九月・尾
頼むから独りにしてくれ
「構内の喫茶室も悪くないけどさ、あそこ食いもんの幅がねえじゃん。安くて気楽だけどそれ以外が微妙に不満っていうかさあ」
「夏だとかき氷出してたろ、百円の、がりがりしたやつ。あれ俺結構好きだけど」
「かき氷はほら、お菓子だろ。氷菓。食いもんの枠とはまた違う」
もうちょっと食いでのあるものがいいんだよとサンドウィッチ──メニューでは何やら小洒落た名前がついていた──を齧りながら、工藤はにんまりと目を細めた。
金曜日の講義は三時で終わる。気持ちよく晴れた秋の午後をどう過ごすかを考えあぐねてサークル室に顔を出せば、同じように暇と好天気を持て余したらしい表情でスマホを手にして壁に寄り掛かる工藤がいた。せっかく顔を合わせたので、と成り行きからとりあえず暇潰しの手段について意見交換を図ったところ駅前のチェーン店でお茶でも飲むくらいなら懐にも時間にも関係性にも優しいのではないかという凡庸な結論が出たのだ。
そうして何事もなく大学から駅に至るまでの道を肌寒い風に首筋を撫でられながら歩き、駅前という好立地にも関わらずさして混んでもいないチェーン店で端のソファ席に陣取り、注文していた品をテーブルに並べたのが現状だ。
大学生にもなって高校生のような真似をしている。そもそも大学生になって半年ぐらいしか経っていないから当たり前ではあるが、そもそも大学生らしいというのも基準が曖昧な話だろう。課題に追われるのも伸びた授業時間もそれなりに負荷ではあるが、学生という枠の中ではさして変わっていないような気もする。それならと思いつく煙草と酒はまだ未成年であるからして手を出せないが、そのあたりの要素が加わったところで大して変わる気もしない。嗜好品の選択肢が増えるというだけだろう。煙草に関しては叔父も昔は吸っていたというのを以前厚宮さんから聞いた覚えがあるので、いざ吸う気になったら教えを乞えばいいのだろうかと考えて、果たしてあの人が誰かに物を教えるということができるのだろうかということに思い当たってしまった。
もそもそと物も言わずにサンドウィッチを齧っていた工藤が、半分ほどになったそれを皿に置いた。減りが早い。一口が大きいのか、それとも飲み込むのが早いのかとどうでもいいことが少しだけ気になった。
「やっぱあれだな、人に作ってもらったもんは何でもうまい」
「チェーン店でそれ成立すんのか」
「あれよ、調理の工程を俺が担わないってのが大事なんだよ」
手先をウェットティッシュで拭ってから、コーヒーの容器を掴む。俺が頼んだことがないサイズのそれを二口ほど啜ってから、工藤が続けた。
「一人暮らししてるとさ、こう、雑なもんばっかり食べるからさ。ちゃんと皿に乗って出てくるってだけで感動するよ、やっぱ」
「皿で感動できるって、お前どうやって飯食ってんの」
「面倒なときはフライパンに全部乗せてるし、米だったらとにかく握って食べてる」
野蛮なことを言っている。
あまりにも捻りのない感想が出てきたので、一旦コーヒーと共に飲み下す。文化および文明的な食事というものについて質問してみようと思ったが、身近な人間──叔父のことを思い出して止めた。叔父も今でこそ俺という居候がいるせいか、それなりに彩りや季節感のある食事を取っているようだが、基本的には鮭と米に味噌汁という最低限が揃いさえすれば、同じメニューの食事を延々と続けて何ともない類の人だ。あのひとも基本的には工藤と変わらない。精々食器を使う点ぐらいしか文明を主張できる箇所がないのではと気づいたからだ。ついでに言うと、俺もさして辛くない側の人間だ。短い一人暮らしの経験でも、洗い物を増やすくらいならと頑なに皿一枚と茶碗一つでやりくりしていた。だから何かを言う資格というものがそもそもない。
結局程度の差こそあれ、分類としてはおおよそ同じ穴の貉なのだろう。俺たちは生活というものにおいて怠惰を通すことに抵抗がないのだ。
しなしなとしたクッキーを毟るように割り、口へと放り込む。口内に貼り付く甘さを剥がすようにコーヒーを流し込んでから、俺は当たり障りのない話題を投げる。
「一人暮らしって、やっぱ違うか。その、人と暮らすのと」
「んー、まあねえ。全部自分でやんなきゃいけないけど、逆に言えば自分でできることなら何してもいいわけだから」
お前もしてたんじゃなかったの、と問われて頷く。といっても数カ月で根をあげた──住んでいた新築のマンションが痴情のもつれによる惨殺事件を経て事故物件になってしまったからだ──ので、叔父の家に居候している次第だ。
