第4話

8月6日


 窓の外から見える者の一つにすこし大きい目の木がある。

 あおあおとした深緑の葉を携え、夏の日差しを全身で受け止めているような木だった。

 その日も退屈で、些々はその木を意味もなく見ていた。

 ふと、ちいさな女の子がその下を通った。

 どこかでもらったのだろうか、赤い風船を少女は持っていて、

「あ」

 風船から手を離してしまったらしい、ふわりと赤い球体が宙に舞った。

 舞った風船は木の梢に引っかかった。少女は頑張って手を伸ばしていたけれど、届かなかった。

 少女はぴょんぴょんと跳ねている。

 頑張って跳ねているけれど、どうしてもあと一歩だけ届かない。

 だんだんと、その少女は泣きそうな顔になっていく。

「……だめ、だよ」

 そう。ダメなのだ。

 家から出てはいけない。些々はそこから出てはいけないのだ。

 それにあんな子供、いつもだったら気が付かないはずだったし、気づいたところで何もしなかったはずだ。

 はずなのに。

 どこで自分は少し変になってしまったのだろう。


 少女の後ろからのびる手がある。

 小さくて、白い、きれいな手だった。

 その手は風船の紐を持って、少女に渡した。

「はい。どうぞ」

 些々は風船を少女に渡して、ぎこちなく微笑んだ。

 そうしたら、その少女も笑ってくれて、それが嬉しかった。

「あなたも、お散歩?」

 そう、些々が聞くと、少女はゆるゆると首を横に振った。

「ママを待っているの」

「まま?」

「うん。ママ。あ! 来た!」

 向こうから三〇代くらいの女性が走ってきた。

 彼女が呼んでいる名前が少女の名前だろうか。

「も、もう! どこいってたのよ」

「ママ、あのね。このお姉ちゃんが風船取ってくれたの」

「え、あ、それはどうも。娘がお世話になったみたいで」

「いえ、そんなこと……」

「あー、なにかお礼をしないと」

「おれい、ですか?」

「はい」

 律儀なひとだった。

 その人は見るからに主婦の人で両手に、いっぱいに膨らんだスーパーのビニール袋を抱えていて、その中にあったあるものに些々の視線が向いた。

「あの、でしたら……」



 ハサミを、些々は手に持った。

 理髪用のものではなかったけれど、些々にとってはそれで十分だった。

 でもいざ実際にハサミを手に取ってみても、なかなか髪を切れない。

 内心の誰かが邪魔をしているみたいで。

「……今日は、やめておこうかな……」

 そういって置こうとしたとき、後ろに知らない誰かが立っていた。



 太川は写真をメールである男に送った。

 その写真には少女の風船を取っている些々が写っていた。

 太川は命令のもとで、ずっと些々を監視していたのだ。

 些々は風船を少女に渡し、少女のママさんからお礼を受け取った後、すぐに家の中に戻っていった。

「いい娘だねぇ。けど、残念。俺はこれで報酬の百万をゲットできるわけだ」

 人畜無害な子供を張るなんてつまらないことをやった甲斐があったと太川はほくそ笑んだ。

 この写真の結果、尋常ならざる独占欲の化身である男の手によってあの子供がどうなるかなど彼にとってはどうでもよいことだった。

「そもそも北条の倅に情報を吹き込んだのは、この展開を見越してのことだしな」

 あの小僧に情報を吹き込んで何らかのアクションを起こし、あの男の気をひかせれば御の字であったが、これがまあうまくいった。

 想定通り、北条は売女と娘の閉じ切った家庭に介入し、その結果あのバカな母親は太川の雇い主に泣きついた。

 そうして忠実で有能な犬である太川に指令が下ったわけだ。

「今回はマジで大当たりだ。やはり、馬鹿みたいに働いて稼ぐより、こう、マッチポンプで得をするのが一番だ」

 止まらない笑いとともに彼は車を走らせた。



「え? なに、こわあいつ」

 車のなかで電話をしながらめっちゃ笑顔の太川が今さっき北条の傍を走り去っていった。

 なにがあったにせよ、それが碌でもないことであるのだけはわかる。

「……」

 厭な感じがした。

 些々がバイトを辞めるといった旨を久遠さんに伝えた時、

