少し遅れた。

「あ、ああ、ごめん。道塞いでたわ」

「……ぅ、ん」

 北条は階段の真ん中から端によけて、その女子生徒もまた反対側の端によけた。

(……それなら俺がよけなくても通れたんじゃ?)

 と北条は思った。見た目通り鈍くさいやつなのかとも思って。

 今日のHRの光景と、先日の給食時の光景がフラッシュバックした。

「あ! お前、俺と一緒にゴミ拾いに指名された奴!」

 びくっ、と小動物のように女子は跳ねた。跳ねた後恐る恐るふりかえる。

「名前、……なんだっけ?」

「ぇ……あ。その、……」

「うん」

「さ、……裂咲些々……です……」

「ふーん。おれは北条慧扠。てかなにしてたん? 職員室言ってたん?」

「あの、……はい……」

「なんで?」

「そ、……その」

 些々は伺うように北条を見た。見たけど目は合わせてくれない。

 なんだか、もどかしさを北条は感じた。

「こ、断ろうと……」

「あー、ボランティア?」

 些々は精いっぱい頷いた。

「で、でも、だめ、……でした」

「そうだろうよ。あー、まあでもそりゃめんどくせえしな。一緒にバックレようぜ、あんなん」

 些々はぶんぶんと首を横に振った。それはできないということだろうか。

「じゃあいくんだ。真面目だね」

「でも……お金、なくて……」

 あ。と北条は思い出す。

 なぜ目の前のこいつが理不尽にこんな面倒を押し付けられたのかを思い出した。

 給食費を払ってないって、言うことはめっちゃ貧乏で金がないってことだろうな。徒歩でT区まで行くのはきついよな。

「金、借りれた?」

「……ううん」

「だよなぁ」

 か細い声での些々の否定になんだか同情した。

 自分への仕打ちも割と理不尽だと思ったけれど、さすがに些々ほどじゃないなとも思う。

「でも、バックレはしないと」

 些々は頷いた。

「なんで?」

「……さぼ、ったら、……学校でおこ、られて……お母さんに、連絡が、きて……おこられ、ちゃう……」

 北条は天井を仰いだ。当初はボランティアのゴミ拾いなんてさぼってやる気でしかなかったが些々の状況を聞くだに、どうにも罪悪感がすごい。

「……金、貸すよ」

「えっ」

 すごくびっくりしてた。

「交通費っつってもバスで3つぐらいだし、大した額じゃないし。おれ、バイトしてるから金あるしな」

「で、でも……」

「それになんだ。その代わり、ちょっと頼みを聞いてほしいんだよ」

「……た、のみ?」

「ああ、実はな――」


7月20日


 日付が変わった直後に母親が帰ってきた。

 今日は非番らしい。なら何故こんな遅くに帰ってきたのか、その疑問を些々は特に抱くことはなかった。

「おかあさん」

 些々は今日、学校で日曜のボランティアに指名されたことを言った。

 だから、日曜は家にいられないと伝えた。

「……はぁ、何で断らないのよそんなクソみてえな行事」

「給食費、」

「あん?」

「出してなかったから」

 母親は強く舌打ちをした。

「なによ、あんたアタシが悪いって言いたいの?」

「いってない……」

「そういってんでしょうが!」

 ぶたれた。

 でも今日はいつもよりぶたれなかった。

 すぐに、母親が寝たからだ。

 母親はひととおりがなり立てた後『勝手にしろ!』と叫んで床に入った。

 夜中に家の中で響く啜り泣きを聞きたくなくて、些々は耳を塞いで眠った。

 ボンヤリと浮かんでいる月が蒼白く眩かった。

 些々は、ただ週末のことを考えていた。

 休日に終日、家から出ることは何気に初めてのことだった。


7月23日


 夏が近づく気配がしている。

 日が昇るのが早くなり、太陽は既に割と高い位置から見下ろしていた。

 じりじりと、確かな暑さがにじり寄ってくるのを北条は感じていた。

「あー、くそ。暑くなってきやがって……やっぱさぼっときゃよかった……」

 額に滲んでくる汗をぬぐった。塩味が微かにした。

 そしたらふと向こうからくる人影に気づいた。

 しなびたセーラー服の制服に薄桃色の野暮ったい長髪が揺れている。

 ああ、確か……。

 北条は少し頭を捻る。絶妙に名前が出てこない。

「あ、あの……こんにちは……」

「お、おう……ええと、たしか……」

 名前が出てこない様子の北条に気づいたのか、些々は

「裂咲、些々……です。……えっと、」

「あ、ああ。北条だよ。北条慧扠」

「は、はいっ。北条さん」

 一度自己紹介したはずなのにびっくりするぐらい北条は目の前の彼女の名前を忘れていた。

 こんなに印象が薄い人間は初めてだった。

「そんなやたらめったら緊張せんでも……、こうしてこんな面倒ごとに付き合う程度の会話でいいから」

「……は、はい。北条さん……」

 些々はどこかしゅんとした。今まであまり見てこなかった女子の反応になんだかいたたまれなくなる。基本的に北条がかかわりを持つタイプの女子は明るく楽しい人間ばかりで、この手の陰気な人間は接点がない。

