前日譚 銀の煙草と赤十字
生まれて初めて戦地に立ったその日、アーサーは自分の役割を理解した。
それからは、だいぶ早かったように思う。
土煙に覆われる視界、狭い塹壕、ひしめき合う人々、うめき声、いつも漂っている血の臭い。
冬でもないのに、敵地はひどく薄暗くて寒かった。
アーサーは塹壕からわずかに頭を出して、ライフルの銃口を遠くへと向けた。十秒間、瞬きをとめた。敵がちらりと見える。瞬間、彼は戸惑いなく引き金を引いていた。
「……やったか?」
すぐさま向こうからも銃弾が飛んでくるのでアーサーも頭を下げた。何度か銃声があって、また静まりかえる。すでに塹壕の中に身を隠しているアーサーは、ふーっと長く息を吐いた。
前線はもう三日間、膠着状態が続いていた。
両軍ともに大きく動くことができず、塹壕の中で体力だけを消耗していく日々だ。
アーサーは泥で汚れた手を軍服で適当にぬぐい、慣れた手つきで弾を装填した。ああ、と思いだしたように水筒を取りだして一口水を含む。まずかった。けれどこれくらいしかないので、飲むしかなかった。もう長いこと休憩を取っていなかったが、そろそろ交代の時間だ。
「よ、元気か?」
同じ小隊に属している男からふいに声をかけられて、アーサーは「元気だよー、めっちゃ元気。五体満足」と呑気な声で答えた。
「俺のライフルも元気いっぱいだわ。まったく手の付けられねえじゃじゃ馬って感じ」
「前線に来る前からも活躍してたけど、ここ最近は特にすごいな。この調子じゃまた昇進するんじゃないか?」
「言うほど興味ねえけど、上の方がいろいろ動きやすいからな。スピード出世万歳だ」
「なんか、おまえと話していると気が抜けるよ……」
男は苦笑いを浮かべて、「同期だったのに、いつの間にか上官様だ」とぼやいた。
「おまえ、連隊でも結構噂になってるよ。自分がなんて呼ばれてるのか知ってるか?」
「まあ、耳は悪くねえし」
アーサーは縮こまらせていた足を伸ばし、土の上に座りこんだ。塹壕のでこぼことした壁に背をつけて、まだうっすらと熱を持っているライフルを抱き寄せた。それからぼんやりと空を仰ぐ。
「鬼みたいだってよ、俺は」
今日も変わらずに曇天だ。
「あんま褒められてる気がしねえな」
鬼兵、と最初に呼び出したのは誰だっただろう。
地獄の底からやってきた怪物のごとく敵兵を屠り、視線に入れば一兵たりとも逃がさない。狙撃科にも引けを取らない正確無比な射撃技術と、白兵戦で確実に仕留められるほどの運動神経。傷や痛みにも動じず、戦い続けられるだけの精神力。
兵士として何もかもが恵まれていた。
だからアーサーが銃を向けた瞬間、すべての戦いは決しているのだ。
しかし喜んでいるようには見えないアーサーの顔を見て、男は肩を小突いてきた。
「褒められてるんだから素直に受け取っておけよ。かっこいいじゃん、鬼兵って」
「いや、恥ずいだろ。二つ名とかだいぶヤバいって。こんなの後世に語り継がれちゃったらどうするんだよ。この世のすべての記録を燃やし尽くすしかなくない?」
「文化破壊者の台詞だぞ」
「地獄から呪うしかなくない?」
「対象者だいぶ多いぞ」
噂は銃で撃てないので止めようがない。アーサーは唇を尖らせて、子どものように拗ねた。
その表情を目にした男は、大口を開けて笑ってアーサーの肩を激しく叩いた。「いってえよ」と叩き返せば、彼も「いってえ」とさらにやり返す。お互い肩に痣を作ったところでようやく冷静になって、けらけらと笑いあった。
「やっぱ名誉棄損罪で呪う。ぜってえ呪う」
「どうせ俺も地獄行きだ、その時は俺がばっちり止めてやるから安心しろよ」
アーサーは「そりゃどうも」と片手を上げた。
これが男との最後の会話だった。
数時間後、敵の激しい攻撃によって塹壕内は混乱を極める。塹壕を占拠しようと体当たりで攻め込んでくる敵兵と、死守しようとする自軍によって、いたるところで戦闘が起きた。
夜になって火が放たれた。ごうごうと燃え盛る炎のなかで、アーサーは呼吸も忘れて懸命に戦い続けた。
