第七話 松岡

「あいつムカつくのよ、偉そうだし、陸軍軍人だしさ」

「……俺も一応そうだが」

「そうよ、だからアンタも嫌い」

「ふぅ、海軍だったら良いのか」


 困るというか呆れ果てて女を見下ろす。見目はそれなりに可愛らしい(流石芸者だ)。辛辣だが五味に対する容赦ない物言いは爽快だった。宴に呼ばれる度に、二人はどちらともなく言葉を交わすことが多くなっている。


「飛び出したにしても、お前はなんでこんなところで働いている」

「……看護婦って柄でもないし。私、割かしこの仕事嫌いじゃないわ」

「お前が看護婦だって」

「こー見えても私、こないだまでそういったお勉強してたんだからね」

「世も末だな」

「ちょっとそれ、どういう意味よ。莫迦バカ、これだから軍人は嫌いなの」

 ぽかぽかと胸元を殴ってくるが、どこか力なく感じられる。今日はどういうわけかぎゅぅっと軍服のたわみを掴んできたので、それと共に忠治の心臓も少しばかり軋んだ。


「……それが手か?」


 高鳴る鼓動を誤魔化すように問うと、傷ついたみたいにこちらを見上げてくる。忠治は焦って辺りを見渡したあと、「悪かった」と言って彼女の頭を撫でた。二人にとって、初めての甘ったるい空気であった。


「久仁子」


 それをぶち壊すように嗄れた声が廊下に響き渡った。ずかずかと、初老の髭を蓄えた男が、料亭の鐙色の廊下をこちらへ向かって進んで来る。それは確かにあの病院の院長であり、忠治の大学の指導教官であった。


 最近その姿を見たのは、同期の見舞いに再び件の病院へ赴いたときだった。久仁子を探して、何となく中庭を彷徨いていたとき、二階の病室からこちらをじっと見下ろしていたのだった。


「きゃっ」


 爺に気づいて、久仁子はこれ見よがしに忠治の後ろに隠れた。「なんだその男は」と声を荒げて、先生は忠治の後ろを覗き込んでくる。思わず久仁子を庇って、それを遮るように体を動かした。この医師の名前は、確か……。


「松岡先生」

「お、何だ君だったか。久しぶりだな、柳陸軍三等軍医」

「はっ」

「うむ」


 髭の紳士は帽子を取って深く頷いた。「先生は立派な方なんだぜ」と忠治がヒソヒソ呟くと、「ふん、不本意ながらそれはそうね」と久仁子は答える。


「久仁子。お前親に向かってその態度はなんだ……っ」


 松岡が声の限り叫んだので、お座敷内の人々が揃って廊下に顔を出した。その内の一人、五味までも顔を出してきて、さも面白そうにこちらをニタニタ見つめていた。


* * *


「もう『父さん』でもなんでもないわ、血だってちょっぴりしか繋がっていないのだし」


 久仁子がふてくされたように隣で呟く。二人は、いつの間にか連れ立って外出するようにすらなっていた。忠治は土産に持って来た『粟ぜんざい』をいつまでたっても受け取ってもらえず、自分の太腿の上にそれをちょこんと乗せて、彼女の話を聞いている。


 伯父と姪とはいえ、一緒に生活していた期間があったせいか、瞳の大きさや気性の激しさなど。松岡と似ていると言ったら、彼女はまた怒り出すだろう。彼女が言う、その『ちょっぴり』が色濃く残っている。


 目の前を、秋の木枯らしに向かって軍人が連れ立って歩いている。忠治は外出ゆえの略装であったが、勢い良く立ち上がって彼らに敬礼した。その際にどさくさに紛れて栗ぜんざいの包みを久仁子の膝に移動させる。


「アンタ、面白いわぁ。これでも私、気に入っているのよ」


 だなんて、甘えた声で言ってくる。忠治は耳の上が赤らむのを自覚した。自分の方がよっぽど、久仁子のことを気にかけるようになっていた。

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