IF番外編 愛を込めて逃避行



 目の前にはいくつかの選択肢があって、いつだって好きに選べるけれど、そうすることで破滅へ向かってしまう。すると結局は一つしかないのと同じで、だんだん身動きが取れなくなっていく。


 軍服をまとったリオが置かれている状況は、大体そのようなものだ。


 けれどもし、あのとき別の選択肢を選んでいたとすれば。


 本当はなかったはずの未来の話。





 

 野営の火を囲みながら、リオは白い息を吐いた。


「……アーサー、薪を足したいから取って来てくれ」


 少し離れたところに座っている彼は「人を使おうとするな。自分で行け」とぼやいた。寒いのか、毛布にくるまったまま動かない。

だがどちらかが行かなければ火も消えてしまうので、リオは腰を上げないままにじりよって、彼の肩を押した。


「地味に痛いからやめろ」

「さっきは僕が取りに行っただろう。君も少しは働いてくれないと不公平だ」

「さっきのはコイントスで決めたじゃねえか。さもおまえが自分から働いたみたいに言うんじゃねえよ。確率五十パーセントでめちゃくちゃ公平だっただろうが」

「でも僕が行ったのは事実だ」

「だから確率は公平だったって言ってんだろ」

「……面倒な」


 ああ言えばこう返ってくるので、若干イライラし始めたリオは、むっとした顔で彼を見返した。


「よし、なら今回もコインで決めようじゃないか」


 公平という言葉につられて、リオはポケットからコインを取りだす。


 そして一分後にはリオは立ち上がり、後方へ薪を取りに行く羽目になっていた。


「普通に考えて、交代で行った方が公平だったか」


 リオは薪を担ぎながら首を傾げた。わざわざコイントスをしなくてもよかったのに、余計なことを言い出してしまった。ため息を吐く。だがそんな息すらも簡単に凍り付いてしまいそうな寒さだ。


 手がふさがっているからこすりあわせて暖をとることもできず、体温が奪われ続けていく。一応毛布をまきつけてはいるが、火から離れてしまえば夏場のブランケットとほとんど同じだ。


「アーサーの口車に乗ると、ろくなことがないな……」


 どちらかと言えば勝手に乗りこんだあげく転がっていただけのような気がしなくもないが、深く考えるのはやめて、すべて彼の所為にしておくことにした。その方が平穏だ。


 厳しい寒さの中、リオは身体を縮めたまま戻った。ブーツで雪をかき分けるようにして進み、火のそばに寄る。持ってきた薪の何本かを放り投げた。


「今夜は一段と冷えるね」

「こりゃ大雪になるかもしれねえな。明日の行軍が思いやられるわ」

「僕たちの国ではまだ秋の終わりだというのに……。この国は本当に寒くて参る。冬まで戦争が終わらなかったら大変なことになりそうだ」


 リオがぼやくと、アーサーは「おまえ、吹雪に巻き込まれて飛ばされるんじゃねえ?」と笑った。


「その時は君の腕をひっつかんで巻き添えにするから安心してほしい」

「前々から思ってたんだが、おまえは俺に恨みでもあんのか?」

「こう……生理的に気に食わないんだ。分かるだろう?」

「分かってたまるか」


 アーサーは毛布の隙間をなくすように足をひっこめた。リオもつられて手をもぞもぞと動かす。布の擦れる音と、焚火のパチパチという音だけが響く暗闇で、二人だけ起きていた。


