行軍短編

月花

前編  雪どけの日にまた会おう


 ぶ厚い靴裏で雪を踏みつぶす。


 延々と続く雪道に自分の足跡を刻みつけては、すぐに誰かのものに上書きされる。そうして前に進んでいく。たったそれだけのことをもう何度繰り返しているだろう。


 深い森に続く雪道を進むのは四十人の隊列。軍服をまとった男たちが大きく膨らんだバックパックを背負って歩く。


 前から八番目の青年――軍人にしては小柄で、身体の線も細い――リオは自分の足元ばかりを見ていた。


 足の取られやすい雪道は、ただ歩くだけでも体力を消耗した。肩には重いライフルを担いでいるので、力のないリオにとっては苦痛だ。その上、容赦のない寒さが肌を凍傷だらけにしていた。


 吐きだす息は白く、喉が凍てつくようだ。もくもくと漂うそれはまるで灰色の煙のようで――リオはふと顔を上げて呟いた。


「いや、煙だろうこれは」


 真顔で口にした瞬間、リオは勢いよく振り返っていた。


「君、行軍中に煙草を吸うのはあまりにも非常識じゃないか? それとも何だ、君には人間界のルールは通じないのか?」 


 風で流れてくる煙にけほっと咳きこむ。ますます視線を鋭くすれば、背後、九番目を歩く男がへらりと笑った。骨ばった指には短い煙草が挟まっていた。


「おうおう、リオくん元気だねえ。俺の唯一にして最大の趣味を邪魔すんじゃねえよ」

「受動喫煙で大迷惑なんだが」

「えっ、煙草代出してねえのに人の吸ってんのか? ふざけんな金払え」

「それはあまりに暴論が過ぎないか?」


 シンプルに怖い、と付け加えれば、彼はけらけらと笑って煙草の煙を吹きかけてきた。


「な、何をするんだ!」

「アーサー様にたてつくのが悪いんだよ」


 リオは左手で口元を押さえ、右手で宙を扇いだ。まとわりつく煙をどうにか遠ざけると、彼の手から煙草を奪い取った。


「あ、おい」と目を見開いた彼が手を伸ばしてくるよりも早く、リオは煙草を雪の上に放り投げる。そして足で念入りにもみ消した。


「はあ⁉ おい、何してくれてんだよ!」

「慈善活動だよ。そもそも君、もう煙草はやめるって誓っていなかったか?」


 アーサーは目を爛々とさせながら大地へかえった煙草を見つめているので、リオはため息を零す。


「ただでさえこの寒さで肺がやられているんだ、一時の快楽のために寿命を縮めるのはやめなさい」

「うるせえ、このくらいでくたばるか! 第一俺はおっぱいの大きくてエロいお姉さんの腕の中で死ぬって決めてんだよ」

「下卑た欲望を丸出しにするんじゃない。いい加減小隊長に言いつけるぞ」

「うわ、すぐ立場上のやつに言いつけるタイプの人間じゃねえか。小学校の女児かよ! おまえのあだな女児にしてやるからな」

「みんなの前で呼べるものなら呼べばいい」

「やーい、女児! 言いつけ魔!」

「小学校の男児か!」


 こうなるとどうしようもない、というのは小隊中に知れ渡っている。二人は隊列だけは何とか維持しながらいがみ合っていた。


 燃え上がる炎が鎮火されたのは、小隊長が面倒くさそうに振り返った頃だ。


「アーサー、リオ。さっきから全部聞こえているよ。君たちは本当に素直じゃないねえ、顔を合わせればすぐそれだ。少しは問題児を率いる私の身になってくれるかな」


 小隊長は温和な笑みをたたえているが、目は笑っていない。しかしそれくらいで止まるアーサーではなく、右手をピンと振り上げた。


「せんせーい、リオくんが俺にひどいこと言ってくるんですけどー。俺の煙草踏みつぶしたのよくないと思いまーす」

「な……っ! 違います、アーサーが僕に煙を吹きかけてくるから」

「小学生は煙草で喧嘩しないんだよ。あと私は先生じゃなくて君たちの上官だよ? いいから静かに歩きたまえ。これ以上騒いでご近所さんに恥を晒さないでくれるかな」


