第2話
いつもの夏休み。
じめじめとした床の湿気が鼻に刺さる。ただ、何もない夏休み。
たまのお使い以外で、外に出ることはない惰眠を貪る夏休み。
そんな記憶を夢に見た。
物心ついたころにはすでに些々は母親と二人で安いボロアパートに住んでいた。
しんしんと雪の降る日を覚えている。
その日は本当に綺麗な雪が降った日で、些々は煌めきに誘われるように、外に出たのだ。
ふらふらと、雪に誘われるように外を歩いて、結構遠くに来たなと気づいたときに、向こうから走ってくる母親の姿に気づいた。
母親は走り迫ると、些々をぶった。
雪が降り積もる道路の上に倒れた。ガリッとアスファルトでひっかいた頬から流れる血が白い雪に混ざる。
母親は馬乗りになって些々を何度かぶった。
灰色の空から舞うように降る雪を意味も知らずに些々は見ていた。
何度か些々をぶち終わると、母親は冷たい道路の真ん中で泣きながら些々にしがみついた。
泣きじゃくりながら、母親は些々に何かを言っているようだった。
遠くで車のクラクションが鳴る音。
いくつものクラクションが冷たく乾いた空気を震わせていた。
中学一年生のころの話。
休みの日に些々が母親から離れることはこれきりなかった。
そうしたら、母親が泣くことはない。
だから、些々が休みの日に出かけることはなかった。
冬休みも春休みも夏休みも、家の外に出ることはなかった。
学校以外はずーっと、同じボロのアパートの一室の中で。
何も変わらない、長い髪の隙間、盲いだ瞳で見ている灰色の世界。
窓の外に、見えるものに手が届くことはない。
7月27日
何も起きない一日を惰眠とともに些々は過ごす。休みの日は大体こんな感じ。
窓を開けても蒸されるような暑さは変わらないので、すぐに汗だくになってしまう。
押しつぶすような蝉の合唱に耳が疲れる。
ただ今日はいつもよりも早く起きた。
部屋の奥を見ると、まだ母親は眠っていた。
夕方。多分4時くらい。
窓の外の太陽はまだ沈んでいない。夏の太陽だから、沈むのに時間がかかるのだ。
体を起こし、台所に向かう。薬缶に水をいれて、火にかける。お湯を沸かしている間に棚にぐちゃぐちゃに入ったカップ麺を取り出す。先週にドラックストアで買った安物だった。
お湯を注いで、3分待ってから食べる。ぼそぼそとした麺と喉の奥でガラガラする感じの塩気が効いたスープを飲み干した。
やがて母親が起きだした。
化粧が崩れた寝ぼけ眼で母親は些々と同様にカップラーメンを食べた。
半分ほど残したところで母親は残りを台所に捨てた。
それからいつものキツイ服に着替えて、母親は家を出た。
その間に会話はなかった。
母親がボロのアパートを出てから、10分ほどして些々も着替え始めた。
白のTシャツにデニムジャケットと黒のチノパン。
久遠さんからもらった服だった。
もともと些々の持っていた服なんて、学校の制服の灰色の部屋着だけで、そのことを見越した久遠さんがくれたのだ。
助かるな、と思いながら着替えてみた。
窓のガラスに映った自分の姿を見てみる。
いつもの自分とは違う自分がそこにはいた。
初めて見る自分に不思議と体がふわふわするような気がした。
長い髪に隠れた口角が自然と持ち上がってしまって少し恥ずかしい。
着替え終わった後、指で前髪を少し梳いて、いつものボロボロになったスニーカーを履いて扉の前に立った。
ドアノブに手をかける。
きゅっ、って力が入る。薄いブリキの板切れが重たくて大きな鉄の壁みたいに感じた。
すぅー、っと息を吸い込んで呼吸を止める。
じっと目を瞑って、思いっきり些々は扉を開いた。
重たくて大きかったはずの扉は、びっくりするぐらい簡単に開いた。
夜の闇の中、ほとんどの店がシャッターを閉じている中に一件だけ煌々と明かりをともしている店がある。
些々はコンビニの自動ドアをくぐる。
「裂咲些々さま、お待ちしておりましたわ。ささ、こちらの裏手へ」
入った途端に久遠さんに挨拶をされた。まるでどのタイミングで些々がコンビニに到着するのかわかってたみたいに。
