呪い殺したいあなたへ
みどりこ
花
「ようこそ死者よ」
りん、と美しく響く声。
声は低く小さいが、不思議と聞き逃しようがない響きを持っていた。
その女性は一人、黒いスーツ姿でまっすぐに立っていた。闇の中にそこだけ白くスポットライトが当たるように照らし出されている。
右手に立派な革の本を一冊抱えて、
女性は緩く頭を巡らせ、ひとりひとりを
彼女の前には、老若男女取り混ぜて10名余りが特に列や輪になるでもなくばらばらと膝を抱えて座っていた。
見ようによっては叱責を受ける小学生と教師のような構図だ。
「自覚していると思うが」
そう続ける女性の黒いスーツは漆黒というよりも夜空の黒で、生地も上質なものだった。肩幅で広げた脚をつつむパンツは皺ひとつない。
だからだろうか、黒ずくめでも喪服のような雰囲気がないので、沈鬱な感じがしなかった。
「お前たちは生きているうちに恨みを晴らせず、すでに命を失ってしまってから相手に復讐してやりたいとグダグダ言っている諦めの悪い死者どもだ」
たたずまいや声に若い女性のような雰囲気を漂わせた一瞬後には、年老いた賢人のように老成した影が差す。
「まさに往生際が悪い」
彼女は膝を抱えて座る人の群れに一歩近寄った。滑らかな肌に、星のように光る瞳。冗談なのか本気なのか分からない物言いをしながら、表情は真顔。
死者を上から見おろすことに慣れた、そんな存在は妖魔か悪魔か死神か。
その場にいる誰もが、もう感じなくなったはずの寒気に身を震わせた。
誰も何も言わずにいるのを見てとって
「お前、立て」
女性は手にした分厚い本で、不意に一番手近に居た者の肩をトンとついた。
弾かれたようにその人は立ち上がった。
「お前の復讐を語れ」
立ち上がったのは30代くらいの男だった。ぼさぼさの髪、無精髭を生やしていて、悲しそうに痩せている。服は白いパジャマだ。
「は、ぼく、ですか」男は立ち上がったものの、まごついて他の座り込んでいる人々を見回し、助けを求めようとした。
「どうした」
女性の鋭い目に睨まれ、そして誰も助け舟を出そうとしないのを知って……男は覚悟を決めたようにそっと息をつくと、肩を落としぼそぼそと早口でしゃべり始めた。
「えっとその、ぼくの死因は自殺です。
あの時は大変で、もうあまり詳しく覚えてないんだけど……。
とにかく毎日が地獄でした。生きてるだけで精一杯だった。
仕事なんて、将来世界的な偉業を成し遂げたいとか、トップに立ちたいなんて気持ちは無くて。毎日をそこそこ満足して暮らせるだけの稼ぎがあれば良い。そういう気持ちで働いてたんだ。まったく普通だよ。
なのに…。いつがきっかけだったかも覚えていない。もう、ずっと泥の底にいるみたいな気分だった。毎日生きるだけで精一杯で、復讐なんか考えられないくらいだった。
……特に、あいつは酷かった。毎日毎日ぼくを無能、使えない、役立たずのゴミ、って言って皆の前で笑った。
見えない場所では殴ったり蹴ったり…。
もう辛くて、考える力もなくなってて、あいつが投げつける罵詈雑言を傷つきながらぼうっと聴いてるしかなかった。それをまた、バカにするんだ。ぼくが、まるで、何の価値もないっていうみたいに……」
暗闇に座り込んでいる人々は落ち着かない様子でさわさわと身動きした。
「滅びていい。いや、滅ぼしてやる! あのクソ上司、会社ごとだ! 黙って見てただけのあいつらもだ!! 全員、死ねばいい!!」
いかにも気弱そうな男の表情はしだいに言葉の勢いに釣られるように険しくなり、最後は地面を踏み鳴らし、大声で吠えた。
平静を装う者、歯を食いしばって宙を睨む者、顔を伏せてしまう者。
皆、男の叫びに自分の中に深く沈めていたものが呼び起こされずにいられなかった。
それぞれ、身の内から響くものに耳を傾けている。
