第八話 面影

「おい柳、置屋の婆に聞いたぞ。まだあの女とつるんでいるんだってな」

「はぁ」

「どうだ、味わったか。海雲みてぇなワカメ酒をよ」

「五味さん、その噂だったら嘘ですよ。彼女は所謂『旦那さん』がいる。太客のその人が彼女を水揚げして、それ以降夜は他の客は取っていないそうです」

「そこまで突き止めるくらいのご執心か……」


 五味は何だか残念そうにしている。五味とは料亭の日本庭園で暗闇の中、話すことが多かった。


「俺は残念だな柳。お前にはもっと楚々とした淑女がお似合だと思うんだがなぁ」


 白い手袋の指先に煙草を挟んだまま、忠治の頬に手を添えてくる。……灰が危ない。その接触に兵営で少し嫌な目に遭ったことが思い出されたので、忠治は眉を顰めた。


「……灰が軍服に落ちます」

「ハッハッ、その儚い表情に合う女なんて、いくらでも居るだろ。どうしても芸者が良いと言うならこの女なんてどうだ。文芸倶楽部の美人投票で上位に食い込んでる」


 そう言って五味は忠治から離れると、煙草をその場に落として、懐から写真を一枚取り出してこちらに渡して来た。流れるようにマッチを擦ると、その火で写真が一瞬だけ浮かび上がって見えた。そこには、少々派手に手彩色が施された芸者が一人。


「……っ」


 忠治には、彼女に酷く見覚えがあった。それは、忠治の実の母親にとても似ていた。それに忠治自身の顔かたちにも。別れの日、土塊の道の上で最後に見た面影が残っていた。


 それが、顔面をぐしゃぐしゃにして、テトテトとおぼつかない足取りで必死について来ていた妹だと、忠治にはすぐに分かった。綺麗になって、それでもどこか儚気に、目線を右下へ流している。


「ホラそれだ、その顔だ。やっぱりこの芸者は親戚か何かなのか」

「……恐らく、妹です」

「成る程なぁ、久仁子になんて構わずに、逢いに行ってやったらどうだ」

「私は、養子に出た身ですので」

「まぁ人生色々あるからな。どれ、俺が変わりに逢いに行ってやろうかな」

「文芸倶楽部の美人投票上位が、中尉如きで逢えますかね」

「お前の、そういうところを気に入ってるんだ」


 そう言って五味は笑い出す。少尉たちには怖がられているが、忠治の前で五味はよく笑う男だったし、年相応の青年に見えた。しかし不思議と他の隊の上官連中に顔が利き、あらゆる料亭での宴会に顔を出しているという噂があった。


* * *


 ちっとも似ていないが、忠治は少し、久仁子に妹を重ねているのかも知れない。いや、妹相手にはこんな気持ちは抱かない。春・夏・秋・冬を共に過ごしていて、忠治は次第に久仁子と所帯を持ちたくなっていた。


 芸者の身請けは高額である。だが久仁子は借金など拵えているわけでも、親に売られたわけでもない。久仁子の身の上を隠して養い親の協力が得られれば、自分のような身でも、女一人ぐらい養えないことはない。


 愚かなことは誰よりも分かっている。久仁子には『想い人』がいるのだ。今でもずっと、その男のことを待っている。


「お前は、なにを云ってるんだ」


 いつもの人を食ったような態度で、五味はそのことについて答えた。その飄々とした顔の、薄い皮膚の下で、どろりと怒りが滲んでいるのが見て取れて、忠治は少し怯んだ。


「魔でも刺したか。どれくらいの身請け料を搾り取られると思ってるんだ。……それに今は戦争が終わったばっかりで、大事な時期なんだ、いくら莫迦なお前にだって分かっているだろう」


 忠治はぐっと黙り込む。にこにこにこ。五味は胡散臭い笑みを絶やさぬまま、忠治の肩をポンポンと子どもをあやすように叩いてくる。そしてたしなめるような声色で締めくくった。


「まぁ待っていろ、その内時世も変わる」


 そう言いながら五味が手にしているのは所謂『赤新聞』と呼ばれるゴシップ紙だ。戦争が終わり、のんびりとした空気が街にも流れている。二人は、川縁(かわべり)の黄色く染まった柳の下で、兵営への帰り道、道草を食っている。


 今夜も五味はどこかの料亭へ呼ばれている。最近その回数が頻繁になっている気がした。二人から少し離れたところに、数人の目つきの悪い書生風の青年たちが、五味のことを待っているようだった。


「お前も来るか?」


 上官の誘いにもかかわらず、反応するのが遅れた。少し間を置いてから「はっ」と姿勢を正すと、五味はおかしそうに笑う。遠くで五味を待っているごろつきの中には、要注意人物と警察や政府から知らされていた顔も居る気がする。


「そんなに悪い集まりじゃあないんだぜ、次は寺でやることも予定してる。仲間の中に、住職が居るんだ」

「五味中尉、それはもしかして、しゃ……」

「冗談だ」


 五味は笑いながら続けた。


「いやー、参った。俺は意外にお前を可愛がっているようだ」

「どういうことです?」

「いいんだ。お前は優しすぎてに向かないよ。ただ……そうだな」


「俺はおれの道を信じている。世の中を良くしてゆくと。だが、一人で歩んで行くのは……」

「……」

「一人でいくのは……俺も、寂しくなったんだろうな」


 それだけ答えると、背を向けて歩き出す。小柄な上官の向こう側で、ごろつきたちが緊張感を持って彼を待っている。「じゃあな」と外套から腕を出して軽く振った五味を、忠治が見たのはそれで最期になってしまった。

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異形『界』道中 — 追憶 — 森林公園 @kimizono_moribayashi

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