午談・弔問客
ごとりと首でも落ちたかのような音がした。
反射的に開いた目を呆然と瞠る。視界に映る状況を理解するのに少しだけ時間が必要だった。隅に薄暈けた染みの滲む天井。笠に埃が積もった電灯。長押に並んだ遺影の群れ。
勝手知ったる高槻の家、それも仏間だと脳が状況を把握した途端に跳ね起きる。どうしてこんなところに一人きりでいるのか、その理由が思い出せない。
急に身を起こしたせいだろう、ふらつく頭に手を添えながら周囲を見回せば、仏壇の傍らに横倒しになった花瓶を見つけた。割れた様子はない。台から転げたのだろう、ただ無様に畳の上に横倒しになっている。先程の音はこれだったかと納得した。
花瓶から吐き出された花の傍ら、灼けた畳に淀んだ水が溜まっている。
腐れた水の甘ぐさい気配は部屋中に染みついた線香の匂いに紛れている。
窓から入り込む午後の日射しは白々と部屋に満ちている。人の声も、車の音も聞こえない。秋というには少し生温い、死に損なった夏の亡霊がまとわりつくような温度だ。
仏間どころか家全体にも人の気配はない。世界の滅びを寝過ごしたらばこんな間抜けなことになるのだろうかとくだらないことを思った。
──俺は何をしていたんだ。
ようやく少しばかりは落ち着いてきた頭で考える。最初に天井が目に入った──畳に横たわっていたということは寝ていたということなのだろうけども、高槻のようにここで寝るほど度胸が据わってはいない。そもそもが自分は出入りの頻度こそ高いが、血縁でも何でもない部外者だ。人の家で寝こけたことがないとは言わないが、よりによって仏間で午睡を貪るような無法にはさすがに覚えがない。
頭を抱えようとして、手首に数珠が巻かれているのが目に入った。そのまま視線を滑らせて、どうやら自分は喪服を着ているのだということを認識する。靴下まで黒なのだから疑いようもない。
──また葬式か。
ざらついた袖の感触には馴染んでもいないが然程の違和感もない。中途半端に喪服を着慣れてしまっているからだ。
三十路で社会人をやっていれば、それこそ葬式なんてものは意外な頻度で経験する。関わりの深い相手からただの職場の義理のような相手まで幅広い。
多少の差異はあれども、およそやることは同じだ。香典を包んで、焼香に並んで、冥福を祈る。それさえ済ませれば、どんな死者も忘れることを社会が許してくれる──あるいは推奨されるというべきだろう。
死人を過去に置き去りにして、ただ先に進み続ける日常へと乗り換える。それができなければまともに生きられないのだから仕方がない。停止してしまった死人に殉じて、自分のこの先を擲つような真似をしたところでどうなるというのだ。
そうして縁の濃淡を問わずに葬儀を眺めるうちに、存外に人間なんてものは毎日死んでいるのだなと当たり前のことを思い知らされる。考えてみれば当たり前のことだが、それを実感したのも受容したのも最近のことのような気がしてならない。
『順番が来たら誰だって死ぬ、悲しむのも憾むのも、ただただ
火葬場の喫煙所で、骨を焼き上がるのを待ちながら煙と共にそんな戯言を吐いたのは誰だったか。顔も声も何もかも曖昧なのに、喪服の袖口から覗く手首の生白さと骨張った指先が脳裏にちらつく。
喫煙所のやけに白々とした照明の色と、血の滞って白くなった指先を思い出す。
あれは冬の葬儀だった。俺は悼むにも嘆くにも半端な立場で、時計と他の参列客を眺めながら、ただ煙草の煙ばかりを吐いていた気がする。
数珠に触れながら、益体もない記憶を手繰る。そういえばそのときにも高槻に会っているはずだ。どんな顔をしていたか、どんな目をしていたか、どんな声で何を語っていたのか──今よりか互いに少し若くて、無謀で、人間らしかった頃の記憶を、俺は確かめようとする。
「あなたとはようやっと二度目ですね」
ざらりと錆びた声が聞こえた。
高槻の声ではない。甥っ子くんでもない。この家にいる人間に、こんな声をしたやつはいないはずだ。
