雪女の恩返し

小紫-こむらさきー

先日助けていただいた雪女です

「雪は嫌いだ」


 空を見上げて呟く。

 灰色の重そうな雲からは、ふわふわと小鳥の羽根のような雪が舞うように落ちてくる。

 このまま空を見ていたら、吸い込まれてしまいそうだと小さな頃から思っていた。灰色の空に吸い込まれたら、どうなるんだろう。

 自分の体が浮いてしまって、知らない場所へ連れて行かれる気がして怖くなるから嫌いだった。

 嫌いなはずなのに、雪が降ってくると空を見つめてしまうから不思議だ。

 もう俺も成人して数年経った。いい年なので、空へ連れて行かれるかも……とは思わないけれど、それでもなんとなく雪が降ってくるということに苦手意識は持ったままだ。

 雪が降ってくる空が怖いなんて言うと、昔から馬鹿にされたのでいつのまにか言わなくなった。でも、一人の時はこうして独り言を呟いてしまう。

 

 おとといも降っていた雪は、すっかり溶けかけていたのに、その上に新しい雪が積もっている。

 塀の上にある崩れかけた雪だるまをなんとなく手に取って眺めた。手袋をしないまま雪を掴むと手が痛い。

 

「このまま溶けるのも可哀想だよな」

 

 俺は、なんとなしに雪だるまに葉っぱを巻いて着飾ってやると、ビルとビルの隙間に置いてやった。これなら、晴れたとしてももう少しだけ保つだろう。

 白い息を吐きながら帰路に就く。明日、電車が遅延していたら自宅作業でいいことにならないだろうか。今のうちに休みを申請してもいいのでは?

 なんてことを考えながらドアノブに手をかけた。


「おにいさんおにいさん、こんにちは」


 急に声をかけられて、ドアを開く手を止める。

 振り返ると、目の前にはやたら肌の色が白くて薄着の女が立っていた。

 見た目は二十歳前後……未成年だったら面倒だな。

 艶のある真っ黒な髪は胸辺りまで伸ばされていて、毛先が内側に巻かれている。

 大きくぱっちりとした目の中で、カラーコンタクトでも入れているような銀色の瞳が妖しい光を放つ。

 無視をしようにも、玄関から家に入り込まれたんじゃたまらない。どうすべきかと思案していると、目の前の女はにこりと笑って小首を傾げた。


「先日助けていただいた鶴です」


「鶴を助けた覚えはないが」


 反射的に返答をしてしまった。この手の狂人とまともにコミュニケーションが成り立つはずはない。

 口元を抑えて眉間に皺を寄せる。警察に通報するか……とスマホをコートのポケットから取りだした。


「おにいさんおもしろいね。鶴って言うのは嘘だけど……おにいさんに先日助けられたものです。覚えてない?」


 コロコロと鈴の転がるような声で言われて、通報しようとしていた手を止める。

 先日助けた……心当たりが無くて、もう一度、目の前に居る彼女を見る。

 モスグリーンのニットカットソーの襟元はV字になっていて、谷間が見えている。慌てて目を逸らして視線を下へ向けると網タイツに黒のデニム生地のホットパンツが目に入る。

 雪が降っていてこっちはコートにヒートテックの股引をパンツの下に穿いているのに頭がおかしいんじゃないか?

 やっぱり異常者だ。まともに言っていることを信じるのは危険だ。今流行の家出少女かもしれない。変なことになる前にさっさと通報して然るべき場所にお帰りいただこう。

 無言でスマホを耳に当てると、女が俺の腕に手を伸ばす。

 袖口から覗いている手首に女の指が触れた。あまりの冷たさに身を竦ませると、スマホが手から落ちて女の足下へ滑っていく。


「鶴じゃあないんだけど……雪女です! なんちゃって」


 馬鹿らしい……と言いかけて、口を噤む。

 冷たい手、寒いのに馬鹿みたいな薄着、そして真っ白な肌と黒髪があまりにも雪女として説得力があったからだ。


「あ、信じた?」


 ムッときて、俺は彼女の足下に滑り落ちたスマホを拾うために屈む。手を伸ばそうとすると、彼女が足を俺とスマホの間に差し込んできた。

 膝下までの黒革のブーツと網タイツ……これは近所の人に見られ出もしたら誤解されるのでは?