「北条でいいよ。あとため口で。さん付けはなんかむずむずするし」

「は、はい……っ」

 随分と気負っている様子でがちがちの些々に少し笑いそうになると、遠くからエンジン音がした。バスが来たのだ。

 市営バスは二人の目の前で停止して入り口側の扉を開いた。中にはまばらに老人が数人座っている。北条は後方の二人がけの席に座った。その後を些々はちょこちょこついて言って、窓際に座る北条の隣にちょこんと座った。

 二人の間には野球ボール一つ分くらいの隙間があり、北条は窓辺を眺めながら、些々はじっと前を見つめながら、無言でバスに揺られ始めた。

 小さな市の中を四角い水槽の金魚みたいにぐるぐると市営バスは回っている。

 車窓から見える景色は移り変わるのに代わり映えがしない。ずっと、さびれた街並みが流れているだけだった。

 再開発事業といえば聞こえはいいけれど、実際に発展するのは駅前のほんの一握りの地区だけで、他の地区はさして恩恵を受けていない。

 このN市はそうやって目に見える部分が発展し、その裏側はずっと変わらない。変わらないままで朽ちていっている。

 だから、景色はずっと同じまま。

 さびれた町にさびれたバスが走り、入り組んだ道を抜けると、目的のT区についた。

 バスが停車する。

「降りるぞ」

 じっと前を見つめたまま動かない些々の肩を叩く。

 はっ、として些々はいそいそと椅子から降りた。

 それから不安そうに、北条をみた。

「? いけよ」

 くいと顎で前方のほうを指すとおずおずと些々は前のほうに向かった。

 途中で、恐る恐る振り返る些々。いいから、と北条は手の甲を見せて振るう。

 奇怪な些々の言動に疑問符を浮かべなら、北条も些々に続いた。

「学生二人分で」

 運賃は約束通り、北条が二人分払って二人はバスを降りた。

 排気ガスを振りまきながら、バスはその場を去っていく。

 財布をカバンにしまうと申し訳なさげな些々の表情が北条の目に入った。

 一体何に申し訳なさを感じているのか、さっぱりわからん。

「……なあ、裂咲」

「っ!」

「いや怒ってるわけじゃあねえんだよ。そんなビビんなって。……お前さ、バス乗ったの初めて?」

 些々はびっくりした顔をすると少し逡巡してから、こくん。と頷いた。

「あー、やっぱり。てかさ裂咲」

 いうか少し迷う。なんかちょっと変じゃないかこの質問と思ったが、まあいいや。と北条はあんまり深く考えずに。

「なんか楽しそうだな」

 些々は目を丸くして、ぽっかりと口を開けた。

「な、……なんで、ですか?」

 おもったより感情豊かなやつなのかもなと北条は些々の認識を改めることにした。

「いやなんか、バスに乗ってからこっち落ち着きがねえし、今だってあたりを見渡してきょろきょろしてる。最初はまあそういうやつだしとか思ったけど、なんか目がキラキラしてるからさ、子供みたいに。なんとなく楽しそーだなーって」

 些々はなんどか口をパクパクさせたあと、恥ずかし気に俯いた。

 なんということはない。些々は初めての経験や見たことない景色に楽しくなっていたのだ。そして、そのことを北条に指摘されて、初めて自覚し、なんだか恥ずかしくなったのだ。

