第三話 五味

大正二年、一月。


 嗚呼、久仁子くにこ。僕だ。


 やなぎ忠治ちゅうじが陸軍の軍医時代、『その女』に出会ったのは、それなりの格式の料亭であった。女は芸者なのにもかかわらず、ベロベロに酔っぱらって廊下に一人で転がっていた。


 居心地の悪い宴会場から厠に立った忠治は、些かぎょっとしながら床を見下ろす。まるで金魚のようにひらひらした美しい着物を廊下に散らせて、仰向けになって芸者が寝こけている。


 美しかったはずの黒い髷は歪んで、着物の裾が捲れてしまい、廊下を通る男たちがニヤニヤとそれを見下ろしながら行き交っていた。その男たちも忠治も、同じ陸軍軍人だというのだから鼻持ちならない。


「おい、お前」

「む」

「だらしない、起きるんだ」


 剥き出しになっていた肘を掴んで、些か無理矢理に持ち上げる。すると、女は微睡んだ瞳を唐突に見開いて、白く美しい丸い顔を凶悪に歪めると、こちらを睨み上げてきた。忠治は眉を顰める。


 視線が絡んだ瞳の色は、照明の真下にもかかわらずどこまでも黒い(白目の割合が少ない)。うねるような美しい黒髪の、少し幼気が残る大きな瞳の美人だった。


「五月蝿い、なによ」


 女は足だけズドムッと廊下に立てて降ろすが、より状況は悪化したようだ。白過ぎる脚の内側から、忠治は気まずそうに目を逸らせた。そう言えば久しく女は抱いていない。


「寒いだろ、風邪をひくぞ」

「放っておいて、私がここで寝たいからねているの」

「あぁ」

「そうしたいからそうしているって、言っているでしょ」


 起き上がる勢いで忠治に腕をぶつけてくる。それをハシリと受け取ると、丸く、ふくよかな顔に似合わず、肉のついていない、骨のような腕であった。忠次は唐突に芸者の哀しい身の上を想像してしまう。


 すると忠治と芸者の傍らで、ゴホンッと鋭い咳払いが聞こえた。


「なにをしている、邪魔だ」


 忠治が目線を落とすと、自分より小柄な軍人が一人、いつの間にか側に立っていた。急いで女の腕を離して一礼する。二期上の先輩であり、上官の五味ごみ久雄ひさおであった。


「は、五味中尉。失礼致しました」

「なんだ柳、よりによってその女か……。実に趣味が悪いな」


 そう言い放つ上官に、


「あたし、コイツ嫌い。チビで目つきが悪くて愛想がないしさ……」


っと、芸者は忠治の後ろにヒラリと隠れてから、中尉に聞こえるように呟いた。命知らずな態度に、忠治は肝を冷やしたと同時に興味が湧いてしまう。


「狐顔は帰れ」


 女はまるで忠治に言わせるみたいにして呟いた。五味は一瞬キョトンと青年らしくあどけない表情をすると、ハッハッハーッと彼にしては珍しく声を上げて笑う。そのまま口元に手のひらを当てて、くるりと忠治たちに背を向けると、言葉を放った。


「行くぞ、柳」

「はい」


 促されて、女の細い指先を薙ぎ払うと、五味の小さい背中を急いで追った。「帰りますか」と忠治が問うと。「……俺にはまだ、行くところがある」とニヤリと笑われた。


「ついて行きます」

「止めておけ、お前にはまだ早い。ところでさっきの女、名前は聞いたのか。どうなんだ、えぇ」


 ニタニタと笑いながら肩越しに振り返るこの男は、ゴロツキの溜まり場にも出入りしている。


 『ついて行く』という意味は、そこに同行するということではなく、この料亭から一緒に出て行きたいという意味だった。だから忠治は大人しく五味の質問に答える。


「いえ、興味がありませんゆ……」


「『久仁子くにこ』と言う。変わった女だ。普通あすこにいる女たちってのは貧困で売られて来たり男に騙されて借金があったりするもんだが、あの女は違う。『道楽』で芸者をやっている」


「はぁ」


「よっぽど男に飢えてるんだろうな。ああ見えて評判が良い。『たぬき』という愛称でな理由が分かるか?」


「いえ……」


「丸顔で色白。それでいて毛が濃いんだ。真っ白な肌に海雲もずくみてぇに広がる黒が、好き者の心に刺さるらしい」


 五味が右腕を上げると、料亭の前にライトをギラギラさせた自動車が迫って来るのが見えた。五味はそれに颯爽と乗り込むと、今度は忠治に向かって左腕を上げた。


「しかも俺と同い年で……いや一つ上か、お前にとっては年増のゲス女だ、アイツも『止めておけ』」


 そう言い残して自動車ごと暗闇に消えて行った。忠治は辺りが真っ暗に戻るまで直角にお辞儀をし続けた。静かになってやっと顔を上げると、料亭の中から先程の女のヒステリックな声が漏れて聞こえてきた。

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