 嫌な予感と共に変な汗が背中を伝う。


「ふっふーん……警察に電話しても無駄ですよーだ! 私、貴方に恩返しをするまでは貴方の従姉妹ということになってますから」


「は?」


「これ身分証」


 俺に従姉妹なんていたことはない。二十数年間ずっといるのは年の離れた従兄弟だけだ。

 屈んでいる俺に視線を合わせるために両足を折り曲げて座った彼女が、胸元から顔写真付きの身分証を取りだしていた。驚きの余り素直に彼女が差し出してきた身分証を受け取って目を通す。


「私は、しばらく坂岡さかおか雪美ゆきみだよ。よろしくね那月なつきおにいちゃん」


 精巧な偽造カードの類いだと思った。警察にやっぱり通報しよう。

 ストーカーか?

 誤解されてもいい……キチンと身の潔白を証明できるはず。覚悟を決めて従姉妹を名乗る異常者を警察に突き出すために落ちているスマホに再び手を伸ばす。


「だぁめ」


 子供をあやすような言い方をして、雪美は俺の手に触れた。刺すような冷たさが、彼女の触れたところに走る。本当に凍ってしまうんじゃないかと錯覚するほどに。

 すぐに俺から手を離した彼女は、薄い桜色の唇の両端を持ち上げて妖しく微笑んだ。


「お母さんと電話、してみよ?」


 結論から言って、俺の母親は洗脳されていた。

 俺に従姉妹なんていないのに、従姉妹は居たと強弁するほどに。架空の思い出まで語ってきやがる。

 洗脳された母と、自称従姉妹の思い出話で盛り上がられ、そして、従姉妹なんていないといった俺が逆に「大丈夫? お仕事で参っているのかねえ」なんて心配される始末だ。

 雪美の「大丈夫、しばらくは私がお兄ちゃんのところにいるから」の一頃で、どうやら母は納得してくれたが。

 全然良くない。病院に行った方がいいのはどう考えても母の方だ。俺に妹なんていないのに。


「目的はなんだ? 金なら払うからさっさと帰ってくれ。母にした洗脳も解け」


「だから、恩返しに来たって言ったでしょ? お金をもらったら恩返しになんてならないんだってば」


「そんなこと信じられるわけないだろ!」


「でも実際、無から生えてきた従姉妹がここにいて、身分証もあって、お母さんも認めてくれてるんですけどぉ」


「……ああもう。らちがあかない」


 近所の人が通りがかりに玄関の前で言い争いをしている俺たちへ心配そうな視線を投げかけていく。

 愛想笑いと会釈をすると、気まずそうに相手も会釈をして足早に去って行った。


「とりあえず、家の中に入ろうよおにいちゃん。恩返しのための願い事は後で教えてね」


「お前の兄になった覚えもない」


 ここで言い合いをしても疲れるだけだ。母親も洗脳されている以上、警察が来ても頭のおかしくなった親類の痴話喧嘩だと思われてしまう可能性もある。

 ここは俺が毅然としてこの異常者を説得するしかない。

 諦めて立ち上がる。ドアノブに手をかけて「とにかく、入れ」というと、彼女は俺のスマホを拾って立ち上がった。

 自称雪女との奇妙な同居生活が幕を開けた。


 雪女は暖房では溶けないらしい。雪女と信じたわけではないが。

 俺がどうやって彼女を助けたのか聞いても答えてくれないので、多分詐欺の類いだと思う。

 預金通帳や金品が盗まれたらその時に警察に付きだそう。そう妥協して、俺は異常者を家に入れた。

 女だから、いざとなれば腕力で勝てると過信していたのかもしれない。

 大きな目とミステリアスな銀色の瞳に少し気を狂わされた可能性もある。


 だが、予想していた以上に、自称従姉妹を名乗る異常者との共同生活は快適な物だった。

 例年に類を見ないほどの大雪で交通機関は麻痺をした。この数日間会社にも行くこともままならない俺は自宅で仕事をすることになった。

 ウェブエンジニアは自宅でも作業が出来ないことはない。それが良いことかはともかく。

 別室でなら好きに遊んでいていいぞと雪美にPCを与えた。カード情報や個人情報は半ば無駄だとは思っているけれど消してある。

 仕事の邪魔をされなくて「まあ悪さをしないなら兄妹ごっこにも付き合ってやるか。気が済めば消えてくれるだろう」くらいに思っていたが、雪美は予想以上の働きをみせてくれた。

