第3話
悠が珍しく
――話がある。
そう言われるがまま、悠の後をついてきた。
悠が相談事を持ちかけてくるのは初めてだった。普段、快活な彼にも悩みがあったのだと驚くと同時に、自分にだけ打ち明けてくれるのだろう、と思うと正直嬉しかった。
駅前の人通りは多かったが、例の円形ベンチには、ギターを奏でている一人がいるのみだ。
二人は駅を正面に並んで座った。
「アメリカに行こうと思う」
唐突な告白に、拓士は、道中いくつか用意していた台詞の全てを失った。
「……それは、留学ってことか?」
「留学というより、故郷へ戻ってやり直すんだ。元々、こっちの親戚に一時的に保護してもらっていたようなものだから。いつかは戻ろうと決めてたんだ」
拓士は押し黙った。彼の友人を自負していながら、彼の境遇について何ひとつ知らないままでいた自分が憎らしかった。
「行ったほうがいいと思うか?」
「……いきなり言われても、分かんねえよ」
「……ごめん」
拓士は悠と出会ってからのことを思い出す。たった一年半。けれど、これまでの人生を何倍しても足りぬような充実した時間だった、と思う。音楽だけではない。英語も、海外のことも、拓士が俯いて過ごしてきた十六年間は、大航海時代のごとく、発見の連続で大いに覆されたのだ。
悠を尊敬していた。これからもっと、たくさんのことを経験させてもらえるのだ――半ば当然のように、そう思い込んでいた。
寂しげな異国のメロディが背後から流れてくる。こんなに落ち着かない沈黙は初めてだ、と拓士は思う。そして、そういう時に助け舟を出すのは、決まって悠からなのだった。
「クリスマスは、独りでいる方が安心するよ」
言葉の意味を図りかねて困惑していると、
「昔のことを話してもいい? ほんの少しだけだから」
あくまで全ては曝け出さないというように、悠は硬く両手を組んで前屈みになった。
先天性の免疫不全を患っているんだ、と悠は言う。軽度で、今は予防的に薬を内服している程度だが、幼児期は相当大変だったらしい。そしてそれが原因の一端となり、向こうの学校で偏見を受けていたのだという。
「風邪でも感染して重症になられたら、って怖がられてたんだろうな」
要するに厄介者ってこと、と微苦笑する。暴行されたわけではない。しかし多数の生徒が悠に好意を持つ中で、ふと自分を避けている人間に気付く。注意して見ていると、彼らは噂話を通じてじわじわと増え、徒党を組み、あるとき突然、他人の視線が痛々しくなる瞬間が訪れる。名前が悠であったことや、アジア人であることも、拍車をかけたようだった。
仕方ない、と思った。そして高校を卒業すれば、またリセットされるのだ、とも。
彼らの差別は露骨でない分、生々しかったが、もはや学年中に広まった今、それらを覆そうとする気力はなかった。
ひとつは家族のためだった。両親は渡米した当初、現地に馴染めないだけでなく、日本の親類筋からも猛反対に遭い、世界のどこにも身の置き場が無くなっていた。慣れない風習に苦心しながら、日本の家族とも良好な関係を続けようと
もうひとつに、悠を支えてくれた同級生の存在があった。彼は、悠とは対称的に内気な性格だったが、学校では悠と一緒に冷たい視線を受け、また休日も互いの家を行き来する仲を続けてくれた唯一の人間だった。
「とても大切な存在だったんだ。お互いに」
そう言う悠の口元には、自然と笑みが零れている。
「……けれどもう、会えない」
束の間の笑みを閉じ、静かに息をつく。
その日、悠は風邪をひいて寝込んでいた。両親は仕事のために遠くの州へ行っていたが、万が一何かあれば、彼が助けてくれるということになっていた。手筈通り、彼は悠を見舞いに家へ向かった。そしてその道中、信号無視の車に轢かれて帰らぬ人となった。
「彼の家族も呼んで、クリスマスを過ごすつもりだった。でも、結局その年は、クリスマスを祝う気にはなれなかった」
拓士は言葉を返せなかった。慰めでは到底癒えない、深い傷。
「後悔したって遅いことは分かってるんだ。でも、もし俺が風邪なんか引かなかったら、厄介な病気を抱えてなければ、大切な人なんか作らなければ……未だにそう思っちゃうんだ」
拓士は初めて、悠が底抜けに明るく振る舞い、思ったことを素直に言う意味が分かった気がした。悠は別離を知っている。何も伝えられないまま別れる悲しさを。そしていつ悪化するともしれない爆弾を抱えて、目の前だけに一生懸命に生きている。
「俺はアメリカへ帰って、自分の力で生きていきたい。彼の分まで生きるなんて大層なことは言えないけど、せめて俺を守ってくれた分は返したい。……独りでは生きられないって分かってるのに、独りになりたい。こんな矛盾した感情はおかしいかな」
悠は拓士の目を見る。拓士の言葉を待った。
本当は行ってほしくない。悠がいなければ、自分は再び俯いて生きていくのだという気がする。しかし過去の話を聞いて、悠が彼のためにアメリカへ戻るのは当然だという気もした。彼のため、というよりは悠自身の
ならば、自分は彼の代わりだったのだろうか、と思う。心を癒すために日本へ来て、ちょうど彼のような人間を見つける。共に音楽を奏で、将来を語り合い、そして気持ちの整理がつけば決別する。つまり自分は、悠が彼の死を受け止めて前に進むという舞台、その一役者に過ぎなかったのではないか――。
(……違う)
拓士は奥歯を噛みしめる。無性に悔しかった。悠に大切な人がいたことが、引き止めたいという自分のエゴが、そして悠との信頼関係を疑ってしまう自分が。
拓士は鞄を探って、ペンと、予備のギターピックを一枚取り出した。左の掌を台に、ペンを走らせ、悠の手に押し込める。
「……
悠はまじまじと拓士を見つめ、それから手に持ったピックに目を遣る。
「これは……」
「友情の印、だろ」
悠は軽く噴き出し、いつもの屈託のない笑みを見せる。
Xが二つ。手紙やメールで、若い女子同士が使うことが多いのだ、と悠には教えられたが、拓士はそれを友情の証として覚えてしまった。三つにすると、より親密な、恋人同士を意味するという。
「ありがとう」
悠はそれを丁寧にハンカチでくるんで、鞄にしまった。
それから二人は、普段と変わらない他愛ない話に興じた。背後から流れてくるギターの音色は、いつの間にか楽し気な調子に変わっている。気付けば終電間近になっていた。
「……年が明けたら
僅かな間せき止められていた悲哀が、唐突に拓士の胸へ流れ込んでくる。
「もう会わないでおこう。せっかく決心させてくれたのに、君の顔を見たら後ろ髪を引かれそうだ。だからはっきり、さよならと言っておくよ」
じゃあ、と手を上げながら去る後ろ姿を、拓士は思わず呼び止めた。
「帰ってきたら、一緒にギターを弾いて歌おう」
悠は振り返らなかったが、拓士には小さく頷いたように見えた。
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