仏壇の前、座布団に掛けた喪服の背中が目に入った。
そいつはこちらを振り返ろうとはせず、焼香に来た客のように仏壇の前に座っている。
真っ黒い靴下の裏が行儀よく揃ってこちらを向いていた。
ただの弔問客だと思いたかった。
だが、座布団の横に転がった錆刃の鉈がその理解を許してはくれなかった。
「すみません、どこでお会いしたかが、思い出せないもんで」
「構いませんよ、それが正しいので。一方的に私ばかりが覚えている、それで事は足りるようにできていますから」
「不都合はないと仰る」
「本来なら。忘れるべきものを忘れ、覚えるべきものを覚える。それは全く道理でしょう」
帰る先のない酔っ払いの譫言のような、愛想のない詐欺師の演説のような、神を持たない巫の託宣のような言葉を、客人は背を向けたまま続ける。
「滑稽なものです。そうは思いませんか──揃いも揃って同じ女の話ばかりしている、覚えがあるでしょう」
あの女の、という言葉を聞いた途端に、自分でも不思議なくらいに思考が跳ねた。この何かも分からぬ弔問客が、あの女の──あの冬の葬儀の話をしているということが、ひどく驚くべきことに感じられた。
語尾に僅かに滲む甘さが軽蔑なのか憐憫なのか、俺には判断ができなかった。それでもひどく個人的な事情を無遠慮に抉られたことに血が上りそうになるが、その首筋の酷薄なまでの白さに口を閉ざす。
窓から射す日に晒されてなお影すらできないそいつが、まともなものだとは思えなかった。
「……心当たりはありますがね。その話をしてるんなら、私に言われたところでどうにもならないのもお分かりでしょう」
「その通りです。あなたは自らの立ち位置を選んで、またその通りに正しく続けておられる。それでも忘れ切れないのは……まあ、仕方がない話です。実に人並みだ」
「平均取って褒められるのは学生ぐらいでしょう」
軽口を返せば、微かに喪服の肩が震えたように見えた。笑ったのだろうかと考えて、その人間じみた仕草に背筋が冷える。
「執着するのはそちらの勝手ではあります。本来ならばどうでもいい、そうどうでもいいことなんですよ、所詮はあなたがたの領分で済むわけですから。
ただ、それで半端をされるとこちらが困るというだけのことです。至極単純な話、ではありますが」
譫言のような曖昧で迂遠な演説じみた言葉を聞いていると、ちりちりと焙られるような焦燥感が湧き上がってくる。責められている理由も意味も明確ではないのに、ただどうしようもないことをしたのだという感覚だけを刷り込まれているようだった。
微かに畳を擦る音がした。
俺は咄嗟に下を向く。灼けた畳と褪せた座布団、視界をそれだけで満たそうとする。
僅かな好奇心と警戒心が、視線をじりじりと這わせる。色の抜けて白茶けた畳、敷かれた座布団の上で、喪服の膝がこちらを向いていた。
──振り向いたのだ。
それだけのことがどうにも恐ろしくて、俺は詫びるように頭を下げ続ける。この客の顔は、自分が──人が見るべきものではない、と確信じみた予感があった。
客はこちらの無礼を咎めようともせず、ひどく静かな声で続けた。
「血が近いのはあなたでしょう。それなら理屈としては、執着するのはあなたの位置こそ都合がいい。違いますか」
「縁がなかった。そう答えるべきですかね、多分」
「あなたの立場であるなら、その認識が一番健全でしょう」
迂遠で茫洋とした問いに、正解かも分からない答えを返す。
やはり話の分かる血筋でいらっしゃると語る語尾には、笑みが微かに滲んでいた。表情を、顔を確かめる勇気はなかった。今の状況なら尚更だ。
これがあの日の葬儀なのだとしたら──仏壇に、祭壇に上がっているだろう遺影だけは見てはならない。それだけは確信があった。
俯いたまま、こちらに向けられた喪服の膝を睨む。目を逸らし切るほどの度胸はなかった。
「部外者の私に何の用です。今更、と言う方が正しいでしょうね、きっと」