というかコンビニ制服の久遠さん。前のフリルがそれなりについた服とは打って変わった服装なのに、全然印象が変わらない。着替えただけで自分の印象がびっくりするくらい代わっていたから、不思議だなって些々は思った。
コンビニのレジの向こうの裏手に行くと北条がいた。
「よ。来たんだな」
うん。と些々は頷いた。いつもよりちょっと勢い強めに。
北条はそんな些々に微笑をこぼすと、袋に入ったコンビニの制服を渡した。
「これ、久遠さんが。サイズはピッタリなはずですわ。って言ってたけど、いつ測ったんだ?」
北条のその言葉に、些々は小首をかしげた。
そういえば久遠さんからもらった私服も自分にぴったりのサイズだった。けれど図ってもらった覚えもないし、不思議だった。
制服も些々にぴったりのサイズだった。
帰り際の久遠さんにどうして自分のサイズがわかったのかを聞いたら。
「目測でわかりますわ」
といわれた。本当にそんなことが出来るのだろうかと思ったけど、あんまり服を持たないし買えない些々にはよくわからないことで、久遠さんなら出来るのだろうと結論づけることにした。
夜のコンビニで裏方の商品の運搬や整理、よくわからない書類に数を数えてチェックするなどを行った。大体のことは北条に教えてもらった。彼にはこの仕事以前にもコンビニバイトの経験があったのだ。
些々は決して物覚えのいいほうではない。
なので北条は出来るだけ丁寧に教えた。
普段ならイライラする場面のはずなのだが、どういうわけか彼女にものを教えるのが北条は楽しかった。
一からの手順説明や、その工程の必要性の解説、それらの繰り返しが苦ではなかったのだ。
それはきっと、些々が目を輝かせて熱心に話を聞いてくれたからなのだろう。
初めて見るもの、初めて知ること、世界にあるそれらに触れるたびに胸の奥のほうが跳ねるような、ときめくような感じが些々からはしていた。
ずっと、同じ部屋の中。同じ道、同じ学校。
その中に、降ってきた新しい景色は何もかも新鮮だった。
そんな感じで一通りの指導が終わった時。
ふと、些々は北条のほうを見た。
彼と視線がかち合う。
たのしい。って些々は
そっか。って北条も微笑った。
時刻はまもなく深夜。
都会とは違って、夜は深い闇の中にある町の中。酷く静かで誰もいない通りで場違いに煌々と眩いコンビニの中でふたり。
だれもいないし来ない店の中で、なんでもないような会話をした。
学校の誰それは二股欠けてるとか、教師の誰それはかつらだとか。
基本的に北条が話を振って、それに些々がころころと笑みをこぼすのだ。
なんでもない、本当に中身のない話をするだけで些々はころころと笑った。
本当に何でもない話。本当に何でもない時間。
やがて夜が明ける。
夏の夜はあまりのも短くて、3時には路面に白く靄がかかり、黒かった空が紫色に変わりだす。そのころ合いでひょっこりと久遠さんが顔を出すのだ。
その時間があまりにも早くて、びっくりした些々がいた。
「お二人とも、アルバイトご苦労様ですわ。お疲れでしょう? もう上がって構いませんわよ」
「別に大したことじゃないですよ。深夜で誰も来ないですし。裏方の仕事もほとんど久遠さんがやってあって、正直楽でした」
「あらあら北条さんったら、正直なことですわ。ですが、誰も来ない上にすぐに畳む副業とはいえ、深夜に閉じたり、誰もいなくなったりするのはコンビニじゃありませんもの。お二人には感謝しておりますわ」
ふくぎょう? と些々は久遠さんの言葉に首を傾げた。
「ええ、実はこのコンビニ経営は副業、つまりは主となる仕事の傍らで進めていたものですの。経営も不振ですし夏が終われば畳むつもりですわ」
「そう、なんですか……」
自分の声が落ち込んでいるのを些々は感じた。
そっか。この仕事が夏だけのものなんだと、そのことに寂しいなって思う。
「そっすよね。こんな田舎で立地も別に良くない場所じゃあ、売れないだろうなぁって思ってたんですよ。てか久遠さん、ひとつ質問いいっすか?」