 頬の熱さに自分でびっくりして、顏が赤く染まっているのを目の前の人に見られるのが恥ずかしくて、些々は顔を手のひらで覆った。

 そんな些々を見て、北条はすこしだけ笑った。



 バス停から歩いて20分ほど、二人は予定されていた集合地点についた。

 集合場所とされた公園には所せましと人が集まっている。

 昔はそれなりに子供の声が聞こえてきていたが、少子化と遊具の撤去により、もはやただの空き地である。

 集まっている人間は同じ学校と思しき若者たち、別の学校の人間と思しき若者たちが大半でその中に奇特な地域ボランティアが数人見える。

 きょろきょろと北条はあたりを見渡し始める。

 どうしたの? と些々は彼に聞いた。

「ああ、前に言ったろ? 運賃を出すから、代わりにお願いがあるって、それでお前……裂咲に」

気軽に、よんで、いいよ。と些々は北条に伝えた。

「あ、マジ? 助かる。正直、ちょっと堅苦しかったしな。で、お前に合わせたい人がいるんだよ」

 こくん、と些々は小首をかしげる。

「おれのバイト先のコンビニ店長なんだよ。これがまあ変なひとなんだ。名前は……」

「久遠廻音ですわ」

「そうそう、久遠さん……って、いつのまに」

「初めまして、貴女が裂咲些々さんですわね」

 ひょっこりと『彼女』は現れた。

 まるで現実感がない女性だった。

 ウェーブがかった肩口まで伸びるピンク色の髪。

 猫を連想させるようなの金色の瞳、雪のような肌に、簡素なロリータと表現するかのような私服にするには洒脱すぎるがゴチャゴチャはしていない服。

 軽やかな音色であれどもどこか、しん。とした薄氷を連想させるような冷たさがある声。

「お逢いしとうございましたわ。貴女に」

 鈴のように『彼女』――久遠廻音くおんめぐりねさんは微笑んだ。



「ある、ばいと。……ですか?」

「ええ、ワタクシ、こちらではコンビニの店長というお役目をいただきまして。日々、熱心に粉骨砕身懸命に労働に奉仕しているのですが、人手の問題というものはワタクシだけではどうしようもないものでして、こちらの北条慧扠さんに伝手を当たるように頼みましたが、あんまり役に立たなくてですね」

「みんな忙しいんすよ」

「ええ、ええ。もちろん人間の多忙っぷりは存じておりますわ。とはいえ、さてどうしたものかと頭を捻っていたところに貴女のことが飛び込んできました。部活動や塾の類はしている様子もなく、なおかつ金銭的に余裕がない。今回のお話は貴女にとっても悪い話ではないかと?」

「ちょっと久遠さん、デリカシーってものが……」

「あ、だ、大丈夫……で、でもそ、そのアルバイトって、いきなり言われても……その、わたしよく分からないし……」

「夜間のアルバイトですわ。20時から3時まで月~金。本来、夜間の、しかも中学生のアルバイトは法律で禁じられていますが、こんなさびれた地方都市なら、まあ問題はないでしょう。基本的に人は来ませんし、来てもほとんどの接客は北条慧扠さんがなさるので接客をする必要はありませんわ。夏休み期間中で学校はありませんし、北条慧扠さんも一緒ですし、それに」

 久遠さんはくいと、些々の耳元に口を寄せた。冷蔵庫の冷気のような冷たさが耳にかかった。

「その時間なら、お母様もお仕事で見つかる心配もありません。貴女が心配することはあまりないのでは?」

「え?」

 些々は驚愕の声を出した。どうしてこの人が母のことを知っているのだろう。

 久遠さんは穏やかに微笑んだ。不思議な雰囲気の人だった。

 なんとなく、普通の人ではないのは感じる。まるで、この世界のすべてを俯瞰しているようなまなざしをしていた。

「もちろん。お望みでしたら、どのようなシフトでも柔軟に対応いたしますわ。お給金も相場より多く出しましょう。なにより勿論貴女の意思をしっかり優先いたしますわ。いかがですか」

「え、と……その……わたし……」

 いきなりの話にわたわたする些々。

 突然のことで頭の中がぐるぐるして、答えを出せずに立ち尽くしている。

 そんな自分のどんくささに別の自分が嫌になってる。

 そんな風に些々が立ち尽くしている間に役所のおじさんが全体に号令をかけた。

 あっという間にそれぞれボランティア活動の担当部署を振り分けられる。というか学校ごとにチーム分けされた。

「あら、残念ですわ。ではお二人とも、とりあえずはお別れです。裂咲些々さん、アルバイトの件、どうかご検討のほどを。貴女の人生においてけして無駄なことではないと保証しますわ」

 そういって久遠さんはさっさと割り振られた部署へ行ってしまった。

 立ちつくす些々の肩を軽く北条。どこか嘆息した様子。

「な、変なひとだったろ」

「……うん」

 思わずうなずいてしまった。

 そしたら北条が可笑しそうに笑ったので、些々もつられて不器用に笑った。


 その日は一日中歩いた。

 T区は荒れている地区なので非常にゴミが多い。一部でもゴミ拾いは時間がかかった。

 でもその分、知らない土地をたくさん見れて些々は嬉しかった。

 安アパートの自宅と学校以外の場所を知らない彼女からしてみれば、スプレー缶の落書きも、締め切ったシャッター街も、昼から酔っぱらって寝ているホームレスも、さび付いたベンチで座っている半裸のおじいさんも、舗装されていない道路も、ほとんどから忘れ去られたみたいな町並みも、不釣り合いなほどの空の青さも、すべてが新鮮で心躍るものだった。

