第10話 Welcome to heaven

 有田菜々子を倒した富樫は、大友や松田に協力することになった。

「僕の祖先は富樫泰家とがしやすいえって武将なんだ」

 富樫氏は藤原北家・藤原利仁を祖とする家系だといわれている。富樫氏4代当主・富樫家経の子として誕生。

 

 寿永2年(1183年)、源義仲の平氏討伐に応じて平維盛率いる大軍と加賀国・越中国国境の倶利伽羅峠にて対陣。燃え盛る松明を牛の角に結びつけ、敵陣に向けて放ち、夜襲をかける。この大胆な戦略が功を奏して大勝(倶利伽羅峠の戦い)。寿永3年(1184年)に義仲が源頼朝の命を受けた源範頼・義経に討たれた後は加賀守護に任ぜられる。 


 文治3年(1187年)、兄・頼朝から追われ、山伏に扮して北陸道を通り、奥州平泉を目指していた義経一行を追及し、義経本人であることを確信しつつ、武士の情と武蔵坊弁慶の読み上げる「勧進帳」に感心し、義経一行を無事に通過させたという。そのことにより頼朝の怒りを買い、守護の職を剥奪された。後に剃髪し法名を仏誓とし、名を富樫重純(成澄)と改め、一族と共に奥州平泉に至り義経と再会を果たす。その後しばらく平泉に留まったが、後に野々市に戻り、天寿を全うした。

 治承4年(1180年)、以仁王の平家追討の令旨に応じて信濃国で挙兵した源義仲は、翌治承5年(1181年)に平家方の城助職の大軍を横田河原の戦いで破り、その勢力を北陸道方面に大きく広げた。寿永2年(1183年)4月、平家は平維盛を総大将とする10万騎の大軍を北陸道へ差し向けた。


 平家軍は越前国の火打城の戦いで勝利し、義仲軍は越中国へ後退を余儀なくされる。


 だが5月9日明け方、加賀国より軍を進め般若野はんにゃの(現・富山県高岡市南部から砺波市東部)の地で兵を休めていた平氏軍先遣隊平盛俊の軍が、木曾義仲軍の先遣隊である義仲四天王の一人・今井兼平軍に奇襲されて戦況不利に陥り、平盛俊軍は退却してしまった(般若野の戦い)。


 一旦後退した平家軍は、能登国志雄山(志保山とも。現・宝達山から北に望む一帯の山々)に平通盛、平知度の3万余騎、加賀国と越中国の国境の砺波山に平維盛、平行盛、平忠度らの7万余騎の二手に分かれて陣を敷いた。5月11日、義仲は源行家、楯親忠の兵を志雄山へ向け牽制させ、義仲本隊は砺波山へ向かう。義仲は昼間はさしたる合戦もなく過ごして平家軍の油断を誘い、今井兼平の兄で義仲四天王のもう一人・樋口兼光の一隊をひそかに平家軍の背後に回りこませた。


 平家軍が寝静まった夜間に、義仲軍は突如大きな音を立てながら攻撃を仕掛けた。浮き足立った平家軍は退却しようとするが退路は樋口兼光に押さえられていた。大混乱に陥った平家軍7万余騎は唯一敵が攻め寄せてこない方向へと我先に逃れようとするが、そこは倶利伽羅峠の断崖だった。平家軍は、将兵が次々に谷底に転落して壊滅した。平家は、義仲追討軍10万の大半を失い、平維盛は命からがら京へ逃げ帰った。


 この戦いに大勝した源義仲は京へ向けて進撃を開始し、同年7月に遂に念願の上洛を果たす。大軍を失った平家はもはや防戦のしようがなく、安徳天皇を伴って京から西国へ落ち延びた。


『源平盛衰記』には、この攻撃で義仲軍が数百頭の牛の角に松明をくくりつけて敵中に向け放つという、源平合戦の中でも有名な一場面がある。しかしこの戦術が実際に使われたのかどうかについては古来史家からは疑問視する意見が多く見られる。眼前に松明の炎をつきつけられた牛が、敵中に向かってまっすぐ突進していくとは考えにくいからである。そもそもこのくだりは、中国戦国時代の斉国の武将・田単が用いた「火牛の計」の故事を下敷きに後代潤色されたものであると考えられている。この元祖「火牛の計」は、角には剣を、尾には松明をくくりつけた牛を放ち、突進する牛の角の剣が敵兵を次々に刺し殺すなか、尾の炎が敵陣に燃え移って大火災を起こすというものである。

 関係ないが2021年は丑年だ。

「そうなんですか、あのときはオッサン呼ばわりしてスミマセン」

「マツタケ、知り合いか?」

 大友が窓の外の函館港を眺めながら言った。

 3人はホテル『ムーンライト』ってところに滞在していた。

 富樫は長宗我部殺害現場でのイザコザを説明した。

「あのときは気が立ってたんです」

 松田が顔を真っ赤にして弁解した。

「マツタケ、ダメじゃないか」

「大友さん、そのマツタケってのは?」

 富樫は気になって仕方がなかった。

「コイツ、松田武史って言うんです」

「なるほど、それで……」

「それにしても西山さんを殺したホシは誰なんだろうな?」と、大友。

 富樫の心臓が早鐘を打った。

(もしかしたら、この2人は既に俺が犯人だと目星をつけてるのか?)

 大友はつい最近まで美樹本に行っていたらしい。

 

 アペフチカムイ食品の幹部、平三子たいらみつこは富山県高岡市出身だ。

 富樫は三子から般若野の戦いについて教えてもらった。

 養和の大飢饉が一段落した寿永2年(1183年)、平家は各地で起きた反乱鎮圧に乗り出すこととした。その第一の目標は北陸の制圧に定められた、平維盛を総大将とした平氏軍は京より北上し越前・加賀を制して越中へ軍を進めようとした。


 平維盛は越中、越後国境にある寒原の険(現在の親不知付近)を占領し木曾義仲軍が越中へ進軍してくるのを寒原の険で迎え撃つという作戦を立て、越中の地理に詳しい越中前司平盛俊に兵5,000を与えて先遣隊とし越中へ進軍させた。


 その頃、越後の国府にいた木曾義仲は平氏軍が越前・加賀が手中に収め越中へ進軍するとの知らせを受け、平氏軍が越中を確保する前に平氏軍を撃破するため自ら軍を率いて越中へ兵を進めることにした。


 まず今井兼平が木曾義仲軍の先遣隊として兵6,000にて越後国府を出発。平氏軍より先んじて越中に入り御服山ごふくやま(現在の呉羽山)に布陣して平氏軍を迎え撃つ体勢を整えた。


