後編  この火が地獄への手向け花



 朝がくるのをこんなに嫌だと思ったのは、人生で初めてだった。


 リオはうっすらと明るくなっていく景色を見回しながら、ぼうっと座りこんでいた。雪で身体はすっかり冷えていたし、肩にもたれかかってくる隣の男もひどく冷たかった。


 この国は朝も寒いね、とひとり言を零す。ひとり言のつもりはなかったが、返事が返ってこなかったのでひとり言になってしまった。


 日が昇るまでは一瞬だ。


 自分が想像しているよりも早く、太陽が地平線から這い出してくる。あたりはすっかり明るくなってしまったので、リオは重い腰を上げるしかない。


「……もらっていくよ」


 もうぴくりとも動かない彼の、軍服の胸元をくつろげた。二枚重なった認識票のうち、一枚をちぎって自分の軍服の内ポケットに入れた。残った一枚は彼が彼であることの証明のために残していく。


 するべきことはこれだけで、もうお別れだ。


 すると急に名残惜しくなってしまって、リオは「ごめん」と一声かけて彼の胸ポケットに手を突っこんだ。


 くしゃくしゃになった、銀の煙草のパッケージ。


 一本だけ拝借して、今度こそリオは彼のもとを去った。






「リオ、よかった。無事に合流できたね」


 Bポイントに集まっている軍人たちの中から小隊長を見つけ、リオは真っ直ぐに目指した。


 地図を広げながら話し合っているようだが、ひとまず中断させて、リオは内ポケットから認識票を取りだした。


 無言で差し出せば、小隊長もすべてを理解したように受け取った。


「……アーサー・グレイ」


 彼はぽつりと呟くように言って、柔く握りしめる。


「そうか。ついにあの子まで逝ってしまったのか」


 小隊長はアーサーとの付き合いも長かったはずだ。穏やかな声でそう言った彼は、何か大切な物をなくしてしまったときのような顔をしていた。


「もうずっと図太く生き残ってきたような子なのにねえ。彼でも死ぬときは死ぬというわけか。まったく、神は私から奪うばかりだね」

「僕が、足手まといになったんです。僕を庇わなければ、アーサーは……」


 彼はゆるやかに首を振った。


「なに、他人を守って死ねたなら彼も本望だろう」


 小隊長は「月並みな言い方だけれどね。あの子はそういう人間だよ」と少しだけ笑って、通信兵を呼んだ。二、三言話して、彼はリオを振り返った。


「手を出しなさい」

「……?」


 素直に手のひらを出す。小隊長は何かを握らせるように、リオの指を折りたたんだ。


 思わず開いて中を見ると、鈍く光る認識票があった。


 刻まれてるのはアーサーの名前だ。


「あの、これは」

「もう通信兵から司令部に連絡を入れた。それは君が持っていなさい」


 彼は「どうせ司令部まで持って帰れる可能性なんてゼロに近いんだ。誰が持っていても同じだよ」とおかしそうに言った。 






 数人欠けた第五小隊は、それでも行軍するしかない。


 七番目を歩くことになったリオは、背後から何の声もかけられないことに気付いて、すんと鼻を鳴らした。どうしたって慣れそうにない。


「Cポイント、通過!」


 前から声が聞こえてきて、リオはぎゅっと唇をきつく結んだ。 


 仲間たちの身体はあの場所から二度と動かないのだ。


 夜の間降り続けていた雪はやんだ。朝の光に世界は白銀に輝いている。


「いやはや、困ったねえ」


 前の方を歩く小隊長は、地図を覗きこみながらぼやいた。


「司令部からの情報によると、前線が動いているらしい。真っ直ぐ一本だったのが、ここ二日でだいぶ歪んでしまって――このあたりも危険度がはね上がっている」

「ということは」

「夕食ついでにスナック感覚で殺されかねないね」


 小隊長はしれっとした顔で告げた。


 ただでさえ状況は最悪だが、ここで聞きたくもない情報を聞かされて、隊列からは次々に声が上がった。


「なるほど、第五もいよいよ終わりと」

「命運尽きたな」

「最低だ」

「人の心がねえ」