 アーサーは「それもそうっすね」と厳かに頷いたが、一点納得がいかなかったのか、無言のままゆっくりと周囲を見回した。


「ご近所さん、全員死体なんですけど」


 彼は唐突に現実に返る。リオはふいっと視線を逸らせて、やはり自分の足先を見つめることにした。


 ――十日前に起こった戦闘では両軍ともに多大な犠牲を出した。雪道のいたるところで倒れているのは、敵か味方か判別もつかない。


 少なくとも、なお降り続ける雪に覆い隠されてしまったそれらに手を合わせる殊勝な人間はいなかった。






 第五小隊――本当はもっと長い名前をしていたけれど、小隊長ですらまともに覚えていない――は数日間行軍を続けている。


 任務は森に潜んでいる敵残兵を排除することと、それが終われば森を抜けた先にいる大隊に合流することだ。


「つまるところ私たち第五は死んでもいいやってことだね。お祈りされちゃったわけだよ」

「冥福を?」

「ま、そんなこと言われて、はいそうですかって返すほど馬鹿でもないがね。なので各自『命を大事に』で動いてくれたまえ!」

「それ別の何かのコマンドじゃね?」


 今日の野営地で、焚火を囲みながら缶詰をがっつく男たちと、同じく缶詰をがっつきながら本日の演説している小隊長に、軍人としてのモラルはなかった。


 手早く食事をとった後はほとんどが休息をとるが、数名が不寝番として見張りとなる。その数名に選ばれてしまったリオとアーサーは毛布にくるまりながら焚火にあたる。

 お互い口を開けばろくなことにならないと知っているはずだが、沈黙を続けているとそのまま凍え死にそうだったので、アーサーが仕方なさそうに、本当に渋々声をかけてきた。


「おいリオ、腹減ったから缶詰寄こせよ」


 アーサーは毛布から片手を出して、ちょいちょいと指先を曲げている。


「そんな君には、この腐ってガスで膨張し始めたやつを贈るよ」

「ほぼ爆発物じゃねえか」


 恐る恐る受け取ったアーサーは「逆になんで持ってんだよ、捨てろよ」とぼやいた。


「そんなこと言って、後でこっそり食べるんだろう? 腹を下して泣いて僕にすがるといい。ヨーチンを塗ってあげよう」

「てめ、元衛生兵ならもっとまともな処置しろよ」

「あいにく、戦況の悪化とやらで前線に放りこまれた身だから。今となってはライフルかついで山を駆け回ることしかできないんだ」

「いつ猟師に転職したんだ?」


 アーサーは毛布を巻いたまま立ち上がると、肩をぐるりと回した。ふっと一呼吸したかと思えば、全力で腕を振りかぶった。


 膨張した缶詰は美しい軌道を描いてふっとんでいく。茂みの奥へと消えていったそれを見送った二人は静かに合掌した。


「というか君こそ、鬼兵とかいう素敵な二つ名までつけられているんだから、熊でも狩ってきて食料にしてくれていいと思うんだけれど」

「人間ならいっぱい狩ったけどな」

「非常時の栄養源としては悪くないが……」

「え、マジで食えんの?」

「何か大切なものを失いそうだけれどね」


 小さく肩をすくめたつもりだったが、寒さで身震いしたのと見分けがつかなかった。極寒の夜が深まっていく。アーサーはくふっと子どものように笑った。


「ここまできて、俺らに人間としての尊厳があるっていうのかよ」


 嘆くというよりは、言い聞かせるように彼は苦笑して、それから思い出したようにリオを見た。


「ああ、そっか。衛生兵は敵兵を撃てないんだったか」

「……規約があるからね」

「第五に来てからもまだ撃ってねえんだから、ヴァージンってわけだ。初々しいのな」


 彼は胸ポケットからまた煙草の箱を取りだしたから、リオは「受動喫煙反対」とだけ言って箱を握りつぶした。柔い手のひらの中でくしゃくしゃになったそれを、丁寧に胸ポケットに押しこんでやった。