 平氏軍の先遣隊平盛俊軍は、5月8日に加賀より倶利伽羅峠を越えて越中へ入った。平盛俊が般若野にまで軍を進めたとき源氏軍先遣隊(今井兼平軍)が呉羽山を占領したことを知り、その日はあえてそれ以上の進軍を行わず般若野に留まることにした。


 5月8日夕刻、平盛俊軍が般若野から前進しないことを察知した今井兼平軍は敵の意表をつく夜襲を決断。闇にまぎれて敵へ接近し5月9日明け方に攻撃を開始した。


 平盛俊軍は善戦したが5月9日午後2時ごろに戦況不利に陥り退却。


 越中浜街道を進軍し、5月9日には六動寺(現在の新湊市六渡寺)に宿営していた木曾義仲軍は5月10日に般若野の今井兼平軍に合流。5月11日朝、倶利伽羅峠へ向かって般若野を出発した。


 大友はかつて起きた事件を思い出していた。

 イペタム群馬工場で製造されたピザなどの冷凍食品を購入した客から、「異臭がする」などの苦情が2013年11月13日から12月29日までに日本各地から20件寄せられた。調査した結果、高濃度の有機リン系農薬のマラチオン(殺虫剤の一種)が返品された商品から検出された。


 12月29日、イペタム群馬工場の操業・出荷を停止し、市場に出回った全ての生産商品計88品目を自主回収(リコール)すると発表した。


 翌12月30日、食品衛生法により群馬県館林保健福祉事務所は群馬工場への立ち入り検査を実施。「通常の製造工程上で汚染された可能性は低い」と発表し、群馬県警察は意図的に混入された可能性があるとして捜査を開始した。


 イペタムは事件発覚当初、「マラチオンに急性症状は無く、体重20キロで一度に60個を食べないと健康には影響ない」と説明していた。だが12月31日未明には、イペタムの親会社アペフチカムイ食品の親会社であるアペフチカムイホールディングス(以下アペフチカムイHD)は、記者会見で「体重20キロの場合(商品を)8分の1個食べただけで吐き気などの症状が起きる可能性がある」と説明、前述した健康影響の説明は、前日に厚生労働省から指摘を受け、誤っていたとして撤回した。


 2014年1月、イペタムは群馬工場に勤務する全従業員への聞き取り調査を実施。同月25日、イペタム群馬工場で働いていた契約社員の男が農薬の混入に関わっていたとして、2013年10月に4回にわたって工場で製造された冷凍食品に農薬を混入して工場の操業停止をさせた偽計業務妨害罪容疑で逮捕された。


 被疑者が逮捕された2014年1月25日夜にアペフチカムイHD側が記者会見を開き、アペフチカムイHD社長及び同社品質保証担当常務とイペタム社長が今般の事件を受け、2014年3月31日付にて引責辞任することを発表した。


 2014年2月16日には契約社員の男が、2013年10月に計9回にわたり、工場で製造していた冷凍食品12製品に農薬を吹きつけて食べられない状態にした器物損壊罪容疑で再逮捕され、同年3月7日に起訴された。流通食品毒物混入防止法違反や傷害罪の適用も検討されたが、前者については毒性の低いマラチオンが法律の規制毒物に該当することが困難なこと、後者については健康被害を訴えた人の食べ残しからマラチオンが検出されたケースはなく混入と健康被害の因果関係の立証が困難であると指摘され、最終的に見送られた。


 2014年7月25日に、前橋地方検察庁は元契約社員に懲役4年6ヶ月を求刑し、8月14日に前橋地方裁判所は、懲役3年6ヶ月の実刑判決を言い渡した。


 2014年9月25日に東京地方裁判所は、アペフチカムイが商品回収を知らせる社告を出して約5億9,700万円かかったうち、一部の1億円の損害賠償を求めた民事訴訟で、元契約社員に全額の支払いを命じる判決を言い渡した。


 なお、イペタム群馬工場は、元々は不祥事(ブルータス集団食中毒事件)で経営が悪化したブルータス乳業から分社化されたブルータス冷凍食品群馬工場を、ブルータス食品のブルータス牛肉偽装事件によるブルータスグループの経営悪化により、アペフチカムイへ売却され、社名変更し再発足した工場である。


 津田鉄子つだてつこは有田菜々子たち自爆テロ犯を憎んだ。奴らのせいで仕事がなくなってしまった。どうせだったら、富樫を爆殺してくれればよかった。

「赤広のクズ野郎」

 頼みの綱のアマンラスまで爆破されてしまい、ハローワークを頼るしかなくなった。

 失業給付がもらえるのは何よりだが、一生貰えるものではなかった。

 が、ネットを見てゾッとした。

 雇用保険被保険者として、離職日から遡って2年の間に最低12ヶ月以上働いた期間があること。


※特定受給資格者(破産など会社都合他による退職)、又は特定理由離職者(自身の病気、妊娠出産、セクハラ他による退職)は、離職日から遡って1年間に、被保険者期間が通算して6か月以上ある場合でも可。

 鉄子の場合、特定受給資格者に該当するがアマランスに入ってからまだ5ヶ月しか経っていない。

 アマランスに入る前は印刷会社で正社員で働いていたがリストラされ、失業給付をもらってしまっていた。

「どうすりゃいいんだ」

 アパートで悶々としていた。今年の11月で63歳になる。普通なら孫に恵まれてセカンドライフを楽しむような年齢だ。だから、去年起きたコロナで豪華客船の乗客たちが亡くなったときは鼻で笑った。

「贅沢してんじゃねーよ」

 夫が生きていればもう少しマシな生活が出来ただろうが、心労が祟ったのか1990年に亡くなった。

 

 富樫は、源淳也みなもとじゅんやというアペフチカムイの製造部長から耳寄りな情報を聞いた。

 

 2001年9月10日、日本産牛肉に牛海綿状脳症 (BSE)にかかったものがあることが農林水産省から発表された。これを受けて農林水産省がBSE対策として実施した、全頭検査前の国産牛肉買い取り事業を悪用し、2001年10月にアペフチカムイのスタッフが、外国産の安価な牛肉を国内産牛肉のパッケージに詰め替え、農林水産省に買い取り費用を不正請求し、2億円の補助金を騙し取っていた。


 2002年1月、偽装が行われた現場の一つである樋口冷蔵の樋口詩織ひぐちしおり社長がマスコミに告発を行い、偽装が発覚。アペフチカムイは経営が急速に悪化し、廃業解散した。


