第四話 久仁子
「げ」
「……なんだ、またお前か」
見られたくない者に見つかったものだ。しかも柄にもなく手には菖蒲の花を新聞紙に包んで携えていた。慌てて隠すのも恰好が悪いので、むしろ突き出すようにして忠治は胸を張った。
「新聞紙で包むなんて、流石軍人さんね」
「五月蝿い」
忠治はかまわず廊下を進んで行く。古びた病院の廊下はキシキシと音が鳴った。外地に行っていた同期が戻って来て入院している。その見舞いの際に、例の芸者に出会したのだった。
「相変わらず喧しい奴だな、お前の誰かへの見舞いは終わったんだろう」
忠治は病院に入る際に、久仁子は丁度そこから出て来るところであった。この間は紅色基調の艶やかな着物を引きずるようにして着ていたが、今日はシンプルな水色の着物をキッチリ着こなしている。二百三高地巻きが、彼女のたっぷりした黒髪を美しく結い上げていた。
「終わったけどかんしよ、監視 ここにはアンタたち軍人以外だっているんだからね。騒がれたらたまらないわ」
「……帰れとは言わないのだな」
「口惜しいけどアンタが来れば、その花をあげるお友だちは喜ぶんでしょう」
病院の美しい中庭に気を取られながら、チャカチャカと器用に並んでついて来る。まるで鴨の雛のようだと気づいて、硝子に写る久仁子の姿に、フリフリした丸い尾っぽが見えるように思えた。忠治は笑いを噛み締めて真っ直ぐに進む。
ふと、思い至って忠治は足をピタリと止めた。だから久仁子は大股のままその横を通り越してしまって赤面する。「なによ」と顔を顰める丸顔の久仁子は、とても年上には思えなかった。忠治は、郷里に残して来た、一人きりの妹をぼんやり思い出す。
「お前の見舞い相手は、誰だったんだ」
思い起こしたことを、素直に彼女に問うてみた。投げかけた言葉に、ぎくりと久仁子は肩をこわばらせた。そういったことに愚鈍な忠治でも、今の発言は宜しくなかったことが感じ取れる。久仁子の白い顔が、みるみる赤く染まり始めたからだ。
「……なぁんでそんなこと聞くのよ」
そう呻いて、久仁子は涙を零し始めた。綺麗な顔面を崩してべそべそと人目もはばからず泣き出した芸者は、最早少女のようであった。忠治は菖蒲を片手に持ち帰ると、華奢な手首を掴んでぐいっと久仁子を導いた。
大きな窓硝子が並ぶ廊下の端に、白く塗られた中庭に続く扉をギシリと開いた。中庭は初夏の花々が美しく咲き乱れている。忠治は、そこに設置された華奢な長椅子に座って、女も反対側の端へ座らせた。すると、逢ってまだ二度目の女は、泣き止むまでボソボソと身の上話を話し始めた。
聞けば、久仁子はこの病院の貰われ子らしい。十分な教育を受け、女学校にも通わせてもらっていたが、とある理由からここを飛び出したのだった。
「あたし、本当は奥羽の出なの」
「ほお」
珍しくもない。ただ、そういった田舎の子どもが貰われて(売られて)来る場合、彼女の現在の職種になる方がしっくりくる気もした。そこまで考えて顔に出ていたのだろう、芸者は笑って「義理のお父様の妹が、私の本当の母親なのよ」と説明を重ねた。
「なるほど、こちらの先生は、奥羽出身であられたか」
忠治はこの病院の院長と面識があった。医学部の非常勤で指導教官をすることがあった。
「そっちは」
「え」
「もしかして、そっちは海育ちなの」
「違うが、海はそう遠くなかった」
「私は山育ちよ、だからお魚が好き」
「逆じゃないのか」
「山でだってお魚は穫れるわ、海の魚は滅多に食べられなかったもの、ご馳走だった」
そう言って泣き腫らした目で笑った彼女は健気だった。喜怒哀楽が激しい、忠治は若干それに疲れているが、心の片隅で悪くないとも思えた。まるで山の天気のように、久仁子は赤い唇を一度きゅむっと閉じた。
「……
「好きな人が、いるの」
と、彼女が答えた内容は意外なものだった。「どんな男だ」と尋ねると、「山伏」と思いも寄らない職業が告げられ、。
「は、どこで知り合うんだそんなのと」
「山でよ。話したことはない……と言うか彼は話せなかったんだけどね、小さいころからずっと一緒だった。彼のお父さんが山伏でね。彼は狐、父親は天狗の仮面を被っていたわ」
「……喋ったことがないのに好きになどなるものか」
「莫迦にしないで。喋らなくっても一緒に遊んだり、共に過ごしていれば彼がどんなにか優しい人かはわかる。山の奥に入り過ぎて村に帰れなくなったときに、いつだって私を見つけて、迎えに来てくれた」
「……」
まるで、忠治の記憶のように。森の中で膝を抱えて泣いている緋色の着物の少女に、一本歯下駄を履いた仮面をつけた少年が近寄って行く幻想が見える。二人の周りを飛び交う蛍がまでもが見える。水辺が近いのだろう、白い霧が二人の子供を包んだところで、忠治は我に返った。
「……それが男女の情愛に変わるもんか」
「なに」
「なんでもねぇ。でもそれきり逢ってないんだろ」
「まぁ」
「何でこんな立派な病院を飛び出す理由になるんだ」
「……見合いを勧められたのよ、というか強要って感じだったわね」
そして久仁子は、赤裸々にこんな話を始めた。
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