 口をぱくぱくとさせて文句を探しているアーサーだったが、リオは遮るように「僕は」と上ずった声で口にする。


「……僕は感情の機微を察するのが苦手だから申し訳ないんだけれど、さっきのは君なりの嫌味だったりするのかな」


 おずおずと真正面から尋ねたリオに、彼は面食らったように瞬きをした。だがすぐにいつもの薄っぺらい笑みを浮かべて、「まさか」と声を上げて笑ってみせた。


「おまえはまだ人間なんだなって、思っただけだよ」


 焚火の火がかすかに揺れる。

 やっぱり嫌味だった、とリオは唇をつぐんだ。この状況において善良な人でいられるということは、役立たずを意味するのだ。


 リオはそれ以上は何も言わずに、薄い毛布を抱き寄せて背中を丸めた。煙が目にしみて痛いので、何度も目をこすっては膝に顔をうずめた。


「……おい、なんだこの異臭!」

「この腐ったような臭い――向こうの茂みからだ! 敵襲かもしれない、全員起きろ!」


 真夜中、遠くでにわかに騒ぎ出す。

 異臭の原因は投げた缶詰が爆発したからだと分かっていたが、存外大騒ぎになってきたので、二人は見なかったことにした。






 行軍は続く。


 森は深く、雪が溶けることはない。夜が明ける前に動きだした第五小隊は、最も激しく交戦したと言われるポイントにさしかかっていた。


 戦闘が起きたのは十日前だ。いたるところに死体と銃器、弾丸が転がっていて、ひどいところでは地面を覆いつくしているほどだった。

 だがすべてを降り続ける雪が隠していく。あたりは白く、静かだった。予定ではすでに通り過ぎているはずだったが、雪に阻まれて進度が遅れていた。


 リオは肩のライフルを担ぎなおして八番目を歩く。


 ここではただ一人の歩兵だ。身を守ってくれるような規約はないし、たくさん持っていたはずの医療道具はバックパックに詰めるには重すぎた。捨て駒として森を進むしか道はない。


 空はまだ暗く、雪がちらついていた。

 ダン、と激しい銃声が響き渡ったのと、近くにある木の枝が破裂したのはほぼ同時だった。


「――っ!」


 ひゅっと喉が鳴る。リオが全身を硬直させたのと、背後にいたアーサーがライフルを構えたのもやはり同時だった。


「二時の方角、敵襲!」


 木の隙間に見えていた影を射抜いたアーサーは、小隊長に視線を投げかけた。彼は素早く頷くと声を張り上げた。


「動じるな! これより茂みに入って東西に展開! 迎撃!」


 残兵はいまだ森に潜んでいる。だから襲撃は最初から想像できていたことだ。

 指示が飛んで、隊列は崩れた。全員が一斉に茂みに飛びこんで、森の奥へと姿をくらませる。敵兵も位置がわれてしまったので動く気配があった。


 なのにリオだけは足がすくんで動けずにいた。ライフルを手に取ろうとして、しかし手が情けなくも震えていた。


「何やってんだ、走れよ!」


 アーサーに肩を押されて、はっと思いだしたように駆けだす。かさかさに乾燥した唇を開いて、まだ死にたくない、と必死に呼吸をしていた。






 道を外れてしまえば方角も分からないほどの深い森だ。次第にどこを走っているのかも分からなくなって、リオはライフルを固く握りしめたまま木の陰に隠れていた。


 呼吸は荒い。脈も速い。

 時折、銃声が聞こえてくる。


 二、三度響いたかと思えばすぐにやんで、また響いての繰り返しだ。四十人いたはずの軍人たちのうち、どれだけの心臓が動いているかは定かではない。


「ふぅ……ふぅ……」


 動かなくてはならない。自分も役に立たなければならない。そのための手段なら手の中にある。歩兵がするべきことなど、たった一つだ。


「……っ、どうして、こんな」


 リオは息を止めたままで躍り出た。


「僕は、こんなことのために、ここにいるんじゃ」


 言いかけて、やめる。

 役に立つ方法は変わってしまったのだ。


 衛生兵として野戦病院にいたのはもう一カ月前までのことだ。戦況が悪化し、歩兵の数が激減し、破滅へと突き進んでいく自軍を救うために十字のマークを取り上げられた。ヨーチンと清潔なコットンを握っていた手は、いまやライフルを手にしている。