 2002年

 1月23日 - 取引があった冷蔵会社・樋口冷蔵の内部告発によって発覚。


 1月28日 - アペフチカムイ食品が国内産牛肉の産地を偽っていたことを発表。


 1月29日 - この責任を取ってアペフチカムイ食品の社長、城十一郎じょうじゅういちろうが即刻辞任、同時に食肉部門からの撤退を発表。

  

 2月1日 - 詐欺罪容疑で農林水産省近畿農政局が告発。


 2月2日 - 北海道県警察本部などの合同捜査本部がアペフチカムイ食品本社を捜索。


 2月22日 - 経営再建を断念、会社を清算(解散)する方針を固める。


 3月7日 - 偽装工作に関わっていたコロポックルミートのセンター長ら19人を懲戒解雇。コロッケを主に作ってる工場だ。


 3月30日 - 営業業務を全て終了、翌日付で社員を解雇。


 4月26日 - アペフチカムイ食品臨時株主総会開催。会社の解散を決議、4月30日正式に解散。


 5月10日 - 事件の主犯格とされる本部長ら5人を、詐欺罪の容疑で合同捜査本部が逮捕(その後、2004年7月に元専務ら2人が無罪判決)。このときの専務は十一郎の息子、十三じゅうぞうだ。


 2005年8月12日 - アペフチカムイ食品の清算が完了、アペフチカムイ食品株式会社は法人として完全消滅。


 富樫は思った。もし、怪物が現れたら城一族を殺せばいいと。

 イペタム(アイヌ語ローマ字表記:Ipetam)は、北海道のアイヌの伝説にある妖刀。エペタムと表記されることもある。

 語意は ipe(食う)tam(刀)。道内各地に同様の伝承があるが、むかわ町(旧穂別町)の人喰い刀の伝説がよく知られている。

 伝承では、ペップトコタン(現在の穂別中学校付近)という村(コタン)では、酋長の家に魔力を持つ妖刀が納められていた。この妖刀は、盗賊が近付くとカタカタと鍔鳴りの音がして、ひとりでに鞘から抜け出して敵に飛びかかり、相手を殺してまた戻ってきたという。妖刀は血を求め動き出すが、それを止める秘法を知っているただ一人の長老が死んでしまったため、蒲の筵に包んで仕舞込んだ。ある時その包みが妖しく光りだしたので、村人は恐れて刀を捨てに行ったが、山に捨てても川に捨ててもひとりでに戻ってくるのだった。旅の者が、石を食わせればおとなしくなるだろうというので、鉄の箱に石と一緒に入れたところ、石を削る音がしてしばらくは動きださなかった。しかし再び抜け出して人を襲い始め、困った人々が神に祈り、そのお告げの通りに底なし沼へ捨てたところ、ようやく何事もなくなったという。


 別の伝承では、ハッタルウシップ(穂別町栄から豊田付近)のある村にハイ(日高町豊郷)のアイヌたちが略奪に攻め寄せてきたが、老婆が目釘の緩んだ山刀を振ってカタカタいわせたところ、襲撃者たちは妖刀の音に違いないと怖気づいて逃げ出したという。ほぼ同じ伝承が阿寒など各地にある中で、門別厚別の伝承では、攻め寄せたのは釧路のアイヌである。この伝承の場合、敵が逃げ出そうとするのを隠れて見ていたのに、ある女が「バカな奴らだ、山刀の音に驚いて」と嘲笑ったのを聞きつけられて、怒った釧路勢に全滅させられたという。登場人物名から、シャクシャインとオニビシの争いの一環が伝説化したとされる。


 イペタムは伝説上の刀剣であって、その姿は当然わからないが、いわゆるアイヌ刀はその全てが日本刀の太刀や腰刀の拵か、アイヌ好みの装飾を施した蝦夷拵(えぞこしらえ)である。


 なお、「イペタム」はあくまでも妖刀(人喰い刀)の意味の一般名詞であり、北海道各地の伝承では、個別の名称を持った網走最寄のピンネモソミ(細身の男剣)と美幌のマッネモソミ(細身の女剣)、釧路桂恋のオポコロペ(ウボコベ、オボコロベ、妊婦を切った刀)などの妖刀(イペタム)伝説もある。


「イペタム」と「エペタム」の表記の違いについては、アイヌ語にも方言差はあるものの、発音はイペ(ipe)である。伝承を採集した研究者が、北海道方言や東北方言の一部のように、イとエの発音の区別がつけられない日本語方言話者であったからではないかとの推測があるが、検証はされていない。

 このほかにイペオプ(人食い槍)の伝説もある。

 

 城十三の用心棒・富樫は対立する樋口進に買収されて十三を暗殺し、逮捕されたが進に助けられ、最高幹部として取り立てられる。

 しかし、野心満々の彼は平三子を射殺してシャブ密売の縄張りを奪い、さらに源淳也を親分とする小樽地区にも手をのばそうとする。

 進はこの計画に反対するが、マシンガンを手に入れていよいよ強気になった富樫は、大虐殺で小樽地区をも征服する。

 源淳也は死ぬ前に爆弾発言をした。

「チッ、チキン高橋って知ってるか?」

 恐怖からか声が上ずっていた。

「美樹本駅で起きた爆破事件の犯人だよな?確か、まだ捕まってないな?」

「チキン高橋は俺なんだ」

 トラブルを告発したり、宝くじで当たった金を寄付して福祉施設を作ったり正義マンだと思っていただけにビックリだ。

「どうして、そんなことを?運転士か駅員にムカついてたのか?前さ、人身事故で列車が止まって5時間も待たされたんだ。あのときは殺してやりたいと思ったよ」

「火を見るのが大好きでね?運転士さんに罪はありませんよ」

「違うよ、殺してやりたいのは自殺したクズ野郎」

 そう言いながらマシンガンで源を蜂の巣にした。

 

 富樫はナースの今井霧子に手を出し、我が物にしようとする。また、広瀬恵美を溺愛するあまり強硬に束縛し、他の男との交際を固く禁じる。恵美は激しく反発する。

「自分勝手だよ」


 富樫の仕掛ける抗争に次ぐ抗争、マシンガンによる殺戮の日々。大友や松田はギャングの狼藉に腹を据えかね、積極的な撲滅策を打ち出す。


 独断専行が目に余る富樫に手を焼き、また彼と霧子の関係を察知した進は子分に富樫の暗殺を命じる。辛くも逃れた富樫は楯礼二たてれいじと共に函館山にある進のアジトを襲い、だらしなく命乞いする進を容赦なく射殺する。そして、ほとぼりを冷ますため霧子を連れて1か月の旅に出る。


 旅から帰った富樫は恵美が男と同棲していると聞き、その部屋へ駆けつけてみると、相手の男がよりによって楯礼二だった。楯はかつて、部下の霧子とつきあっていたが富樫に奪われていた。

