第9話 元親の秘宝
1998年5月2日
X JAPANのギタリストhideが急逝。5月7日に築地本願寺で行われた葬儀には 5万人が参列。
シャークの元会長、鮫崎は宇和島にあるリゾート地に豪華な別荘を購入したが、引っ越しの最中に隣人の岸谷夫妻からコソ泥と間違えられて、警察に通報される。
鮫崎からの電話で通報が勘違いだと分かった西山はこの不祥事をもみ消すため、刑務所に収容されている
2人は岸谷の邸宅に上がり込み、そこで夫妻がテレビのレポーターのインタビューに答えたビデオを見て事の真相を知り、手を組んで反撃に打って出る。
レポーターの正体は富樫凪助だった。探偵は儲からず、職探しをしたところテレビ夕陽に採用された。
東京各地で女性が髪を切られるという事件が発生した。髪切りって妖怪の仕業かも知れないと富樫は思った。この妖怪はどこからともなく突然現れ、人が気づかぬ間にその人の頭髪を切ってしまうとされる。
江戸時代の寛保年間(1741年-1743年)に編まれた説話集『諸国里人談』には、元禄のはじめごろ伊勢国松坂(現・三重県松阪市)や江戸の紺屋町(現・東京都千代田区)で、夜中に道を歩いている人が男女かまわず髪を
明治7年(1874年)には東京都本郷3丁目の鈴木家で「ぎん」という名の召使いの女性が髪切りの被害に遭い、そのことは当時の新聞(東京日々新聞)でも報じられている。3月10日の21時過ぎ。ぎんが屋敷の便所へ行ったところ、寒気のような気配と共に突然、結わえ髪が切れて乱れ髪となった。ぎんは驚きのあまり近所の家へ駆け込み、そのまま気絶してしまった。屋敷の者がぎんを介抱して事情を聞き、便所のあたりを調べると、斬り落とされた髪が転がっていた。やがてぎんは病気となり、親元へと引き取られた。「あの便所には髪切りが現れた」と噂がたち、誰も入ろうとしなくなったという。
鮫崎は東京出身だった。武藤涼介は最近、殺し屋の仕事も始めた。武藤は
武藤と富樫は宇和島港近くにある民宿に泊まっていた。
武藤は自分の手を血で汚したくなく、富樫を利用することにした。
「仕事をすれば好きなものを何でも買ってやる」
富樫は武藤の囁きにヨダレを垂らした。
富樫は新宿署に勤務する江戸海荷から、「妖怪を倒したらデートしてあげる」と約束されていた。
「ダイヤモンドとかでもいい?」
「あぁ、構わない」
事務所のテレビはゴールデンウイークの特番をやってた。
「武藤さん、お笑い好きなんですか?」
「まぁな」
「腹減りましたね?」
「まだ、11時だぞ」
「マックにしようかな」
「あんな体に悪いモン。そういやな?依頼人が仕事を成功させたら長宗我部家に伝わる秘宝をくれると言っていた」
武藤がテレビを消して、ラジカセの電源を入れた。CDは既に入ってるようで、再生ボタンを押した。▶
♪♫♪♫……伴奏が流れる。
4月8日に浜崎あゆみがシングル『poker face』でメジャーデビューした。
「これからはあゆの時代だな?」
武藤が大した顔になる。
「ところで、その秘宝って……」
「そう急かすな。長宗我部家に伝わる秘宝とは『ソハヤノツルギ』だ」
🗡ソハヤノツルギ
作品によってはそはやのつるき、そはやの剣、そはや丸、そばやの剱、草早丸、素早の剣、素早丸、神通剣などとも表記される。様々な異称こそあるが、これらはすべて御伽草子や奥浄瑠璃の発音の違いや写本の表記の揺れで生じたものであり、ソハヤノツルギを指すものである。
ソハヤノツルギの物語や逸話は、兵庫県加東市にある清水寺が所蔵する大刀「騒速」に仮託されている。
奥浄瑠璃『田村三代記』でのうち、星丸(後の田村利春)の誕生を描いた「星砕の段」では、妖星が大空で砕け降り注ぎ、そこに産まれた星丸が剣と鏑矢を持つという場面がある。
その後、田村利春と繁井が池に住む大蛇(龍)の龍佐王との間に産まれた大蛇丸(後の田村利光)へと渡ったようである。利光が奥州の争乱を鎮める段において、その出立の様子を「長絹の直垂、美精好の大靴、ソハヤノツルギの太刀をつけ、漣と名付けた名馬に金覆輪の鞍を置かせて乗り、金折烏帽子を輝かせ、三千余騎を率いて都から奥州へ出立した」と描いている。利光と九文屋長者の下女であった悪玉との間に千熊丸(後の坂上田村丸利仁)が産まれた。渡辺本『田村三代記』では悪玉御前の上洛の段で「夫より祖父大納言より、そばやの剱給はりて」とあり、やはり田村三代に渡ってソハヤノツルギが受け継がれている描写が加えられている。
千熊丸が成長して田村丸利仁の物語に入ると、ソハヤノツルギが振るわれる場面が数多く登場することになる。帝より鈴鹿山の立烏帽子を急ぎ退治せよとの宣旨を受けた田村丸利仁が、紆余曲折を経て御殿で学問をしている立烏帽子を見付けるも、見惚れてしまいなぜ討たねばならぬと葛藤する。しかしソハヤノツルギを鞘からはずし立烏帽子めがけて障子越しに投げ入れた。立烏帽子も騒がず長い髪の毛をさっと掻き上げ、側の大通連を抜いて投げ懸ける。二振りの剣は中空で渡り合う。田村丸利仁のソハヤノツルギは鳥となって立烏帽子に飛び懸かれば、立烏帽子の持った大通連は鷹と成って追い出し、ソハヤノツルギが火焔となって吹き懸かれば、大通連は水となって消す。田村丸利仁は太刀では敵わぬと障子を開いて飛び込んだが立烏帽子から「私は三明の剣で貴方の御首を一瞬に討ち落とすことができます。しかしあなたのやさしさを知りました。今日より悪心を翻して貴方に馴れ初め、日本の悪魔共を随わせて進ぜましょう。ご返事は」と決断を突きつけられ比翼連理、偕老同穴の契りを交わした。