はあ、はあ、と男が激昂に息を乱す音が獣のように響いた。
ひとしきり叫んだ男は、周囲の静けさに気づいてきまり悪そうに身を縮めた。
「なああんた、ぼくたちは復讐がかなうと思ってここにいる。どうやってここに来たかは全くわからないけど、その、もう自分が死んだのもわかってる」
皆声もなく同意を示した。何のためにここにいるのか理解しない者はいなかった。
それで、周囲を見回した視線が誰かと交差する度に、内に抱える物の質が同じと悟ってさっと目を逸らす。
振り返って人々の様子を確認した男は、何も言わない女性に抑えた声で問う。
「何をすれば良い? どうしたらあいつに、あいつらに、この報いを受けさせられる?」
人々は片手に本を持った女性を探るように仰ぎ見た。
皆が心に抱えたどこか乾いた、冷たいもの。それは鋭く研ぎ澄まされて、狙う相手の首筋やら心臓に振り下ろされるべき痛みと決意の塊だった。
人々は誰も会話を交わそうとしなかった。
言葉にしてしまうことで、大事に抱えたその冷たい刃が溶けてしまうかもしれないことが怖いのだ。
そのくせに、そこにいる全員が殺意を抱えているという事実が、じわりと空間ごと包む冷気のように恐ろしい。
これから誰かを呪い殺したいと願う自分達が、他人の殺意を何か恐ろしいように感じるのは、皆の座らされているポーズと相まってどこか皮肉で滑稽だった。
ーーー死んでいるのに。
黒スーツの女性はそんな内面を知ってか知らずか男性の問いを平静に受け止めると、男の言葉がもたらした効果を確かめるようにもう一度死者たちを見回した。
視線を向けられた死者たちは目を背けて代わりに周囲をきょろきょろと観察するふりをした。
復讐の方法は知りたくても、あんな風に自分の復讐を語らされてはたまらなかった。
この空間がどれぐらい広いのか、どこかの部屋の中なのか、あるいは洞穴の中なのか誰にもわからない。
確かなことは、やはりみんな『復讐を誓った死者』だということだけ。
「よろしい」
女性は本を片手にしたまま言った。
「私は皆の協力者、呪いのプロだ。できるだけ全員に復讐を遂げてもらいたい」
紙のすれる音と共に本が開かれた。深い色の革で装丁された古く立派な本だ。表面に細かく何かの意匠が掘り込まれている。
「私の名前は『銀世界』。これから説明も兼ねてお前たちを試す」
さらり。とページが鳴った。
瞬間、膝を抱えて座っていた人間たちはその場から跳ね上がった。
「何!? なんだ!?」
「すごい、音!?」
どん、どん、どん、と芯まで揺さぶる大音量が全員を揺すぶっている。
弾ける歓声、どっと押し寄せる熱。激しい光。
口をぽかんと開けて周囲を見回す死者たちは自分たちが人の群れにもみくちゃにされ、押しつぶされかけていることに気づいた。
皆死者なせいなのか、圧迫感も周りを押し包む人の波に触れる感覚もなかったから、すぐにはわからなかったのだ。
皆慌てて人の波からもがき出ようとしたが、特に意味のない行為だと気づいた。
生きている人たちの身体はすうっと影のように通り抜けてしまう。
布が触れた程度の感覚も残らなかったのだから。
『銀世界』と名乗った女性は人の群れの上に何の支えもなく浮いていた。
シャツの白はあまりに淡く、対比されてスーツの黒は際立って深く、まるで夜闇と月のようだった。
背中の中ほどまで届く黒髪が少しの動きにも水面のように光り、鋭い両眼にかかる直前で真っ直ぐに切りそろえられた前髪の下で厳しい表情は揺らぎもしない。
全身から放つ触れたら刺さりそうな怖い印象は、突き立つ一振りの刃のよう。
半眼に閉じた眼差しで何かに集中しているような面差しだ。
足元の混乱とは徹底して別存在だというように。
「おい! どういうことだ!? いきなりこんなところへ連れてきて……」
意を決した誰がが彼女へ怒声を上げた。
