第2話

 悠と過ごした時間は、拓士たくじの人生の十分の一にも満たない。

 最初に悠と出会ったのは、高校二年の春だった。帰国子女が来るらしいぞ、と異様な昂揚に満たされた教室に、彼は何一つ怖気づくことなく、凛とした表情に微笑を浮かべて入ってきた。

 遠い席だった。休み時間も放課後も、周囲を取り巻く顔ぶれを見る限り、最初に接点がなければ、きっと卒業まで関わることのない人種だろう、と拓士は直感した。


 実際、悠はひと月もしないうちにクラスに馴染んだ。幼少期からアメリカにいたとはいえ、両親が日本人であるお陰か、日本語に違和感はなかったし、海外仕込みの社交性もある。何よりその整った顔立ちに、多くの人間が引き寄せられた。拓士との唯一の共通点は帰宅部ということだったが、学校が終わると一目散に教室を抜け出す自分と、同じ括りでないことは確かだった。

 ――生きる世界が違う。

 当初の直感が確信に変わってしばらく後、拓士は思いがけず、悠と接点を持つことになる。


「洋楽、好きなんだな」

 帰りがけ、靴を履き替えて昇降口を出たところだった。校舎という容れ物から解放された瞬間は格別だ。橙色の西日を背に浴び、自然と顔を綻ばせながらウォークマンで曲を探す拓士の手元を、彼は後ろから覗き込んできた。

「や……そんなことねぇよ」言いながら咄嗟に手元を隠す。

「洋楽ばっかりだったじゃんか」悠はくしゃりと表情を緩ませて笑う。「ジャスティン・ビーバーとか好きなんだな」

 拓士は全身の熱が顔に昇るのを感じた。かろうじて歌手の名前は知っていても、歌詞も分からず洋楽を聴いていたのだ。ずっと海外で生活してきた彼にそれを知られてしまうのは、とても恥ずかしいことに思えた。

 拓士はウォークマンとイヤホンを無造作に鞄へ押し込める。

「聴かないのか?」

 拓士は無言で頷いて、彼の前を歩き始める。

「じゃあ、俺が聴いてもいい?」

 その言葉に弾かれたように振り返る。「駄目か?」と昔からの友人のような気軽さで話し掛ける彼の声に、拓士は無意識に「いいよ」と答えていた。

 悠は目を輝かせながら、カチカチとボタンを弄っていた。果たして音楽好きの帰国子女は、にわかな自分の趣味をどう思うだろうか。拓士は宣告を待った。

 悠は後光のように西日を背負っている。

「良い選曲だな」

 唐突に向けられた屈託のない笑顔に、拓士は胸が熱くなった。

「このジョージ・マイケルが気に入った」

 俺も好きなんだ、と彼は心底嬉しそうに笑う。

 このとき初めて、拓士は自分の趣味――引いては自分自身に自信を持った。そして一匹狼を貫いてきた自分でも、彼となら良き友人になれるかもしれない、と予感した。


 二人は無垢な子供のごとく、瞬く間に仲を深めた。

 悠は拓士に対して遠慮なく物を言った。声が小さいとか、猫背がみっともないとか、今まで誰からも言われなかったことを、悠は逐一声に出した。拓士にはそれが新鮮だった。嫌ではなかった。そして自身の底に埋もれていた、負けず嫌いの血がたぎるのを感じた。


 二人は良き仲間であり、ライバルとなった。

 悠は幼少期に日本にいた頃、叔父からギターを習ったという。十年以上の経験で、巧みにギターを操る悠を見て、拓士もこっそりギターを始めた。

 一方、拓士は歌が上手かった。それを知って、悠はひとりで歌の練習をしていたという。


 三年にあがると、二人は同じ人を好きになった。互いに告白しようとしていると知り、目当ての生徒に話し掛け、贈り物をし、さんざんアピールし合った。するとある日、二人は彼女に呼び出され、

「二人で競っているのが楽しいだけでしょ」

 と、まとめて玉砕したこともあった。

 痛烈な言葉を浴びせられて消沈している拓士を、悠は肩を組んで慰めた。つい今しがたまで火花を散らしていた敵から、即座に友人へと戻れるあたり、悠は大人びていた。思えば、歌の練習に付き合ってほしい、とカラオケに誘ってきたのは悠だったし、意地になって教えを乞えない拓士に、そっとギターの助言をしてくれたのも悠からだった。

 こいつには敵わない、と思ったが、嫉妬など微塵もなかった。


 人は、いつ他人に心を許せるのだろう。仲間に入れてくれたり、精神的な支えになってくれたり、それこそ命の恩人に対して親愛の情を持つことはあるが、拓士と悠の間に、そんな劇的な場面はない。強いて言うなら、最初に言葉を交わしたあの日、同じ曲を好きだった、それだけのことから、いつしか無条件に互いを受け入れていた、と思う。

 人を繋げる音楽の力は計り知れない――拓士は心から感嘆していた。



 いつの間にかギターの音色は寒々とした風音に変わっていた。正面の方から、駅のこもったアナウンスが耳に届く。伏せていた頭を上げると、火照った顔を冷気がひやりと包み込んで心地よかった。

 デッキには静かな足音が響いている。駅へ、百貨店へ、そして街へと歩んでいく人々の満足げな顔を見ながら、拓士は知らず知らずの内に、誰かを探していた。それは悠であり、そこにいるべき理想の自分なのかもしれない。

 ギターが弦を弾く。

 悠然とストロークを繰り返す。

(「One More Try」だ)

 拓士は再び追憶へ誘われた。

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