「朝まで、あとどのくらいだろう」

「五時間くらいだな」


 不寝番を割り当てられているリオとアーサーは、時々話をしながら夜が終わるのを待っていた。


 会話は唐突に始まって、あっさりと途切れる。その繰り返しだ。


 アーサーは「やっぱり腹が減った」と言って、茂みの奥を見遣った。


「さっきの缶詰、食っとけばよかったかもしれねえな」


 腐ってガスで膨張していた缶詰のことを言っているのか、と分かって、リオは首をすくめた。


「君が投げてしまったんだろ。もう爆発してしまったから駄目だよ。そして案の定異臭がものすごかった」

「小隊長の顔、死んでたしな」

「あれは夜中に叩き起こされたからだと思うけれど」

「どっちもだろ。少なくとも喜んではねえな」

「当たり前だ」


 全員が起きだして警戒態勢にあたり、やっと敵兵がいないことが分かって、二度目の就寝をしたところだった。


 誰もがどっと疲れた顔をしていたので、ますます自首がしづらくなった、と二人は顔を見合わせた。どちらからともなく目を逸らす。


「……寒い」

「言っても変わらねえからやめろ、余計寒くなるだろ」


 リオは「そんなことはない」と返した。


「僕らの一言ごときで気温が変わるなら、とっくに暑いと連呼している」

「そういう意味じゃねえ。気持ちの問題を理解するか、もっと柔軟に考えてみろ」

「まさか僕の思考にケチをつけているのか?」

「まさかじゃなくて、それ以外ねえだろ」

「寒い」

「……あー、寒いな」


 いつだってその一言に帰結する。


 リオは手元に置いてある薪を手に取って、くるくると回して遊び始めた。だがすぐに雪へ落としてしまって、手を毛布の中へ引っこめた。


 感覚のほとんど残っていない指先は、単純に寒さのせいなのか、それとも凍傷が悪化しているからなのか――診察したところで治すための薬はないのでやめておく。代わりにリオは小さく呟いた。


「帰りたい」


 毛布に顔をうずめて、押し殺すように言った言葉だった。


「帰りたい……」


 夜はまだ明けない。


 どうやって、と頭の中で嘲笑った。こんなところまで来て後戻りなどできるはずがなかった。この雪しかない世界できっと自分は死ぬのだろう、と思う。


 二度目はアーサーにも聞こえていたかもしれないが、彼は何も言わなかった。それが彼の優しさなのかもしれなかった。


 しばらく顔をうずめたまま目を閉じていたが、このままでは眠ってしまいそうだ。リオは深く息を吐いて、顔を上げる。


 アーサーはぼんやりと揺れる火を見つめていた。瞳にオレンジ色を反射させながら、彼は何かを考えるように静かに瞬きをしていた。


 リオは盗み見るように彼の横顔を眺める。

彼がふと視線を動かしたから、リオはさっと目を逸らして、けれどちらりと伺うように見る。


 アーサーはどこか遠くを見たまま、「逃げるか?」と呟いた。


「全部捨てて、ここから逃げちまうか」


 炎が揺れた。


 リオは声を発することもできなくて、ぽかんとしたままアーサーを見た。


 あまりにも自然にその言葉が出てきたから、聞き間違えか、何かの冗談だと思ったのだ。「なんて言った?」と上ずる声で訊き返せば、彼は「聞こえなかったのかよ」と口を曲げた。