「そうですか。では頃合いですし、ワタクシは本職のほうで次の段階に入ろうと思いますわ。ということで北条さん。今日で仕事は終わりです」

 といってコンビニが潰れたので、バイトをしていない北条はずっと些々のことを考えていたのだ。

 裂咲家の家庭環境など、知らなければよかった。なのになぜ、知ってしまったのか。

 それは太川から教えられたからで、

 ではそもそも太川はなぜ自分にあんな忠告をしたのか。

「…………なにしようってんだおれは」

 足は既に裂咲家に向かっていた。

 厭な予感がする。

 厭な予感がする。

 間違いなく、自分はこの選択を後悔すると、そう直感が告げている。

 それでも足は彼女のもとへ向かっていた。



 黒い服を着た不気味な男だった。

 それでいて、些々はその男に見覚えがあった。

 あれは、確か。

 思い出そうとする間もなく男は土足で室内に上がり込むと

 ぶたれた。

 母親がやるような痛くない殴打と違って本気でいたい殴打だった。

「ぐっ」

 それから些々の首を両手でつかんで持ち上げた。

 息が出来ずに苦しかった。

 滲む視界の中で男の顔を見た。

 見覚えのある顔――そうだ、あのポスターの……。

 ……違う。そのずっと前からわたしはこの人を知っていて……。

「なぜ、父である私のいうことを聞かない」

 男は喋った。暗く、低く、感情のない声だった。

「お前が生まれたのは誰のおかげだ。お前が生きているのは誰のおかげだ。お前が生かされているのは誰のおかげだと思う」

「……ッ!」

 些々は手に持っていた鋏で男の手を刺した。

 首から手が離れ、尻もちをついた。

 男を見据えた。

 深く、黒い、伽藍洞のような目をしていた。

 男の手が伸びた。些々の髪が掴まれる。

「ずっとこの部屋の中にいればよかったのに。衣食住はあったはずだ。学校まで行かせてやった。なのになぜ強欲にそれ以上を求める。お前は私の物だ。いうことを聞け」

 男が髪を握る手が強くなった。

 痛みで泣きそうになった。

 逃れようとじたばたとあがいてもどうしようもなかった。

 不意に、窓ガラスに写る自分の姿を些々は見た。

 髪が持ち上げられ、剥き出しになった自分の顔が写っていた。

 久しぶりに見る自分の素顔は、なんだか自分じゃないみたいに不確かで。

「わたしは……」

 些々は鋏で長い髪をバッサリと切った。

 そして男の腹を刺した。

 鋏を引き抜くと男は蹲った。そうして上からその鋏で首を刺した。

 すごく嫌な感触が手のひらに伝わった。

 男は動かなくなった。

 死んだのだ。

 あとには小さな部屋と、男の死体。床に座り込む些々が残った。



 北条が些々のもとについたのは夜も更けてからだった。

 扉をノックすると些々が開けてくれた。

 血の匂いがした。

 部屋の中には、男の死体があって、その顏はローカルテレビでちょくちょく見る市長の貌だった。

 どうしたらいいかな。と些々は言った。

 警察に行ったらいいのかなと。

 北条は些々の問いには答えずに。

「これ、お前の親父だよな……」

 そう聞いた。

 些々はたぶん。と頷いた。

 前にあったのは物心ついた時だったらしい。

 それから男が殺される前に些々に言っていたことを聞いた。

 太川から聞いた話を思い出して、些々との短い思い出を思い返して。

「……こんな奴のために、裂咲が、……人生を棒に振る必要なんか、ない……っ」

 この死体を捨てに行こう。

 そうして、自由になるんだよ。と彼は言った。

 些々は、迷いながらも頷いた。


 北条は家からトランクケースを持ってきて、男をそこに詰めた。入り切りそうにない部分はどうにか骨を折ってねじ込んだ。

「向こうにある小さな山。あそこに捨てに行こう」

 トランクを北条と些々で運んで、山の中に入った。

 小さな山なのにやるの中では鬱蒼と茂り、怖かった。

 奥のほうでスコップで穴を掘って、トランクケースごとその中に捨てた。

 その間に二人に会話はなかった。

 その時、写メを撮る音がした。

「よう」

