行くもの来るもの訪うもの

「じゃあ後は頼んだよ。夕飯前には帰るし、戻る前には電話をするから」


 そう言って叔父は滅多に着ないスーツに長さがどうにも不格好なネクタイを締めて出ていったので、玄関先に置いていかれた俺と厚宮さんは顔を見合わせるしかなかった。

 しばらくしてから閉められた玄関戸の向こうから車の走り去る音が聞こえた。恐らくはタクシーだろう。景気のいいエンジン音が遠ざかっていくのを呆然と聞いてから、口を開いたのは厚宮さんだった。


「確かにね、来て車止めたとき、俺の後からタクシー入ってきたから何だろうなとは思ったけどさ」


 他人を家に呼んどいて出かける人間っているんだねとただ驚いたような口調の呟きに、どうしてか俺がいたたまれなくなって目を伏せる。直接に俺が詰られているわけではないが、血縁及び住人としては一端の責任がある気がするからだ。

 厚宮さんは片手に下げた紙袋をとりあえずとでもいうようにこちらに差し出して、眉を八の字にしてみせた。


「これはお土産で、そんで俺ただ呼ばれただけで詳しいこと知らないんだけど、何してればいいのどせばいの

「……多分俺のせいなんで、その、上がってください」


 説明はちゃんとしますしお茶も淹れますと頭を下げる。ひどく戸惑ったような顔をして厚宮さんが頷くのが見えて、なおのこと良心のようなものが痛んだ。


***


 毎月一度、叔父がスーツを着て真っ当な格好をして出かけること。およそ行き先は教えてもらったことはないが数時間は帰って来ないこと。そうして以前の八月の雨の日、叔父に頼まれて一人きりで留守番をしていたら窓の向こうにトレンチコートと蝙蝠傘の異様なものを見たことと危うく階段から転がり落ちそうになり叔父は泥靴で家に駆け込んだため掃除にそれなりに手間を取られたこと。


 恐らくは原因であると推定できるものについて洗いざらい話したところ、厚宮さんは手にした茶碗に口をつけてから俺の方をじっと見た。


「階段から落ちるのは危なくない? ここの階段やたらと角度きついし」

「危なかったんですよ。怪我とかはしませんでしたけど」


 階段に足を掛けようか迷っていたところに叔父が戻ってきたので、一段目に縋りつくようにして蹲っていたというのが実際の有様ではあったが、状況次第では転がり落ちていた可能性も否めない。留守番を頼まれての結果としてはお粗末にも程があるが、俺としてはが出るとは聞いていなかったことにそれなりに異論がある。もっとも叔父もそんなものが出るというのは予想外だったらしく、その後に茶菓子と共に珍しく直接的な詫びの言葉を貰ったのを思い出す。


 夏に起きた諸々の中では、それなりに身の危険に直結しかねなかった出来事だ。それら過去を踏まえて今回の状況を鑑みると、同じような外出で客人厚宮さんを呼びつけたのは叔父から俺に対しての心遣いの結果なのではないかという予想ができてしまうのだ。


 あのひとがそんな人間らしい気配りができるのかという疑問が浮かぶが、一旦そこからは目を逸らそうと試みる。叔父が邪悪だとか性悪だとかそういうことを言いたいのではなく、そういった気遣いに思い至るような思考回路を持っているかどうかが疑わしいという純粋な問いだ。向き不向きの話というべきだろう。あのひとには悪意も害意もないが、同じくらいに他者に対する興味も関心も薄い。そんな相手の思考を予想しようというのは、俺のような平々凡々とした若造には荷が重すぎる。


 居間の出窓からは柔らかな午後の日が射し零れ、晩秋の薄寒いような空気が滞留している。

 普段は食卓として利用している大机、その机を挟んで互いに向かい合うようにして俺と厚宮さんは座っている。


 一対一で正面から向き合うのは何となく抵抗があるが、かといってあからさまにずれて席に着くのも不要な深読みをさせてしまうのではないかと悩んだ結果の有り様だ。いつもならば叔父がいるので正面だろうが隣だろうがどうとも思わないが、今日に限ってはこの空間に二人しかいない。夏からそれなりに顔を合わせる機会もあり、また厚宮さん自身も付き合いやすい類の人物ではある。警戒も緊張もする必要はないとは分かっている──だとしても叔父を介さないことにはさして関係の深い相手というわけでもないので、適切な距離感及び対応が上手く掴めないでいるのもまた事実だ。

 それでも自分の不始末のせいで貴重な休日を浪費する羽目になったのかもしれない人を粗末に扱うのは道理に反するだろう。

 いつも通りに目がちかちかとするような柄のシャツ──今日は比較的落ち着いた白黒のボタニカル柄だ──の肩口に咲く大輪の蓮らしき模様を眺めながら、俺は会話を続ける。


「厚宮さんは何か聞いてますか」

「何にも。ただ土曜が暇なら遊びに来い、ついでにバターせんべい買ってこいって言われた」


 食卓の上に視線を向ける。手土産だと渡されたバターせんべいは大皿に移され山になっている。数枚頂いたが確かにうまい。叔父がねだるのも分かる気がするが、だからといって客に手土産を指定する家主がいるものだろうかとまた叔父の常識的な部分を疑いたくなってしまう。