「目には目を歯に歯をってよくいうでしょ」

 怒りの余り弁解も聞かず、彼は楯をボコボコに殴った。

 錯乱状態になった彼女は富樫が楯に重傷を負わせたことを警察に密告する。富樫を狙い続けていた大友は警官隊を動員。鉄壁の防備を誇る富樫のアパートを包囲する。恵美は富樫を殺そうとしてピストルを構えてアパートへ入り込むが、恋人への愛を捨てることは出来ず、警官隊を相手に狂ったように撃ちまくる富樫に協力する。

 だが跳弾を受けて恵美は絶命。その死を見て富樫は絶望の中で部屋を捨てて投降しかけるが、大友の手錠をすり抜けて逃げ出したところを警官にマシンガンで射殺される。 倒れた彼の上では旅行会社の

『Welcome to heaven』のネオンサインが煌くのだった。

「天国にようこそか……」

 大友はビターチョコみたいに苦い笑みを浮かべた。

 

 死んだ富樫は江戸時代にタイムスリップした。

 富樫は由井正雪ゆいしょうせつの塾に通った。

 由井正雪は優秀な軍学者で、各地の大名家はもとより徳川将軍家からも仕官の誘いが来ていた。しかし、正雪は仕官には応じず、軍学塾・張孔堂ちょうこうどうを開いて多数の塾生を集めていた。

 ある日、富樫は由井の生い立ちを尋ねた。

 慶長10年(1605年)、駿河国由井(現在の静岡県静岡市清水区由比)において紺屋・吉岡治右衛門よしおかじうえもんの子として生まれたという。治右衛門は尾張国中村生まれの百姓で、同郷である豊臣秀吉との縁で大坂天満橋へ移り、染物業を営み、関ヶ原の戦いにおいて石田三成に徴集され、戦後に由比村に移住して紺屋になる。治右衛門の妻がある日、武田信玄が転生した子を宿すと予言された霊夢を見て、生まれた子が正雪であるという。

 17歳で江戸の親類のもとに奉公へ出た。神田連雀町の長屋において楠木正辰の南木流を継承した軍学塾「張孔堂」を開いた(俗説では楠不伝の教えを受け、その後を継いだとされる)。塾名は、中国の名軍師と言われる張子房と諸葛孔明に由来している。道場は評判となり一時は3000人もの門下生を抱え、その中には浪人のほか諸大名の家臣や旗本も多く含まれていた。


 この頃、江戸幕府では3代将軍・徳川家光の下で厳しい武断政治が行なわれていた。関ヶ原の戦いや大坂の陣以降、多数の大名が減封・改易されたことにより、浪人の数が激増しており、再仕官の道も厳しく、鎖国政策によって山田長政のように日本国外で立身出世する道も断たれたため、巷には多くの浪人があふれていた。浪人の中には、武士として生きることをあきらめ、百姓・町人に転じるものも少なくなかった。しかし、浪人の多くは、自分たちを浪人の身に追い込んだ御政道(幕府の政治)に対して否定的な考えを持つ者も多く、また生活苦から盗賊や追剥に身を落とす者も存在しており、これが大きな社会不安に繋がっていた。


 正雪はそうした浪人の支持を集めた。特に幕府への仕官を断ったことで彼らの共感を呼び、張孔堂には御政道を批判する多くの浪人が集まるようになっていった。


 そのような情勢下の慶安4年(1651年)4月、徳川家光が48歳で病死し、後を11歳の子・徳川家綱が継ぐこととなった。新しい将軍がまだ幼く政治的権力に乏しいことを知った正雪は、これを契機として幕府の転覆と浪人の救済を掲げて行動を開始する。計画では、まず丸橋忠弥が幕府の火薬庫を爆発させて各所に火を放って江戸城を焼き討ちし、これに驚いて江戸城に駆け付けた老中以下の幕閣や旗本など幕府の主要人物たちを鉄砲で討ち取り、家綱を誘拐する。


 しかし、一味に加わっていた奥村八左衛門の密告により、計画は事前に露見してしまう。慶安4年(1651年)7月23日にまず丸橋忠弥が江戸で捕縛される。その前日である7月22日に既に正雪は江戸を出発しており、計画が露見していることを知らないまま、7月25日駿府に到着した。駿府梅屋町の町年寄梅屋太郎右衛門方に宿泊したが、翌26日の早朝、駿府町奉行所の捕り方に宿を囲まれ、自決を余儀なくされた。その後、7月30日には正雪の死を知った金井半兵衛が大坂で自害、8月10日に丸橋忠弥が磔刑とされ、計画は頓挫した。

 

 大目付・中根正盛は配下の与力(諜報員)を諸方に派遣して事件の背後(幕臣中の武功派勢力と正雪との関係)を徹底的に詮索し、特に紀州の動きを注視した。密告者の多くは、老中・松平信綱や正盛が前々から神田連雀町の裏店にある正雪の学塾に、門人として潜入させておいた者であった。駿府で自決した正雪の遺品から、紀州藩主・徳川頼宣の書状が見つかり、頼宣の計画への関与が疑われた。しかし後に、この書状は偽造であったとされ、表立った処罰は受けなかったものの、頼宣は武功派の盟主であったが為に、幕閣(信綱と正盛)の謀計によって幕政批判の首謀者とされ、10年間、紀州への帰国は許されず、江戸城内で暮らした。頼宣の失脚により武功派勢力は一掃された。


 江戸幕府では、この事件とその1年後に発生した承応の変(浪人・別木庄左衛門による老中襲撃計画。別木事件とも)を教訓に、老中・阿部忠秋らを中心としてそれまでの政策を見直し、浪人対策に力を入れるようになった。改易を少しでも減らすために末期養子の禁を緩和し、各藩には浪人の採用を奨励した。その後、幕府の政治はそれまでの武断政治から、法律や学問によって世を治める文治政治へと移行していくことになり、くしくも正雪らの掲げた理念に沿った世になるに至った。


 富樫は幕府のスパイとして由井を監視していたのだった。

 江戸の地名で呼ばれる地域は、江戸御府内ともいったが、その範囲は時期により、幕府部局により異なっていた。一般に江戸御府内は町奉行の支配範囲と理解された。その支配地は拡大していった。寛文2年(1662)に街道筋の代官支配の町や300町が編入され、正徳3年(1713)には町屋が成立した場所259町が編入された。さらに、延享2年(1745)には寺社門前地440カ所、境内227町が町奉行支配に移管された。この町奉行の支配範囲とは別に御府内の範囲とされた御構場の範囲、寺社奉行が勧化を許す範囲、塗り高札場の掲示範囲、旗本・御家人が御府外に出るときの範囲などが決められた。これらの御府内の異同を是正するため、文政元年(1818)に絵図面に朱線を引き、御府内の範囲を確定した。これにより御府内の朱引内しゅびきうちとも称するようになった。 この範囲外は朱引外しゅびきそとと称した。 元々は平安時代に存在した荏原郡桜田郷(江戸城の西南)の一部であったが、やがて豊島郡江戸郷と呼ばれるようになっていた。