 傷を縫うのではなく、ライフルの引き金を引くことで誰かを助ける。


 分かっているはずだ。分かっているはずなのだ。この行軍においてもっとも理想的なのはアーサーのような人間だ。彼のようにならなければならないのだ。


「っ!?」


 背後、茂みを揺らす音を耳が拾った。リオは勢いよく振り向いて銃口を向けた。ガシャッとライフルが音を立てる。人差し指は引き金にひっかけられている。


 手足がピリピリと痺れていた。

 いつだって撃てる。いつだってリオは役立たずをやめることができる。いつだって!


「……ど、して……」


 ライフルを構える手がまだ震えていた。たぶん撃てない、と直感で理解した。

 かみさま、と唇がひとりでに動く。


 どうして、どうしてこんなことになってしまったのだろう。僕は助けたかっただけなのに。一人でも多くの人を生かしたくて、そのために衛生兵として志願しただけなのに――。


「リオ、銃口下ろせよ」


 茂みの奥から現れたのは、ライフルを下ろしたままのアーサーだった。


「え……アーサー?」

「このへんに敵兵はいねえよ。向こうであらかた片付けてきた。残りは西側の奴らがやってくれんだろ」


 アーサーは硝煙の臭いをまとわりつかせながら「肩凝ったわ」と呑気に首を回していた。リオは抑揚のない声で彼の名前を呼んだ。


「君、怪我……は。ヨーチン、持ってるけど」

「ヨーチンはおまえのトレードマークか?」


 まだ感情も言葉も追いつかなくて、彼の鮮やかなアーモンド色の瞳ばかりを見つめてしまう。彼はおかしそうに噴きだした。


「ったく、なんだよその顔。大好きなあの子に再会できたときの表情じゃねえか。リオくんは初心でかわいいでちゅねー」

「……! うるさい!」

「った! くっそ、てめえ!」


 リオは彼の脛を蹴飛ばして、それから横目で彼を見る。脛を抱えて呻いている彼を見てほっとしてしまうのは癪だが、本当だった。――たとえ自分の見ていないところで何度銃声を響かせていたとしても。


 鼻につくほどの硝煙の臭いは、彼がどれだけの戦果をあげたのかを表していた。

 リオが鼻をすんと鳴らしているのに気が付いたのか、彼はリオの銃口を見つめた。


「おまえは、まだ撃っていないんだな」

「……ごめ、ん」

「ま、元衛生兵に銃持たせたってそんなもんだわな。お偉いさんは適材適所って言葉を知らないらしいぜ」


 彼はあっさりと頷いて、腰のポーチから予備の弾薬を取りだした。手早く装填したかと思えば音もたてずに立ち上がった。


「どこへ」

「迂回して残りをやってくる。おまえはもうちょい後に来て、小隊長に合流しろ。いいな」

「待って、あまり大きく動くのはよくない。せめてもう少し明るくなってからの方が」

「……見えないのは向こうも同じだ。俺がちゃっちゃと終わらせてやるよ」


 アーサーは中腰のままで茂みを進んでいく。リオはついていかなければと思っていたが、彼の言うとおりに身を隠しているべきだとも思った。ライフルを握る手がまた震えはじめる。


「あの、僕は――」


 一瞬の迷いも戦場では許されない。

 三百メートル離れた丘で、スコープの反射光がきらめいた。


「おいリオ、伏せろ!」


 返事をするよりも早く、リオは乱暴に突き飛ばされていた。「え」と言葉をあげたときにはもう遅く、顔面から茂みに突っこんだ。葉と枝で頬が擦り切れる。目の前が真っ暗になって、耳だけが銃声をとらえていた。


 次に顔をあげたときには、倒れていくアーサーが青い瞳の網膜に焼き付いていた。


「あ、あ……」


 彼は脇腹を押さえたまま「チッ」と派手に舌打ちをした。流れるような手つきでライフルを構えると、スコープもつけずに照準を合わせる。膝をたてて銃身を安定させ、すぐさま引き金を引いた。