『銀世界』は怒り困惑する死者たちを見つめ返すと、冷ややかな表情で一方を示した。
そこに光の舞台がある。
「……これは、ライブ?」さっき復讐を語った男性が戸惑った声を上げる。
光の塊のような、圧力さえ持った歌声がどっと浴びせかけられる。
眩しくて輪郭も見えない誰かが歌っている。
「……ああ、まさか!!」
低く響くビート、唸り上げる強い歌声。
生きている人たちは熱狂の声を上げて、飛び跳ね、手足を振り回す。
「信じられない、ずっと好きだったんだ。いつかチケットを買って、出来たら最前列で聞けたらいいなって思ってた……」
ずん、ずん、ずん
響きはこの世ならぬ者たちの、存在しない肉体さえ芯から揺すぶって広がる。
歌は愛と希望を歌っていた。
男の頰に、すっと涙が落ちた。
そのまま、わあっと叫んでぎこちなくリズムに身体を揺らし始めた。
飛び跳ねて手を叩き、同じ歌を歌い始めた。
死者たちはほとんどその歌手を知らなかったが、リズムは心地よかった。歌は心を揺さぶった。光が眩しく、周りで沸き立つ人々の熱気が全身を押し包んだ。
何人か一緒に踊り始め、歌い出し、それから。
さらり
とページが鳴った。
「このように。お前たちはあまりに弱い」
暗がりに戻っていた。
目の前には教師のような『銀世界』。
片手に持った本が閉じられていて、死者たちは驚いてざわめいた。
「あの人は!?」
十代くらいの少女が声を上げた。
男は居なくなっていて、10人あまりいた死者たちは6人だけになっていた。
「浄化された」
淡々とした答えが返り、死者たちはお互い顔を見合わせた。
「どういうことですか」
老人が慎重な声を上げる。
「お前たち死者は生きていない。身体がない。その点で小虫よりも
わけがわからず、今度は誰も声を上げなかった。
しん、と暗闇が重くなった。
銀世界はさも当たり前といった風情で続けた。
「歌や音楽、大きな音や光はいわば神事だ。炎や清水もそう。振動するもの、流れ続けるものは霊の存在を脅かす。お前たちには肉体が無いから簡単に存在が揺らぐし、魂に寄り添う言葉に癒されて、復讐こそが今おのれをここに縫いとめているということを忘れる。そして、あっという間にかたちを失う」
死者たちはそれぞれ、半分透けた自分たちの身体を見下ろしたり、手を見つめたりした。
それはいかにも頼りなく見えた。
「そんな弱いお前たちが、生者を呪い殺そうというのだから、生易しいことじゃない。だからこうしてわたしはお前たちを試している。その想いが呪いに足るかどうか」
銀世界の鋭い眼差しが死者たちひとりひとり射抜くように向けられた。
「覚えていないだろうが、この場に残ったお前たちはすでに火葬という火の浄化を越えて呪いを選んだ者たちだ。可能性だけはある」
老人が一歩進み出た。小柄で手足が木の枝のように細い、しわ深い顔に穏やかな寂しさを刻んだ、優しげな人だ。
「わたしは……どうしてもあんな奴をのさばらせてはおけなくてなぁ」
しわがれた声には強さがあった。
銀世界がじっと声の主を見つめ返す。
「わたしは病で死んだよ。家族に看取ってもらって、良い最期だった。だからこそ放って置けないことがある」
「お前の復讐は?」
「孫が死んだ。交通事故でね。孫はまだ中学生だった……! あんな、はした金や薄っぺらの謝罪で済むものか! 孫の命は戻ってこない! せめて同じ目に合わせてやらんとならん。許せん。絶対に。安心して死んでもおられん!」
病院服を着た老人の叫びは、カラスの声のように響き渡った。
さらり。本のページが鳴った。
「では、試そう」
死者たちは身構えた。またさっきのように、「浄化」されてしまう場所へ連れてこられたのかと思ったのだが。
「……ここは?」
音はなく、しんとしている。周りは今までとは対照的に真っ白で、彼ら以外誰もいない。