 小隊長は「感想を自由に発表する時間じゃないんだよ」と笑顔で制した。全員さっと目を逸らして、何事もなかったかのように足を動かし始めた。


 リオは特に何も言わなかった――というより気の利いた一言を言えるだけの反射神経を持ち合わせていなかっただけだ――が、思うところはある。


 前線が動いたことにより、敵残兵の残るこの森は新たな前線になりかねない。


 そうでなくとも、前線と前線を移動するにはこの森を通過するのが好都合だ。


「あの、小隊長」


 リオは隊列の横に顔を出した。


「司令部から、指令の変更はないんですか? このままでは無駄死にになりかねません」

「あのクズ……じゃなくて上層部から変更指示など下りるはずがないだろう」

「今クズって言いませんでした?」

「とにかくこのまま行軍し、強行突破しろと仰せだ」

「クズって言いましたよね?」

「君は細かいところに目をつむろうという気がないのかい?」


 小隊長はとため息を吐いた。


「クズじゃなかったら馬鹿かアホだ。……なんだかむしゃくしゃしてきたな。そうだ、この際みんな思いのままに罵ればいいよ」


 いい加減面倒になってきたのか、小隊長が片手を大きく振った。


 そうなればあとは野放図だ。


 全員ためこんだストレスをサンドバッグにぶつけるかのごとく、不平不満を吐き出し始めた。


「俺たちはおもちゃの兵隊か何かか?」

「むしろ上層部が敵」 

「配給された缶詰、どぶの味がする」

「たまに腐ってる」

「水もまずい」

「この国季節感がバグってない?」

「君たち、一度許可を出したら本当に止まらないね。真っ直ぐにしか走れない生き物だったりする?」


 小隊長はついにふっきれてしまったようで、にこにこと微笑んでいた。ここの誰よりも狂気に染まりきっているのでは、とリオは若干背を逸らす。


「いやあ、楽しいなあ。その調子でどんどんディスっていこうじゃないか」

「小隊長、明らかに駄目な方へ向かっています」

「どうせ誰が生き残るか分からないんだ。できるときに命を輝かせないと」

「人を貶めることで輝く命ってなんですか?」


 加速していく暴言にリオは振り落とされる寸前だ。


 肩からずり落ちてきたバックパックを背負いなおして、一呼吸した。息を整えてみたが、やはり何を言っているのか分からなかった。


 小隊長が軽く手招きをする。リオは軽く首を傾げ、駆け足で小隊長のもとへと向かった。


 彼の隣に並んで歩く。背後では相変わらず暴言の嵐だ。


「リオ、君こそ上層部に言いたいことが山ほどあるんじゃないのかな?」

「ええと?」

「君は、本来こんな場所にいるべき人間ではないだろう」


 彼はわずかに声をひそめて、リオにだけ聞こえるように言った。


 思ってもいなかった言葉に心臓がぎゅっと縮まった。


 リオは勢いよく顔を上げて、彼を見つめていた。


「知っているんですか。……僕が、衛生兵だったことを」

「これでも中尉だからね。その程度の情報は伝わっているよ」


 小隊長は「それで、実際のところどうなんだい?」と尋ねてくる。興味本位というよりは、ほとんど同情のような顔をしていた。


 とはいえ彼の同情は他人事の域をでない。


 初めて第五に合流した日、あの男が見せた言葉にしがたい表情を思えば、ごく自然な反応に見えた。ふと思いだしてしまって、うっすらと苦笑いを浮かべる。


「恨まなかった、と言えば嘘になります」

「ふうん?」

「……すみません、だいぶ見栄を張りました。相当恨んでます。現在進行形です。もし上層部の方が手ぶらで現れたら拳で殴っています」

「君は大人しそうな見た目に反して、なかなか過激だよね」

「そうでしょうか……?」

「まず肉体言語に頼ろうとする人間のどこが穏便なんだい?」

「いえ、その、大人しそうという言葉に引っかかって。僕はそういう風に見えますか?」


 小隊長はしばらく黙りこんだ。


 言葉を探すように視線をさ迷わせて、やがてコホンと咳ばらいをした。


「君、結構な童顔だよ? 背も高い方ではないし、下手をすると子どもに見えかねないね」

「散々考えてそれですか⁉」