十八にもなってこんなことを言うのも悲しいが、小心者で臆病な自分にとっては、一人暮らしの解放感より多少の息苦しさがあったとしても、同居人がいた方が快適及び精神的に健全でいられるということに気づいてしまったのだからどうしようもない。実際に頼り甲斐があるかどうかはさておいて、何かしらどうしようもないものに遭遇したときに巻き込める相手がいるというのは安心感が違う。
役に立つかどうか、あるいは逃げ出さないかは別ではあるが──どうあがいても、それこそ咳をしても一人のような状況よりかはマシだ。血だらけの女が部屋の入り口でへらへら笑っていたとしても、隣に見知った誰かがいるなら幾分かはマシな気分だろう。助かるかどうかは別問題だ。地獄行きの道中ならば、一人よりは二人連れの方が賑やかでいい。
工藤はカップの縁を二度ほど齧ってから、言葉を続けた。
「遅刻しないなら夜更かししてもいいし、ぶっ倒れないなら三日続けてレトルトカレーで飯を済ませてもいい。あとは……なんだ、朝から風呂入ってもいい。自分の都合で生活できるのはまあ、楽だよ。勿論寝坊したら自分のせいだけど」
一人になるっていうのはそういうことだよな、とその一言を零したときだけ、工藤はこちらを真っ直ぐに見た。その双眸がやけに黒々として見えたのは、喫茶店らしいやや光量の低い照明のせいだろう。
一人暮らしの気楽さ、というのは分かる。それと同時に今まで気づかずにいた不便や手間の存在にぶち当たるのもそうだろう。
これまでは同居していた人間に意識的あるいは無意識的に頼っていたものがどれほど多かったかということを理解することになる。せめて米だけでも炊こうとしたら米櫃が空だったときも、深夜にそれなりの大きさの蜘蛛が壁を這っていても、夜中に人の頭でも叩き割るような勢いで玄関がノックされたとしても、すべて自力で対応ないし解決する必要がある。
些細なことから致命的な選択まで、全ての責任と裁量が自分に課せられるのだ。
俺のような臆病者には荷が重いのはそういうところなのだと思う。生活は慣れと学習でどうにかなるとしても、突発的な問題──それこそ突然上階で刃傷沙汰が発生するとか玄関から出た途端にただ立ち尽くす不審者に遭遇するなどの、およそ真っ当かつ最適な正解が存在しないであろう類の事象に相対したときにどうするべきかを考えるだけで胃が痛む。
思いつくろくでもない想念を振り払って、俺は平日午後のコーヒーチェーンでの雑談に相応しいであろう話題を振ろうと試みる。
「あー……俺はよく米切らしたりはしてたな、一人の頃」
「やるねえ。当たり前だけど使ったら自分で買い足さないと無くなるんだよな、生活物資」
「蜘蛛出たときもそこそこびっくりしたし。俺が始末しないといつまでも天井這うんだよな、あいつら」
「虫はな。こっち寒いから有名どころの害虫は見ないけど、蛾とかは夏の時期すごいぞ」
俺んとこの玄関先のポスト周りで塊になってたもんとうんざりした口調で言って、工藤は喉を先程より逸らす。予想外のペースで消費されていくコーヒーとサンドウィッチに少しばかり驚きながら、俺もようやく冷め始めたコーヒーを啜る。
「たださ、蛾のダマは共用部っていうか管理の人が始末してくれるわけよ。管理費払ってるから。あと部屋入っちゃえば見えないから全然気にならない」
「まあ……言いたいことは分かる。部屋に出たら自分で何とかしないといけないけど、その他は金で解決できるもんな」
「な。そういう感じでさ、非常階段だと管理会社に連絡すればいいし極論見ないふりすれば済むけど、自室に出られると頑張るしかないっていうか」
「非常階段?」
突然に飛び出した単語が飲み込み切れず、そのまま繰り返す。
工藤は軽く頷いてから口を開いた。
「木曜日だけなんだけどね。非常階段前のドアんとこに、目を合わせたらいけない人が立ってんだよね。それと目合わせちゃったから俺の部屋のベランダまで来ちゃってさあ」
二週間ぐらいベランダ周りちょろちょろしてたけどちょっと困ったね、と平然とした調子で続けて、残り数口分しか残ってないであろうパンの破片を手に取った。
「……それはさ、どっちなんだよ」
「ん?」
「人って言ったけど、ベランダに二週間いるのはその、無理だろっていうか、何だ」
「あー、そうだね。たまに手すりの向こう側にいたね」
手にした容器を取り落としそうになって、慌てて両手で掴み直す。伝わる温みに縋りつきながら、俺は工藤を睨む。
工藤はこちらの視線になど気づいていないように、最後の一口を飲み下してから、
「あと室外機の隙間ね。壁との間からさ、首だけぽこんって出て部屋の中見てた」
情景を想像するのも嫌になるようなことを言いながら、工藤は新しいウェットティッシュで指先を拭った。
「……お前さ、何でいきなり怖い話始めたんだよ」