「今更ながら間違い続けていらっしゃる。だからこそ私はこうして度々ご注進に伺わざるを──ああ、これこそあなたに申し上げても詮無いことだ。申し訳ない、浮かれているのでしょう。何しろ予定外というか、特別待遇なのですから」
畢竟お坊ちゃんには私も皆々様も感謝すべきなのでしょうと、客はやけに穏やかな声音で言い添えた。
「人違いというよりお門違いだとご存じなら、どうして──」
「だからこそ、ですかね。ただあなたは弁えておられるようですから、警告というほどでもない。確認のようなものです」
「……私如きが手出しのできるもんでもないでしょう、きっと。私は喪主でも遺族でもない」
「──本当に、よく理解しておられる」
不意に零れた一言に、背筋を氷柱で穿たれたような冷たさを覚えた。
その慈しむような声音に覚えがあるように思えて、俺は身を強張らせる。荒れてざらつく低い声の中に、融けて浸みるような甘さがある。
神経を擦り削るような、抉り欠いたその隙間に情動を流し込むような、その声に──その声で俺の名前を呼んだ女に、覚えがある。飲み屋の喫煙所で、職場の給湯室で、最後は葬儀場の遺影で見た顔の女の声だと、無縁だと葬った記憶が喚き立てる。
衝動的に顔を上げようとしたその寸前、
鉈だ。
そう理解した瞬間に、一気に圧された。膚が刻まれ、肉が割かれ、筋が断たれ、骨が潰れる。
ごとりと重たい音を立てて、俺の首は畳に落ちた。
***
「その……仏間で寝るのが習わしだったりするんですか」
肩口を掴んで雑に揺さぶるその手の持ち主が高槻の甥っ子だと理解するのに、少し時間がかかった。
咄嗟に手首を確認するが、当たり前に数珠も巻かれていなければ喪服も着ていない。筋と骨の目立つ不健康そうな手首が、翳り始めた午後の日射しに青い血管を浮き上がらせているばかりだ。
「いや、習わしってのはないけど……前例とかあった?」
「夏に叔父さんが落ちてました。送り盆だって、厚宮さんも飲みに来たでしょう」
甥っ子くんの言葉にすぐさま夏の一夜を思い出す。あの時は確かこの子供の前で酔い潰れた挙句、半日ほど引きずるような二日酔いに悩まされたのだ。
忘れるべきではないがなるべく思い出したくもない恥に苛まれて黙っていると、掴んだ肩口を遠慮がちに揺すられた。どうやらまだ寝ぼけていると思われているのだろう。
「秋になって涼しくなったのはそうですけど、風邪引きますよ。寒いから。俺も前叔父さんに怒られました」
「ああ、そうね……風冷たいもんな、冷やせば咳出るやつだ」
網戸から吹き込む風が、寝起きの煮えた肌に触れる。微熱のときのようなざわざわとした感覚が首筋から張りつくのを誤魔化しながら、俺は周囲を見回す。
天井近くに整然と並んだ遺影の群れ。年月と埃に灼けた襖。柔らかな日射しに微かに黒を艶めかせる仏壇と、花を身の内に抱いて侍る花瓶。色の褪せた畳。
その上に置かれた座布団には、影一つ落ちてはいなかった。
「びっくりしましたよ。帰ってきたら仏間に誰か寝てるんですもん、警察と消防のどっち呼ぼうか考えましたからね。それだって二度目です」
「そういや甥っ子くんどこ行ってたの。今日土曜日なのに」
「友達と約束があったんです。街で本屋眺めてからファミレスでぐだぐだして、飽きたあたりでちょうどいい電車あるから解散になって……」
関係ないでしょうと突っぱねられても仕方がない質問に詳細な返答があって、妙な罪悪感を抱いてしまう。聞かれたからといって、俺なんかにそこまできちんと回答をする必要などどこにもないのだ。誤魔化すための問いだったのだから、尚更でもある。
「で、厚宮さんこそ何してたんですか」
誤魔化せなかったことに妙に安堵しつつ、俺は返答すべき内容をどうにか頭の中から探り出そうとする。
「あー……暇だから遊びに来て、そしたら高槻しかいなかったから、なんかいい本借りようとした、んだと思う」