銀世界はつかつかと靴音を鳴らして数歩先へ歩き、開いた本を支える手とは別の手で宙をノックする仕草をした。
こん、こん
木製の扉を叩いたような穏やかな音がする。信じられないことに、そこには透明な壁があるらしい。
「あれが見えるか?」
すっと伸ばされた指先で示されたものに、死者たちは初め誰も気付けなかった。
伸び上がったり眼を
「まさか、何とまぁ……。
死者たちは眼鏡もコンタクトレンズも必要としなかったが、それはあまりに小さすぎた。透明な壁のはるか向こう、針で突いた点かと思うほどの大きさで青白い光が揺らめいていた。
「あれがお前の吹き消すべき炎。呪わしい相手の命だ」
銀世界が呟いた言葉はしんと響いた。
「蝋燭まではこの硬さの壁がずっと続いている。見えている距離が厚みだ」
それは一体、どれほどの距離になるのだろう。
誰も言葉にしなかったが、全員が絶望に打ちのめされかけた。
「ほら、挑まないのか」
老人を眺め下ろした銀世界の真っ白な頰を不思議な光沢の黒髪がさら、と滑る。
鋭い両眼はなぜ始めないのか、と純粋な疑問だけを浮かべていた。
それが意地悪や嫌がらせではないのだと悟り。
老人は銀世界を見上げてひとつ身を震わすと、ぽつりと言った。
「あんたが悪魔か地獄の鬼か知らんが……これが他人を呪い殺すために必要な代償ということかい」
「私は銀世界だ」
意外そうに言うと、銀世界は開いた本で遠い遠い蝋燭を指し示す。
「相手は今生きていて、お前が生きていた頃と同じように誰かによって大切に思われ、本人も生きたいと思っている。本人の意志とは関係なく、まだ死から遠い年齢だ。相手の死を願うならこの壁を削りきらねばならない。それを可視化してあるだけ」
死者たちは呆然として点のような光をあらためてじっと見つめた。
それは絶望よりもなお酷い。
仮にその光が目に見えなかったなら、所詮手の届かぬものとして諦められただろう。
しかしあんなに小さな炎なら、そのうち吹き消える瞬間を見られるのではないか。
鋼鉄の壁ではないのだから、いつかあの火の元まで行けるのではないか。その思いがこびりついて離れない。
諦められるほど遠くなく、勢い込んで飛び掛かるには遠すぎる。
それで、誰も身動き一つできない。
「死んで人をを呪い殺せるなら、現世の極悪人はことごとく死者によって殺されているだろう。お前たちは誰かの祟りで死んだ者を見聞きしたことがあるか」
死者たちはそれぞれ記憶をたどり、黙ってうつむいた。誰も頷いたり、呪い殺された者を見たという者はいなかった。
「そうだろう。ひとを呪い殺せる死者は少なく、実行できたとしても呪いだとわかる死に方など稀だ。そして呪い殺せたとしても、お前たちには何の利も無いのだから」
老人が振り返り、銀世界に詰め寄って噛み付くように言い返した。
「そんなことはない! 少なくとも家族は、あいつが死んだらやっと溜飲が下がるだろう。わたしはそのために」
「おまえ自身に利はない。家族がどう感じるかなど、おまえは一切知ることができないのだから」
銀世界はどこまでも冷ややかに返し、老人は一瞬怯んだものの低く言った。
「もとより私自身のためではない。残された子供達がすこしでも心の平穏を得られるためだ」
「いいだろう。 なら尚更早く始めた方がいい。この壁を削るのは本当に大変だから」
老人は黙って目の前に手を伸ばした。不可視なそれは触れると硬い壁の手触りがして、爪を立てるとわずかに食い込む感触がある。
さくりと毛羽立つ木のような音がして、木で出来ているような触り心地がする。力を入れて掻くと少しだけ凹むような感覚があった。
老人は深呼吸をした。
すでにその身が呼吸を必要としないとしても、動作が身に染みついていることを皮肉に感じながら。
それから黙々と見えない壁を掻き続けた。どれだけかかっても、その光を消すためなら。
さらり。