「怖くないじゃん。俺こうやって元気だし」
「それいつの話なんだ」
「六月くらい? 最初夜にベランダでにょろにょろしてるのに気づいてから、管理会社に連絡したんだよ。そしたら長くても一か月くらいで飽きますからできるだけ見ないようにしといてくださいって言われた」
問い合わせる工藤もどうかしているが、管理会社の回答も大概だろう。飽きるという情動が人間以外のものに有効なのかと考えて、犬猫はおろか虫や魚も餌に飽きるのだと聞いたことがあるのを思い出す。それならばお化けでもあり得るのだろうかと納得しようとして、そんなことに理屈を通して何になるのだと我に返った。
「梅雨だったからベランダ使えなくてもそんなにダメージなかったんだよな、洗濯物は室内干しか乾燥機で間に合ったし」
「他は」
「たまに窓叩くみたいな音はしてたけど、大体俺部屋で映画観てるかゲームしてるか動画見てるかだし」
窓割られるようなことはなかったしさと工藤は笑った。
「よく──よく今までそういう体験を黙ってられたな」
「話すほどのことじゃないじゃん。あとこうやって話したらお前困ってるじゃん」
「そうだけどさ。そうじゃなくてさ」
ベランダに何かがいる、しかもそいつはどうやら人間ではないらしい、害はないけれどもできることもない──そんな目に遭いながら二週間も真っ当に一人暮らしを満喫できるというのはどういう神経をしているんだとそのまま口に出しそうになって、慌てて踏み止まった。
叔父や厚宮さん相手ならともかく、同年代の他人にそこまで乱暴な口の利き方をするのは危険だろう。何事にも適切な距離感というものがあるとは散々家で教えられた。
何を言うべきかを判断できずにいる俺を不思議そうに見つめてから、工藤はコーヒーを呷った。
「なんかさ、俺だって部屋の中に出たらビビったと思うよ。台所とかさ、風呂とか。よくホラー映画であるじゃん、風呂場のドア越しにいるはずのない影が透けたり血とか肉片がべとっとするやつ」
「具体例を出すなよ。分かるけど」
どうしてこいつはいちいち明瞭なビジュアルを提示してくるんだと、舌打ちしそうになるのを咄嗟に堪えた。
想像してしまう自分にもうんざりする。ご丁寧に
「別にさあ、極論俺の部屋の外にいるんならいいんだよね。集合ポスト前でも植え込みんとこでも……見ないふりして部屋に入れば、あとは俺の知ったこっちゃない、っていうか見えなくなるわけだから」
けどベランダ出られちゃうとなあと眉を寄せて、工藤は首を傾げてみせた。
部屋に百足が出ましたとでも言うような軽さに、俺は返答を咄嗟に思いつけずにコーヒーを啜る。
実家にいた頃なら
生活に影響がなければいい、危険がないならいい、被る害より得る利益の方が多いなら問題ない。そんな理由でお化けや怪異といった得体のしれないものを受け入れて目を逸らしていられるのは、この土地に住む人間の芸風なのだろうか。
夏からずっと抱いている疑問ではあるが、答えの出る気配はない。俺のような平凡な大学生には手に負えない規模の話なのかもしれないし、ただ単に怖がりの小心者なのが全てなのかもしれない。
それはそれで悲しいことではある。俺は残り少なくなったコーヒーの液面を眺めながら、一番の疑問をぶつけた。
「──嫌だったら答えなくていいんだけど、お前ってさあ、実家どこだっけ」
「県内だけど。ただ真っ当に通うと片道で二時間かかんだよね、だから社会勉強も兼ねて一人暮らしさせてもらってる」
「じゃあさ、最悪実家戻ればいいわけだろ。そういう怖い目に遭ったら。どうして一人暮らしを続けてられるんだ」
「何とかなったし、死んでないし、戻るの嫌だし」
どこかで聞いたようなことを言って、工藤はこちらを見た。
「それなりには怖いよ。あとびっくりもしたけど……まあね、そんだけって話だよ。対応もできるし、だったら俺としては今のところ一人暮らしのメリットの方がデカいって話。なんせ朝までぶっ続けでハロウィンシリーズ視聴祭りをしても怒られねえし」
対応方法が分かっていれば相手が誰でも気楽なもんだろ、と工藤は笑った。
そんなに何もかも怖くないのにホラー映画を見たがるのはどういう理屈なんだろうと気になったが、この状況で問う気力は残っていない。どんな答えが返ってきても飲み込むのに負荷がかかりそうだったし、コーヒーも残り少ない。
テーブルの端に置いてあったスマホに視線を向ける。電車の予定時刻にはまだ遠い。
どの話題なら安全に時間潰しができるだろうかと考えながら、俺は次の会話の切り出し方について悩むことにした。
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