「っ!」


 耳をキンと貫くような銃声がして、リオは肩を跳ねさせた。薬莢は雪に沈みこんで消えた。アーサーは銃口を下ろさず、次弾を装填する。


「もう一人、いや二人いるな……」


 狙撃科でもないのに彼の目はすこぶる高性能だ。手傷を負ったはずなのに、闇夜にまぎれて逃走する敵兵に正確に射撃してみせる。


 銃声が何度か響いて、あたりはまた夜の静けさを取り戻した。丘の上からは赤くにじんだ雪がドサリと落ちて、それきりだった。


 アーサーはうずくまったまま片手で顔を覆っていた。舌打ちをしたり、ぶつぶつと呟いたりを繰り返している。


「くそ……射程距離は微妙だったくせに、当てやがって……。ってか絶対まぐれだろ……」

「ア、アーサー……」


 背筋がぞわりとするのを感じて、弱々しい声で呼んだ。彼ははっと顔を上げると両目を見開いて、リオと視線を交わらせた。


「リオ」


 彼は一息つくと、さっきまでの殺意が嘘のようにけろっと笑ってみせた。


「おまえ、マジでとろいのな。おかげでこのざまじゃねえか」

「…………」

「手当してくれんだろ、元衛生兵さん」


 さっきのは見なかったことにしろ、と言わんばかりの視線に、「うん」と返して無理やり口角を上げる。


「それは、僕の唯一の取り柄だ。ヨーチンを塗りたくってあげよう」

「しみたら殴る」

「手当が終わるころには僕が死ぬよ」


 とにかく木陰に移動しなければ、とアーサーの腕を肩にかけさせた。






 交戦が続く限り、明かりを付けることはできない。木の間からわずかに差しこむ月明かりと、雪の反射だけで手当てを終わらせなければならない。


 木にもたれかかって軍服をまくるアーサーに一声かけてから、腹をのぞきこんだ。彼はわずかに汗をにじませながら見下ろしてきた。


「どうよ? 俺の名誉の勲章の具合は」

「……っ、よくこんな状態で歩けたね」


 漂う濃い血の臭いは、相当量の出血があったことを示している。彼が顔色を変えずに、なんなら冗談を言いながらも自分の足で歩いていたことは、見間違いのような気がする。


「そんなひどい?」

「たぶん、腹に弾が残っている。それに、これだけ失血したら……もう……」

「致命傷だったりする?」

「……世間一般にいえば」


 どれだけ傷が深かろうと今は止血するしかない。ガーゼを強く押し付ける。


「なんだよ、その妙な言い方は」

「だって君は、その、人間としては飛びぬけた能力を持っているだろう? どちらかといえば野生の何かだし。だから意外といける……かもしれない」

「野生じゃねえ、鬼兵だ」


 彼の精神力がなせる業か、会話は問題なくできている。だが意識がいつまで保てるかは分からない。


「とにかく野営地まで戻らなければ、まともな治療もできない。僕たちだけで後退しよう」


 リオはできるだけの止血をしてから服の裾を下ろさせた。彼の脇の下に身体をもぐりこませると、一気に立ち上がって持ち上げた。肩を貸すようにして歩き出す。


 野営地まで戻る、と言ったはいいが、それが現実的でないことはリオもアーサーも分かっていた。しかし他に選択肢がなかったのだ。ゆっくりと斜面を歩きながら、アーサーが唐突に口を開いた。