「真実の大切さを伝えようかと思って……」

「タイミングの大切さもお願いします」


 小隊長はまだ何か言いたげにしているが、リオは「話を戻します」と遮った。


 思いのほか大きな声が出てしまって、小隊長はびくっと肩を揺らした。「根に持たないでおくれよ……?」と様子を伺ってきたので、リオは「根になど持ちませんが?」とまたもや大きな声で返した。


「……そうですね。僕も、すべてを受け入れているわけではありません」


 リオはライフルに手を添えながら、空を見上げた。


 今日は珍しく雲が薄かった。もしかすると明日には晴れるかもしれない。


 ぼんやりと見える太陽の光が目にしみて、リオはゆっくりと瞬きをした。


「僕はまだ納得していません。できるはずがありません。たぶん一生。けれど物事すべてが、僕の納得を待ってくれるわけではないと知りました」


「だから、今できることをしようと思います」と付け加えれば、小隊長も「そうかい」と同じように空を見上げた。


「せめて、君の道行きにわずかばかりの幸運があることを願うよ」

「僕にとっては、第五に飛ばされたことが幸運ですよ」

「使い捨ての銃弾みたいな小隊が幸運と言えるかい?」

「その点は大変遺憾ですが」

「うん、私も遺憾だ」

「でもどうせ死ぬなら、僕はみなさんと一緒がいい」


 リオは迷いなく言い切ってみせる。


 小隊長はわずかに黙りこんだあと、「熱烈な告白だね」と目を細めた。






 また夜がきて、朝がくる。


 号令がかかって飛び起きたとき、自分の隣でアーサーが呑気にあくびをしているような気がして衝動的にあたりを見回していたが、どこにもいなかった。


「…………」


 彼のいない朝にもまだ慣れない。


 一分かからず身支度を終えて立ち上がった。ライフルを肩からさげてすぐに隊列を組んだ。リオは昨日から七番目だ。


「日没までにFポイントを目指す。出発!」


 昨日は一度も敵兵と遭遇することがなかった。今日も、できれば明日もそうであってほしいと願う。


 前線の動きはいまだ複雑怪奇だ。


 この森が中継点になりつつあるが、いまのところ大きな動きはなかった。


 むしろ動きがないことの方が不自然だ、とリオは考えていた。小隊長も同じことを考えているのか、ときどき偵察兵を差し向けたりしている。しかし収穫はないらしい。


「まったく、静かすぎると恐ろしいよ」


 小隊長は地図に印をつけながらため息を吐いた。


 早朝から先行させていた偵察兵がまた戻ってくる頃だ。


 ちょうど駆けてくる兵が見えて、隊列はその場で停止した。


「小隊長、報告します!」

「うん」

「三時の方角、一キロ先から戦車が向かってきます!」

「…………うん?」


 小隊長はぱちぱちと瞬きを繰り返した。


 あたりはしんと静まる。


 小隊長はぽかんとした顔のまま固まっていたし、誰一人として口を開かなかったので、偵察兵一人が必死に両手を振っていた。


「戦車です、戦車! 分かります? 動くデカいあれです!」

「なるほど、動くデカいあれか」


 小隊長はうんうんと深く頷く。数秒後、我に返ったのか「……ではなくて!」と叫んだ。


「なぜそんなものがこちらへ向かってきているんだ!」

「知りませんよ! 本当知ったこっちゃないですよ、こっちは!」

「そうだろうね! あっはっは、私もさっぱりだ!」


 確認するように言われて、リオと何人かが丘の上にのぼった。


 木陰から頭だけを出して双眼鏡を覗く。ゆっくりと見回せば、森の向こう、平野を進む鉄の塊が見えた。


「確認できました。戦車とみられる物体が、こちらに向かって接近しています」

「あー、そんな報告一生聞きたくなかったね、私は!」


 駄々をこねる子どものように首を振る小隊長は、頭を抱えている。


 戦車が投入された例はいまだなかった。


 戦車はどの国も開発を進めていたが、いまだ実用化には至っていなかったのだ。しかしその話も今日までのようだ。実物を見てしまったリオは、「自動車ですら一台しか見たことがなかったのに」と、妙な悔しさを覚える。