明石の高丸討伐の段では、立烏帽子の十二の星が天下り稚児の舞に釣られた高丸親子を鏑矢で打ち取った。残る鬼神が火焔を吹き出して抵抗するも、田村丸利仁と立烏帽子はソハヤノツルギ、大通連、小通連、顕明連の四振りの剣を投げ掛ける。剣は虚空に飛び上がり雨や霰のように振り懸かり、鬼神は残らず討たれてしまった。
その後、大嶽丸退治の段においても大嶽丸の眷属の鬼神たちにソハヤノツルギなど四振りの剣を投げかけ打ち取った。しかし霧山禅定へ追い詰めた大嶽丸へ四振りの剣を投げ掛けるも、大嶽丸を逃がしてしまう。麒麟が窟へ逃れ籠った大嶽丸に再度四振りの剣を投げると、大嶽丸の体は四つに切り裂かれた。
『田村三代記』の末尾には屋代本『平家物語』や『源平盛衰記』の「剱の巻」に相当する部分が挿入される。古態を残す渡辺本『田村三代記』の「つるぎ譚」によると、鈴鹿御前の形見として田村丸利仁に託された大通連・小通連が暇乞いをして天に登り、3つの黒金となったものを箱根の小鍛冶に打たせたものがあざ丸・しし丸・友切丸の3つの剣であり、ソハヤノツルギは毘沙門堂に納め置いた。
武藤から刀の概要を聞いた富樫は、実にユニークだと思った。
「鳥に変形するなんて面白い」
「うん。けどさ?そんな大切なものどうして俺たちにくれるのかな?」
「お宝鑑定団にでも出した方がいいだろうに」
宇和島は、西側は宇和海に面し、それ以外の三方は山地に囲まれている。リアス式海岸が広がり、加えて離島もあり、漁港の数では全国有数である。
実際には八幡浜市よりも南南東側に位置するが、JR四国の予讃線の特急列車の終着駅であるため、地元住民以外には愛媛県の最西端の市と思われがちである。
山: 鬼ヶ城山(一部関係者の間では鬼ヶ城山系を南予アルプスと呼ぶこともある(例: 南予流域林業活性化センター))、高月山。
川: 須賀川、辰野川、
湖沼: 若山湖、旧三間町域にはため池多数ある。
島: 九島、高島、戸島、嘉島、遠戸島、日振島、沖の島、竹ヶ島、御五神島が点在。
鮫崎は宵闇の宇和島城にやって来た。
宇和島城は、中世期にあった丸串城(板島城)の跡に藤堂高虎によって築かれた近世城郭である。標高74メートル(80メートルとも)の丘陵とその一帯に山頂の本丸を中心に囲むように二ノ丸、その北に藤兵衛丸、西側に代右衛門丸、藤兵衛丸の北に長門丸(二ノ丸とも)を中腹に配置し、麓の北東に三ノ丸、内堀で隔てて侍屋敷が置かれた外郭を廻らせる梯郭式の平山城で、東側に海水を引き込んだ水堀、西側半分が海に接しているので「海城(水城)」でもある。
現在見られる、天守などの建築は伊達氏によるものであるが、縄張そのものは築城の名手といわれた藤堂高虎の創建した当時の形が活用されたと見られている。五角形平面の縄張り「空角の経始(あきかくのなわ)」は四角形平面の城と錯覚させる高虎の設計で、現に幕府の隠密が江戸に送った密書(『讃岐伊予土佐阿波探索書』)には「四方の間、合わせて十四町」と、誤って記された。
宇和島城には本丸天守から、原生林の中を抜ける間道が数本あり、西海岸の舟小屋、北西海岸の隠し水軍の基地などに通じていた。宇和島城には「空角の経始」、間道、隠し水軍などの優れた高虎の築城術の秘法が、見事に生かされた城だったのである。
城を囲む五角形の堀は、高虎の後の大名にも代々受け継がれたが、現在は堀も海も埋め立てられている。明治以降は大半の建物が撤去され城郭は「城山公園」として整備された。建物は天守、大手門などが残されたが、太平洋戦争中の空襲により大手門を焼失して現在は、天守(重要文化財)と上り立ち門(市指定文化財)、石垣が現存する。
当初、高虎による複合式望楼型の三重天守が上がっていたが、寛文2年(1662年)から寛文11年(1671年)に2代目藩主伊達宗利によって行われた改修の際に修築の名目で現在の独立式層塔型3重3階に建て替えられたという。
慶長期
高虎の天守は、自然の岩盤の上に地業を施して天守台とし、初重に大入母屋屋根、2重目以上の平面は複雑に突出した外観であったが、初重平面はほぼ歪みのない正方形である。
寛文期
現在に伝わる天守である。廊下の内側に障子戸が残る形式は現存唯一とされ、また畳敷きの名残である「高い敷居」があり、これらは簡略化されがちとされる江戸時代中期の天守に安土桃山時代から江戸時代初期にかけての古い意匠が用いられたとされる。壁には狭間や石落としなど戦いの備えが一切なく、窓には縦格子があるものの、五角形にして外を眺めやすくしている。使い勝手や装飾が重視されていることから無防備な太平の世の建築であるといわれるが、実際はすべての窓の下の腰壁には鉄砲掛けがあり、腰程の高さにあけられた窓から直接射撃を行う設計であったと考えられている。
外観は長押形で飾られた白漆喰総塗籠の外壁仕上げの各重に千鳥破風、唐破風を配置した外観である。天守の入り口には唐破風屋根で開放的な造りの玄関が用いられている。妻飾りには伊達家の家紋が付けられ、上から「九曜」、「宇和島笹」、「竪三つ引」の紋が見られ、また屋根瓦にも「九曜」が用いられている。
大学時代に建築学を学んだ鮫崎は城造りにも詳しかった。
「遅いな」
昨夜、おかしな電話があった。
『おまえのしでかしたことを世間に公表する。それが嫌なら10万用意して午後8時に宇和島城に来い』
要求する額があまりにも低過ぎるのではないか?