戦友が何人でも倒れていく。あの男は背中から刺されて死んだと思う。思う、としか言えないのは視界の端にちらりと映っただけだからだ。そばの兵を守ることで必死だったアーサーの手は、届くはずもなかった。
炎はまだ消えない。
かろうじて生き残ったアーサーは、「ここが地獄じゃなかったら、一体どこにあるんだろうなあ」と手にこびりついた血を軍服の端で適当にぬぐった。
アーサーは隊付きの衛生兵によって応急処置を受け、野戦病院へと後退させられた。
野戦病院はテントを張っただけの簡素な造りだ。怪我人を集めて、最低限の治療をするためだけの場所でしかない。
薄汚れたベッドに寝かされて、軍医の順番待ちをしていたアーサーは、そばにいた衛生兵を呼び止めて「水が欲しいんだけど」と尋ねた。
「俺の傷、どんな感じなの?」
「止血は済ませてあるよ。深いけれど、今は君より危険な状態の兵士がたくさんいるんだ。悪いけれど待ってもらうしかない」
「そりゃ構わねえけどさ、足の方の傷、開いてる気がするんだよな」
「え?」
衛生兵は荷物を下ろして、アーサーの軍服をまくった。それから慌てたように道具を取りだして、てきぱきと処置を施していく。傷口の上をきつく縛られたので、アーサーはうめき声を漏らした。
「いってえ……」
「ご、ごめん。先に言えばよかった」
「野戦病院で丁寧にやってもらえるとは思ってねえよ、こっちも」
「でも、ごめん」
青年はアーサーと視線を合わせて、困ったように眉を下げた。
彼は軍人にしてはずいぶんと小柄な男だった。
身体の線が細くて、軽く小突いただけでも端までふっとんでいきそうだ。そのうえ童顔で、成人しているようには見えない。もしかすると思っている以上に幼いのかもしれなかった。
軍服似合ってねえなあ、と思わず呟いてしまいそうだったのを寸前で飲みこんだ。青年は不思議そうに首を傾げてから、処置を再開した。
「なるべく気を付けるから、もう少しだけ我慢してほしい。痛いときは片手を上げてもらえれば善処する」
「どんなふうによ」
思わず返せば、彼はぽかんとしたまま固まった。ここを追及されるのは予想外だったのか、彼は眉間にしわをよせた。
「…………頑張れって応援しようか?」
まったくありがたくない。「美女になってから帰ってこい」と返した。
「おまえ、変な奴ってよく言われねえ?」
「どうして君が知っているんだ」
「アンケート取ってこいよ、百人中七十五人が“とてもそう思う”に丸を付けるぞ」
「数字がリアルすぎないか?」
話しつつも、彼の手際はいい。それからはアーサーが痛みにうめくこともなく、気付いたときには止血が終わっていた。清潔な布で患部を消毒されて、処置は終わりだ。あとは軍医を待つ時間に逆戻りだった。
「そういえば水が欲しいんだったか。少し待っていてくれ、持ってくるから」
「おー、助かるわ」
アーサーは脱力して、後頭部をベッドにつけた。
何日かすると、一兵士であるアーサーにも状況が分かってくる。
どうやら塹壕の死守には成功したらしく、再び膠着状態におちいっているようだ。負傷者の運びこみもひと段落していて、アーサーにも治療の順番が回ってきた。
手足の傷はすべて縫合でどうにかなった。切り落とされずに済んだことに一息ついて、それからは歩けるようになるまでベッドの上だ。
「……あー、駄目だ」
寝転がっていたアーサーは、指先をせわしなく曲げ伸ばしした。野戦病院に担ぎこまれてからというもの、ずいぶん退屈な時間を過ごしていた。食事も運動も制限されているので、できることは特にない。
次から次へとやってくる負傷者がいるから、平和ぼけはしないものの、感覚がおかしくなりそうだった。
前線へ返されるまでまだ日数がある。もう十分動けるんですけど、と不機嫌さ丸出しで主張してはみたが、まるで話が通じなかった。
軍医は「私の判断に間違いはない」とすげなく言うし、あの衛生兵は「早く復帰したいなら今すぐ寝てくれ」と唇を固くしたのだ。
「確かに深手だったよ? 深手だったけど、それでも俺は最低二人分の働きはするぜ。どうせちんたら塹壕戦なんだから、とりあえず前線に返してくれって。な?」