「なんですか?」
いつもの笑みを浮かべている久遠さん。
「久遠さんのメインの仕事って何なんです?」
「ふふふ」
久遠さんは少しくすぐったそうに口元に手を当てた。
なんかお嬢様みたいな笑い方するなって北条はちょっと思う。
「実はワタクシ、死の蒐集人をしているのですのよ」
「……はい?」
「要するに、死神みたいなものですわ」
「……」
北条は虚をつかれた顔でしばらく停止した後、どっと噴き出した。
「び、びっくりしたぁぁっ! 久遠さん冗談何て言わない人だって勝手に思ってたからびっくりしましたよ! なぁ、裂咲」
「え、あ、……えと、その」
「裂咲些々さん。なにか聞きたいことが?」
「その、死の蒐集人って、なにをするんですか……?」
些々の質問に何やらおかし気な北条。
そんな彼をしり目に久遠さんは答えた。
「人が死ぬと、ワタクシがその人のもとへ向かうんですの。それを確認して、記録いたします」
「……それだけ」
「それだけですわ。ワタクシ自身が手を下すことは許されていませんので。生死の選定はワタクシの仕事ではありませんからね。人は勝手に死ぬものですし」
久遠さんの答えにますます些々の頭の中は?マークが乱立する。
「裂咲、冗談だよ。これは久遠さん流ジョークだ。でしょう?」
久遠さんはいつもの微笑みのまま否定も肯定もしなかった。
気分を害した様子も全くなかった。
「さ、シフトも終わりだし。帰ろうぜ裂咲、着替えて来いよ。おれはあとで着替えるから」
北条の言葉に些々は頷いて、とたとたと裏に回った。
いそいそと着替える。北条もその後で着替えた。
最後に二人でタイムカードを切る。
「じゃ、お疲れっす」
「お、お疲れ様、です」
「はい。お疲れ様ですわ。明日からもよろしくお願いいたしますわね」
二人でコンビニを出た。
「送っていくよ。まだ夜遅いし」
時刻は午前の3時半。太陽がまもなく昇ろうとしているけれど、それでもまだ暗い。
些々は悪いからと断ろうとしたけれど、北条の押しに結局うんと頷いた。
「別に送り狼になろうって気はねえよ。裂咲はなんかそういう気になんねーしな」
それはそれで失礼なのではとかちょっとおもいそうになった。
でも実際。彼が悪い人でないことはなんとなく、些々も感じていたし。悪い気はあんまりしなかったのも事実だ。
結局、送ってもらうことにした。
些々の家はバイト先から近くはないけれどそんなに遠くはない。
普段歩いていく範囲からははずれるけれど徒歩で通勤できる範囲というか。そんな感じ。
「裂咲ってさ、普段なにしてんの」
帰り道、送っていく途中でなんのきなしに北条は聞いた。
些々は少しだけ考える。
少しだけかがえて。
「……なにも、してないよ」
と答えた。
それ以上でもそれ以下でもそれ以外でもなく。
そうとしか言えなかった。
「だから、今日は楽しかったの」
「ふーん」
特になんということない返事を北条はした。
その言葉の奥にあるものに気づけるほどの洞察は今の彼にはなかった。
そうこうしているうちに。
「ついた、よ」
些々のアパートについた。
「……あ、ああ」
築何年かもわからない、さび付いたアパートだった。
赤錆びた牢獄を連想させるような気がした。
「じゃあね」
些々は胸の前で小さく手を振って、北条の傍を離れアパートに戻っていく。
夏の、夜中のせいだろうか。ただでさえ小さい些々のその背中が殊更にひどく小さく見えた。
まるで、そのまま消えてなくなってしまいそうな錯覚を抱くほどに。だから、
「なあ、裂咲!」
その背中に声をかけた。
彼女が振り返る。
長い前髪でその表情は、よくわからない。
「また明日な!」
そういって北条は大きく手を振った。
些々の口もとが笑ったように見えた。
やがて、彼女が自身の家に戻ったころ、胸の奥に穏やかな温かさを北条は感じていた。
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