鮫崎は零細企業の社長ではない。『シャーク』は子供でも知っている大企業だ。
鮫崎は体に猛烈な痛みを覚えた。
撃たれたと気づくのに数秒かかった。植え込みのところに誰かいる。血溜まりがアスファルトに広がる。
鮫崎を始末した富樫はフィアットでその場から立ち去った。付け髭をつけたままだ。肌がかぶれて痒い。ベレッタの残弾は14発だ。金は奪わなかった。鮫崎の体を弄れば、不審者レベルはかなり上がる。
宿に戻ると来客があった。
「長宗我部さん」
武藤は風呂に入った模様で浴衣姿だった。
「鮫崎を無事に始末しました」
壁に耳あり障子に目ありということわざを思い出し、静かな声音で言った。
「ご苦労だった」
「約束の品です」
長宗我部は黒い刀袋を武藤に渡した。武藤は刀袋を解き、鞘からソハヤノツルギを抜いた。
「美しい光沢だ。こんな、素晴らしいもの本当にいいのですか?」
6月
愛知県蒲郡市にある老舗旅館『きしたに』が総額30億円の負債を抱え廃業。
岸谷夫妻は地獄に叩き落された。
6月13日
北海道室蘭市の室蘭港に架かる白鳥大橋開通。それと共に国道37号白鳥新道供用開始。
6月14日
FIFAワールドカップで日本代表が初めて試合を行う(結果は3戦全敗)。
6月22日
金融監督庁発足。
6月23日
日産自動車が「プレサージュ」を発売(姉妹車「バサラ」は翌年発売)。
6月27日
大相撲・貴乃花と若乃花、史上初の兄弟横綱が誕生。
6月28日 - 6月29日
美樹本内にてパチンコ店長夫婦殺害事件発生、7月4日に被害者夫婦の遺体が軽井沢にある森で発見される。事件から14年後の2012年(平成24年)8月、闇サイト殺人事件で無期懲役の刑が確定した男ら3人を同事件の容疑者として逮捕。
6月30日
「誰よりも君を愛す」や「いつでも夢を」で知られる作曲家の吉田正に国民栄誉賞が贈られる。
1999年、富樫は岸谷夫妻のインタビュー記事を発表し注目を集めた。富樫はそれをきっかけに伝記作家へと転身し、西山や如月らの伝記を発表して好評を博したが、後に富樫は落ち目になっていった。
文筆業では生計を立てられなくなったため、富樫は手持ちの品を売却して生活費を工面していた。
海荷ともうまくいき、人を殺すことに抵抗していたが困窮した。そんなある日、富樫は「著名人の手紙の中でも、センセーショナルな情報が書かれている手紙は高く売れる」という事実に気が付き、著名人の手紙を捏造して販売するビジネスに手を出した。長年有名人たちを取材してきた富樫にとって、もっともらしい裏話を捏造するのは朝飯前であった。
富樫のビジネスは予想以上に好調だったが、時が経つにつれて、捏造を疑われることが多くなった。やがて、富樫は古物商のブラックリストに載ってしまい、捏造した手紙を売りさばくことができなくなってしまった。富樫は武藤とタッグを組み、捏造した手紙を闇市場に売却することでビジネスを続けることができた。
しばらくして武藤が警察に逮捕されてしまったため、富樫も共犯者として出廷しなければならない事態に陥った。
強盗に失敗した岸谷夫妻と長宗我部の3人はとあるバーに逃げ込むが、警察に包囲されてしまう。バーは出入り口が1つしかないため、3人はバーの経営者武藤と4人の客を人質にして立てこもる。
しかし、警察は3人ではなく、同じバーにいた銃器密輸犯の深沢久作を追ってきて包囲したのだった。
自分たちが警察に追われているのではない事を知った3人だったが、バーの客には素性が知れているため、外には出られない。
外に出るための策を考える3人に武藤は話しかけた。
「このバーには地下に隠し通路がある。だから、命は助けてくれ」
3人は武藤が神様のように思えた。隠し通路は歌舞伎町に繋がっていた。
2021年9月1日
監察医の広瀬恵美は歴女だった。特に長宗我部元親が好きだった。
長宗我部国親の長男で、母は美濃斎藤氏の娘。正室は石谷光政の娘で斎藤利三の異父妹。
土佐国の守護職を兼ねる細川京兆家当主で管領の細川晴元より、京兆家の通字である「元」の一字を受けたため、かつて同じく細川氏より「元」の字を受けた15代当主・長宗我部元親と同名を名乗ることとなった。
土佐の国人から戦国大名に成長し、阿波・讃岐の三好氏、伊予の西園寺氏・河野氏らと戦い四国に勢力を広げる。しかし、その後に織田信長の手が差し迫り、信長の後継となった豊臣秀吉に敗れ土佐一国に減知となった。豊臣政権時、戸次川の戦いで愛息・信親を亡くすと生活は荒れ、家中を混乱させたままこの世を去った。
天文8年(1539年)、岡豊城で生まれる。永禄3年(1560年)5月、父・国親が土佐郡朝倉城主の本山氏を攻めた長浜の戦いにおいて実弟の親貞と共に初陣する。数え年23歳という遅い初陣であったが、元親は長浜表において本山勢を襲撃した長宗我部勢に加わり、自ら槍を持って突撃するという勇猛さを見せたといわれる。この一戦で元親の武名は高まり、長浜戦に続く
6月、父の国親が急死すると、家督を相続する。