「なぁ、裂咲」

 北条の声。

「裂咲って普段休みの日って、ずっと家にいんの?」

 些々はおずおずと頷いた。

「どっか遠出とかさ、しねえの?」

 些々はふるふると首を横に振るった。

 そんなお金も、自由もなかったから。

 ふーん。と何でもないような返事を北条はする。

 それから何か言おうとする彼の顔を些々はじっと見ていた。

 でも結局彼は何か言うことはなかった。そのことに、少しもやもやした。


 ゴミ拾いが終わったのは夕日が完全に沈み切る直前だった。

 赤紫の空色が長い髪の隙間か木漏れるように見え隠れする。

 現地解散をした後、些々と北条は二人でバス停のベンチに座っていた。

 他の面々は各々別の方法で帰る。チカチカと不安定な明かりに照らされて間隔の長いバスを待つのは二人だけだった。

「バイトの件さ」

 北条が口を開いた。その声は普段の彼の印象とはずいぶん異なる、穏やかなものだった。

「やりたくないなら断ってもいいよ。でも、おれはやってほしいかな……なんつーか」

 彼は頭を掻いた。出したい言葉がなぜかもどかしい。

「あー、金があればさ……色々できるし、………夏休みだけでもさ。なんか、……うまくいば遠出とかできるかもだし、久遠さんは何かそこらへんうまくやりそうだし。そりゃ、家庭の事情とかあるかもしれねえけど。夜中のバイトだし、親の目とかあるかもだから無理にって言えないし、昼間でもいいんだけど、……あー、なんだ? うまく言えねえな。とりあえず、勘がえといてくれ…………夏休みなんだし」

 勢いでそうまくしたてると、バスが来た。

 二人で乗り込んで、誰も座っていない薄暗い車内に二人で揺られた。

 車窓から見える景色は塗りつぶされたみたいに真っ黒で何も見えない。

 見えない真っ黒の向こうに何があるのかな。

 そんなことを些々は思った。



 その夜、些々は眠らなかった。

 窓から宙を見ていた。

 欠けて、いまにも割れそうな月を見ていた。

 手を伸ばしてみる。

 もし月を掴んだら、パキッと割れてしまうのかなと、そんなことを思った。

 月を掴んでみる……掴もうとした指先は空を切った。

 あーあ。

 それからもとの体育座りに戻る。

 母親は今日も帰らない。

 些々は自分の母親がどこで働いているのかを知っていた。昔、父親を名乗る人が職場に連れて行ったことがあったからだ。

 町はずれ、港の近くのラブホテル裏の小さな小屋の中。

 母親はピンク色の部屋で裸になって、太ったおじさんに傅いていた。

 鞭で打たれて嬌声をあげていた。おじさんにしなだりかかり、涎を垂らす母親を見た。

 あれを大体もう7年くらい続けている。

 いつだって出勤時刻は夜の7時。帰宅時刻はおおよそ朝日が出てるころ。

 久遠さんが言っていたコンビニとは逆方向。

「…………」

 目を瞑ってみる。

 瞼の裏に、ぽう、とボンヤリ眩しい光の玉が見えた。

 瞑った瞳で、その光に目を凝らしてみる。

 それが誰かに見えそうで、見えない。

 こてんと、横になった。

 もうすぐ、夏休みが始まることを、じっとりと肌を伝う熱気が些々に教えた。

 

7月26日


 夏休みが始まったその日の夕方、些々は初めての道を歩いた。

 照り付ける日差しの中で、歪んだアスファルトの上を歩く。

 少しだけ長い距離を歩くと目的地に着いた。

 コンビニの自動ドアが開いた。

 外気との気温差による突風が些々の髪をなびかせた。

 開いた扉のすぐそばに久遠さんがいた。

 彼女の貌にコンビニの制服はなんだか、すこしおかしさを感じる。

「お待ちしておりましたわ。裂咲些々様。アルバイトの申し込みで、よろしいですか?」

 些々は頷いて、店内に入った。

 店の奥から、北条がひょっこりと顔を出し軽く手を振ってくれた。

 いつもとは違う、夏の予感がした。

 それに胸が跳ねるのを感じた。

 そんな夏の日。


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