「なあ、これ俺のガキの頃の話なんだけど」

「うん?」

「俺って昔は割と真面目系男子だったわけ。小学生のときとか、テストで百点取れなきゃやべえって感じで勉強とかしてたわけよ」

「今の君からは考えられない知性だね」

「合いの手に毒入れんじゃねえよ」


 もしアーサーに肩を貸していなかったら、間違いなく頬に張り手をくらっていただろう。その時は三発くらいやり返すつもりではいるが、避けられる争いは避けてしかるべきだ。


「そんで、テストで満点を取るために、俺は職員室に忍びこんで先生の作ってるテストを盗みに行ったわけ」

「それは犯罪系男子では?」

「しかし向こうも無警戒じゃねえ……。ばっちり施錠してやがる。そこでこの天才的な運動神経をもって、俺は窓をガスバーナーで焼いて侵入したんだよ」

「どこで運動神経が役立ったんだ⁉」

「まあ窓ガラスが大破したから警察沙汰になったあげく、俺は退学寸前までいったわけだ」


 アーサーは「あれ、何の話したかったんだっけ?」と首を傾げていたが、リオにも皆目見当がつかなかったので、「君の犯罪遍歴では?」と困惑しつつ返した。


「結局なんやかんやで軍人になって、気付いたらこんなところで死にかけてるんだから、運命なんてわかんねえもんだよな」

「きっと神の試練だよ」

「その点おまえもアンラッキーボーイだよな。なんで衛生兵なんかになったわけ?」


 そうだな、と短く呟いてから、思いだしたように「ふふ」と笑う。


「強いて言うなら、今、君みたいな人を死なせないためかな」


 自分なりに格好つけたつもりだったが、アーサーからは「だいぶ寒いぞ」と言われたので耳まで真っ赤になった。


「なっ、だって、君がっ」

「……いやあ、なんか本当、寒いわ」

「え?」

「なんか目とかかすんできたんだけど」


 リオは立ち止まってアーサーの顔を覗きこんだ。頬は真っ青だったし、唇は紫色で、とても見れたものではなかった。


 恐る恐る振り返ってみれば、雪の道には二人の足跡と、真っ赤な血が点々と続いている。リオは喉の奥がつっかえるのを感じた。


「うーわ、不細工な顔だな……」

「止まって。止血、止血をやり直す。少し明るくなってきたから、さっきよりちゃんとできるはずだ。大丈夫、君を死なせたりはしない。僕が絶対……絶対に助けてみせるから」

「はは、これがおまえの取り柄だもんな」


 からかうように彼が笑うが、もはや顔が引きつっているようにしか見えない。


「絶対、絶対に。死なせたりなんかしない」


 空が白んでいく。

 なのに彼の身体は次第に重くなっていく。


 もうこれ以上何も見たり考えたりしたくはないのに、遠くの木の陰で、一瞬のきらめきが放たれているのが分かった。


「……敵、が」


 まだ見つかっていない。いったん彼の身体を下ろして、ライフルを手にした。今度こそ撃とうと思った。もう誰も助けてはくれない、助けなければならない。


 凍傷で痛む指先で弾を充填した。息を殺して、構える。ゆっくりと照準を合わせていく。敵の身体を捉えた。距離は短い。狙える。しかし横から揺さぶられてリオは声を上げた。


「リオ、貸せ」 

「な、なにをするんだ!」


「いいから貸せ」とアーサーは倒れこむようにしてリオから銃を奪い取った。大して狙いもつけていないはずなのに、素早く引き金を引く。たった一発が敵の額を撃ち抜いていた。


「おまえより上手いだろ?」

「ふ……ふざけるな! もう動くな、これは医療従事者としての忠告だ!」

「はっ、こんな状況で何言ってやがんだ」

「大体君は、僕をかばって傷を負ったんだ。僕を――こんな役立たずをかばって! ふざけるのもたいがいにしてくれ。僕みたいな人間のために動くのもうはやめろ!」


 息が整わない。苦しい。

 アーサーはゆっくりと両目を見開くと、「はは」と乾いた笑みを零した。「何がおかしいんだ」と返せば、彼は弱々しい手つきで胸倉を掴んできた。


「役に立たないことと、好き嫌いは別だろ」


 すぐに腕が落ちて、白い指先が雪の上をなぞった。


「俺はなあ、おまえみたいに生き急いでるやつは、嫌いじゃないんだよ」

「……っ」

「おまえとは気ぃ合わねえし、煙草すぐ捨ててくるし、屁理屈こねて頑固だし、食べんの遅くてイライラするし、歩幅小さすぎてペース合わねえし、体力ねえわ射撃も下手だわでやる気あんのかって思うけど」


