第五話 惚気話

 結い上げた髪がキツ過ぎる。正座をして着物の模様をじぃっと見つめた。


 久仁子は他の娘たちより遅い。半玉になって半年足らずで大急ぎの水揚げだ。相手は特に希望もなかったので、店の者に任せた。だから誰がこれから部屋に来るのか知れやしない。酒席できっと接待したことはあるのだろうが、どの爺が来ても構わなかった。


「だぃっきらい」


 思い出して口の中で歯ぎしりした。育ててくれた医者伯父には感謝しているが、「好きな人がいる」と言っているのに、見合いを次々と持ってくるものだからたまらない。女学校に通い、看護婦教育所にまで入れてもらった。でもすぐに辞めた、もちろん抗議のためだ。


「早まったかしら」


 ポツリと零れた言葉は、黄色地に濃い桃色の牡丹の上に染みたように感じた。看護婦教育所を出たのはつい去年のことだ。人助けは好きだったし天職だと思っていた。久仁子は耳が良い。きしきしと遠くの廊下から誰かが近づいてくる音がする。顔を振ったら目から滴が落ちて牡丹の模様が一滴分濃くなった。


「おい」

「ちょっと」


 振り向いて顔を出していた翁の顔を見て、久仁子は思わず叫んでしまった。


「何よ、連れ戻しにきたの」


 久仁子は思わず零れてしまった涙を、ぐいっと着物の裾で拭って、歯を剥き出して威嚇した。敵意を向けた先に立っていた男は、肩幅のある中年の紳士であった。彼が件の久仁子の伯父であり、養父の医師であった。


「折角来てやったのに『何よ』とはなんだ、大体お前こそ何だ。恥を知りなさい」

 久仁子の声量を上回る勢いで怒鳴られた。


「な、なによぅ……」


 思わず柄にもなく怯んでしまう。自分の最初の一夜を買ってまで義父が会いに来たのかと思い、久仁子は羞恥に顔を赤らめた。


「……お前は勘違いしている。わけではない」


 そう言って養い親はすっと体を横に移動させた。本当に驚くと、声など出ないものだ。後ろに現れたのは久仁子が焦がれていて、忘れられない男だった。


 あのころは白い狐の仮面を被っていた。今はどうだ、真っ赤な天狗の仮面は、黒い外套に不釣り合いのようである。一目見ただけですぐに相手が分かった久仁子は、震える紅を引いた唇を指先でおさえる。


「あなた……」


「久仁子」


 呼んだのは医者のほうで、久仁子は「お前が呼ぶな」と、カッとして思った。今呼ばれたい男が、すぐ目の前に居るというのに。


「……後は二人で話し合え。久仁子、俺も家内もお前とこの男のことを反対していない。話し合いが終わったら、家へ戻って来るんだ」


 件の医師は苦々しい表情を残して杖を持つと、ガラス戸を開けて、来たときと同じようにゆっくりと退席した。ぎしぎしと歯ぎしりのように廊下が鳴いている。


 取り残された、男は、彼の人は。ドッカリと久仁子の傍の高座椅子に腰を降ろすと、ゆったり脚を組んだ。


「莫迦か、お前は」


 ……声を聞いたのは初めてだ。だのに、件の医師と同じように久仁子をなじるのだ。久仁子は堪えていた涙が吹き出した、子どもみたいにぶわーと叫んで泣き始める。しかし、天狗は困った風でもなく、脚を組み替えるだけだった。


「折角就いた職は辞すわ、花街に身を売るわ、何を考えているんだ」

「あ、あなただって好きにしているでしょう。村を出る最後の日に、見送りも来てくれなかった、手紙だってどこに送ったら良いか分からないし……私ばかり責めないでよ」


 泣いて化粧がボロボロになりながらも、男の脚を両腕でこじ開けてガブリ寄る。


「……意思は固いのか」

「そうよ」

「ならはヤメロ」


 そう言って男はおもむろに腕を伸ばしてくる。黒い外套の下から太い腕を伸ばす。黒く化粧を落とす涙の雫を、大きい指の腹で拭ってくれた。


「俺が相手をしてやる、……それでもう夜は客をとるな。芸者ってのは、で食ってくもんだろうが」


 それが男が久仁子へ見せた振る舞いの中で、一番の執着に思えた。それが嬉しくて、今度は違う涙が溢れ出した。男は仮面をズラし、烏みたいな上着を脱ぐとゆっくりと久仁子へのしかかった。現れた唇は厚ぼったく、鷲鼻がまるで異国の者のようである。


「久仁子、を呼べ」


 久仁子は鼻を真っ赤に染めて、初めて名前を呼んだ。名前は知っていた。彼の父親が呼んでいたからだ。


あきら


 その言葉ごと唇を喰われた。

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