また暗い場所に戻り、死者は2人になっていた。
「2人か」
銀世界が意外そうに言う言葉ががらんとした空間にこだました。
左手には閉じられた本がある。
「他の人たちはどこへ?」
花柄のワンピース姿の女性が聞いた。
「それぞれの壁に挑み始めた。……お前たちは、気づいた者というわけだ」
人数が減った分、辺りは初めより暗さを増したようだった。
周りの闇を銀世界は一瞥し、初めてその顔に笑みのようなものを浮かべた。
鋭い目がふっと力を抜く。
「死者の復讐を阻むものは『浄化』だけではない。『時間』もだ。復讐心なぞ時とともに薄れてしまう。あの壁を削り切る前に相手の天寿が尽きることさえある。その可能性を考えてもなお復讐心が揺るがず、自分が1人ではないと気づけたなら。やっと、私の交渉相手となりうる」
二人の死者。花柄のワンピースの女性と、10歳くらいの男の子。
その二人に銀世界は深く一礼した。
「あの壁に一人で取り掛からねばならないという決まりは無いし、他に方法がないというわけでもない。私は初めに皆に言った。『私は皆の協力者、呪いのプロだ。できるだけ全員に復讐を遂げてもらいたい』と。そして、お前たちは私に問うたな」
子供は黄色い半袖のシャツに短パン姿。足は裸足だった。問うような目線を花柄ワンピースの女性に向けてから、銀世界を見上げた。
「はい。「あなたは手伝ってくれないの?」ってぼく聞いたから…」
「私も「初めに協力者って言ったくせにたすけてくれないの?」って聞いた」
銀世界は再び真っ直ぐに立つと、頷いた。
「私が力を貸すにおいて、最後の注意をしよう」
すんなりとした腕を前へ差し出し、人差し指を立てた。
「死は絶対。決して覆らない。お前たち自身が現世に赴いて相手をその手にかけることはできない。これが前提だ」
死者たちは神妙にうなずく。
「したがってお前たち以外が命を取りに行くことになる。呪いが必ず成功する保証はない」
「わかった。でも、どうやって」
「どのように死んで欲しいか一心に考えれば良い」
「それなら。いくらでも」
「失敗しても成功しても、お前たち自身には何もないことを承知しておけ。地獄もなければ来世もない、ただ相手を死に落とすためだけの、運命に差す闇として消える。それで良いか?」
二人は再び無言でうなずいた。
「ついてこい」
二人を連れて銀世界は暗闇を歩き出した。
途中暗闇の奥から不気味なかりかりという音がした。
いくつもいくつも、音が遠く近く押し寄せる場所を通り過ぎた。音は幾多も重なり合って、潮騒に聞こえることもあった。
それは先ほど訪れた真っ白な空間で、遥か遠い蝋燭の炎を消そうと爪を立てる人々を連想させた。
恐々と暗闇の音を聞いている二人を振り返ることなく銀世界が言う。
「見ない方が良い。あれも別の意味でもう、ひとではない。……非道を行って死なせた相手が多いほど、命の炎に向かって進む影が増える。それはその者の生そのものをも歪ませる。私はあれこそが呪いだと思っている」
女性がぽつりと言う。
「さっきのも、呪い殺す方法として嘘じゃなかったんだね」
「わたしは嘘などつかない。」
見えない壁に爪を立て続け、何年も何十年も命の炎を消すことだけに意識を凝らす。それは確かにもう別の何かなのだろう。
花柄ワンピースの女性は立ち止まった。前をゆく銀世界が足を止めたからだ。
「えっと、……着きました?」
銀世界が振り返り、その瞬間世界に色が戻った。
銀世界を中心にどっと光と色が怒涛となって溢れて、一瞬で世界の果てまで行き渡った。
振り返ると、ふぁん、と警笛を鳴らした電車が脇を通り過ぎる。
見慣れた色の電車、人混み、ホームの屋根の間から見える細い空。
朝だった。鬱々とした現実世界のラッシュ時間に銀世界と女性は立っていた。
「……あの駅だ」
「ここがお前の死んだ場所だな」
