雪待ちの人

夢月七海

雪待ちの人


雪絵せつえちゃんを見たよ」


 最初にそう教えてくれたのは、雪絵の友達の女の子だった。

 去年の十二月、雪が降った翌朝で、子供も大人も肩を竦めながら歩いていた。僕は通学路で登校の見守りをしていて、その子とは、挨拶以外の言葉を交わすのが初めてだった。


「本当に? いつ、どこで」


 驚いて尋ねると、女の子はこくんと頷いた。


「昨日の放課後、公園で。雪が降っていたから誰もいなかったけれど、雪絵ちゃんが一人で、ブランコを大きく漕いでた」


 どんぐりのような丸い目を、ぱちぱちと瞬きしながらその女の子は説明した。

 僕はそれを聞いて、胸の奥が詰まるようだった。雪絵は、小さい頃からブランコが好きだった。それは今も変わらないのだろう。


 約一年前、まだ小学一年生だった雪絵は、交通事故で亡くなった。横断歩道を渡っている途中、前方不注意の車に撥ねられた。

 雪の降る朝に生まれたため、「雪」の付く名前になった雪絵は、雪の降る日に、いなくなってしまった。もう、永遠に会えない、そう思っていたのに。


「……雪絵が、そこにいたの」


 今年最初の雪が降った日、仕事から帰ってきた僕に、妻の満子みちこがおかえりよりも先にそう告げた。

 彼女の目線の先には、ベランダへ出れる窓があった。粉のような雪が積もったベランダに、サンダルが一組転がっている。


「外に、ベランダに来ていたのか?」


 縋るように満子の手を握って尋ねると、彼女は涙目のまま頷いた。


「雪絵が、私の手を掴んだ」


 雪絵の姉の光絵みつえが、車の助手席で俯き気味に呟いたのは、一月下旬、雪の降る夜のことだった。

 習字教室に行っていた光絵を、車で迎えに行った後だった。待ち合わせ場所だったコンビニを出発してからずっと黙っていた彼女は、最初の信号待ちのタイミングで口を開いた。


「すごく、冷たい手だった……」


 手袋とコートの袖の間に見える素肌を、光絵は、じっと見つめ続けていた。

 街灯に浮かび上がる雪が後ろに見える。あの雪よりも、雪絵の手は冷たかったのだろうかと考えてしまう。


『あれは、間違いなく雪絵だったよ』


 二月の中旬の日曜日、天気は雪、父親から電話がかかってきた。そこで話したのは、私にとっては予想できる内容のものだった。

 しかし、父はこの話を、私に否定されたがっている雰囲気だった。その時の枕詞も、『信じてもらえないかもしれないが』というものだった。


 雪絵は、雪の降っている時、親しい人の前に現れる。まだ、彼女の姿を見ていないのは、僕だけだった。

 六歳なのに、亡くなってしまった雪絵。どれほど無念だったのだろう。その苦しみと悲しみが、彼女をこの世に留めている。


 冬の寒さが残る三月のある日、天気予報は「雪」の一文字をテレビの画面に映し出していた。もうすぐ、春が来る。これが本当のラストチャンスなのかもしれない。

 僕は仕事を休む断りを入れて、最低限の防寒をして、外へ出た。満子はさりげない言葉で外出を止めようとしていたが、それくらいで揺らぐ決意ではなかった。


 重たい灰色の雲が、空の彼方まで覆っていた。これならすぐに雪が降りだすだろうと僕は期待しつつ、一歩一歩、行く当てもなく進む。

 この時間帯は、通学中の小学生があちらこちらに見えた。寒さを気にせず、じゃれ合うように歩いている彼らの中を探しても、雪絵はどこにもいない。


 だんだんと人の姿が見えない方向へと足が向かっていた。自分の白い息だけが視界に入る。

 長く冷たい沈黙の中、目前に、雪がひとひら落ちてきた。はっと息を呑んだ。ぽろぽろと、雲がちぎれて零れてきたような雪の中を、いつの間にか速足で進んでいた。


 雪絵、雪絵、どこにいるんだ。心の中で名前を呼びながら、辺りを見回す。しかし、誰もいない。

 雪絵は、僕の前には現れてくれないんじゃないのか。そんな疑念に足元が竦んでしまい、動けなくなった。


 雲を流すほど強い北風が吹き抜ける道の真ん中、右を見ても左を見ても、見覚えのない家や建物が並んでいる。地面に目を落とすと、白い雪がアスファルトに落ち、形を保ったまま残っていた。

 その時、遠くの方で声が聞こえた。


「お父さーん」


 顔を上げると、こちらへ向かって、走ってくる雪絵の姿があった。去年までと変わらない満面の笑みで、大きく手を振っている。

 揺れる青いマフラー、オレンジのニット帽、買ってもらったばかりのピンク色のダウンジャケット……すべて、あの日のままだった。あんなことなどなかったかのように、雪絵はそこにいる。