 江戸時代初期における江戸の範囲は、現在の東京都千代田区とその周辺であり、江戸城の外堀はこれを取り囲むよう建造された。明暦の大火以後、その市街地は拡大。通称「八百八町」と呼ばれるようになる。1818年、朱引の制定によって、江戸の市域は初めて正式に定められることになった。


 城下町において武家地、町人地とならぶ要素は寺社地であるが、江戸では寺社の配置に風水の思想が重視されたという。そもそも江戸城が徳川氏の城に選ばれた理由の一因には、江戸の地が当初は北の玄武は麹町台地、東の青龍は平川、南の朱雀は日比谷入江、西の白虎は東海道、江戸の拡大後は、玄武に本郷台地、青龍に大川(隅田川)、朱雀に江戸湾、白虎に甲州街道と四神相応に則っている点とされる。関東の独立を掲げた武将で、代表的な怨霊でもある平将門を祭る神田明神は、大手門前(現在の首塚周辺)から、江戸城の鬼門にあたる駿河台へと移され、江戸惣鎮守として奉られた。また、江戸城の建設に伴って城内にあった山王権現(現在の日枝神社)は裏鬼門である赤坂へと移される。更に、家康の帰依していた天台宗の僧天海が江戸城の鬼門にあたる上野忍岡を拝領、京都の鬼門封じである比叡山に倣って堂塔を建設し、1625年に寛永寺を開山した。寛永寺の山号は東叡山、すなわち東の比叡山を意味しており、寺号は延暦寺と同じように建立時の年号から取られている。


 同年8月15日、向こうの世界じゃ、終戦記念日でテレビでスペシャル番組をやってることだろう。

 こっちの世界には冷蔵庫やクーラーがなくてしんどい。四谷にある坂道を登っていた。大きな寺が見えてきた。西念寺さいねんじだ。服部半蔵が、織田信長の命により切腹して果てた徳川家康の長男、信康のぶやすが眠っている。本堂の裏には『岡崎三郎信康供養塔』が建っている。まだ夕方の5時ぐらいだが、夜の8時かと思えるくらい暗い。元の時代はビルがたくさんあり、夜でも明るい。


 信康は永禄2年(1559年)3月6日、松平元康(後の徳川家康)の長男(嫡男)として駿府で生まれる。今川氏の人質として幼少期を駿府で過ごしたが、桶狭間の戦いの後に徳川軍の捕虜となった鵜殿氏長・氏次との人質交換により岡崎城に移る。

 永禄5年(1562年)、家康と織田信長による清洲同盟が成立する。永禄10年(1567年)5月、信長の娘である徳姫と結婚し、共に9歳の形式の夫婦とはいえ岡崎城で暮らす。同年6月に家康は浜松城(浜松市中区)に移り、岡崎城を譲られた。7月に元服して信長より偏諱の「信」の字を与えられて信康と名乗る。元亀元年(1570年)に正式に岡崎城主となる。

 天正元年(1573年)に初陣する。

 その後、信康は勇猛果敢さを見せる。天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは徳川軍の一手の大将として参加し、その後も武田氏との戦いでいくつもの軍功を挙げ、勇猛さが注目された。特に天正5年(1577年)8月の遠江国横須賀の戦いで退却時の殿軍を務め、武田軍に大井川を越させなかったという。岡崎衆を率いて家康をよく補佐した。天正6年(1577年)3月には小山城攻めに参軍する。


 天正7年(1579年)8月3日、家康が岡崎城を訪れ、翌日信康は岡崎城を出ることになり、大浜城に移された(『家忠日記』)。その後、信康は遠江の堀江城、さらに二俣城に移されたうえ、9月15日に家康の命により切腹させられた。享年21(満20歳没)。信康の首は一度信長の元に送られ、その後、若宮八幡宮に葬られた。なお、岡崎城から信康を出した後に松平家忠をはじめとした徳川家臣たちに「信康に通信しない」という起請文を書かされている。

 

 富樫は寺の前で怪鳥に遭遇した。木の葉天狗に違いないと思った。

 寛保時代の雑書『諸国里人談』には、静岡県の大井川で夜間に大勢で魚を捕らえていたとされる木の葉天狗の目撃談があり、それによれば近世で知られる鼻の高い山伏姿の天狗とは異なり、大きな鳥のような姿で、翼はトビに似ており翼長が6尺(約1.8メートル)ほどあり、人の気配を感じるとたちまち逃げ去ってしまったという。人に似た顔と手足を持ち、くちばし、翼、尾羽を備えているとの説もある。

 富樫の目の前にいるのは前者だ。

 松浦静山の随筆『甲子夜話』巻七十三の6項には、静山の下僕・源左衛門が7歳の頃に天狗にさらわれたとされる天狗界での体験談が述べられており、その中に木の葉天狗の名がある。それによれば、天狗界では木の葉天狗は白狼はくろうとも呼ばれており、老いた狼が天狗になったものとされ、山で作った薪を売ったり登山者の荷物を背負ったりして、他の天狗たちが物を買うための資金を稼いでおり、天狗の中でもその地位はかなり低いという。

 また山口県岩国の怪談を収集した書物『岩邑怪談録』には、木の葉天狗が人間をからかった話がある。宇都宮郡右ェ門という猟師の前に木の葉天狗が小僧に化けて現れ「銃を撃ってみろ」とからかい、郡右ェ門が小僧を木の葉天狗と見抜いて銃を撃つと、木の葉天狗は少しも驚くことなく「弾はここだ」と言って弾を返して姿を消したとある(当時の銃は火薬と弾を別に仕込むので弾を抜いて空砲にする事が出来た)。このことから、地位の低い天狗といっても変化能力などの神通力がある程度は備わっていたと解釈する説がある。一方では、河鍋暁斎による錦絵『東海道名所之内 秋葉山』に樹上で寛ぐ木の葉天狗たちの姿が描かれていることから、術を持たない人畜無害な存在とする説もある。

 もしかしたら、信康が化けたものかも知れない。

 