「逃げるかって言ってんだよ。今、ここから。二人で」

「……はあ?」

「今ならたぶん、できるだろ」


 本当に何の冗談かと思って、リオは眉をひそめた。


 言っていいことと悪いことがある、と彼の頭をはたいてやろうかと身を乗り出した。だがアーサーの目がいたって真剣であることに気が付いて、リオは言葉を詰まらせた。


「本気、なのか?」

「冗談で言うかよ、こんなこと」


 脱走兵は銃殺だぞ、とアーサーは軽く笑う。それすら笑って言うようなことではなかったが、脳が何にも追いついていなかったので口にはしなかった。


 アーサーは振り返ることなく後ろを指さした。


「分かるだろ。不寝番は俺ら二人だけ、他は寝てる。大雪になる前に逃げ出せば、誰も追いつけないはずだ」

「そうだろうけど。でも」

「帰りたいんだろ? ここから、生きて」


 彼はわずかに前のめりになってリオを見る。


 詰め寄るようなその言い方に、リオはしどろもどろになったが、無意識のうちに頷いていた。頷いてしまってから打ち消すように唇を噛んだ。


「だからといって、逃走なんてしたら、みんなを見捨てることになる」

「それでも、ここにいたら確実に死ぬぞ」

「……もしかしたら、生き残れるかもしれないじゃないか。可能性がないわけではない」

「無理だって自分でも分かってんだろ。こんな場所に連れてこられた時点で命運は決してんだよ。第五はこの森で殺される。何人殺してもだ」


 アーサーは「それでいいのかよ」と、覗きこむようにリオの目を見た。


 心臓がばくばくと音を立てていた。脈が速い。その目で見られると嘘をつくのが難しくなってしまう。


 リオは「いいわけがない。でも僕は軍人だ」と首を振った。最後の抵抗だった。けれどアーサーはあっさりと反撃する。


「おまえは人を殺して殺されるために、こんなところまで来たのか?」


 夜の闇が揺れる。


 その言葉がとどめだった。


 鋭利なナイフで刺されたかのようで、リオは胸元を掴んだまま顔を伏せた。苦しくて息ができなかった。は、と短く息を吸いこんだが、喉が凍り付きそうで唾を飲み込む。


「立てよ、ほら」


 顔を上げれば、手が上から伸ばされていた。


 立ち上がったアーサーの顔は暗くてよく見えなかった。焚火の明かりは届いていない。けれどいつものように笑っているような気がしたから、リオは少しだけ迷って、彼の手を握り返していたのだ。


 どうなるかなど知らない。知りもしない。けれど身体は動いていた。


 二人は認識票を引きちぎると、雪の上に放り投げた。






 何が正しかったかなど、もはや分からなかった。最初から正しさなどありはしなかったのかもしれない。それでもいくつかの選択肢があって、リオは選ぶべきではないものを選んでしまった自覚があった。


 薄暗い世界で、二人きりのまま歩く。


 進んでいるのかさ迷っているのかも分からなくなってきて、リオは俯きながら足を動かしていた。


 吹雪がひどくなってきて、すぐ前にいるはずのアーサーの背中さえ見失ってしまいそうだ。道しるべをなくすわけにはいかない。リオは腕を伸ばして、彼の服を掴んでいた。


「僕たちはもう、戻れないな」

「帰るんだろ」

「……うん」

「だったら戻らなくていいじゃねえか」


「あんな地獄には」とアーサーは呟いた。リオは消え入りそうな声で「うん」と返した。


 次第に雪で前も見えなくなってきて、足は一歩も進まなくなった。二人は木陰に身をひそめた。


「なぜ君は僕と一緒に来てくれるんだ?」


 幹にもたれかかるようにして座っているアーサーは、顔を背けたまま「秘密」と言った。


「俺が死ぬ前には教えてやるよ」


 なんだかそう言われるような気がしていたから、リオはふっと笑みを零した。


「君は殺しても死ななさそうだから、きっと一生聞けないだろうな。至極残念だ」

「俺だって殺されたら死ぬんだよ。そこに柔軟性は求めてねえから普通に考えろよ」

「まさか後頭部を殴ったら死ぬのか……?」

「死ぬなあ」

「でも銃弾が三発当たっても死ななかったとは聞いたことがあるけれど」

「それ第五に来る前の話だぞ、なんでおまえが知ってんだよ」 

「あとは両腕骨折してるのにそのまま前線に立っていた話も聞いたことがある。僕に言わせれば身体か頭のどちらかがおかしい」

「しれっと罵倒してくるのをやめろ」


 アーサーは腕を伸ばしてリオの頭を軽く小突いた。それから鷲掴みにして揺さぶってくる。「わっ」と声を出して、彼の腕を掴もうとするが、彼はおかしそうに笑ってやめはしなかった。


 くしゃくしゃと髪を乱される。


 体温と呼ぶにはあまりにも冷たく、それでも確かな感触だった。リオはゆっくりと目を閉じて、しばらくされるがままになっていた。






 ラジオのつまみをひねって周波数を合わせる。ノイズにまじって音声が流れ始めたので、リオは耳を近づけながら、もう少しだけつまみを動かした。


「アーサー、繋がったよ」


 窓際の椅子に腰かけている彼に声をかける。リオはラジオの傍に立ったまま放送を聞いていた。


 外の雪はもうやんでいた。


 冬は越えた。あれからずいぶん長い時間が過ぎたのだな、と思う。


 ラジオから流れる音声は、敵国の言葉で終戦と勝利を伝えていた。祖国を讃えるために何度も繰り返されるその言葉に、リオはだらんと腕を垂らした。


「……分かってはいたことだけれど、あえて言葉にされると、さすがに堪えるものがあるね」


 部屋はしんと静かなままで、返事はない。リオは特段気にすることなくラジオに耳を傾けていた。


 敵国から自国へ渡るための手段などあるはずもなく、リオとアーサーは潜伏を続けていた。


 半年が過ぎて、冬の厳しさは和らぎ、かたことだった言葉も流暢になって、何もかもがゆるやかに変わっていく。だが隠れ家での時はとても穏やかだった。


 リオはラジオをつけっぱなしにしたまま、リビングの椅子に腰を下ろした。


「全部捨てた僕が、今さら勝った負けたを言うつもりはないよ。言う資格がない」


 肘をついてふと目を閉じる。


「でも、終わったのか……」


 羽織ったカーディガンの袖に顔をうずめた。棚のにおいが染みついたそれに、リオはくんと鼻を鳴らした。しばらくするとラジオ放送は終わって、部屋はまた静けさを取り戻していた。