 リオたちは斜面を滑りおりて戻る。


 いつのまにか隊列は崩れ、小隊長を中心とした輪ができあがっていた。リオも適当な位置に割りこんで、若干背伸びをしながら彼を見た。


「技術で後れを取っていることは承知していたが、まさかここまでとはね」


 彼は髪をかき乱す。


「あの戦車は恐らく試運転だ。上手くいけば、このまま塹壕戦に持ち込む算段だろう」


 輪からは「ふざけんな」「スポーツマンシップを知らないのか」「勝手に技術革新をするな」などとブーイングが上がった。


 小隊長は「君たちって本当に自由だよね」とけらけら笑った。


「長かった戦争もとうとう終わりだろうねえ、私たちの敗北という形で」

「それで、第五はどうすれば……」

「ここは戦場で、我々は軍人だ。私の判断など仰がずとも決まっているだろう」


 全員がごくりと唾を飲みこんだ。


 数秒の沈黙。 


 そして小隊長は腕を大きく振るって、命令を出した。


「こんなボロい装備で戦車など落とせるはずがない! 断腸の思いで撤退だ!」

「形だけでも悩んでもらってもいいですか?」


 とはいえ戦車に突撃しろと言われた日には、全員が小隊長に掴みかかっていたに違いない。


 小隊長は口頭でこれからの進路を告げた。予定ルートを大きく迂回する形で、戦車との遭遇を避けるつもりらしい。道なき道を進むことになるが、戦車とはじめましての握手をするよりはいいと誰もが思う。


