第4話

 昂った人波が途切れ、がらんとしたデッキ上に冷え切った風が吹いている。拓士たくじの前方を、時折、疲れたような、しかし充足感に満ちた表情が通り過ぎていった。最終電車には、まだ時間がある。

 それにしても、と拓士は眉を顰める。ベンチの男は、何故あんなに小さい音で弾き、歌いもせずに居座っているのだろう。案の定、観客はひとりもいない。最初の方こそ足を止めかけた通行人もいたようだが、男に見世物をする気がないと分かると、そそくさと去ってしまった。


「帰ってきたら、一緒にギターを弾いて、歌おう……」

 帰ってきたら――拓士が幾度目か呟いたそのとき、全身を稲妻のような衝撃が走った。

 Dコードのアルペジオ。何度も何度も聴いた、その調べ。

 ――この曲が一番好きなんだ。

 Dコードで始まる「Heal The Pain」、悠はそれを弾く前に、必ず独特なアルペジオで指を慣らした。それが今、どうしてか拓士の耳を震わせている。

「違う、そんなはずは……」

 言いながらも、視線はベンチの男に釘付けになる。

 イントロが始まる。拓士は思わず立ち上がった。

 ――入りが難しいんだ。

 悴んで固まった右手でリズムをとる。

 ――耳がいいんだな。発音も完璧だよ。

 息を吸い込む。むせかえるような冷気を、身体に残った僅かな熱で、精一杯の歌声に。

 デッキに残っていた人々が、一斉に視線を向ける。

 顔を真っ赤にさせながらも、拓士は構わず歌い続けた。

(どうしたって、この痛みは癒されない)

 拓士の元に、見慣れない番号から電話が掛かってきたのは今年の夏だった。悠とそっくりな声。悠の姉だという人から、彼が亡くなったことを伝えられた。

 夏前だった。彼はアパートの自室で亡くなっていた。原因は風邪の悪化、高熱で意識朦朧だったという。何日も姿を現さない彼を不審に思った大家が、ベッドの上で静かに息を引き取っているのを見つけた。

 誰にも連絡しなかった。

 自分のせいで、また誰かを不幸にすることが恐ろしかったから。

(苦しかったろ、怖かったろ)

 一人暮らしを始めると分かる。熱が出たとき、自分一人しか家にいない心許なさを。


  自分に優しくならなきゃ 君を幸せにする力があるのは君だけなんだから

 悠は自分を許せなかった。

  

  彼は本当に 君を傷つけたに違いない

 大切な「彼」は悠を縛り続けた。不慮の事故で、責任はどこにもない。

  

  友人になれない恋人を 誰が探してるっていうんだ

 本当に困ったときに手を差し伸べるのが友人だ。そして自分は悠に何をしてあげただろう。


 誰も責めることは出来ない。ただ後悔だけが引き継がれて残るだけ。

 拓士は歌う。抑えてきた半年分の思いを吐き出すように。

「僕なら君の傷を癒せる……僕なら」



 曲が終わった。肩で息をしていた。真っ赤に熱を放つ顔を、寒風が吹きつけて冷ましていった。

 まばらな拍手が起こる。

 その音で我に返った拓士は、地べたに膝をついて、鞄を探った。凍てついた指は上手く動かせない。財布から幾ばくかの小銭を無理やり握ると、拓士はベンチへと一直線に歩み寄った。

 ギターを膝に置いた男の正面に立つ。

「勝手に歌って済みません。……とても大切な曲だったんです。偶然ですが、弾いてくださってありがとうございました」

 軽く頭を下げて金を握りしめた手を出したが、男の方は受けとる素振りを見せず、フードを上げて、拓士の顔を見据えた。

 男は困惑している、というよりは、驚いたように目を瞠っていた。まじまじと見つめられ、恥ずかしさから反射的に目を逸らして俯く。すると拓士は視界に入ったものに、息を呑んだ。

「それは……その、ピック」

 男の指先には、見覚えのある物が抓まれている。

「……そうか、君が悠の友達か」男はピックを持った手を拓士に突き出す。「まさか、本当に来るとはね。あの子の冗談かと思っていたが」

 ほら、と差し出され、拓士はおずおずとピックを受け取った。

「悠のことは聞いているね?」

 拓士は一拍置いて頷く。

「今年の夏前だったか、あの子が亡くなる前にね、ギターの弦が切れたんだ。虫の知らせ、というのかな。それでしばらく連絡を取っていなかった悠のことが気に掛かって電話をしたら、元気そうな声をしていて馬鹿らしく思ったんだけど。……でも妙なお願いをされてね。クリスマスにK駅の駅前でギターを弾いてほしい、ピックと曲のコード譜は送ったから、と言うんだ。おかしな話だとは思ったが、数日後に彼が亡くなったと聞いて、最後の願いくらい叶えてやらんと、と思って来たんだ」

「悠の頼みで……」

「そうだ。路上ライブでもすればいいのかと訊いたら、アンプも歌も必要ない、ギターだけでいい。ただ、そんな寂しい演奏に心を惹かれる奴がいたら、そいつに、送ったピックを渡してほしい、と」

 拓士はピックを裏返す。

「察するに、君は悠の友人で、それは思い出深い品のようだな。渡せて良かったよ」

「はい……」

 声だけは絞り出したものの、拓士の視界はぼやけて何も見えなくなっていた。それでも、刹那、瞳が捉えた記号は、確かに悠から送られた品であることを証明していた。

  僕なら君を癒せる

「とても、大切なものだったんだな」

「はい、とても。……あの、あなたは」

「私はあの子の叔父だよ」

「……あいつにギターを教えてくれた」

 そう、と男は喜色を浮かべて大きく首肯する。


 終電車の静かなブレーキ音が耳をくすぐる。とめどなく溢れる涙も、周囲の好奇の目も気にせず、拓士は指先ほどのセルロイド片を高々と両手で掲げ、駅の明るみへ明るみへと歩いていった。

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ジョージ 小山雪哉 @yuki02

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