 翌日、富樫は江戸城に登城し将軍・家綱と対面した。家綱は可愛らしい子供だった。

 寛永18年(1641年)8月3日、第3代将軍・徳川家光の長男として江戸城本丸に生まれる。乳母は矢島局、三沢局。

 父の家光は、生まれた時から家綱を自らの後継ぎに決めていたという。その理由は、家光と弟の忠長との間で世継争いがあったためとも、ようやく生まれた待望の男児だったためともいわれている。


 正保元年(1644年)12月、名を家綱と改め、正保2年(1645年)4月に元服する。慶安3年(1650年)9月に西の丸へ移る。


 慶安4年(1651年)4月20日、家光が48歳で薨去すると、家綱は8月18日(10月2日)、江戸城において将軍宣下を受けて第4代将軍に就任し、内大臣に任じられた。幼年で将軍職に就いたことにより、将軍世襲制が磐石なものであることを全国に示した。


 12月には本丸へ移る。この前例を受け、家綱以後(最後の慶喜を除く)の将軍宣下は京都ではなく、江戸で行われることとなる。


 将軍家を継承した時はわずか11歳だったため、家光死去の直後に浪人の由井正雪や丸橋忠弥らによる討幕未遂事件(慶安の変)が起こるなどして政情不安に見舞われた。


 しかし、叔父の保科正之や家光時代からの大老 / 酒井忠勝、老中 / 松平信綱、阿部忠秋、酒井忠清ら寛永の遺老といわれる名臣、御側・大目付 / 中根正盛らの補佐により、この危難を乗り越えた。このため、以後は29年間にわたる安定政権をみた。また、後に父の乳母・春日局の孫稲葉正則や御側 / 久世広之、土屋数直も幕閣に加わった。


 家綱の時代には幕府機構の整備がさらに進められた。特に保科正之を主導者にして外様大名などに一定の配慮を行ない、末期養子の禁を緩和し、大名家臣から証人をとることの廃止や殉死禁止令が出されるなど、これまでの武力に頼った武断政治から文治政治への政策切り替えが行われた。


 万治2年(1659年)4月には左大臣に任じられるのを辞退している。寛文4年(1664年)には1万石以上の大名に対する領知朱印状を、翌寛文5年(1665年)には公家や寺社を対象とした領知目録を交付している(寛文印知)。


 寛永の遺老と呼ばれた面々は、寛文年間に入ると相次いで死去したり、老齢で表舞台から隠退するなどした。このため、彼らに代わって寛文6年(1666年)には酒井忠清が大老に就任し、治世後半の寛文・延宝期には忠清の主導の下、老中合議制と家綱自身の上意により幕政が運営された。治世後半には家光期に起こった寛永の大飢饉の反省から飢饉対策として農政に重点が置かれ、宗門改の徹底と全国への宗門人別改帳の作成命令や諸国巡見使の派遣、諸国山川掟の制定、河村瑞賢に命じて東廻海運・西廻海運を開拓させるなど全国的な流通・経済政策が展開され、『本朝通鑑』編纂などの文化事業も行われた。また、家綱期には幕府職制の整備が完成され、幕朝関係も安定し、対外的には蝦夷地でのシャクシャイン蜂起や、イングランド船リターン号による通商再開要求、鄭氏政権による援兵要請などが起こっているが、家光期以来の鎖国政策が堅持された。この時期には伊達騒動や越後騒動など大名家のお家騒動も発生している。


 側室のお振、お満流は家綱の子を懐妊したが、死産または流産であった。加えて家綱自身は生まれつき体が弱く病弱で、30半ばに至っても男子がなかったため将軍継嗣問題が憂慮されていたが、延宝8年(1680年)5月初旬に病に倒れ、危篤状態に陥った家綱は、堀田正俊の勧めを受けて末弟の館林藩主松平綱吉を養子に迎えて将軍後嗣とし、直後の5月8日に死去した。享年40。死因は未詳だが、急性の病気(心臓発作など)と言われている。家綱の死により、徳川将軍家の直系の子が将軍職を世襲する形は崩れた。


 家綱の危篤に際して、酒井忠清は鎌倉時代に将軍源実朝の死後に宮将軍を迎えた例にならい、越前松平家と縁のある有栖川宮家から幸仁親王を将軍に迎えようとしたが、正俊の反対にあって実現しなかったとする宮将軍擁立説があるが、近年では酒井忠清が宮将軍擁立に動いたことを否定する説もある。


 富樫は木の葉天狗の話を家綱に聞かせた。

「面白い話じゃ」と、家綱は興味津々だ。

 が、家綱の母であるお楽の方は眉をひそめた。

 彼女は下野国都賀郡高島村(現・栃木県栃木市大平地域)の農民(後に下級武士)青木三太郎利長の娘(朝倉惣兵衛の子とも)で、父は江戸に出て旗本の朝倉家に仕官するが、主君の金を使い込み江戸を追われ鹿麻村で蟄居となり、のち禁猟とされていた鶴を撃ったため死罪となる。


 父の死後、母(増山氏)は江戸へ出て古河藩主永井尚政の屋敷に仕えて女中頭となり、元永井家家臣で古着商の七沢清宗と再婚した。楽も母に従い同居していたが、13歳の時に店の手伝いをしていたところ、浅草参りから帰ってきた春日局の目にとまり、大奥に上がる。また、祖心尼の計らいで奥入りしたという説もある。一説によると、お蘭が呉服の間だった頃、他の奥女中たちに故郷の麦搗き歌を歌っていた。これを家光が耳にして気に入り、お蘭は家光の側室となったという。


 1641年(寛永18年)に家綱を産む。名前の「蘭」は「乱」に通じて縁起が悪いという理由で、お楽の方と改名した。その後は家綱が将軍世子となると、家綱とともに西の丸に移った。

 将軍後継者を産んだため、弟・増山正利は三河国西尾藩主(この系統はその後常陸国下館藩主→伊勢国長島藩主となり幕末まで存続)、もう一人の弟は那須家を継ぎ那須資弥と名乗って下野国烏山藩主となり(次の代で改易、以後交代寄合として存続)、妹は今川氏真の孫品川高如の妻となる。1651年(慶安4年)に家光に先立たれた翌年、32歳で死去した。法名は宝樹院殿華城天栄大姉。墓所は寛永寺勧善院。

 つまり、翌年の今頃には彼女はここにはいないのだ。

戯言ざれごとを申すな」

「戯言などでは……」

 