 丘の上に残っていた偵察兵が、「報告です!」と大声で呼んだ。


「……あの、小隊長。このようなことを報告するのは大変心苦しいのですが」

「まだ何かあるのか」

「戦車の砲台と思われるものが、動いています」


 小隊長は「はい?」と素っ頓狂な声で返した。


「戦車の砲台?」

「動いているというか……こちらに向いて止まったといいますか……」

「つまり?」

「こちらの位置が割れて――」


 言いかけて、偵察兵が「伏せろ!」と叫んだ。


 リオは反射的に雪の上にへばりつき、全身を守る体勢を取った。他の兵も同じように伏せている。全身が冷たい。


 次の瞬間、爆音が響き渡った。


「――!?」


 鼓膜が破れそうなほどの衝撃と、身体がひっくりかえるほどの爆風に身が晒される。リオは目を閉じたまま必死に耐えた。


 振動が収まったのを合図に、恐る恐る顔だけ上げてあたりを確認する。


 リオたちから少し離れたところにあったはずの木はふっとんで、地面がえぐれていた。


「……着弾を確認。全員動けます!」

「このままかたまっていると楽しい的当てゲームだ! 五班に分かれて行動、各自、本日の最終ポイントを目指せ!」


 リオは小隊長を含む一班だ。


 彼を庇うようにしながら、近くの森に飛び込んだ。






 七人で森を駆け抜ける。


 ある程度距離を取れたので、「確認してくれ」という指示にリオは双眼鏡を出した。


「あれも試し撃ちだろう。さすがに追ってくるほど、向こうにメリットはないはず――」


 リオは首を前に突き出しながら様子を見る。


 こちらへ真っ直ぐ向かってくる鉄の塊が見えた。


「……追ってきてます! 普通に追ってきてます!」

「しぶとい試運転だな!」


 戦車の動きはのろく、駆け足とそう変わらない。だが砲台付きの鉄の塊がのそりのそりと近づいてくる様子に、恐怖は高まっていくばかりだ。


 リオたちは木々の間をぬうようにして走る。


 一方、戦車は森の木をなぎ倒しながら向かってくる。


 今は視界が遮られているから撃ってこないが、このまま進めばいずれ平地に出てしまう。リオはちらりと振り返って、もう一度双眼鏡を覗いた。


「あれを、止める……」


 呟いて眉をしかめる。


「止める、方法」


 リオの頭の中ではさまざまなことが巡っていた。


 今までに読んだ本、話したこと、出会った人々、失ったもの。取り留めもないことがぐるぐると回って、洪水のようにあてもなく押し寄せてくる。


 戦車を止める方法はそう難しいものではない。リオはほとんど直感的に正解を見出していた。


 自分がそれを実行している姿を想浮かべて、リオは息を詰まらせた。


 数瞬、迷う。だがその迷いが命とりになることはもう知っている。リオは前を走る背中に向かって「小隊長」と呼びかけた。


「手を打ちませんか」


 小隊長は足を止めた。軽く呼吸を整えながら、無言で見返してくる。リオは服の端を握りしめた。


「僕たちの位置は把握されています。このまま逃げ回っていても埒があきません。それに平地に出てしまえば、どのみち狙い撃ちにされます」

「それは承知しているとも」

「なら」

「だからといって、どうするつもりだい?」


 小隊長は「このヘボライフルで戦車に立ち向かうなど、その辺に落ちている石を投げつけるのと大差がないよ」と肩をすくめた。


 リオは頷いた。それはただの事実だ。


 ならばライフルで特攻するのではなく、もっと別な方法を取るしかない。


「オイルって、ありますよね?」

「ああ。火をつけるためのものなら」

「では小隊長、あの戦車を燃やしましょう」


 リオは極めて真剣な表情で言った。


 なので小隊長も極めて真剣な表情で頷き、それから深く考えこむように目を伏せた。


 ふと、彼の細くて柔らかいまなざしがリオを捉える。


 彼は優しく微笑んだ。


「…………リオ、疲れているなら眠った方がいいけれど、今ここで眠ると永遠の眠りになりかねないからやめたほうが賢明だね」

「つまり?」

「気がおかしくなったのかな?」


 優しく微笑んで言うようなことではなかった。


「僕はごく真面目に話をしているんですが!」

「分かった、分かった。とりあえず話だけでも聞こうか?」

「もしかしなくとも僕を狂人だと思っていますよね」


 憤りを覚えたし、もしアーサー相手なら間違いなく殴っていただろう。しかし今反論しているだけの時間はない。リオはコホンと咳ばらいをした。