元親は剽悍な一領具足を動員して勢力拡大を行う。長浜戦で敗れた本山茂辰は元親の攻撃に押される一方となり、永禄3年末の段階で現在の高知市における南西部の一部を除いてほぼ支配下に置いた。永禄4年(1561年)3月には本山方の神田・石立を落として茂辰を朝倉城と吉良城に追い込む。土佐国司で幡多郡中村城を中心に影響力を持ち中村御所と呼ばれていた一条氏と共同し、永禄5年(1562年)9月16日に朝倉城攻めを行う。このときは茂辰の子で元親の甥に当たる本山親茂の奮戦で敗北した。9月18日には鴨部の宮前で両軍が決戦するが決着はつかなかった。だが勢力圏の縮小から茂辰を見限って元親に寝返る家臣が相次ぎ、永禄6年(1563年)1月に茂辰は朝倉城を放棄して本山城に籠もった。この年、美濃斎藤氏から正室を迎え、長弟の親貞に吉良氏を継がせている。また、次弟の親泰は国親の生前に香宗我部氏を継いでおり、土佐東部の安芸郡を支配する安芸国虎とも戦った。本山方は5月に頽勢挽回を図って岡豊城を攻撃を企てるも失敗。永禄7年(1564年)4月7日には本山を放棄して瓜生野城(高知県長岡郡本山町瓜生野)に籠もって徹底抗戦する。だがこの最中に茂辰が病死。 跡を継いだ親茂も抗戦するも遂に敗れて、永禄11年(1568年)冬に降伏した。 こうして土佐中部を完全に平定した。
元親は永禄10年(1567年)の毛利氏の伊予出兵によって勢力を激減させた一条兼定からの自立を目論み、河野氏へ独自に戦勝祝いを送るなど独立性を強めていった。永禄12年(1569年)には八流の戦いで安芸国虎を滅ぼして土佐東部を平定。元亀2年(1571年)、一条氏の家臣・津野氏を滅ぼして三男の親忠を養子として送り込む。天正2年(1574年)2月には一条家の内紛に介入して一条兼定を追放して兼定の子・内政に娘を嫁がせて「大津御所」という傀儡を立てた。こうして元親は土佐国をほぼ制圧した。天正3年(1575年)に兼定が伊予南部の諸将を率い再起を図って土佐国に攻め込んできたときは、一時窮地に追い込まれたが、弟の吉良親貞の尽力のもと、四万十川の戦いでこれを撃破し、土佐国を完全に統一した。
土佐統一後、中央で統一事業を進めていた織田信長と正室の縁戚関係から同盟を結び、伊予国や阿波国、讃岐国へ侵攻していく。
阿波・讃岐方面では、畿内に大勢力を誇っていた三好氏が織田信長に敗れて衰退していたが、十河存保や三好康長ら三好氏の生き残りによる抵抗や、天正4年(1576年)の吉良親貞の早世などもあって、当初は思うように攻略が進まなかった。しかし天正5年(1577年)に三好長治が戦死するなど、三好氏の凋落が顕著になる。
天正6年(1578年)2月、元親は阿波白地城を攻め、大西覚養を討った。また次男の親和を讃岐国の有力豪族・香川信景の養子として送り込んだ。阿波国では三好長治の実弟・十河存保と三好康俊が激しく抵抗するが、元親は天正7年(1579年)夏に重清城を奪って十河軍に大勝した。康俊に対しても岩倉城に追い詰めて実子を人質にとって降伏させた。この年には讃岐国の羽床氏なども元親の前に降伏し、天正8年(1580年)までに阿波・讃岐の両国をほぼ制圧した。
伊予方面においては、南予地方では軍代であった久武親信が天正7年(1579年)春に岡本城攻めで土居清良の前に戦死するなどした。しかし東予地方では白地から圧力と誘いをかけて金子元宅や妻鳥友春・石川勝重らを味方にして平定。中予地方を支配していた伊予守護の河野氏は毛利氏の援助を得て元親に抵抗したため、元親の伊予平定は長期化することになった。
天正8年(1580年)、信長は元親の四国征服をよしとせず、土佐国と阿波南半国のみの領有を認めて臣従するよう迫る。 元親は信長の要求を拒絶する。
このため信長と敵対関係になり、天正9年(1581年)3月には信長の助力を得た三好康長・十河存保らの反攻を受けた。康長は息子の康俊を寝返らせ、十河存保は中国で毛利氏と交戦している羽柴秀吉と通じて元親に圧迫を加えた。ただし、十河存保の動向は必ずしも信長に忠実ではなく、三好康長も阿波国内に元親に対抗するための拠点を確立したことを裏付ける史料が無い以上、天正8年の段階で信長と元親の関係が悪化したとする見方を疑問視し、天正9年(1581年)11月に羽柴秀吉が三好氏に追われていた野口長宗を擁して淡路を平定したことで織田勢力と長宗我部勢力が隣接し、その勢力範囲の確定(国分)を巡って対立を始めたのではないかとする説もある。
天正10年(1582年)5月には、神戸信孝を総大将とした四国攻撃軍が編成されるなどの危機に陥った。このため三好氏旧臣らは元親を見限って康長に寝返り、さらに阿波の一宮城と夷山城を落とされた。 元親は斎藤利三宛の書状で信長に対し恭順する意向を表している。四国攻撃軍は6月2日に渡海の予定であったが、その日に本能寺の変が起こって信長が明智光秀に殺された。 信長の死で信孝軍は解体して撤退したので、元親は危機を脱した。
元親は近畿の政治空白に乗じて再び勢力拡大を図り、宿敵であった十河存保を8月に中富川の戦いで破って、阿波の大半を支配下に置いた(第一次十河城の戦い)。9月には勝端城に籠もった存保を破り、阿波を完全に平定する。10月には存保が逃れた虎丸城や十河城を攻めた。