銀世界は朝の人混みの中で、同じようなスーツの群れの間にあっても全くなじむことなく存在していた。まるで白昼にひとしずく垂らされた夜のようで、恐ろしく異質だった。
しかし花柄ワンピースの女性と二人、人々は一瞥もくれずどんどんすり抜けてゆく。
雑踏の中、銀世界の声は低く小さいがはっきりと聞こえた。
「お前の復讐を語るがいい」
女性はスイッチが切り替わったように、虚ろな声でつぶやいた。
「私は事故死です。もう何も考えられずふらふらしていてホームから落ちました。 あいつは初めから遊びで、何年も前から家族があった。私がそれを知ったとたん捨てられた。あいつを殺して死ぬことは、出来なかった。できることならそうしたかった気持ちもあったけど、結局こうなった。
……でも今ならできる。死後なんて無いと思っていたのに。本当にあいつを呪い殺せるなら、後に何がどうなっても構わない」
すっと銀世界が指し示す。
そこに花柄ワンピースの女性と同年代くらいの女性がいた。灰色のビジネススーツ姿で、沈鬱な面持ちで電車を待つ人の列に並んでスマホを見ていた。
花柄ワンピースの女性の口をついて思わず声が出る。
「ひな…」
「お前と縁の深い人間だな?」
女性は二度と再び会うことも無いと思っていた懐かしい友人の姿を、なんとも言えない表情で眺めた。
「友達です。話をよく聴いてくれた…」
「お前の呪いは、仮に「刃物に刺されて死ね」と願ったならばお前と縁の深い誰かがそれを行う。その「ひな」がやるかもしれないな」
「え?」
「当然だ。お前が手を下せないのだから他の誰かがする。包丁が勝手に飛んでいって刺さると思ったか? 人の世界のルールに従い、呪いは果たされるもの。……縁の深い者の人生を変えてしまうのは嫌か」
女性は顔色を失って叫んだ。
「嫌に決まってる! 事故とか、……そう、あなたが鎌か何かで刺すとかは無いの!?」
銀世界は嫌な匂いを嗅いだような顔をした。
「事故がお望みなら、自然に事故が起きるのと変わらない確率だがそうすることもできる。お前と縁のある場所、例えばこの駅を利用する人間たちに薄く広くお前の呪いを撒く。そうすると、人混みに押されて階段から落ちたり、ホームドアが壊れて電車の前へ落ちることもあるだろう。どのみち相手はお前の呪いとは思わないし、お前がそれを見届けることもない。私はそういう仕組みを作る。鎌なんて野蛮なものは持たない」
「後はあの命の炎を狙って壁をむしる方法しかないの!?」
「諦めても、誰も咎めはしないだろう」
女性は何も気づかずホームに並ぶ友人を見つめ、両手をぎりと握りしめた。
「……なんで、酷いやつがそのまま図太くのうのうと生きていられて、私はどうすることもできずに消えていかなくちゃいけないの!? 私の方を見て欲しかった。悔しかった! 後悔して欲しかった! 酷いことをしたって反省して欲しかった!!せめて、同じだけの苦しみを叩きつけてやりたいって、思うじゃない!」
女性が怒りのままに振り回した手は鋼のような強さで掴まれた。
「もう、すべて終わったことだ」
銀世界の両眼は黒く澄んで、女性は食い入るようにそれを睨んだ。
本当に睨み殺したい相手の代わりに。
代わりでしかないことは理解していた。
「復讐したかった……? あいつの後悔の顔を見たかった……? そうか、全部、生きていなきゃできないことだ。
私。本当はあいつに思い知らせて、ざまあみろって笑って、すっきり忘れ去って、もっと別な人生を……」
ぽろぽろと言葉がこぼれ、そこで止まった。続く単語は飲み込まれた。
それはずっと目を逸らし続けていた本当の思いだった。
女性は手を掴まれたままふらりと座り込んだ。
「近しい者を巻き込むのは嫌、偶然に任せるのも嫌、人でなくなるのも嫌か」
黙って座り込む女性に、銀世界は語りかけた。
「いいだろう」