「あの戦車、大きいとはいえ自動車と同じ原理で動いているはずです。ということは、中のガソリンに火が付けば、一気に炎上すると思います」

「なるほど……?」

「こちらにも燃料はあります。適当な瓶に移して、火炎瓶を作りましょう。即席ですが使えるはずです」

「君にしてはずいぶんと大胆な案だね。……アーサーの霊に取り憑かれていないかい?」

「僕もはっきり否定できなくて怖いのでやめてください」


 黙って話を聞いていた別の歩兵が「でも」と声を上げた。


「火炎瓶を投げるって、どこからどうやって?」


 それも考えてある。リオはやや自慢げに胸を張った。


「接近するんだ。確かに外装は固そうだが、あれだけ大きれば足元はほとんど見えていないと思う。タイヤの近くに投げて、下から燃やす」

「……誰が?」


 その短い一言に、リオは口を閉ざした。


 そして全員が黙りこんだ。


 戦車に接近するのだから、危険であることは考えるまでもない。火炎瓶も質の悪いものだから、自分が火傷する可能性もある。好き好んで挙手するはずがない。


 リオは両手を握りしめて、深く息を吸った。


「言い出したのは僕だ。僕が行く」


 これを提案しよう、と思ったときに決めたことだ。


 責任は自分で取らなければならない。


 リオは顔を真っ直ぐに上げたが、小隊長は首を振り「やけになっているのなら、やめておきなさい」と言った。


「このまま潜伏してやり過ごす手も十分にある。無理に動く必要はないよ」

「僕は正気です。勝ち方は分かっています。それに、あんな戦車が塹壕戦に使われたら、万に一つも勝ち目がなくなります。また、たくさん死ぬんです」


 言葉をきって、リオは唇を噛んだ。


「それだけは嫌だ……」


 どうしてこの場所に立っているのか、その理由は今でも変わらない。


 じっと見つめる。


 数秒視線が交わって、やがて小隊長は困ったように笑った。


「君は一度決めたらなかなか折れない子だね。誰よりも頑固で、本当に扱いづらい」


 彼はリオの肩に手を置いた。


「リオに行ってもらおう。我々は高台に移動し、援護を行う。……君が言いだしたんだ、必ず成功させなさい」

「はい!」


 リオは力強く返した。






 白い布を頭からかぶって、ほふく前進で接近する。


 軍服は雪でじっとりと濡れて、体温は下がっていく一方だ。顔も上げないので、頬や顎に雪が触れて、冷たさがジンジンとした痛みに変わっていった。


 リオは戦車がはっきりと見える位置まで進み、うつ伏せになったままで止まった。雪でできたくぼみに身を潜めて、息を殺した。


 指定の位置についたことは高台で待機している仲間にも見えているはずだ。

「……大丈夫」


 地面が細かく振動していた。


 戦車がゆっくりと近づいてくる。


 見つかれば確実に踏みつぶされる位置だ。思った瞬間、呼吸が浅くなり始めた。心臓の鼓動がうるさくて、リオは全身を強張らせた。


 片手には酒の入っていた瓶がある。中にはオイルがたっぷりと注がれていて、薄汚れた布を詰め込んで蓋がされていた。あとは火をつけて投げるだけでいい。


 全身が揺さぶられる。


 戦車との距離はだんだんと縮まっていた。


 タイミングまであと一分を切っている。


「……もし」


 リオは絞り出すような声で呟いて、軍服の内ポケットを握りしめた。


「もし君が生きていたら、こんなときどうしただろう……」


 内ポケットに収まっている彼の認識票は、雪の温度が伝わって、ひんやりと冷たかった。


「死人に人生相談をするな、なんて君は笑うかもしれないけれどね」


 リオはきしむ関節を動かして、指を開いた。ポーチから取り出したマッチを擦った。一度目は失敗して、二度目も駄目で、三度目でようやく火が付く。


 白い煙がゆらりと上がって、ふと彼の指に挟まっていた煙草を思いだした。それもいつかは思い出に変わるのだろうか。


「……君みたいにはなれないけれど、僕も僕にできることをするよ。ここで、地に足をつけて」


 リオは曖昧に笑って「だからアーサー、同じ地獄に落ちよう」と火炎瓶に火を灯した。


 勝負は一瞬だった。


 リオは勢いよく上半身を起こして、くぼみから身体を出した。


「――っ!」


 戦車はすぐ目の前だ。


 息を止める。肩を回して、腕を大きく振るった。熱を持ち始めた火炎瓶を全力で放り投げる。