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは、柴田勝家と手を結んで羽柴秀吉(豊臣秀吉)と対抗する。 これに対して秀吉は家臣の仙石秀久を淡路洲本に入れて備えた。 また元親に追われた十河存保は秀吉に援軍を求め、秀吉は秀久に屋島城・高松城など讃岐の長宗我部方の城を攻めさせるも敗退。さらに小西行長の水軍に香西浦を攻めさせるもこれも敗退した。しかし4月に勝家は秀吉に敗れて滅んだ。このため5月に秀吉は元親を討つべく軍勢を準備していた。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでも、織田信雄や徳川家康らと結んで秀吉に対抗し、秀吉が送り込んできた仙石秀久の軍勢を破った(引田の戦い、第二次十河城の戦い)。また新居郡の金子元宅と同盟し、南予の西園寺公広の諸城を落とすなど、伊予国においても勢力を拡大した。 6月11日には十河城を落として讃岐を平定する。しかし小牧の戦いは秀吉と信雄が和睦するという形で終結した。
伊予国の平定は予想以上に手間取った。天正12年3月、毛利氏は宍戸元孝を河野氏救援のために派遣し、恵良で長宗我部軍と衝突する。4月には高山で、5月から6月にかけては恵良・菊間(菊万)で合戦を行っている。 元親は東予の金子元宅との同盟をさらに強固にして9月から反攻に転じた。しかし渡海して遠征していた毛利軍は次第に劣勢になり、12月には遂に河野氏は元親に降伏した。その後、天正13年(1585年)春までに西予の豪族なども降伏させた。
🔖目が疲れたので恵美は栞を挟み、目薬を差した。
「恵美ちゃん」
向かい合って座ってミートスパゲティを食べていた江戸海荷が声をかけた。札幌市内にあるパスタ屋でお昼にしていた。
「海荷さん、口にミートソースいっぱいくっついてますよ」
「やだ、恥ずかしい」
海荷はハンドバッグから手鏡を出して、紙ナプキンでソースを拭いた。
「で、何です?」
「最近、高知で妖怪が目撃されたんですって」
海荷は友人の富樫から妖怪の詳しい情報をラインで教えてもらった。
昔、山奥の鍛冶屋にいた猟師が、何十貫もある大猪を仕留めた。だが、重すぎて持ち帰ることができなかったので、水神の大蛇が棲んでいるという
村人を連れて戻ってみると、蛇渕から現れた大蛇が猪を飲み込みかけていた。猟師は怒り、大蛇が嫌う鉄屑を鍛冶屋から持って来るが既に大蛇はおらず、鉄屑を蛇渕に撒いた。すると大蛇が激怒し、暴風雨が起き、洪水によって山が崩れ、家も流され、村はすべて荒れ野になってしまった。
以来、鍛冶屋が荒れ野にしたも同然のその地を、鍛冶屋にちなんで鍛冶ヶ野または鍛冶ヶ谷と呼んだという。
恵美は内心、海荷を馬鹿にしていた。
妖怪を信じるなんて老け顔のクセに精神年齢はガキなんだな?
恵美は医局(札幌時計台の近く)に戻り、資料を作成し17時に退社し、居酒屋で枝豆をつまみながらホッピーを飲んだ。
📕『長宗我部元親』の続きを読むことにした。
天正13年(1585年)春、秀吉が紀州征伐に出てこれを平定すると、秀吉は元親に対して伊予・讃岐の返納命令を出した。元親は伊予を割譲することで和平を講じようとしたが、秀吉は許さず弟・羽柴秀長を総大将とする10万を超える軍が派遣されると、元親は阿波白地城を本拠に阿・讃・予の海岸線沿いに防備を固め抗戦する。
秀吉は宇喜多秀家・黒田孝高らを讃岐へ、小早川隆景・吉川元長率いる毛利勢を伊予へ、羽柴秀長・秀次の兵を阿波へと同時に派遣し、長宗我部方の城を相次いで攻略した。そして阿波戦線が崩壊して白地城までの道が裸に晒されると、元親は反戦派の家臣・谷忠澄の言を容れて、7月25日に降伏し、阿波・讃岐・伊予を没収されて土佐一国のみを安堵された(四国国分)。 元親は上洛して秀吉に謁見し、臣従を誓った。 これを機に蜂須賀正勝・家政が長宗我部氏の取次になったとされる。
天正14年(1586年)、秀吉の九州征伐に嫡男の信親とともに従軍し、島津氏の圧迫に苦しむ大友氏の救援に向かう。しかし、12月の戸次川の戦いで四国勢の軍監・仙石秀久の独断により、島津軍の策にはまって敗走し、信親は討死した。 元親は信親の死を知って自害しようとしたが家臣の諌めで伊予国の日振島に落ち延びた。
天正16年(1588年)、本拠地を大高坂城へ移転する。その後に起こった家督継承問題では、次男の香川親和や三男の津野親忠ではなく、四男の盛親に家督を譲ることを決定する。 その際、反対派の家臣であり一門でもある比江山親興・吉良親実などを相次いで切腹させている。
天正17年(1589年)ころに、羽柴の名字を与えられている。
天正18年(1590年)の小田原征伐では長宗我部水軍を率いて参加し、後北条氏の下田城を攻め、さらに小田原城包囲に参加した。
天正19年(1591年)1月、浦戸湾に迷い込んだ体長9尋の鯨を数十隻の船団と100人余の人夫でもって大坂城内へ丸ごと持ち込み、秀吉や大坂の町人を大いに驚かせた。年末頃には本拠を浦戸城へ移転する。通説では洪水の多い大高坂城跡(現高知城)を元親が嫌ったからとされているが、近年では浦戸城は朝鮮出兵に備えた軍事拠点として築かれたもので、将来的には大高坂城跡を居城として整備する案もあったと指摘もされている。 また朝鮮出兵がなくとも行政機構整備は行われたとする指摘もある。
