*


 轟々ごうごうたる水の音だけが響く。


 我ら龍神族は、この原初の滝から生まれ出たとされ、峡谷一帯は我が一族の住処すみかでもある。ここならば、人の世よりもずっと楽に息が出来る……それでも、人の身でなければ感じられないものがあり、守れないものがあると教えてくれた手があったから、私はきっとまだ王としてここにあるのだ。


 一族がかつて人に受けた恩義を返すため、などという理由と義務感だけで座っていられる程、この玉座は甘いものではなかった。きっと、言葉にはしなかっただけで……父も、その先代もそれぞれに守るべきものがあったのだと、今ならば分かるから。


「……陛下……龍王陛下っ――」


 声が、聞こえる。三年、待ちわびた声が。


 ここにいると応えたくとも、この姿では醜くおぞましい咆哮ほうこうを上げる事しか出来ないと分かっているから、ただ千尋せんひろの滝をけ昇る。


(ようやく、そなたに――)


 滝口へと身を躍らせた巨大な体躯たいくを見上げ、鈴鳴が目を見開くのが分かった。少しやつれたように見えるその顔は、記憶にあるよりもずっと大人びていて――


(美しく、なった)


 今すぐ手を伸ばして触れたくても、この姿、この立場では何もかもが許されない。これが、最後だ……そう決めて、ここに来たのだから。


「織り手のほまれたまわりました、鈴鳴と申します」


 儀礼の挨拶を述べる鈴鳴の顔はすぐに伏せられ、跪く姿は臣下の礼。これが、現実だ。


「……この身をもって当代の契りと代えて下さいますよう」


 最後の句を紡ぎ終えると、羽衣を抱いた鈴鳴は滝壺に身を躍らせた。


(っ――思い切りが良すぎるだろうっ!)


 こちらが覚悟を決めている暇もなかった。私は落ちて行く彼女を追い、人の姿となって水煙に紛れた。手を、伸ばす……抱き締める。これまで一度として触れることの出来なかった温もりが、今だけはこの手の中にある。


「鈴鳴っ」

「ようやく、会えた……黎月」


 当たり前のように微笑む鈴鳴に、言葉を失う。数瞬の時の隙間を、ただ二人落ちて行く。


「な、ぜ……」

「だって、気付いてたもの。何年一緒にいたと思ってるの?あなたが皇太子だって事も、それを私に知られたくなくて必死に隠してる事も、全部気付いてた」


「ならば何故っ……どうして私の事を責めない!何故、三年前のあの日に逃げなかった!そなたを縛る私から離れる、絶好の機会を」

「あなたの事を、愛しているから」


 あまりに端的な、そして何よりも望んでいた言葉に、彼女が壊れるくらい滅茶苦茶に抱き潰して、このまま死んでしまいたいとさえ思った。それでも、そう。愛しているから、出来ないことは数え切れないほどにあって。


「私は、怖い……父が母を殺してしまったように、いつかそなたを取り返しのつかないほど、傷付ける事が怖いのだ。今日とて、そなたを私から逃そうと」

「当たり前の事だけど、あなたは先王様じゃない……私は龍王のためでなく、他でもないあなたのために羽衣を織ったのよ、黎月」


 そっと言葉を落として、鈴鳴は胸に抱いていた羽衣をフワリと広げた。


 星空が、そこにあった。涙を散りばめたように輝き、優しく瞬く星々が身を包む。



『どうか忘れないでね。私の心が、いつもあなたのそばにある事』



 あの時、最後に鈴鳴が告げた言葉を思い出す……それが、そなたの見出した星空か。


「今だって、あなたは私を守るために抱き締めてる。私はあなたに傷付けられた事なんて、一度もない。それでも怖いなら、私があなたを抱き締める。私に出来る事なんてたかが知れてるけど、あなたが凍えないように衣を織って、帰る場所が分かるように歌を歌うわ」


 その言葉の一つ一つが、夢に形を与える。細く、それでいて力強い腕が私を抱き締める。これが、生きているということなのだと、その温もりが私に教えた。



「さあ、聞かせて……あなたの言葉で、あなたの心を。私は逃げるためじゃなくて、寄り添うために、ここまで来たのよ」



 心に築き上げていた最後の壁が、崩れ落ちる音が聞こえた。



「……そなたが布を織るところを、誰より近くで見ていたい」

「うん」


「独りでなく、そなたと共に生きたい」

「うん」


「……っ、そばに、いてくれ」

「そばにいるわ、どんな時も」



 涙が、こぼれる……また一つ、夜空の星となる。星の羽衣を鈴鳴に預け、果てのない空を見上げる。


 私は、えた。誰にも聞かせた事のない咆哮を轟かせ、龍の鉤爪にそっと彼女を閉じ込める。星の羽衣が守るように鈴鳴を包み、大丈夫だと頷く彼女を抱いて飛び立つ。今少し、こうしていよう。この夜空を、どこまでも二人翔けて行く。また新しい、明日が来るまで。




 トントンカラリ、トンカラリ




 機織の音は、いつまでも響き続けている。







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星を紡ぐ手 雪白楽 @yukishiroraku

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