 俺が仕事の間、いつのまにか家を出ていて、大雪の中買い物に行ったらしいのだ。

 仕事を終えて部屋から出ると、温かいスープを器によそって渡してくれた。

 そっと触れた手はやはり氷のように冷たい。


「自称雪女が、熱いものを触って溶けたりしないのか?」


「太陽の熱以外で私は溶けないからね」


 と妙に得意げにいっていた気がする。彼女が雪女だなんて信じていないけれど、悪い子ではないらしい。

 とりあえずその冗談がおもしろかったので笑っていると、彼女がスッと手を伸ばしてきた。


「心配してくれてありがとね」


 彼女の手は近付くだけで冷気が漂ってくるほど冷たくて、思わず首を竦ませると、伸ばした手を雪美はすぐに引っ込めた。

 それから眉尻を下げて笑う。それが少しだけ寂しそうに見えて、俺はよくわからないけれど胸の中がざわざわとした。

 美しい女が、悲しそうにするのは胸が痛くなる。これは人間なら当たり前の感情だ。


 彼女が来て三日。雪は、降り止まない。

 相変わらず自宅に籠もる日々だった。俺は平気だが、雪美はつまらないのではないかと心配もした。

 若い女というものは、色々出かけたがる物だと思っていたが。

 彼女は家の中で家事をして、時々一緒に映画をみて過ごしている。

 ゲームをしたことがなかったらしいので教えたら、家事の合間に遊んでいるようで無邪気な笑顔で喜んでくれた。

 同居生活を、手放したくないと思い始めたことに頭の片隅ではヤバいと思いながらも、雪のせいで人との関わりも減った今では雪美は数少ない身近な他人の一人になっていた。


「雪が降っているのを見ると、不安になるんだよ」


 タバコを吸いながら空を見る。

 隣に来た雪美に、なんとなくそんなことを口にした。

 雪美が大きな目を更に大きく開いたのを見て「失敗した」と内心思う。どうせ馬鹿にされる。

 特に明るくて無邪気な性格の雪美は……。


「わかる。落ちてくる雪を見てると、空に吸い込まれて消えてしまいそうで……怖い」


 馬鹿にされるとしか思っていなかったので言葉が出なかった。

 寂しげに空を見上げて、手を上に伸ばす彼女を、俺は紫煙をゆっくりと吐き出しながら見つめる。


「私たち雪女は、空から生まれて空に帰るから」


「雪山じゃないのか?」


 雪女ジョークだというのも忘れるほど、彼女の言葉は真に迫っていた。つい、そんな彼女の神秘的な雰囲気に飲まれて、俺も馬鹿らしいことを口にしたなと思う。

 でも、彼女は俺の空が怖い気持ちを馬鹿にしなかった。

 だから、少しだけ、彼女の馬鹿らしい設定も信じたふりをしようと思った。


「雪から生まれて、雪山で生きていく子もいる。でも、私は都市部で生まれてしまったから。太陽が出て溶けたら、空に吸い込まれて消えるの」


「そっか」


 なんて言えば良いのかわからなくて、俺はただ煙草を灰皿に押しつけて、彼女の手を握った。

 冷たくて一瞬体が強ばる。まるで氷を触っているみたいだ。それでも、少しだけ我慢して彼女の手に自分の手を重ねていると雪美がさっと自分の手を引き抜いた。


「那月が急にかっこいいことをいうから、雪女は照れて溶けてしまいますぅー! 風邪引いちゃうから部屋に帰ろ!」


 無邪気にそう言った彼女の、髪の間から見えた耳が赤くなっている気がした。自分でもなんで彼女と手を重ねたのかわからなくて、頭をかきながら先に部屋に戻った彼女の後を追った。