 火炎瓶は弧を描くように飛んでいき、タイヤのすぐ目の前に落ちた。


 戦車からは見えるはずもない。めらめらと火の上がり始めたそれを踏みつぶした。


 リオが「よし!」と小さく声を上げた瞬間、タイヤに火が移って、爆発的に燃えが上がり始める。やがてガソリンに引火したのか、戦車は小さな爆発を起こした。


「やった……!」


 はがれた装甲の一部が頭の上を飛んでいった。伏せていたリオは顔だけ上げて様子を伺った。


 目の前で火だるまになっていく戦車が見えた。


 リオが唇を薄く開きながらその様子を眺めていると、戦車の前面、ハッチが開いた。


 操縦主が這い出してくる。


 ひどい火傷を負っているが、すぐに手当てをすれば助かるかもしれない。リオは思わず身を乗り出しそうになったが、敵兵は手に持ったライフルの銃口をリオに向けていた。


「ま、」


 リオは身を引いた。


「待って」


 こちらの位置はすでに割れている。まずい、と慌ててライフルを掴んだが、照準を合わせるだけの時間もない。


 構えるが、間に合わない。


 敵兵の人差し指がぴくりと動いた。


 撃たれる――と思った瞬間、しかし敵兵の額が撃ち抜かれていた。


 リオは息をのんだ。自分は撃っていないのに、敵兵は後ろにひっくり返るようにして倒れていったのだ。


「リオ!」


 高台から仲間の声が聞こえる。リオは振り向きながら見上げた。何人かが身を乗り出しながら手を振っていた。


「勝った――戦車に勝ったぞ!」


 歓声が落ちてきて、リオはぎこちなく笑った。筋肉が硬直するほどの緊張がとけて、そのまま後ろにこてんと転んでしまった。


 びしょびしょになった軍服にくしゃみをする。息を吐きだして、その後はしばらくぼんやりとしていた。


「……アーサー、君は」


 君は、これで良かったと言うかな。


 目の前もろくに見えない、夜道を進むような日々だ。何が正解かなど知る由もない。それでも自分なりに精一杯つとめたつもりだった。


 斜面を降りてきた仲間に、後ろから肩を抱かれる。よろけながら、リオは少しだけ笑った。






「今さらルートを戻せないし、警戒を解くべきでもない。このまま東へ進むしかなさそうだね」


 昼になり、ほとんどの兵と合流できた第五小隊は、最終ポイントを目指して行軍を再開した。


 東へ向かうと平野が広がっている。突き抜ければまた森だ。


「最短距離で平野を抜けよう。また森に入ったところで野営だ」


 小隊長は「やれやれ、とんだ日だな。ひどい目に合ったよ」とため息を吐いた。


「けれど全員生きていてよかった」とも呟いて、あとは指示を出すだけだった。


 リオもすっかり疲れ果ててしまって、黙々と足を動かしていた。まだ正午を回って少ししたくらいだが、今すぐに眠りたいくらいだ。


 平野にさしかかって視界が一気に開けた。十数日ぶりに木々のない場所へとたどり着いたものだから、誰もがきょろきょろとあたりを見回していた。


「小隊長」


 リオが声をかけると、彼はいつものように「うん?」と穏やかに返した。


「戦車を燃やしたリオじゃないか。さっきは本当にお疲れ様。よくやったね」

「若干笑いながら言うのはやめていただけませんか。余計に失礼ですよ」

「あれ? 爆笑してもよかったのかい?」

「笑いを耐えるという考えはないんですか?」


「そうではなくて」とリオはむっとした顔で続けた。


「僕は今までずっと、劣等感のようなものを抱いていました。こんな場所ではどうしようもないとも思っていました。けれど今日、やっと吹っ切れたような気がします」


 恨んでいないのか、と訊かれたことへの一番正直な答えだ。一日越しの再回答に、小隊長は「そうか」と緩やかに相槌を打ち、それから眉を下げた。


「それが人を殺すということでも?」

「……ときどき意地の悪い訊き方をしますね、小隊長も」


 どこかの誰かの顔が思い浮かぶようだ。リオは苦笑いをして、彼の目を見上げた。


「何が正しいかなんて分かりません。でもこの状況で、せめて自分にできることをするしかないと思います」


 小隊長は何も言わずにただ聞いている。リオは彼から視線を逸らすことはなかった。


「今ある選択肢の中から選ぶしかないんです。きっと」






 第五小隊は雪の積もる平野を横断する。


 今日は天候が穏やかだ。