 木の陰から太川が現れた。


「お前らさぁ、俺未だ金貰ってないんだけど。競馬ですっちゃってるんだけど。どうしてくれるんだよ!」

 太川は北条を殴った。

 馬乗りになって何度も殴った。

 北条の口から血が出た。

 やめてください! と些々は太川に縋り付いたが、振りほどかれた。

 些々は太川を背中から刺した。

 太川は信じられないものを見る目で些々を見た。

「お、……お前のほうか……」

 太川はよろよろと揺らめいて倒れた。

 そして動かなくなった。

 死体が増えた。

 些々は北条の傍に近寄って彼を支えた。

 彼は浅い呼吸をしながら、手足をわなわなと振るわせており、すでに服は泥だらけで汗だ苦になっており、もう一人分の死体を埋めるだけの余裕はなかった。

「ねえ」

 些々は彼にこういった。

「電車に乗って、遠くに行こう」

 それは月のない夜だった。既に夜は隠れようとしている黎明のころだった。

 今から歩けば、多分。始発に乗れるだろう。

 些々は北条の手を取って、走り出した。



「……さて、」

 二人が去ったあと、太川の死体のそばに近づく影があった。

 ごてごてのゴシック服を着た奇妙な女性だった。山中だというのに全くといっていいほど汚れがついてはいない。

 ピンク色の髪に金色の瞳、雪のような肌をしたその人は全く別の物語の住人のようにも見える。

 そう、久遠廻音さんだった。

 彼女は自身の手帳に太川の名前を記入すると彼の目を閉じた。

「これは、古い友人のよしみですわ」

 それを告げると久遠さんは幻のようにその場から消えた。



 駅には誰もいなかった。

「……なあ、電車の乗り方、知ってるか?」

 何でもない声で聴くはずがひどく自分の声が震えているのを北条は感じた。

 その質問に、些々は不安げに首を振った。

「ああ、まずな、切符を……買うんだ。それから、目的地に向いているほうの路線に、……何番線って、あるだろ……それに乗って……」

 北条はとぎれとぎれで電車の乗り方を些々に伝えた。

 それはひどく拙い説明だったけれど、些々はしっかりと彼の言葉を聞いていた。

「……わかったか?」

「うん」

「じゃあ……」

 行こうかと、北条は言えなかった。

 その足も口も、もう動かなかった。

 涙が出て、体が震えて、蹲ってしまった。

「……ごめん……ごめん……おれ、おれ……いけないや……」

 脳裏に浮かぶのは母親と年端もいかない妹の顔ばかり。

 ここが彼の居場所だった。

 ここから、離れることはできなかった。

 蹲って、うつむいて彼は泣いた。

 そんな彼の向かい側に立って、些々は彼を抱きしめた。

 それはあたたかくて、やわらかくて、切なかった。

「ううん。いいの」

 顔を上げると、些々の顔があった。

 長髪でなくなったせいで、彼女の顔がよく見えた。

 整った、やさしい顔をしていて、そのまなざしはただ、きれいだった。

 どこにでもいるような、かわいらしい女の子がいた。


「ごめんね。巻き込んじゃって。ごめんね、ほんとに。

 でも、わたし、君に逢えてよかった。すごく、楽しかった。

 ひとりじゃ、多分、どうしようもなかったから。

 だから、全部、君のおかげ。

 だから、全部、わたしのせい。

 あの二人を殺したのは、わたし。

 君は、わたしの脅されて、協力したの。

 ごめんね。

 ありがとう」


 朝靄が滲むように、彼女の顔が滲んでしまう。

 いつのまにか、彼の目の前に、彼女はいない。さよならも言わずに。

 ぼう、と彼はずっとそこで座り込んでいた。

 そんな彼の傍に大人が近づく。

「君が、北条慧扠くんだね」

 その大人は警察手帳を見せた。

「大丈夫かい? ずいぶんひどい目に遭ったと聞くが……、裂咲些々さんについて、お話をきけるかな?」

「……違うんです」

「え?」

「あのこ何も悪くないんです……」

 どこかで蝉の鳴く声がした。

 夏だけが、響いていた。

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