 あと少し待てば国を渡るのにも不自由しなくなるだろう。やっと帰れる日が来るのだ。


「……きっと二人で帰ろう、アーサー」


 彼はぼんやりとしたまま窓の外を見つめるだけだった。あの強い光を失ってしまった瞳はリオを映さなかったし、名前を呼ぶことさえ、もう何日もなかった。







 アーサーの手をひいてリオは船から下りた。斜めにかけられた橋を渡ってコンクリートで固められた地に降りる。じっとりとした潮の香りと照り付けるような陽の光に、リオは思わず足を止めていた。


 帰ってきたのだ、と思う。ようやく国に帰れたのだ。この息が止まることなく、自分の足で。


 リオは「海だよ。かもめが飛んでいる」と軽く手を引いた。「今日は晴れているから遠くの島まで見えるよ」とも言った。アーサーは何を言うこともなく、自分の足元だけを見つめていた。


「君は海がそんなに好きではなかったのかな」


 特に訊いたことはなかったし、彼から返事があったわけでもない。ただ一瞥もしなかったから、そうなのかもしれないと勝手に思った。


「それなら仕方がない、早く行こうか。僕も特段好きではないし、やらなければいけないことがたくさんあるんだ」


 リオは苦笑まじりに歩き出す。アーサーは腕の引かれる方へ黙って進むだけだった。


 戦争が終わってからもう一年が過ぎていた。


 けれどアーサーが正気を取り戻すことは一度もなかったし、そんな彼をリオが見捨てることもなかった。


 外を歩くときはリオが手を引いて、食事の時はスプーンですくってやって、眠るときは毛布をかけてやる。あとは椅子に座ったまま、飽きもせずに宙を見つめているか、窓の外を眺めているだけだった。


 リオは彼の声を思い起こそうと、呼吸を静めた。


 最初からこうではなかったのだ。


 最初はリオと話もしたし、時々からかっては笑っていた。けれど日が過ぎるにつれて口数は減って、リオと目を合わせない時間が増えた。いつの間にか笑うこともなくなって、ついには廃人のようになってしまったのだ。


 今となってはリオのことを覚えているのかも分からない。その目はまだ光を見ているのか、喉は声を発することができるのか、そんなことすら分からないのだから。


「日が暮れないうちに行こうね」


 リオは振り向かないままで言った。


 アーサーは返事をしなかったが、リオにつられてゆっくりと歩いていた。


 