 俺の手は、しばらくしもやけをしたみたいに痛痒くなったが、彼女には言わないようにした。


 二週間、雪は降り続けている。前代未聞の大雪だと毎日ニュースでも連呼している。


「大雪は、雪女のお前がいるせいだったりしてな」


「……そうかもね」


 珍しく雪女ジョークが飛んで来ない。

 しおらしく顔を背けて、食器を洗う雪美が、彼女らしくなくて、俺は慌てて言葉を続ける。


「そんな雪女なんて痛いキャラ付けしないで普通に話しかけてくれても、俺はあんたと友達くらいにはなったのに」


「……ありがと」


 最初は異常者だと思っていたし、母を洗脳した手口や身分証を偽造したことは未だに怖いと思っている。

 だけど、残念ながら俺は彼女に好感を持ち始めていた。

 料理もしてくれるし、見た目も悪くない。

 それに、みんなが馬鹿にしてきた俺の「雪が降っている空が怖い」を馬鹿にしないでくれた。

 たったそれだけのことのはずなのに、それがずっと心の中に刺さり続けている。


「あのね、本当に大雪は私のせいなんだ」


 真剣な表情をした雪美が、キッチンから出て俺の方へ歩いてくる。

 薄手のカーディガンを脱いで、カットソーを脱いでいく。


「それと脱ぐことになんの関係があるんだよ」


 そう言って目を逸らした。流石に急に雪美の裸を見るのは抵抗がある。下心がないというわけではないが、そういうことを流れでしないように意識をしていたのに。

 そんな俺の言葉を無視して、彼女が近付いてくる。冷気が俺の肌を撫でて、鳥肌が立つ。暖房を付けているのにまるで外のように寒い。

 ひやりと、氷のように冷たい手が俺の両頬に当てられた。


「これを見たら、雪女って信じてくれる?」


 目を開けて彼女を見る。

 いつのまにか白無垢の着流しに身を包んでいる彼女の銀色の瞳が輝く。

 彼女の桜色の唇から吐かれた真っ白な息が俺の顔に当たる。


「ごめんね、那月といるのが楽しくて……那月にもみんなにも迷惑かけちゃった」


 目を伏せた彼女が瞬きをすると、目から小さな氷の粒がポロポロと零れる。綺麗で見とれていたあとに、アレが涙だと気が付いた。

 言葉もない俺から離れた彼女は、悲しげな表情を向けると口元だけ微笑みを浮かべて両腕を広げてみせた。


「雪女の恩返し……鶴みたいに織物を作ってあげるとかは出来ないけど、宝石をいくつか作ることは出来るから」


 彼女が目を何度か瞬かせる。すると、小指の先ほどはある大きな宝石がいくつか彼女の手の上に転がり落ちた。

 大きな宝石は、確かに売ればそれなりの値段になりそうだ。

 彼女が消えることで雪が降り止めば、困っていた人も助かるだろう。大雪のせいで飲食店は経済的に大ダメージを受けたとニュースでもよく言っているのを聞く。

 でも、俺は彼女の申し入れに素直に頷くことが出来なかった。


「恩返しは、宝石じゃなくてもいい」


「え」


 見開いた彼女の銀色の虹彩が薄雲から差し込んだ太陽に照らされて光る。


「さっきは友達くらいにはなったと言ったが……嘘を吐いた」


 窓から差し込んできた太陽の光から彼女を守るように、俺は彼女のことを抱きしめた。


「これからもずっと一緒に居てくれ」


 彼女の体は、もう氷みたいに冷たくなかった。


「雪は……嫌い?」

 

 温かい彼女が、俺の胸の中でそう呟く。


「雪は嫌いだ。あんたが空に帰ってしまわないか不安になる」


「ふふ……帰りませんよ。これからもずっと貴方と一緒です。あの時、雪だるまを日陰に置いてくれてありがとう」

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