第六話 桜の夜

「何だよ、こんな長いこと俺は惚気を聞かされたのか……」

「は、自分で聞いてきたんじゃない」


「交際も反対されていない、素直に病院ここに戻ったらどうだ」

「どこで待とうと、かまやしないわ。……ここにはお義母かあさんの見舞いに来てる」


「病気か」

「……」


「なら、尚のこと今の仕事は辞めた方が良い。その男が言うようにそ、の……。夜客を取るのも」

「芸者は辞めない」

「そっちじゃない」


「……話を聞いてなかったの。あの夜以来、あの人以外に客は取っていない」

「でも五味中尉が」

「っ」

「お前のこと『狸』って……」


 パァンっと顔面の両側で破裂音がして、忠治はそのとき一瞬鼓膜が破れたかと思った。しかし、間髪入れず「それはあのゴミが流してる噂よ、ウ・ワ・サ……っ」と怒鳴られ、膝の下部分を蹴られた。


「私、あの人以外と関係したことないの。一途なのよ」


 そのままズンズンと彼女は病院へ戻って行って、忠治は膝の痛みでその場で悶絶するしかなかった。その衝撃で、菖蒲の花が中庭の石畳にトサリと落ちた。


* * *


 久仁子は、五味を酷く毛嫌いしていた(理由は何となく分かるが)。今日も上官のつき合いで例の料亭に来ている。硝子の扉越しに、五味が軽薄な笑顔を張り付けて、お酌して回っているのが見えた。


 忠治は彼のことが嫌いにはなれない。


 初めてのこういった席で、忠治は五味と隣り合ったことがある。その日は、上官の気まぐれで、忠治の他にも数人座敷に座らされていた。美しい芸者にどぎまぎする同僚の脇で、一人黙々と酒を呑んでいると、隣に座った中尉が声を掛けて来た。


「何だ、お前は女に慣れているのか。可愛くないな」

「そんな、ことはありません」


 そう答えながら中尉が立てている片膝が気になった。目線に気づいて中尉が「あぁ」と溜め息を零す。


「あれを見てみろ、いい気なもんだぜ。誰も俺の脚なぞ咎めまいよ」


「いやぁーはっはっは、実に愉快」


 中尉がお守りをしている、大佐は大はしゃぎである。中尉が声に出して言っても、ドンチャン騒ぎが五月蝿くて誰も気にはしない。美しい芸者と共に舞う小太りの大佐は、より滑稽に見えて忠治は目を逸らせた。


 夜桜が外を舞う。


 中は明るい、外は暗い。硝子に映る芸者たちは、実にはっきりと外の景色に反射して見えた。暗がりの中で、部屋の光や月の光を受けて花びらが白く輝くのは、何かを忠治に思い出させる。ぼんやりしていると、隣に座る五味がしーっと口元に指を一本当てた。


「少し話そうぜ、来いよ」


 唇の形でそう告げると先に席を立った。忠治は乗り気では無かった。でも室内の酔いどれた馬鹿馬鹿しい空気からも逃げたい心地だったので、厠に行くフリをして部屋を抜け出した。


 外は春の突風が吹き荒れていた。昼間は生暖かく感じたソレは、夜半の今は肌寒い。あのとき、桜は咲いていただろうか。忠治には思い出せなかった。中尉は真っ暗闇の日本庭園で、池のほとりの丸石の上に一人で立っている。


 立ち上がってみると、忠治より大分小柄だった。マッチで煙草に火を点け、一息吸い込むと忠治を見上げて白い歯を見せた。


「申し遅れた、五味ごみ久雄ひさおだ。外地から戻って来たばかりだ」

「は、やなぎ忠治ちゅうじ。陸軍三等軍医であります」

「軍医か、どうりで。お前は他の者より落ち着いているものな」

「三月まで、大学で研究医をしておりました」

「なるほどなるほど、引き抜かれたか」

「はい」


 そう忠治が答えるとまた煙草を吸い込み、吐き出しながら呟いた。


「いやいや、そんなわけでこの店に来るのも久しぶりなんだ。こんな馬鹿馬鹿しかっただろうか……」

「いいじゃないですか、大佐にだって休養は必要だと思います」

「おや、お前随分と優しいな。戦地へ行ったことがないから、そんなことを思うんだ」


 五味はまだ結構長さが残る煙草をその場に落とすと、ぐしゃりと足でもみ消した。忠治は突然彼の機嫌を損ねたような、そんな気まずい気分になり下を向いた。顔を上げた瞬間に風が吹いた。桜吹雪が自分に突き刺さるようにして向かって来る。


「柳」


 明るい室内は暗闇の中で、まるで灯籠のように二人を照らし続けている。二人の間を、小さい竜巻みたいに桜の花弁が舞い上がって、五味は嬉しそうに目を輝かせた。


「見てみろ、ハッハッこいつぁ愉快だ。これを見れて良かったと思える、戻って来て良かったと思える」

「……私もです」


 思わずそう答えてしまうと、


「なるほど、柳。気に入ったぞ」


と五味は口角を上げて、料亭に向かって一人で戻って行く。すっかり背中を見せてから、右手で忠治も戻るようにと手招いた。次の日からすっかり仏頂面に戻ってしまった五味だったが、忠治の方もそう。彼のことを気に入ってしまったのである。

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