 伝手を頼って住む場所はどうにか見つけた。狭くて古い家だったが、細い路地から青空を覗くことができるのでリオは悪くないと思った。


 外に出る支度をしながら、「そういえば君に家族はいないのか?」と尋ねる。


「もしそうなら顔を見せに行きたいけれど……君は家族の話をしなかったから。もっときちんと訊いておくべきだったね」

「…………」

「僕は少し出るから、動かないでくれ。鍵は僕がかけていくからね。日が落ちないうちに戻ってくるようにするよ」


 適当な帽子をかぶって、リオは家の外へと出た。滑りの悪い鍵をかけてから、ふらりと歩き出した。


 行き先は軍部だ。


 またしても伝手の名前を借りたリオは、自身が罰されるべき脱走兵であることを隠しながらもぐりこんだ。


 いたって堂々とした態度で知人の安否を確かめていく。生きていればほっとして、死んでいれば両手を握りしめて、それの繰り返しだ。


「以上でよろしかったですか?」

「はい、ありがとうございます……」


 たった十分のはずなのにすっかり疲れてしまって、リオは力なく頭を下げた。そのまま帰るつもりだったが、気付けば「あの」と声を発していた。


「……あの、思い出したことがあったので。もう少し調べていただけますか」

「承ります」

「第二連隊に属している、小隊について調べていただきたいのですが」

「どちらの大隊所属でしょうか」

「第九大隊の――第五小隊です」


 訊くつもりはなかったのに、口は勝手に動いていた。リオはざらついた声で第五小隊の名前を言う。喉はからからに乾いていた。


 少しの沈黙だったのに、リオは今すぐにでも逃げ出したくなった。


 受付をしている男性は資料をぺらぺらとめくりながら探していく。やがてルーペで拡大しながら、彼は読み上げた。


「エドワード・ベイカー小隊長以下、四十名、全員死亡しています」


 ひどく淡々とした言葉だった。


 リオははくっと唇を動かした。


「全員が、死んだんですか?」


 聞き逃しなどしなかったのに、リオは確かめるように繰り返した。分かっていたはずなのに、分かりたくないというように。男は「ええ」と事務的に頷く。


「そのように報告されています。十一月十日未明、敵襲に応戦したものの生存者はおりません」


 リオは真っ白になりかけている頭の中で、カレンダーを思い浮かべていた。記憶を広げていく。十一月十日。確か、その日は。


「――エイデン上等兵と、グレイ曹長が脱走した三日後でしょうか」


 リオはうなだれながら、吐き出すように言った。心臓が止まってしまいそうなほどしめつけられていて、リオは息をするので精一杯だった。


 だが受付の男は「脱走?」と首を傾げた。


「第五小隊からの脱走兵は報告されていませんが」

「……え?」

「上等兵と曹長の遺体は発見されていませんが、他の兵士から認識票が回収されました。よって戦死と判断されています」


 彼は「以上です」と告げて資料を閉じた。


 ぱたんと音がしたが、リオはしばらく棒立ちになっていた。なぜ、という声が頭の中でやまない。


 リオは礼を言うことも忘れて、ふらふらとその場を後にした。






 すっかり暗くなった道を歩きながら、リオは考えた。


 自分たちが脱走兵扱いされていない理由など、一つしかありえない。司令部に報告されなかったのだ。


「小隊長……」


 自動車の走行音にかきけされてしまうほどの声で、弱々しく呟いた。


 どうせ全員死ぬんだから、一つや二つ、死体がなかったとしても同じことだよ。そう笑う彼の顔が思い浮かぶようだった。


 それが彼の同情心だったのか諦めだったのか、確かめる術は失ってしまった。彼には会うことができないのだ。これから先、もう二度と。


「散々だ……」


 このまま自動車の走る道へ身を投げ出したくなって、けれどそんなことをすれば、誰がアーサーの待つ家に帰ってやれるのだろう。リオは二つ呼吸をして足を止めた。


 電灯のともり始めた道をゆらゆら進んでいく。月もかすむような眩しさだ。


 細い路地に入って、扉の鍵を開けた。リオはノックをすることなく扉を開けて、玄関で立ち尽くしていた。


「アーサー」


 彼は安楽椅子に座ったまま窓の外を眺めていた。膝にブランケットをかけられてぼうっとしている姿は、老人のようにしか見えなかった。


 ずいぶん痩せたと思う。当然だ、リオが口元に食事を運んでやらないとろくに食べもしないのだから。


「……僕たちは、間違っていたんだろうね」


 リオは彼の傍まで歩いていってしゃがみこんだ。


「本当は何となく分かっていたんだ。僕たちは何も捨てるべきではなかった。あの場所で君と、みんなといっしょに死ぬべきだったんだろう」


 彼の手を柔く握った。両手で包みこむようにして冷えた指先を温めてやる。彼はぴくりとも反応しなかったが、リオは目を伏せたままでそうし続けた。


「だけど、それでも、僕は生きてみたかったんだ……」


 その結果がこれだ。「みんな死んでしまったよ」とリオは掠れた声で告げた。


「みんな、死んでしまった……」


 リオを守ろうとしてくれた人たちから先に死んでいく。だというのに自分はまだ息をしている。まだ生きている。


 リオは彼の膝にすがるように身を寄せて、涙を零した。ブランケットにしみこんでいく。喉から嗚咽が漏れて、そうするともう堪えきれなかった。


「ねえ、アーサー。どうして」


 言葉を絞り出すようにして、リオは訊いた。


「どうして君は、僕を連れ出してくれたんだ。どうして僕だけを生かそうとしたんだ?」


 答えなどなかった。頭を小突かれることも、髪をかき乱すようにして撫でてくれることもない。彼はとっくに病んでしまっているのだ。


 リオはブランケットを握りしめながら、「君は一人より、多くの人を助けたかっただろうに。君ならできたはずなのに」と泣いた。「本当はそうしたかったから、今苦しいんだろう?」と訊いた。