 降り注ぐ柔らかな日光で、あたりは眩しいほどに白く反射していた。


「――小隊長!」


 そんな緊迫した、悲鳴のような声が似合わないほどの穏やかな昼下がり。


 前方、森の方角。


 ずらりと並んだ敵兵に気づいたが、平野に出てしまった第五小隊に逃げ場はなかった。


「撃て!」


 あまりにも突然のことだった。けれど思考停止をするだけの暇もない。


 小隊長から発砲指示が出されたが、もとよりそれ以外にできることがないのだ。リオも構えて引き金を引く。


 人数では敵軍に圧倒的に負けていたし、位置も悪かった。敵兵は遮蔽物の多い森に身を隠しながら撃ってくるから、リオの弾はまったく当たらなかった。


 そのうえ敵中央に備え付けられているのは機関銃だ。


 弾幕を張られて近づくこともできない。


「ああ、そうか」


 そばにいた小隊長が撃ちながら、自嘲気味に笑った。


「私たちは戦車に追い詰められ、敵陣までまんまとおびき寄せられたというわけか。ねずみでも追い込むように。最後の最後まで他人の手のひらの上だったな……」


 彼は震える声で「ふざけるな」と言って、歯を食いしばった。


 銃弾の嵐のなか、リオはまだ立っていた。


 しかし気付けば、一人、また一人と雪に沈んでいく。


 視界の端でゆらりと揺れる身体を見ながら、リオは何度も何度も引き金を引いた。


「――くそ!」


 リオは叫ぶ。


 喉が張り裂けそうなくらいに叫んで、だが状況は何も変わらない。


 だからリオは引き金を引いた。


 感覚のなくなった指で弾をこめる。引き金を引く。薬莢が音もなく落下する。弾を込める。隣で誰かが倒れる。腕に激痛が走る。ライフルを落としかける。堪えて、銃口を向けた。そして引き金を引く。引き金を引く。引き金を引く!


 もう痛みが痛みでなくなったころ、リオの視界は傾いていた。


「……?」


 傾いているのは視界ではなく身体だ。


 リオはゆらりと真横に倒れ、そのまま起き上がることができなかった。


「あ、あ……」


 遠くに落としてしまったライフルを拾おうと腕を伸ばしたが、とても届きそうにない。這いつくばって懸命に進むが、数十センチ動いたところで、手足に力がこもらなくなって、リオは雪の上に身体を投げ出した。


 酸素が足りなくて、意識が朦朧としていた。


 ああ、そうか、これから死ぬのか。


 そんな簡単な答えに何十秒もかけてたどり着き、リオは心の中で呟いた。ぼんやりとした頭で止血をしようか、なんて思ったけれど、銃弾が何発当たったのかも数え忘れたくらいだ、すぐに無駄だと考えを改めた。


 なにより、左腕がぴくりとも動かないのだ。どうしようもなかった。


「アー、サー」


 もう何度そうしたか覚えていないけれど、リオは内ポケットを握った。残っている力の限り、ぎゅっと握りしめた。


 ぐり、と手のひらに伝わる感触に安堵しながら、浅く、弱く、呼吸を続けた。


「僕は……僕に、できることを、したよ」


 いつだったか、彼に向かって偉そうに言ったことだ。


 なのにいざ戦場に放り込まれれば、選ぶことが怖くてずっと何もできずにいた。アーサーの身体を支えながら、夢より現実を選んだりもしたけれど、本当は迷ってばかりいた。それでも今日、やっと、覚悟が決まったのだ。


 やるべきことはやった。


 だが最後に心残りがあったとすれば。


「もし、また君に出会えるなら……今度はもっと、優しく……」


 声が掠れて、もう出なかった。


 雪が一面赤く染まっていた。


 同じように赤く濡れた唇をぱくぱくと動かした。


 優しくすればよかったんだ。君がからかうような笑みを浮かべながらも、そうしてくれたように。僕もそうすればよかった。最初から。意地なんて張らずに。


 瞬きをする瞼が重い。次に目を閉じたら、もう開けないなと分かっていた。息ができているかどうかも分からないなかで、リオは視線だけ動かす。


 今日は雲がなく、雪の降っていない穏やかな日だ。


「――あおい」


 空が青かった。


 この国で初めて見る青空だ。


 青くて、眩しくて、こんなに明るい中で眠るのは少し奇妙に思えて、けれど昼寝をするときのようにまどろんで、リオはふっと目を閉じた。


 呼吸が止まる。


 そしてリオ・エイデンという人間に終わりが訪れた。




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