「厚宮さんも、その……俺が言うことではないかもしれませんけど、抵抗とかしていいと思います。あんまり叔父のわがままに付き合って頂くと、こちらとしても申し訳ないので」

「いやまあ、俺も大人だから好きでやってるしね。そこまで心配しなくっても大丈夫だよ」

「何か弱みとか握られてたりは」

「付き合いが長くはあるからね。貸し借りどっちもあるのはそうだよ、人付き合いってそういうやつだし」


 どっちかっていうとあいつの貸しが多いんだよねと呟いて、厚宮さんは手元の茶を啜る。

 気を使われている。公務員の貴重な休日に雑に呼びつけられて腹が立たないわけもないだろうに。

 甥の俺が恐縮するのも順番が違うのかもしれないが、身内の無作法を詫びるのはさして不自然でもないだろう。血が繋がっているというのはそういうことだ。血縁だからと恩恵を受けることがあるのならば、血縁がもたらす瑕疵も負うべきだろう。


 貸しがある、という厚宮さんの言葉に僅かに引っ掛かるものを覚えながら、俺は湯呑に口をつける。

 そもそも厚宮さんがどういう人なのかというのを俺はよく知らない。叔父との付き合いは長いらしいが、俺が関わるようになってからは精々数カ月──夏が終わって短い秋が暮れる程度しか経っていない。その割には馴染みがある、というか気安く付き合えている感覚がある。少なくとも敵意や悪意を向けてくるようなことがないのは俺も理解している。そんな相手だったらあの偏屈の叔父がまず家に入れようともしないだろう。曖昧な雰囲気によるなし崩しかつその場凌ぎで友好じみたものを繋いでいたようなものだ。

 ならば今日のような状況もいい機会なのかもしれない、と思い至る。余計な領分まで踏み込む必要はないが、落ち着いて間合いを測り直す程度に会話をするのは人間関係の維持として大切だろう。


 それに加えて下心もある。上手くすれば、叔父についても何かしらを知ることができるかもしれない。

 親族であり居候の家主である叔父についても、俺は未だに何も知らない。この家でたまに起きるおかしなことに対してどうしてあれだけ平然としていられるのか、今でもここまで生活が下手なのにどうやって生き延びてきたのか、叔父という存在として俺が関わる以前、どういう人間だったのか──知っておきたいことではあるが直に尋ねるのは何だか躊躇われたし、何より本人が話さないことを無理に聞き出すような真似はしたくない。

 それならば他人からの思い出話で、それらしき影を推定するくらいならば許されないだろうかという野暮な上に浅薄な企みだ。厚宮さんとて大人なのだから、向こうとしても話していいことと悪いことの分別くらいはつけてくれるだろう。見た目がちんぴらで年齢にそぐわない派手な髪色に格好をしているような人間だったとしても、少なくとも悪い人ではない。何しろ公務員というれっきとした社会的立場がある。日がな一日本を読むか暗い部屋で映画を観るか死蝋のように青白い顔をして仏間なり二階なりで眠っているような叔父と比べるまでもないだろう。


 人の過去を詮索するという行為の行儀の悪さは重々承知だ。それでも、夏を終え、秋が過ぎ、そして、少しでも相手のことを知っておきたい。それは不用意に逆鱗に触れないためでもあり、事故を未然に防ぐためでもある。親しき中にも礼儀ありとは散々使い古された諺だが、人間関係において適切な間合いを保つというのは大事なことだろう。深入りし過ぎてもろくなことにならないし、距離を置き過ぎても手遅れになる。

 俺はただ叔父の生活を邪魔したくないだけで、互いに平穏かつ快適に過ごしたいだけなのだ。


 ともかく手始めに共通の話題から始めるべきだろう。湯呑を手にしたまま俺は考える。そうするとやはり叔父についてになってしまうのが物悲しい。確かに知りたいことではあるが、あまりにあからさまが過ぎると警戒される。ならばと以前にコンビニで行き会ったときの会話を思い出そうとして、紫煙と共に語られた怪談らしきもののことを思い出してしまい、一瞬息が詰まる。


 その間隙を縫うようにしてがん、とガラス戸を打つ音が響く。

 少しだけ間があってから、


「ごめんください」


 僅かにくぐもった、それでいて笛のようによく通る声が玄関から聞こえた。


 ──お客さんだろうか。

 この辺りの人間はどうしてかインターフォンを押さず、雪国らしい二重玄関の扉を堂々と開けてから住人に向かって声を掛ける。だから鍵を掛けないのだとは以前叔父が嘯いていたところではあるが、家主の意向であれば居候の身である俺は逆らえない。

 ともかく客だとしたら待たせておくわけにもいかないだろうと、俺は玄関に向かおうと席を立つ。


「甥っ子くんさ、ちょっと待ちなよ」


 大皿に手を伸ばしたまま、厚宮さんが口を開いた。

 いつもと同じ軽薄な口調のはずなのに、どことなしに語に滲む冷やかな気配のようなものがあって、俺は突っ立ったまま首だけを向けた。


「何ですか」

「ん、何って言われるとあれだけど、なんかね」


 煮え切らない曖昧な語に被さるようにして、ばん、と鈍い音がした。


「ごめんください」


 音の種類が直前のものとは違っていた。平手で硬いものを引っ叩いたような響きだと思った。

 声もどうやら変わっている。同一人物の声ではあるが、先程より大きく、明瞭になっているように聞こえる。

 近づいているのか?