文禄元年(1592年)から朝鮮出兵(文禄・慶長の役)にも従軍する。豊臣政権は諸大名の石高に応じて軍役人数を課したが、長宗我部の軍役は3,000人で固定され、水軍としての軍事力を期待されていた。慶長元年(1596年)にはサン=フェリペ号事件に対処し、秀吉によるキリスト教迫害の引き金を作った。領内では検地を行い、慶長2年(1597年)3月に盛親と共に分国法である『長宗我部元親百箇条』を制定する。
慶長3年(1598年)8月18日に秀吉が死去すると政情が不安定になる。元親は年末まで伏見屋敷に滞在し、11月26日に徳川家康の訪問を受けた。その後、年末か年明けに土佐に帰国した。
慶長4年(1599年)3月、三男の津野親忠を幽閉している。その直後から体調を崩しだした。4月、病気療養のために上洛し、伏見屋敷に滞在。4月23日には豊臣秀頼に謁見している。だが5月に入って重病となり、京都や大坂から名医が呼ばれるも快方には向かわず、死期を悟った元親は5月10日に盛親に遺言を残して、5月19日に死去。享年61。高知県高知市長浜天甫山にあった天甫寺(廃寺)に葬られる。法号は雪蹊恕三禅定門。
幼少の頃は、長身だが色白で大人しく人に会っても挨拶も返事もせずにぼんやりしていたため、軟弱ともうつけ者とも評される性格から「姫若子」《ひめわこ》と揶揄されており、父の国親は跡継ぎとして悩んでいた。
恵美は自分みたいだと思った。恵美も人見知りが激しく。祖父が初めて抱こうとしたとき大泣きしたと母が言っていた。
初陣の長浜の戦いの際、家臣の
泰泉寺豊後は「槍は敵の目と鼻を突くようにし、大将は先に駆けず臆さずにいるもの」と答えた。そしていざ戦になると元親はその通りに行動し、敵兵を見事に突き崩し(『元親記』)、「鬼若子」と賞賛された。
一条氏の臣従時代に寺社奉行であった関係からか、熱心に寺社復興を行っており、四国統一戦の最中にも讃岐国の寺院を復興させるなど、手厚く僧侶を保護しており、谷忠澄や非有など神官・僧侶出身の者が家臣に抜擢される例も多かった。特に非有は元親の信頼を得て出頭人として領国支配に広範な権限を行使した。
土佐一国を統一する大名に成長し、土佐の出来人と呼ばれた。
土佐を統一した後、天正5年(1577年)、阿波の雲辺寺を訪れ、住職の俊崇坊に四国統一の夢を語った。住職は「薬缶の蓋で水瓶の蓋をする様なものである」と元親に説いたが、元親は「我が蓋は元親という名工が鋳た蓋である。いずれは四国全土を覆う蓋となろう」と答えた。
土佐統一を果たした年、37歳の若さで「雪蹊恕三(雪渓如三)」と法号を称している。「雪蹊」には徳のある人物には多くの人が自然に帰服してくる、そして「恕三」には広く大きな心で事に処せば、前途に万物が生じるという意味が込められているという。
家臣に「四国の覇者をなぜ目指すのか」と質問されると、「家臣に十分な恩賞を与え、家族が安全に暮らしていくには土佐だけでは不十分だから」と答えたとされる。『土佐物語』では「我れ諸士に、賞禄を心の儘に行ひ、妻子をも安穏に扶持させんと思ひ、四方に発向して軍慮を廻らし」と元親が述懐したとしている。
讃岐国の羽床・鷲山で敵を兵糧攻めにした時、城付近の麦を刈る麦薙戦術を行ったが、全部刈り取っては領民が気の毒だと思い、一畦おきに刈取らせた。
同族の秦氏を租に持つ伊予国早川城主の秦備前守との親交が深かったとされている。天正の陣を終えた秦備前守は土佐国に逃れたとあり、秦備前守の家系図には長宗我部宮内小輔秦元親(長曽我部元親)と同姓となる長曽我部宮内小輔秦野備前守元宗との記述が残されてある。
豊臣秀吉が天下を統一した後、各地の大名を集めて舟遊びをした。その時秀吉から饅頭をもらった大名はその場で食べたが、元親は端をちぎって食べただけで紙に包んだ。それを見た秀吉から「その饅頭をどうするつもりか」と尋ねられると、「太閤殿下から頂いたありがたい饅頭ですので、持って帰り家来にも分け与えます」と答えた。秀吉は大いに気に入り、用意した饅頭を全て与えたという。
朝鮮出兵の際、泗川城で垣見一直に対し鉄砲狭間の高さの指導をした。
家来に対して、「一芸に熟達せよ。多芸を欲ばる者は巧みならず」と言っていたとされる。
土佐領内で禁酒令を出していたにも関わらず、自分自身が酒を城内へ運び込ませていたことがあった。これを家臣の福留儀重に厳しく諌められて、以後改心したという。
山崎の戦いの後、斎藤利三の娘である福(後の春日局)を岡豊城でかくまったとされる。
後継者として期待していた信親が戦死した後、英雄としての覇気を一気に失い、家督相続では末子の盛親の後継を強行し、反対する家臣は一族だろうと皆殺しにするなど信親没後の元親は久武親直の讒言があったとしても片意地になり、それまでの度量を失っていた。戸次川の戦いで信親が戦死した事を知り、自分も死のうと思ったが家来に諌められている。その後、秀吉から大隅国を加増するとの話があったがこれを固辞している。
