第五話 惚気話
「……お前は勘違いしている。『連れ戻しに来た』わけではない」
そう言って養い親はすっと体を横に移動させた。本当に驚くと声など出ないものだ。後ろに現れたのは久仁子が焦がれていて、忘れられない男だった。
あのころは白い狐の仮面を被っていた。今はどうだ、真っ赤な天狗の仮面は、黒い外套に不釣り合いのようである。一目見ただけですぐに相手が分かった久仁子は、震える紅を引いた唇を指先でおさえる。
「あなた……」
「久仁子」
呼んだのは医者のほうで、久仁子は「名前を呼ぶな」と、カッとして思った。今呼ばれたい男が、すぐ目の前に居るというのに。
「……、後は二人で話し合え。久仁子、俺も家内もお前とこの男のことを反対していない。話し合いが終わったら、家へ戻って来るんだ」
件の医師は苦々しい表情を残して杖を持つと、ガラス戸を開けて、来た時と同じようにゆっくりと退席した。ぎしぎしと歯ぎしりのように廊下が鳴いている。
取り残された、男は、彼の人は。ドッカリと久仁子の傍の高座椅子に腰を降ろすと、ゆったり脚を組んだ。
「莫迦か、お前は」
……声を聞いたのは初めてだ。なのに、件の医師と同じように久仁子をなじるのだ。久仁子は堪えていた涙が吹き出した、子どもみたいにぶわーと叫んで泣き始める。しかし、天狗は困った風でもなく、脚を組み替えるだけだった。
「折角就いた職は辞すわ、花街に身を売るわ、何を考えているんだ」
「あ、あなただって好きにしているでしょう。最後の日に、見送りも来てくれなかった、手紙だってどこに送ったら良いか分からないし……、私ばかり責めないでよ」
泣いて化粧がボロボロになりながらも、男の脚を両腕でこじ開けてガブリ寄る。
「……意思は固いのか」
「そうよ」
「なら『あなた』はヤメロ」
そう言って男はおもむろに腕を伸ばしてくる。黒い外套の下から太い腕を伸ばす。黒く化粧を落とす涙の雫を、大きい指の腹で拭った。
「俺が相手をしてやる、……それでもう夜は客をとるな。芸者ってのは、芸で食ってくもんだろうが」
それが男が久仁子へ見せた振る舞いの中で、一番の執着に思えた。それが嬉しくて、今度は違う涙が溢れ出した。男は仮面をズラし、上着を脱ぐとゆっくりと久仁子へのしかかった。
「久仁子、名前を呼べ」
久仁子は鼻を真っ赤に染めて、初めて名前を呼んだ。
「
その言葉ごと唇を喰われた。
* * *
「何だよ、こんな長いこと俺は惚気を聞かされたのか……」
「は、自分で聞いてきたんじゃない」
「交際も反対されていない、素直に
「どこで待とうと、かまやしないわ。……ここにはお
「病気か」
「……」
「なら、尚のこと今の仕事は辞めた方が良い、そ、の……。夜客を取るのも」
「芸者は辞めない」
「そっちじゃない」
「……話を聞いてなかったの。夜、あの人以外に客は取っていない」
「でも五味さんが」
「っ」
「お前のこと『狸』って……」
パァンっと顔面の両側で破裂音がして、忠治はその時一瞬鼓膜が破れたかと思った。しかし、間髪入れず「それはあのゴミが流してる噂よ、ウ・ワ・サ……っ」と怒鳴られ、膝の下部分を蹴られる。
「私、あの人以外と関係したことないわ」
そのままズンズンと彼女は病院へ戻って行って、忠治は痛みでその場にしゃがみ込むしかなかった。
* * *
久仁子は、五味を酷く毛嫌いしていた(理由は何となく分かるが)。今日も上官のつき合いで例の料亭に来ている。硝子の扉越しに、ニヤついている五味がお酌して回っているのが見えた。
「あいつムカつくのよ、軍人だしさ」
「……俺も一応そうだが」
「そうよ、だからアンタも嫌い」
困るというか呆れ果てて女を見下ろす。見目はそれなりに可愛らしい(流石芸者だ)。辛辣だが五味に対する容赦ない物言いは爽快だった。宴に呼ばれる度に、二人はどちらともなく言葉を交わすことが多くなっている。
異形『界』道中 — 追憶 — 森林公園 @kimizono_moribayashi
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