 翌日の夜、赤坂にある門前町で町人がいきなり苦しみ出し亡くなる事件が起きた、翌々日には赤坂の丘の下にある黒鍬組くろくわぐみの屋敷でも同じことが起きた。

 戦国大名に仕えた黒鍬は小荷駄隊に属して、陣地や橋などの築造や戦死者の収容・埋葬などを行った。後世の戦闘工兵の役割を担っていたと考えられている。


 江戸幕府の組織としての黒鍬組も三河松平氏時代からの譜代の黒鍬から構成されており、若年寄支配で小者・中間として江戸城内の修築作業や幕府から出される諸令伝達や草履取り等の雑務に従事した。食禄は1人当たり12俵1人扶持が原則で役職に付くと、役高が加算された。


 当初は苗字帯刀も許されず、例外的に護身用の脇差だけを持つ事が許されたが、三河譜代の黒鍬については、世襲が許され、後には御家人の最下層格の扱いを受けた。

 黒鍬の長である黒鍬頭くろくわがしらは、役高100俵の待遇を受けた。定員は天和年間の定制は200名であったが、享保年間には430名となり、幕末には470名にまで増員された。こうした人数の拡大に対応するために、幕末には3組に分割され、黒鍬頭に任命された組頭(役高30俵1人扶持)が置かれた。

 幕末期には新設された役職の補充として見廻組や撒兵へ移動となり、また彰義隊にも多くが参加した。

  

 関所を通って駿府に行かなくてはならない。富樫はうんざりした。「歩いていかないといけないのか」敵は怪鳥だ。鉄砲が必要になる。

 中世時代と違って関税は払わないでもいいようだ。信長が関所を廃止したが、江戸時代になり復活した。

 『入鉄炮出女』とは、江戸に持ち込まれる鉄炮(「入鉄炮」)と、江戸を出る女(「出女」)を取り締まった。入鉄炮は江戸の治安維持のためであり、出女は江戸屋敷に人質として置かれた大名の妻女が領国に脱出するのを防止するためであったという。


 関所の機能についての端的な表現として用いられた言葉である。江戸と地方を結ぶ関所を通過する際には、入鉄炮には老中が発行する鉄炮手形、出女には留守居が発行する女手形の携帯が義務付けられていた。


 関所破りは重大な犯罪とされ、これを行おうとした者、あるいはそれを手引きした者は磔などの厳罰が課された。もっとも、裏金や賄賂などで内々に関所を通過する者が後を絶えず、加えて文久の改革の参勤交代緩和によって、関所での手続自体が大幅に緩和されて「女手形」も簡素化された。そして慶応3年(1867年)8月には慶応の改革に伴って、手形が無くても関所の通行が許可されるようになり、事実上関所改めは廃止されることとなった。

 

 1633年(寛永10年) 、江戸幕府は徳川忠長が改易されて直轄領となった駿府に駿府城代を置き、東海道の要衝である当地の押えとした。駿府城代は老中支配で、駿府に駐在して当城警護の総監・大手門の守衛・久能山代拝などを管掌した。譜代大名の職である大坂城代とは異なり大身旗本の職であるが、老中支配の中では最高位の格式を持ち、御役知2000石、伺候席は雁間詰めであった。


 また、1649年(慶安2年)に設置された駿府定番は、駿府城代を輔ける副城代に相当し、当城の四足門の守衛を担当した。駿府城代と同様に老中支配で、御役高1000石・御役料1500俵、芙蓉間詰めであった。


 駿府城には、定置の駿府城代・駿府定番を補強する軍事力として駿府在番が置かれた。江戸時代初期には、幕府の直属兵力である大番が駿府城に派遣されていたが、1639年(寛永16年)には大番に代わって将軍直属の書院番がこれに任じられるようになった。その後約150年間、駿府在番は駿府における主要な軍事力として重きをなすとともに、合力米の市中換金などを通じて駿府城下の経済にも大きな影響を与えたとされる。

 駿府の町政の他、駿河国内の天領の、主に公事方を扱った。駿府の在勤だが、駿府城代ではなく老中の支配に属した。駿府城代と協議して駿府を通行する諸大名諸士の密察、駿河や伊豆の裁判仕置、久能山東照宮の警衛を役務とした。


 定員は2名で横内組町奉行と大手町奉行があった。慶長12年(1607年)に設けられて2人が任命されるが、元和2年(1616年)以後しばらく廃職となる。寛永9年(1632年)4月に再置されてから、元禄15年(1702年)9月まで2人体制を継続した。元禄15年(1702年)9月に1人役と改め、横内組を廃止する事となった。役高1,000石・役料は500俵。慶応3年(1867年)には役金1,500両と決められた。城中では芙蓉の間席。配下は与力8騎・同心60人・水主50人。

 

 浪人仲間の源兵衛げんべえに話を聞いたところ江戸城から静岡までは40時間もかかるらしい。足が壊れないか心配だ。

 富樫は20日に出立した。

 箱根峠は大変だった。

 徳川幕府の五街道整備において、距離の短い箱根峠ルートが重視された。芦ノ湖畔には箱根関所が設けられ、幕府防衛のための関と位置付けられた。(しかし関所として取締りが厳重で厳しかったのは新居関所で、箱根の関は、比較的緩やかだった。)関の守備は小田原藩が担当した。

 後北条氏滅亡後、関東には徳川家康が入り、後に江戸幕府を開いた。幕府は須雲川沿いに新道(「箱根八里」)を設置してこれを東海道の本道として整備して、箱根神社の側に関所を設置したが、地元(元箱根)住民との対立を惹き起こした。そのため箱根峠寄りに人工の町である「箱根宿」を、元箱根側の芦ノ湖畔に箱根関所を設置した。


 箱根関所は一時期を除いては原則的には、相模国足柄下郡及び箱根山を挟んで接する駿河国駿東郡を支配する譜代の大藩小田原藩が実際の管理運営を行っていた。 東海道は江戸と京都・大坂の三都間を結ぶ最重要交通路とされた。


 箱根関所を設置した地点は、東北に屏風山があり、西南に芦ノ湖があり、中央に東海道が通った。道の両側には縦64メートル、横13メートルの空き地があった。


 両門の間は約18メートルで、関門の左右の石垣・関所の礎石は残っている。建造物は上御番所・番士詰所・休息所・風呂場からなる「面番所」、所詰半番・休息所・牢屋からなる「向番所」、厩、辻番、高札場などが設置され、柵で囲まれていた。また、関所裏の屏風山には「遠見番所」、芦ノ湖南岸には「外屋番所」が設置され、周囲の山林は要害山・御用林の指定を受けていた。そこを通過して関所破り(関所抜け)を行おうとした者は厳罰に処せられたのである。


 箱根関所には常備付の武具として弓5・鉄砲10・長柄槍10・大身槍5・三道具1組(突棒・刺股・袖搦各1)・寄棒10が規定されていた。が、ほとんどが旅人を脅すためのもので、火縄銃に火薬が詰めておらず、弓があっても矢が無かったなどのことが分かっている。