『土佐物語』などの信憑性はともかく、信親が死んで変貌する前までの元親には家臣の諫言や意見には広く聞き入れる度量があった。阿波の勝瑞城攻略においては上級家臣の意見より下級の一領具足の意見を聞き入れたという。また情け深く、妹婿の波川清宗が元親に謀反を起こして討たれたとき、弟の次郎兵衛や五郎大夫は助命した。だが2人は兄の仇を討つため岡豊から出奔したので、家臣は2人を追討しようとしたが元親は許さなかった。
阿波白地城主の大西覚養が三好氏に寝返ったときも人質としてあった甥の上野介を殺さずに優遇したり、三好康長の子・康俊が父の誘いを受けて寝返ったときも、人質として岡豊にあった康俊の子を殺さずに丁重に送り返して康長に感謝されたりしている。 だが信親没後は性格が一変、先に述べた2人の親族の他に、高岡郡の仁井田5人衆の1人である志和勘助が使者として阿波の蜂須賀家政と会見したとき、家政は勘助の人物を気に入って召抱えようとしたが、勘助は元親への忠義を理由に断った。ところがこれを漏れ聞いた元親は申し開きも聞かずに寝返ったとして直ちに勘助と一族を討伐するという行動を起こしたりした。
『元親記』では「律儀第一の人」「慇懃の人」と評され、その他の軍記物でも武勇に優れ仁慈に厚い名君と評している。 ただし阿波(徳島県)の細川氏の史書である『細川三好君臣阿波軍記』では不仁不義の悪人と記されている。
寺院の保護に積極的で、『百箇条』の中でも「諸宗其の道々専ら相嗜まるべきこと」とある。ただし僧侶に対する規制は厳しく、生活態度が悪い僧侶に対しては『百箇条』において流罪・死罪にするとしている。
元親は儒学に特に関心を寄せていたが、他の文学に関しても大いに奨励し、文化上優れた功績を挙げれば恩賞を与えることを約束していた。
戦国期の武家は家名の存続を重視したが、元親は武士が罪科のために処罰されても重罪の場合を除いては家名存続やその後の影響に一切の支障は無いことを保障した。また殺人・口論など家中の統制を乱す者は喧嘩両成敗とし、強盗や山賊・海賊には厳罰を処してそれらを在所の庄屋などが逮捕できない場合は連帯して責任を負わせることにした。賭博は禁止し、犯罪者隠匿の場合も連座で処罰し、国家反逆罪から悪口・流言蜚語にまで刑罰を定めるなど、厳罰主義による秩序の維持に努めた。寺院の特権も廃止し、犯罪者が寺院に逃げ込んだりした場合でも逮捕が可能であるとしている。
土佐は豪族が多かったため、城割など城下町建設は不徹底に終わっている。それでも元親は居城を浦戸から大高坂に移して中央集権化に努力している。なお元親は商工者の城下町集約と市場町建設にはかなり積極的に行なっているが、これらも城下の地形や広狭の問題から不徹底に終わった。
年貢に関しては二公一民と厳しく、隠田が発覚した場合には『百箇条』において倍の年貢を取り、あるいは斬首にするとしている。また百姓の逃散には厳しい取締りを設けた。このため『清良記』では百姓の逃亡も少なくなかったという。
商業・産業政策では御用商人に大幅な特権を与える見返りに戦時の軍費を獲得した。土佐は資源に乏しいため大規模な鉱業・工業は発展できなかったが、職人の育成に積極的に努めて慶長期にはそれまでは他国から売買を求めていた鉄砲を自国で生産できるまでにしている。ただし密造・密輸(鉄砲・馬など)には『百箇条』で死刑にするとしている。土佐は木材が豊富だったことから、かなり細則に及ぶ規律が定められた。
税制に関しては前述したように年貢が厳しかったが、それ以外の課税として漁業のときに使うかつら網などにかかるかつら銭、塩浜税、十分一(船舶・積荷の税)などがあった。
城下町と支城、生産地を結ぶという目的から、元親は交通路の整備に積極的だった。天正年間に一里塚を築き、信親存命の間は道に損傷があったときなどは直ちに上の判断で往来の者に累が及ばないように配慮していた。だが信親没後は道路の損傷は在地の庄屋と百姓に責任を負わせ、悪路のある場合は罰金を徴収するなどした。国内旅行に関してはかなり自由で、宿泊費もその人の志次第としているものの、本道以外を通行すれば罰金とし、定飛脚などは急用の場合に時間までに着けなかったら死罪にするとしている。他国への往来はかなり厳格だったという。
本を読み終えたら20時を過ぎていた。
9月2日
宝石商の義一はギャンブル中毒により借金を抱えていた。借金は如月の義兄の西山にまで及んでおり、義一は西山の用心棒から常に監視されている状況だった。この日、義一は高知城近くの洞窟で白く輝く玉を手に入れた。その玉はYouTuberとして多方面で活躍中の
「それにしても岸谷さんって、ともさかりえに瓜二つだな?」
同じ日の夜、大友刑事と加藤刑事は美樹本市にやって来た。ゴーストタウン化してる。閉ざされたガレージには『死ね』だの『呪われろ』だの赤いスプレーで書かれてあった。ウォンウォーン!バイクの唸る音が遠くで聞こえた。
2人は廃校にやって来た。校門は破壊されており、中に入ることが出来た。バサバサッ!🦇
「ゲッ、コウモリだ。コロナになっちまう」と、加藤。
