第4話:ひなたと冬の理
あぁ、わかってしまった。
先輩は、ボクと誰かを重ねてみている。
先輩はきっと、その誰かを、ずっと待っているのだと。
***
「……先輩。起きてください」
寝台の端に腰を下ろして、白いシーツにくるまった彼の肩をゆする。
頭まで被っていたシーツをそっとどけると、濃い新緑の艶やかな髪がサラリと寝台の上に零れ落ちる。
「先輩。そろそろ起きてください~もう夕暮れですよ~」
起きろ~とやや乱暴に肩をゆすれば、パチリと瞼が開いて、榛色の瞳が瞬いた。
「……すげぇカラフルな花」
「はい?」
寝ぼけている。
寝起きの彼の目には、色とりどりの花でも見えているのか。
「ん……日向?」
目を細めて呟いた彼に、日向は、はいおはようございます、と眼鏡を手渡した。
「横になってくださいとは言いましたけど……まさかそのまま寝オチされるとか……まぁ、おかげでそれなりにいいのが描けましたけどね」
そう言って離れた位置に立てかけてあるキャンパスに、チラリと視線をやった。
二人がいるのは、学園内にある美術部専用のアトリエである。
美術部とは名ばかりで、ほとんどが幽霊部員か、やる気のない学生たちばかりの中、日向は唯一真面目に活動している美術部員である。
おかげで、この無駄に設備のいいアトリエをほぼ毎日貸し切りで使用している。
二人で使うには贅沢すぎるほど広々とした、小洒落たアトリエの中は、美術室によくある石像や彫刻にはじまり、絵の題材のための様々なアンティークや西欧家具、そしてたくさんのキャンパスなどがあちこちに無造作に配置されている。
彼が寝ていたこの天蓋付きの寝台もその一つだ。
「寝不足ですか?」
眼鏡をかけてゆっくりと身を起こした彼に、問いかけると、苦笑したような声音が返ってくる。
「ん~……そんな感じ。なんか最近、寝覚めが悪くてな~……あんま眠った気にならないから、もういっそ寝なくていっかって思って」
おかげで受験勉強は捗ってるわ~、と呟く彼に、極端すぎですよ、と思わずつっこんでしまってから、日向は小さくため息をつく。
「徹夜は健康に良くないですよ」
彼の言葉が半分は本当で、半分は嘘だと日向はなんとなくわかっている。
本当に眠れない原因は“幻影花”のせいだろうと、日向は薄々気が付いている。
信じがたい話だが、日向と彼には“前世の記憶”がある。
この世界とはまったく違う、王だとか騎士だとかが存在する世界で生きていた“自分”のことを覚えているのである。
好きで思い出したいわけでもないし、好きで見たいわけでもない、けれども本人の意思とは関係なく、その“前世の記憶”は“夢”という形で見えてしまう。
きっかけは、たぶん【花の幻】が見えるようになった時からだ。
日向は今はもう【花の幻】を見ることはなくなったが、その代わりに、ふとした時に、思い出した前世の記憶の欠片を“夢”で見るようになった。
中でも最も印象の強い記憶が、何度も“夢”で繰り返され、その“夢”に苛まされる彼が、眠れなくなる時期があることを、日向は知っていた。
そして自分とは違い、彼は今も、【花の幻】に苛まれているのも。
特にそれらがひどいのは冬の季節、そして――今、この夏の時期。
以前、彼は、このアトリエでなら“夢”を見ることなく眠れるのだと言っていた。
――それに、おまえがいるから、かな
そう言った時の彼の泣きそうに歪んだ表情を思い出して、日向の胸が小さく傷んだ。
「……いくらここが涼しいからと言っても……さすがにそこで寝ると風邪ひきますよ」
ほどよくクーラーで冷えたアトリエは、日向にとっては快適だったが、昼寝するのに適した温度ではない。
少しだけ心配してそう言ったのに、彼はからかうような口調で、いたずらっぽい微笑みをこちらに向けて返した。
「夏風邪は、バカが引くっていうじゃん。だからたぶん、俺は平気だ」
「…………そう言える先輩の頭脳が羨ましいです」
事実なので、否定はせず日向は投げやりに答えた。
この先輩――イブキ・冬理は、学年順位で常に一桁に入る程度に頭は悪くない。
日向の一学年上の先輩で、弓道部の部長を務めていたが、春に部活を引退し、今は受験勉強に専念している。
学年も違う、部活も違う、そんな彼が何故放課後、日向とともに美術部のアトリエにいるのかというと、日向が彼を絵のモデルにしているからだった。
簡潔に説明すると、弓道場が見下ろせる位置に美術室があり、そこから見えた彼が弓を射る姿に日向が一目ぼれしたのが一年前。一年生の時は、美術室から遠目に見るだけで満足しており、その姿を描いていただけだったが、進級し、日向が二年生になり、彼が三年で卒業すると思ったら、いてもたってもいられず、モデルを直談判しに行った結果、許可を得て現在に至る。
実際、そこまでの間に【花の幻】やら【前世の記憶】やらがいろいろ深く関わっているのだが割愛する。