 富樫は事前に関所破りの方法をチンピラの安兵衛やすべえから聞いた。

 1.迂回路を通る

 関所周辺の生活道路や山道を組み合わせて歩けば、関所を通らなくても通行は可能。

 地元の百姓が小銭稼ぎに抜け道案内をしてくれた。

 万が一見つかっても、道に迷ったと言えばよほど悪質でない限り、許してもらえる。


 2. 仇討ち承認証明

 江戸時代の敵討ちは法的に認可されていた。

 藩発行による敵討ちの許可証を入手できれば、関所はパスできたため、中には許可証を偽造し、それらしい姿やフリで関所を通過する者もいた。


 3. ワイロやコネ

 関所の役人へのワイロも有効。

 正当な通行手形を持つ女性でも、厳しい取り調べで裸にされるのを避けるため、袖の下を使ったそうだ。

 また、関所近くの宿屋の主人に心付けを渡し、宿屋の使用人になりすましてラクラクと関所を通過できたそうだ。

 支払った金は打ち合わせ済みの関所の役人にもきちんと還元されたそう。


 4. 芸人特権を濫用

 落語師、講釈師、義太夫師、太神楽などの芸人は、芸そのものが手形のようなものだ。

 関所の役人を楽しませる芸を見せれば、通行可能だったらしい。


 5. お伊勢参りや湯治にかこつける

 江戸幕府は伊勢神宮参拝や温泉湯治などを行う者には比較的寛容だった。

 そのための幕府発行の「書替手形」があれば、身元確認済みということで関所を通過しやすかったそうだ。


 富樫は脇差鉄砲という刀の形をした鉄砲を忍ばせ、関所を通過することに成功した。武士ならば武器を携帯することは違法ではないのだ。 

 三島宿にやって来た。東海道五十三次の11番目の宿場で、現在の静岡県三島市にあった。本陣2、旅篭数74。江戸幕府の天領であり、宝暦9年(1759年)までは伊豆国統治のための代官所が設けられていた。

 宿屋に到着し、足袋を脱いたら足の裏が真っ赤でタコが出来ていた。風呂に入り、布団に入ってからもジリジリとした痛みに悩まされた。

 江戸時代、庶民が旅をすることは各藩の法律によって原則禁止されていたが、病や怪我を癒すための治療行為であれば認められていた。富樫は喘息を患っていたので、これが幸いした。

「ゴホッゴホッ!」

 夜中に咳が止まらなくなった。

 宿屋の主は本業は薬師で、副業として『ささき屋』という宿を営んでいた。

「大丈夫でございますか?」

 様々な草を煎じた薬を飲んだ。

「グァー」

 メチャクチャ苦かった。

「ごゆるりとお休みくださいまし」

 主人が背中を向けた瞬間、脇差鉄砲で撃ち殺した。ダーン!「ギャァッ!!」

 宿から逃げ出し、関所を通らずに江戸に戻ることにした。🌕月光が降り注いでいる。崖の上に来たときだった、「ウォォォッ!!」獣の咆哮が聞こえた。狼がすぐ近くにいるようだ。富樫は身を竦めた。

 ザッ、ザッ、ザッ。足音が近づいてくる。金色に輝くかんざしを髪に差した美女が東の方からやって来た。

 富樫は幼い頃、祖母から聞いた昔話を思い出した。 

 静岡のある山中での石切り場でのこと。昼時になったので、石を切り出していた石工たちはみな休息をとっていた、すると1人の女性が現れ「毎日のお仕事でお疲れでしょう、私が按摩をして差し上げましょう」といって1人の石工の肩を揉んだ。すると石工は按摩がとても気持ちよかったと見え、寝入ってしまった。女性はさらに別の石工を按摩すると、その石工も寝入り、たちまち数人もの石工が按摩されて寝入ってしまった。


 残る石工はあと1人となったが、彼はその女を只者ではない、妖怪に違いないと見て、密かにその場を立ち去った。ちょうど猟師に出会ったので事情を話したところ、その猟師もやはり、その女性は狐狸の類に違いないと言った。2人が元の石切り場に戻ると、女性は2人を見て逃げ出そうとした。猟師が銃に弾丸を込めて女性を撃つと、女性の姿は消え、その跡には砕け散った石が残されていた。

 眠っている石工たちを見ると、背骨のところに石で引っ掻いたような傷ができており、病気になる危険性もあったが、家に帰ってから薬で手当てをしてどうにか助かった。あの女性は石の気が化けたものだろうといわれたが、その後もその女性はたびたび現われたという。

「病気になるのはゴメンだ」

 富樫は脇差鉄砲で女の胸のあたりを狙って撃った。女は狐に姿を変え、もがき苦しんでいたが息絶えた。🦊

「やはり妖怪だったか」

 背骨には特に異常はないようだった。昔話に出て来た人物は普通の武器で戦ったから呪われたが、富樫の場合は対妖怪タイプの武器だったので無事だった。

 険しい山道をひたすら歩いた。途中、熊と鉢合わせたが魔物以外、富樫を殺すことは出来なかった。🐻

「だって、俺死んでるもんねぇ」   

 鋭い爪で引裂こうとして来たが、傷すらつかず、あくせくしてるところを脇差鉄砲で仕留めた。

 

 それから1年後

 牢人の別木庄左衛門が、同士数人とともに崇源院(徳川秀忠正妻)の27回忌が増上寺で営まれるのを利用し、放火して金品を奪い、江戸幕府老中を討ち取ろうと計画した。


 しかし、仲間の1人が老中・松平信綱に密告したため、庄左衛門らは捕らえられ、処刑された。また、備後福山藩士で軍学者の石橋源右衛門も、計画を打ち明けられていながら幕府に知らせなかったという理由で、ともに磔刑に処せられている。更に、老中・阿部忠秋の家臣である山本兵部が庄左衛門と交際があったということで、信綱は忠秋に山本の切腹を命じている。


 慶安の変同様、それまでの武断政治の結果としての浪人増加による事件として位置づけられる。以後、幕府は文治政治へ政治方針を転換した。


 なお、事件から5日後の9月18日に承応元年と改元されており、事件の決着がついたのが改元後にあたるため、承応の変もしくは承応事件といわれるようになった。


 9月20日

 富樫は宵闇の浅草にやって来た。

 屋台で蕎麦を食べ終え、勘定を払い店の外に出ると美しい女性がこちらを見ていた。

 彼女はどことなく恵美に似ていた。

「夢じゃないよな?」

 恵美がからりと笑い、手を振った。

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クライムチャウダー  鷹山トシキ @1982

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