 僕は、腰を下ろしてて大きく両手を広げた。雪絵を、真正面から受け止めて抱きしめられるように。

 真っ直ぐに、雪絵が駆け寄ってくる。その姿が、一瞬揺れた。


 笑顔が、酷く苦しそうに歪んだ顔になる。服も含めた全身が、影のように塗り潰される。

 それらは、瞬きの合間のような僅かな変化だったが、確かに起こっていた。


 雪絵の不安定さを見ながら、娘と再会した人たちが、言っていたことを思い出していた。


「雪絵ちゃんが、楽しそうにブランコを漕いでいたのを、私は公園の外から見ていたの。大きく口を開けて笑っていて、なんだか怖かったから、近付けなかった。……そしたら、雪絵ちゃんがこっち見た。真っ黒い瞳をしていて、なぜだか逃げなきゃって思っちゃった。足を後ろに下げたら、私の耳元で、雪絵ちゃんの声で、『遊ぼう』って聞こえて……私、とにかく逃げて、その後雪絵ちゃんがどうなったのか分からないけれど……」


「何気なく、外を見たの。雪降ってるんじゃないかなって。そしてら、雪絵が、雪絵がベランダの外に立っていて、必死にガラス戸を叩いてた。ドン、ドンって重たい音が、思い出されたかのように聞こえてきて、でも、ガラス戸は全く揺れていなかった。雪絵は、大きく目を見開いて、泣き出す直前のような顔で、何か叫んでいた。声は聞こえてこなかったけれど……。私、どうすればいいのか分からなかった。開けてもいいのか、どうかも。その内、雪絵の体が、早送りした雪だるまみたいにドロドロッと溶けてしまって……立っていた場所には、何も残っていなかった」


「習字教室から出て、雪が降る中を歩いてたんだけど、急に、誰かに手首を掴まれたの。掌の形をしていると分かっても、ある得ないくらいひんやりしていて、はっと下を向いたら、それが雪絵だった。上目遣いの雪絵は、今まで見たことのない無表情で、でも、私を握っている手にはすごい力を入れてきて、自分の方向に引っ張ろうとしてきた。このまま、雪絵の方に言ったらダメな気がして、振り払ったら、あっさり抜け出せて、コンビニに一目散に走ったの。その後、雪絵はついてこなかった……ついてきていないよね?」


『車で走っていたんだよ、いつもの道を。見通しは良いし、よく通っているんのだが、いきなり、左から子供が飛び出してきた。驚いてブレーキを踏んだが、何も衝撃が来ない、その子供らしき人影も、いなくなっていた。外へ出て確認しても、血の跡もない。一体なんだったろうと思いながら、車の運転を再開したんだが……今思うと、あれは、雪絵だったんだ。目が合ったのは一瞬だったが、驚いた雪絵の顔が、脳裏に焼き付いているんだ。……まあ、幻か気のせいだと思うのだが……お前、心当たりはないよな?』


 全員が全員、雪絵と再会できたことの喜びよりも、怯えや戸惑いを強く表していた。確かに、話に聞いた雪絵の姿は、生きていた時のそれとは全く異なっている。

 だが、何故受け入れられないのだろうかと、僕は思っていた。僕には、雪絵のどんな表情も感情も関係ない、雪絵がそこにいるだけでいいのに。


 僕の腕の中に飛び込んできた雪絵を、抱きしめた。こんなにも小さかったのかと、息が止まる。雪のように冷たく、匂いが全くない。

 雪絵は、僕の首の後ろに手を回し、自分自身の両手を掴んでいた。僕も同じように、雪絵の背中で両手を握る。ずっとこうしていたかった。


「……お父さん」


 雪絵が、囁くように呼び掛けた。

 僕は、一度ハグを辞めて、雪絵の顔を見ようとした。しかし、雪絵は自分の手を掴み続けるだけで、それを拒んだ。仕方なく、そのまま応える。


「どうしたの?」

「お父さんに、一つ、お願いがあるの」

「うん、何かな?」


 ちょっと舌足らずな雪絵の声、懐かしさで涙が出そうだった。僕は今、雪絵と話している。一年ぶりに、雪絵と会話している。

 その事実に浮かれていて、雪絵の声の切実さに気付けなかった。


「私が、天国に行けるようにお祈りしていて」

「……そうか」


 何かが、腑に落ちた気がした。その正体が分からなくとも、雪絵の本音には、真実が含まれている。

 僕ができるのは、雪絵のことを最後に強く抱きしめることだけだった。


「分かったよ」

「……ありがとう、お父さん」


 雪絵の最後の言葉は、殆ど掠れた文字のように、分かり辛いものだった。しかし、確かに聞こえて、真っ直ぐに届いた。

 ふわっと、風を掴むような感覚がして、雪絵が消えた。腕の中には、最初からそうであったかのように、誰もいない。


 僕は白い息を吐きながら立ち上がった。空を見上げると、音もなく雪が降ってくる。

 白い粒の一つ一つを眺める。もう、雪を待つことはなさそうだった。


































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