「今叩いたの、洋間の窓っぽいね。あそこのデカくて薄い窓」


 厚宮さんは真っ直ぐに俺の目を見ている。

 冗談を言っている顔ではなかった。


 どん。

「ごめんください」


 再び音がくぐもる。

 和室だ、と直感した。

 洋間の隣、死んだ祖父が使っていた部屋だ。音が妙に籠もって聞こえるのは、叩かれた窓、その窓から部屋との間にある謎の空間──広縁と障子戸のせいだろう。


 ばきん、と派手な音がした。

 厚宮さんが弾かれたように音の方へと首を向ける。

 食卓の向こう、棚の上に置かれた電話機、その背後の出窓。金属の枠が共振してびりびりと鳴っている。

 叩かれたのはこの部屋居間の窓だ。


「ごめんください」


 窓一枚隔てただけの近さで、これまでになくはっきりと声が聞こえた。

 のっぺりとした感情の見えない、掠れたようでいて劈くような響きのある、声だと思った。


 俺は黙って椅子に座り直し、そのまま膝を抱えて蹲る。出迎えようという気はとっくに失せていた。

 インターフォンを使わずに押し入ってくるような真似はしていない。家に上がり込む前に挨拶もしている──だが、家の周囲を順繰りに回って窓を叩いては呼びかけてくるようなやつがまともな客であるとは思えない。

 叩かれた窓の方を見ていた厚宮さんが、どうしてか気の毒そうな顔でこちらを見た。


「一応、これ言っていいかどうか分かんないけどさ。甥っ子くんが安心するか暴れるかったらどっちか分かんないけど、俺としてはできれば暴れないでほしい」

「何ですか。大人しく聞きますよ」

「窓の外さ、誰もいない」

「……そうですか」


 とりあえず出迎えはしなくていいってことだねと厚宮さんが呟く。慰めのつもりだろうか。多少は叔父より社会性があるとはいえ、この土地の人間である以上は怪異に対しての反応が根本的に俺とは違うのだということを思い知らされたような気分になった。


 窓ガラスを叩く音と無機質な呼びかけは一定の周期を保ちながら続いているが、音が遠くなっていくのが分かった。恐らくは風呂場の方へと向かったのだろう。家の周囲を巡っているのならそれも道理だ。


「こういうのも何だけどさ、多分時間限定とかだと思うよ。いつも来るわけじゃないんだろうし」

「こんなのがいつも来てたら俺はとっくに逃げてます」

「だろうね。……音系のやつはな、不意討ちされると避けようがないしな。耳って目玉みたく塞げないし」

「こういうのって目安とかあったりしますか」

「どうだろう。俺も知らない」


 俺んとこには出たことないからと宥めるような調子の答えに、膝を抱える腕に力を込める。するとこのぐるぐると表を回っている何かについては土地ではなくこの家高槻の家のみに現れるものなのだということだろう。

 膝を胸に寄せて、膝頭に額を着ける。椅子の上で俺は小さく丸くなっていく。被る布団がないのが恨まれた。


「とりあえずさ、あー……甥っ子くん、なんか楽しい話しようか」

「この状況で」

「だって他にどうしようもないし。解決とかはできないけど、せめて人がいるわけだからさ。じゃあ話でもしてれば気ぐらいは紛れるんじゃないかなって」


 少しだけ視線を上げる。確かに今日は一人ではない。家の周りをぐるぐると回る得体のしれないものがいるという恐怖が薄まるわけではないが、巻き込まれている人間が他にもいるということは重要だろう。いつかの夏の日とは違う。しかも一緒にいるのは──大人だ。

 一人ではない。つまり、

 俺の思惑を知ってか知らずか、厚宮さんは見慣れた軽薄な笑みをこちらに向けた。


「あいつが帰ってくる頃には何とかなるよ、きっと」


 とりあえず食べなと差し出された大皿を見つめて、俺は山のように盛られたせんべいへと手を伸ばす。

 ばきん、と玄関の戸を叩く音が再び聞こえた。どうやら一周したらしい。

 テレビの上、祖父母が生きていた頃から掛かりっぱなしの時計を見る。当たり前だが叔父が出かけてから然程の時間も経っていない。窓の外は雲に翳る薄明るい日射しに満ちていて、穏やかな秋の午後とでも言いたげな様子だ。


 ──叔父が帰ってくるまでに何周するんだろうな。


 そんなことを呆然と考えながら、俺はつまんだせんべいを齧った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る