仏間に至る以前の記憶を辿る。遊びに来たという動機が三十を過ぎた大人として適切かどうかは我ながら甚だ疑問だが、一応は手土産──果樹園を経営している親戚から送られてきた葡萄のお裾分けだ──を持ってきたのだから最低限の見栄は張れていると信じたい。
当然のように鍵のかかっていない玄関を開けてのそのそと向かった居間には、何も面白くも悲しくもないとでも言いたげなのっぺりとした顔で本を読む叔父がいたのだ。
来訪の理由を説明して、利用代金じみた土産を手渡し、客らしくお茶を出された──ような記憶は、どうにかあった。
「そういや叔父さんもまだ見てないんですけど」
「多分二階だよ。昼寝するって言ってたから」
客を放っておいて昼寝を始める家主というのも大概だが、現状としては自分も似たような立場であるため、責められないのが何だか釈然としない。勝手にやってきて仏間で寝こける客に文句を言う資格などないというのも理解はできるが、また狼藉の枠が違う気がするのだ。
甥っ子はこの説明で納得したらしく、眉間にまだ浅い皺を寄せた。
「その、叔父が済みません」
「俺も仏間で転がってた以上、人のこと言えないからね。甥っ子くんが謝ることはひとっつもないよ」
「ありがとうございます。──で、どうしますか」
問いかけの意味がさすがに掴めず、僅かに戸惑いながら俺は甥っ子くんの方を見る。
視線の意図と自分の問いの曖昧さに気づいたのか、甥っ子くんはすぐに補足してくれた。
「あの、もう四時回ってるんで……晩御飯食べてくなら作りますけど、どうですかっていうか、そういうやつです」
「気を遣わせてるね、本当に。そこまでさせたら申し訳ないからね。帰るよ」
こないだのお月見もお世話になったしねと返せば、甥っ子くんが視線を伏せた。恐らくはあの夜に見たものを思い出したのだろう。夏の頃からの彼の怖がり具合からすれば無理もない。それでも逃げ出さずに
「とりあえず高槻を起こしてからにしようか、あいつもそろそろ起きた方がいいだろ」
ともかくここに留まっていても仕方がないだろうと、俺は適当なことを言って立ち上がる。
一瞬だけ視界が眩めいてから、首周りに痛みが走った。
畳に転がっていたせいだろう。首の後ろが妙な痛み方をしている。手をやればざらりとした違和感があり、怪訝に思いながら視線を向ける。
赤錆のような汚れが、日に焼け損ねた肌の上で擦れて伸びた。
気づかれないように、表情はそのままに手のひらを伏せる。甥っ子くんの視線が一瞬だけ揺れて、またすぐに冗談のようにまっすぐにこちらを見た。
「帰るにしてもお茶ぐらいは飲んでいってください。冷蔵庫におはぎありますよ」
「あー、彼岸だもんな。そういや秋分過ぎたし、それならもう秋もおしまいだ」
「まだ十月があるじゃないですか」
「まあね、十月も半分くらいは秋だよ。ただこっちは冬が早いから……」
北国の秋は短い。九月を過ぎればずるずると日は短くなり始める。
夏の熱も光も花が朽ちるように無残に失せて、灰色の空と黒々とした夜を幾度か重ねた果てに、冬が来るのだ。
「ともかく二階に行こう。あいつ一人で転がしておいたら、それこそ風邪引くだろ」
ほら出口はあちらだといつものように軽薄に嘯いて、仏壇を甥っ子が見ないように、仏間から押し出すように背に手──汚れずに済んだ左手を掛ける。間違っても背後を見ないように、振り返ったとしても背後に立つ
──あんなものを見たら、きっと怖がるだろうから。
甥っ子くんに気づかれないように、仏壇へと視線を向ける。
燈明は消え、線香立てには灰が満ち、供えられた花瓶は物も言わずに秋の翳りの中に沈んでいる。
花瓶の傍、毟られたように落ちた赤い花首がひとつ。
花弁も茎も無残に潰れたそれは、淡い秋の日に滲むように断末魔じみた赤さを晒していた。
東北奇譚 目々 @meme2mason
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