虚ろな眼差しで見上げるその人に淡々と告げる。
「私にできることはもう一つだけある」
電気を消したように二人を残して世界が暗転した。
そこは漆黒の闇だった。上も下もない闇の中に、銀世界が一人本を片手に立っていた。
「ここにたどり着く人は何だかんだで10年に一人くらいはいるんだね」
片手にした本を開いてページに視線を落とす銀世界に、幼い声が届いた。
「監査ご苦労様です」
銀世界はそちらを見もせずに言う。
黄色いシャツの子供が、大人びた様子でうなずいた。
「結局君は全員に復讐の機会は与えたわけだ、さすが。見事な手並みだった。
呪いは炎みたいなものだね。恨み憎しみっていう燃料があっても、それが動かせる器がないのが死者たちにとっての不幸だろう。
きみによって復讐という機会を得て、燃料は燃やし尽くされゼロになる。死後も残るような感情は処理しなければ死者の魂を穢し、世界を歪める。君らが世界の法則を歪めるような不正をしないかのチェックは大切だよ」
子供は天使のように微笑んだ。
その微笑みに一瞥もくれず銀世界は言った。
「世界を変えるのは必ず生者だ。死者にそんな力はない」
「きみとはずっと平行線だね」
子供が本を覗き込むと、そこには真っ白なページに銀色のインクで流麗な文字がびっしりと書きつけられていた。
「契約書か」
「ええ。」
「死者たちから恨み憎しみの燃料を抜き去り、時に火を放って丸焦げにする。呪いとはかくも残酷なものだね」
楽しそうに言う子供に、銀世界は人差し指で本の中央を示した。
「呪いとはこれです」
銀世界は書物ののどから咲く一輪の花を抜き取った。いつの間にか現れたそれは、どこまでも真っ白。
葉や茎までもが白い薔薇。ほのかに月のように光り、闇を溶かしている。
「ロマンチックすぎやしないかい?」
「いえ。」
慎重に指先で支えた薔薇を銀世界は優雅な動作で床に刺した。
薔薇は特に強い力で差し込まれたわけでもないのに垂直にその場に立ち、やがてさわさわと葉と根を伸ばし始めた。
「死に咲く花。人の記憶にその人の死がある限り、根を伸ばし葉を開き、花をつける。これを刺と感じるか、忘れえぬ花と感じるか……あるいは道端の雑草と感じるか、それは生者の感覚次第。負い目があれば刺は深く刺さり、気にしなければ無いも同じだ」
「やはりロマンチックだよ」
「そうでしょうか?」
「契約内容は?」
「ここまで来た者はやっと、死がなんの復讐にもなり得ないことを悟る。今あるのが生の残響に過ぎないと知って、絶望の果てに消滅するか、せめて相手の心に深く刺さる刺となりたいと願う。私は、趣味の花園を少しだけ大きくできる」
銀世界はすっと背を伸ばし、辺りの闇を見渡した。子供もつられて周りを見渡した。
やがて、ほわ、ほわっと闇に白く光が灯った。光はじわりと闇を溶かし、やがて少しずつ柔らかに周りを薄靄のように覆ってゆく。
そこにあるものに気づいて、彼はあどけない顔に似合わない皮肉げな笑みをこぼした。
「きみ、趣味にしてはそろそろ大きすぎるんじゃないか?」
下は一面の花だった。
見渡す限り、視力の限界を試すような。
葉も茎も花も全て白い薔薇たちは、どこまでも静かに揺れている。
「恨みと憎しみと悔恨の花園か」
「はい。恨むほどの感情があり、憎むほどの信頼があり、悔恨を抱くほどの人生があったのです」
しばらく、背の高い漆黒のスーツの女と、黄色いシャツの子供は並んで、花々が静かに揺れる花園を眺めた。
「君の趣味はわからんな。だが、綺麗だ」
「ええ。私は薔薇を育てるのがうまいのです。特に棘の鋭い薔薇が」
香りは冷たく澄み渡る春のようだった。
呪い殺したいあなたへ みどりこ @midorindora
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