 彼の前に跪いたまま、祈るように彼を見上げた。


「君は、幸せだったのか?」


 手を伸ばして彼の頬を撫でる。がさがさと艶のない肌だ。目は虚ろで、リオのことなど見てもいなかった。


 敵を撃ち抜くときの鋭い眼光も、誰かの会話を聞いては目尻を下げるのも、笑うときに優しく細められるのも、きっと永遠に見ることができないのだろう。


 それが何よりもひどく、虚しかった。


 あの日選んだ選択肢が間違っていたのだから、この日々に安らぎなどあり得なかった。


 探したところでもう無駄だ。


 今日がきっと、行きどまりなのだ。


「……もう終わりにしよう」


 ふと、笑う。


 疲れてしまったんだ、君ではない君を見ていることに。君から大切なものを取り上げてしまったのは僕だから。もう、何も見たくない。考えたくない。


 リオは腕を伸ばして窓際のチェストを開けた。黒光りするピストルは戦場で持っていたものの残りだ。弾は入っているもので全部だった。確かめて、自分の胸元に向ける。それからふと顔を上に向けて、アーサーを見上げた。


「君は、どうすればいいと思う?」


 涙が張り付いて肌が引きつっていた。


「僕はもう終わりにしたいんだ……。でも君はどうしたいだろう?」


 返事を期待してはいなかった。


 リオは両手でピストルを握る。


 けれど彼はゆっくり、本当にゆっくりと、唇を動かしたような気がした。リオが目を見開くと、彼は視線だけをリオに寄こして、それから静かに目を閉じた。


 ただ眠っただけかもしれないのに、意味を見出してしまうほどには愚かだ。


「……アーサー、これでいいのかな」


 リオは自分の身体に向けていた銃口を、震える手で彼の方へと向けた。

彼は瞼を上げなかった。


 そのまま上げないでいてほしかった。


 君も、もう何も見なくていいんだ、と口の中だけで呟く。見たくないからずっと焦点を合わせなかったのだろう?


 冷たい銃口を彼の額にくっつけて、リオは最後に尋ねる。


「なぜ君は僕と一緒に来てくれたんだ?」


 彼は目を開かない。


「死ぬ前に教えてくれると言ったのに」


 リオは不器用に笑って、「嘘つき」と言った。それから「ごめん」とも。


 リオは目を逸らさなかった。


 ぐっと人差し指を力ませて、引き金を引く。


 身体の奥を震わせるような銃声が響いて、彼の身体はガクンと揺れた。腕が跳ねる。けれどそれきり彼は動かなくなって、リオは荒く呼吸した。生ぬるかった。


 戦場でさえ人を殺したことがなかったのに、唯一、自分を救おうとしたアーサーを手にかけてしまったのだ。


 リオは銃口を返して、自分の額に向ける。


 彼を殺しておいて、長く生きているつもりもなかった。あの冷ややかな雪の下で骨になっている人たちにも申し訳がない。


 みんな死んだのだ。殺したのだ。一人のうのうと生きているだけの権利はない。


「……もし」


 たくさんの、あったはずの選択肢が頭をよぎっていく。まるで走馬灯のように。


「もしあの時に戻ってやり直せたら、なんて思ったりもしたけれど。やっぱりもう二度とごめんだよ。僕は」


 リオは笑った。


 次があるとすれば、もっと上手くやるだろうけれど。君をこの手で殺さずに済むくらいには。


 リオは口角を上げたまま、彼の不敵な笑みを真似るようにして、引き金を引いた。


 同じ銃声が響いて、リオは彼の膝にもたれかかるようにして息絶えた。

 
















 吹雪はやまない。


 大木の幹にもたれかかったアーサーは顔を傾けた。すぐ傍にいる、あどけない顔をした青年は目を閉じたままじっとしている。


「……おまえは長く生きろよ」


 ぽつりと呟いた言葉は、ごうごうと吹き荒れる雪に攫われてしまった。


 アーサーは目を細め、そして祈るように指を組む。


 誰の何を踏みにじってもいいから、生きていてくれ。おまえがこの世界で生きてるってだけで、俺の何かが報われた気がするんだ。






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