 彼はあえぐように息継ぎをして、言う。


「それでも俺は、嫌いじゃねえよ」

「アーサー、そんなことより、傷が……。待っていてくれ、すぐに止血を終わらせるから」

「おまえ、諦め悪いのな」

「うるさい、喋るんじゃない!」

「今おしゃべりしたい気分なんだよ。医者なら患者の気持ちに寄り添えよ」


 頬を平手で叩かれる。痛くない。


「なんか、今のうちに言っとかねえと二度と言えなくなるような気がするから、言うけどさあ。おまえはいいやつだよ。たぶん、おまえが思ってるより、ずっと」

「なんで、今さらそんなこと……」

「あーあ。もっといい時代に生まれてたら、おまえはいい医者になってたのかもなあ。田舎の一軒家で診療所開いて、クソ生意気な子どもに囲まれて仏頂面になって、いちいち真面目に付き合ってるような医者に――そんなこと言ったって、しょうがねえけど」


「夢より現実を見ねえとな」と言って彼はまたライフルに手を伸ばした。リオははっと顔を上げてあたりを見回す。五時の方角、人影らしきものが見える。


 どうしてあんなところにいる敵に気づけるんだ、と呟いて、リオは彼の手からライフルを奪い返した。彼は乾燥した唇で「リオ」と言った。非難するような声だった。「僕の制止は無視したくせに」と皮肉って構える。


 射撃は下手だ。彼に比べれば塵のようなものだろう。それでも、できる。できてしまう。


「……ふー」


 細く息を吐いて、覚悟を決める。でも本当は最初から決まっていたのかもしれない。瞬きをやめて、リオは静かに引き金を引いた。


 命を奪うのにそう強い力はいらなかった。彼と同じ銃声を響かせて、少し薄い硝煙の臭いをかぶる。彼は「なんで」と言って、それから目元をぎゅっと力ませた。


「僕だって、夢より現実を見ていたいんだ」


 アーサーはもう立ち上がるだけの力もなく、リオに倒れこむようにして浅く呼吸を続けていた。


 自分よりもずいぶん上背のある彼の身体を、正面から抱きかかえるように支えた。まるで赤ん坊のように無抵抗だ。リオは息をきらせながら、まだ銃の反動を覚えている両手で彼の軍服の裾を握った。


「散々だよ、本当に。なんで僕はライフルなんか握っているんだって、臭う毛布にくるまって眠るたび涙が出てきそうだった。僕はこんなことをするために生きてきたんじゃないんだ。僕は、こんなことのためになんか……」

「……ああ」

「でも、君が――君が僕をそんなふうに思っていてくれるなら、もうそれでいいって思ったんだ。本当に、心から」


 重くなっていく彼の身体を引きずるようにして森の奥へと進んでいく。ひときわ広く枝を広げた木の下にたどり着いて、二人並んでよりかかった。


 もうあまり時間がなかったので、リオはできる限り彼の汗をぬぐって、両手にこびりついた血も清めてやった。


「そういえば君は、胸部が豊満で色気のある女性にアーサーくん頑張ったねとよしよしされながら死にたいんだったか……」


 リオは自分の胸部に手をやって、さわさわと撫でまわして入念に膨らみがないことを確かめ「すまないが希望に添えそうにないんだ」と大真面目に謝罪した。


「胸部マッサージで善処しようか」

「やめろ、揉むな。見せつけてくるな。どこに需要があるんだよその映像に」


 他に希望がないかを聞いたところ「朝が来るまでここにいれば」とだけ返ってきたので、リオは雪と同じ温度になっていく彼の身体を抱いたまま、木にもたれかかっていた。


 一応「煙草がほしいじゃなくてよかったのか」と尋ねてはみたけれど返事がなかったので、リオは少し考えてから、彼の胸ポケットからくしゃくしゃにしてしまった箱を取り出して一本だけ火をつけてやった。


 自分にしては空気を読んだほうだ、と満足げに頷く。彼のまとっていたあのにおいが、まだ薄暗い世界に広がっていった。


「こんなものは肺に悪いだけなのに、君は……」


 火傷しないように彼の手に握らせてやる。もういたずらに煙草の火をもみ消してみたって、頬を叩いてくる人はいないのだ。


 細く細く、空へと上っていく灰色の煙が目にしみたので、リオは一粒だけ涙を零した。



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