中は酷く荒らされており、カップ麺の空き箱や使用済みのコンドームが床に放置されていた。
1階、1年生の教室や理科室、給食室などを調べたがこれといったものはなかった。階段を上がり2階の教室を1つずつ調べる。2年3組までは問題がなかった。4組のドアの前に来たとき、酷い死臭がした。
ギィィィ……ドアを開けた。死体が教壇の前に転がっていた。
「西山署長」
加藤は特命に入る前は宇和島署の強行犯係にいた。
加藤はライトで西山の口を調べた。歯が全てピンク色に変色している。🔦
「絞殺?」と、加藤。
首を絞められると頭部が鬱血する。つまり、頭部に血が溜まって、顔面が真っ赤になる。歯の中にも血は循環しているが、普段は細胞のまま循環しているので、赤くはならない。ところが、鬱血して赤血球が破壊されると、赤い色素が白い歯に沈着する。すると、白い歯がピンク色に変わるのだ。
9人の爆破テロ犯のリーダー格、有田菜々子が霊安室から姿を消した。何としてでも長宗我部を殺さないと、奴は風邪を引いて会社を休んで運良く助かった。
松田は再び北海道を訪れていた。
有田菜々子が姿を眩ませたらしい。菜々子は23歳、岸谷夫妻の娘で既に結婚していた。
菜々子の母、岸谷麻美は自爆テロがあった日の夜、霊安室で白い不思議な玉に「菜々子の命を返して」と、呪文をかけた。その効果があった。
愛媛出身の西山を殺した富樫は、同じく愛媛出身の有田菜々子を倒すべくスクーターのゴリラに跨り、チャチャ通りを疾駆していた。
西山はゴミみたいな男だった。既に60を過ぎて定年を迎え、隠居していた。鮫崎の一件があって以降、宇和島を去り美樹本署の刑事課長になった。1998年6月のことだ。
同じ頃、介護士を辞めた富樫は職探しをしていたがなかなか見つからなかった。
美樹本駅のホームで列車街をしてるオッサンから財布をすろうとしたら、気づかれてしまった。
「手グセがわりーな兄ちゃん」
それが西山との出会いだ。
「梅雨時で洗濯物がナカナカかわかねーな。このまま警察に突き出してもいいが、俺の言うことを聞いてくれたら勘弁してやってもいい」
駅前の瀟洒な喫茶店に連れてかれた。
空きっ腹だったので富樫は何も飲まなかった。
ブラックコーヒーを飲みながら西山は話した。西山は義一という弟に困っていた。ギャンブル依存症で、渡した金をスグに使い果たしてしまうらしい。その為、西山自身が火の車だった。
「如月を懲らしめてほしい。それと金を恵んでくれたらありがたい。拒否できるのなら拒否してみろよ」
如月にあれこれ注意をしたが改心することはなかった。西山は毎月1万を要求して来た。年に換算すりゃ12万だ。その金があれば海外くらい行けただろうに。
東京で探偵の仕事が決まった為に西山の魔の手から逃れることに成功した。今年のお盆休み、数十年ぶりに美樹本に足を運んだ。この年の7月には湖畔の別荘で凄惨な事件が起きたばかりだ。
夜、廃校の周りを歩いているとホームレスと化した西山に遭遇した。豚みたいな体型だったが、ガリガリに痩せ細り、杖をついていた。
「富樫じゃねーか」
「はい」
思わず返事をしてしまった。西山は癌になってしまったらしい。入院費がほしいと富樫に杖で殴りかかって来たが、富樫は攻撃を躱して首を絞めて殺した。
「この金食い虫!」
死体に唾を吐いて、蹴った。
富樫は我に返った。
ハリストス正教会や元町教会が並ぶ通りで、結構な急坂だ。
サイレンの音が聞こえた。覆面パトカーが横切る。車種はレガシィだ。富樫は面パトを追った。
現場はセキュリティが完備されたマンションで、敷地内と外にまるで結界みたいに黄色い、立入禁止のロープが張り巡らされている。
駐車場にレガシィが止められ、助手席から中年の女性が降り立った。
「海荷?」
「富樫君じゃない」
「何かあったのか?」
「あなたも知ってる長宗我部が殺されたのよ」
富樫は絶句した。
「殺しても死なないような人だったけどな。にしても、ここって函館署の管轄だよな?」
海荷はすすきの署の刑事だ。
「タスクフォースに参加してるのよ」
「タスクフォースって何だっけ?俺、横文字苦手なんだよな?」
「精鋭部隊……カタカナが苦手なんて、君は先前生まれですか?」
マンションからいかつい刑事が出て来た。
「江戸さん、早くしてくださいよ!待ってるんですから」
「松田さん、スミマセン」
「おい、オッサン。関係者以外は立入禁止だからな?とっとと失せな」
海荷は長宗我部の亡骸と対面した。首の骨をへし折られていた。
「アマランスもこれで終わりだな」
松田がつぶやいた。
長宗我部を殺した菜々子は函館港に逃れた。
バイクの音が聞こえた。見知らぬ男が降りて、鞘から刀を抜いた。
「私を殺そうっての?」
ダンッ!銃声が響いた。
如月義一が埠頭に立っていた。
「娘はオマエのせいで死んだんだ」
だが、亡霊の菜々子は衝撃で倒れたものの心臓は動いていた。
すっくと立ち上がり、義一に襲いかかった。
「ドリャアッ!」
富樫はソハヤノツルギで菜々子を袈裟に斬った。
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