前世において、知り合い以上、友人未満の関係だった、とだけ言っておこう。
***
紫色、白色、赤色、黄色、ピンク色、緑色と、様々な色の花がある百日草、
花言葉は――「遠い友を想う」
***
翌日の放課後もいつものように、日向はアトリエに来て絵を描いていた。
けれども今日は、なかなか筆が進まない。
ついに日向は絵筆を持つ手を止めて、本日何度目かのため息をついた。
というのも、すべては目の前の赤い革張りのソファに寝転んでいるモデルのせいなのだが。
「先輩」
無意識なのだろうが、物憂げな表情でぼんやりとしている冬理を呼ぶ。
声をかけると冬理はハッとしたように我に返るのだが、しばらくするとまた、どこか心ここに非ずといった様子でぼんやりとしだす。
今日は、その繰り返しだった。
どう見ても様子がおかしい。
「先輩、調子が悪いなら寝ててもいいですけど」
「あー……いや、大丈夫」
冬理自身も自覚があるのか、呼びかけられるとすぐに決まり悪そうな表情になる。
今日はダメな日だな、と察した日向は絵を描くことを早々に諦めた。
冬理と放課後を過ごしていると、こういうことが時々ある。
そういう時はだいたい彼の夢見が悪かった日か、彼には未だ見えているのであろう【花の幻】に惑わされている時が多い。
正直、この人の憂い顔は、胸が苦しくなるので、あまり見ていたいものではない。
ふと視線を戻せば、やはりまた、冬理はどこか寂しさをたたえた眼差しで窓の外を眺めている。
「……先輩、何見てるんですか」
「……ん~……花」
残念ながらアトリエの窓から、花など見えるわけがない。
おそらくそれは、彼にだけ見えている【花の幻】だ。
「何の花ですか」
「さぁ……なんか紫色の花」
花の名前を知らないのだろう、彼の説明はおおざっぱすぎてわからない。
かつての日向のように、自分が見ている光景を絵にする技術が彼にもあればいいのだが、残念ながら彼に絵心はない。
日向は、絵筆を置くと、絵の具で汚れないようにとつけていたエプロンをはずす。
それからソファに近づくと、冬理の傍に腰かけた。
「先輩は、…………今、会いたい人っていますか」
呟いてから、あぁ余計なことを言ってしまったなと後悔する。
日向の言葉に一瞬目を瞠った冬理だが、ふっと視線を宙にそらすと囁いた。
「さぁ……特には」
本当にそうだろうか、と日向は思わずには言われなかった。
彼は時々、日向に懐かしそうな眼差しを向けてくることがある。
日向を見ているようで見ていない、どこか遠い眼差しで、一体、その瞳は誰を映しているのか。
日向が声をかけるとそれはすぐに消えてしまうが、我に返った刹那に一瞬陰りを帯びる彼の瞳が日向は少し悲しかった。
「……先輩は、どう受け入れているんですか?」
日向の唐突な問いかけに、冬理が榛色の瞳を瞬かせる。
なるべく隣を見ないように、アトリエのキャンバスを眺めているふりをしながら檸檬色の瞳を眇めた日向は呟く。
「……覚えているといっても……アレは、ボクであって、ボクじゃない。ボクは、そう思ってます」
この世界には、王国も皇国も帝国もない、王も皇帝も女帝もいない、騎士も兵士も有翼の民もいない、争いも戦争もない。
“今の”日向は、皇国の民でもなければ、騎士に知り合いがいる画家でもない。
そして冬理も“今は”もう、皇国一の弓の名手であった騎士ではないし、その隊長でもない。
「その考えには、同意する。……アレは、俺であって、俺じゃないからな」
静かな口調で、そう言った冬理は、すぐに自嘲するように小さく笑う。
急にどうした、と日向の枯れ葉色の髪を撫でてくる手を、普段なら子ども扱いしないでください、と振り払うところだが、今はされるがままにしておいた。
そして、勇気を出してもう一歩踏み込む。
「…………先輩は、時々ボクを、誰かと重ねてみてますよね」
「……」
「先輩が会いたい人って、その人ですか」
ポツリと零れ落ちた日向の囁きに、返事はない。
おそらく無意識なのだろう。
彼はその榛色の瞳で、時々、日向を通して、誰かを見ている。
日向の姿を、誰かに重ねて懐かしんでいる。
けれども、すぐにそれが別人だと気が付いて、ほんの一瞬がっかりした顔をする。
日向にとって最後であった花の幻【深紅の薔薇】が飛鳥であったように、おそらくその人が、彼にとっての想い人、彼の【深紅の薔薇】だ。
日向がその誰かに似ているからなのか、わからないが、この人は心を許してくれているようで、本当に大事な部分、その本心を明かしてはくれない。
それが少しだけ――“今の”日向には寂しかった。
***
彼にしか見えないその花の名前は、エリカ
その花言葉は――「寂しさ」
<ひなたと冬の理:終>
幻影の花<OMNIBUS> 宮下ユウヤ @santa-yuya
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