「な、じゃないんだよ。何度言えば分かるんだ。そういうことは五十メートル全力ダッシュできるようになってから言いなさい」
「Bボタン押せば走る」
「一体何の話をしているんだ?」
例の衛生兵は、アーサーの傷口に巻いていた包帯をトレイに捨てた。別のトレイから清潔なものを取り、アーサーの腕を上げさせた。
衛生兵はため息を吐きながら、包帯をくるくると巻いていく。
「というか包帯を替えるときくらい静かにしていてくれないか。こう見えても僕はだいぶ忙しいんだ。君の節穴には見えていないかもしれないけれど。見えていないかもしれないけれど!」
「二回言うな、聞こえてるわ」
「えっ聞こえていたのか?」
「俺の身体の節々を調子悪くするのはやめろ。こちとら目も耳もばっちり稼働してんだよ」
「なら脳が悪いのかな」
「おまえ喧嘩売ってんだな? さてはワゴンセールやってんだな?」
この野戦病院にいる衛生兵は四人だ。そのうちの一人である彼は、アーサーの近くにあるベッドを担当しているらしく、何度か様子を見にやってきた。
彼からすれば大量にいる負傷兵の一人だろうが、アーサーにとって彼は貴重な話し相手だ。逃がすものか、とべらべら無駄話を続ける。
「おまえって病院にいる衛生兵なんだよな。ってことはそれなりに医学の勉強してたのか?」
「医者を目指してはいたけれど、従軍してからはただの衛生兵だ。医者になるには時間がかかるからね、今のままでも人手にはなる。手術をしたりするのは軍医殿だよ」
「軍医殿って、あのおっさんだよな。髭の」
「……相手は中佐なんだ、もう少し気を付けた方がいい」
「おまえがチクんなきゃいいだけの話だろ」
「よし、では早急に終えてチクりに行こうと思う。せいぜい布団で小鹿のごとくブルブル震えながら覚悟しておくといい」
「んな真似してみろ、生きてここから帰れると思うなよ」
「残念ながら衛生兵を攻撃するのは規約違反だ。そもそも自軍を攻撃するんじゃない。そういうのは気が狂ったときだけにしなさい」
「していい場合を用意するな」
衛生兵はトレイを持って立ち上がった。いつの間にか包帯は真っ白なものに替えられていたので、アーサーは脱力してベッドに倒れこんだ。
「残念なことに、まだおかしくなってねえよ俺は」
黄ばんだテントの天井を見つめる。
「これでもまだ正常な精神でいられるんだから、人間ってのは不思議だよなあ」
衛生兵はぴくりと指先を動かしたが、静かに視線を逸らせただけだった。嫌な沈黙が流れて、彼は落ちかけている包帯をトレイの上に戻した。だがそれからもやはりだんまりを決め込んでいた。気まずいならさっさと出ていけばいいのに、とアーサーは思ったが言わないでおく。
ベッドの上で足を組んで、彼の横顔をしばらく眺めた。彼が逃げ場を失っている様は子どものようで、滑稽だ。
我ながら悪趣味だ、とは思った。
けれど本音であることに間違いもなかった。
とはいえ、いつまでも辛気臭い顔でいられると気が滅入りそうだ。そろそろ解放してやるか――とアーサーが身体を起こそうとしたが、それよりも早く、彼が小さく唇を動かした。
「たぶん、君が必死だからだよ。必死だから、いろいろなことに感情が追いついていないんだ」
アーサーは全身を硬直させたが、それに気付かない衛生兵は、続ける。
「休めば、わかるよ」
その日の夜はひどく夢見が悪かった。
真夜中、唐突に目を開いてしまったアーサーは、顔も首も汗でベタベタになっていることに気付き、ゆっくりと息を吐いた。
「ガキじゃねえってのに、まったく……」
怖くて一人じゃ眠れない、などと吐くつもりはないが、鼓動が早いのは事実だった。
ベッドのそばに置かれていた水差しに手を伸ばし、残っている分はすべて飲み干した。服の袖で汗をぬぐって、呼吸を整える。朝になるまで眠っているしかないので、仕方なく瞼を閉じてはみるが、そう簡単には寝つけなかった。
「――あつい」
目を閉じるのが駄目だった。
視界が暗くなると、ふとあの日の夜がよみがえってくるのだ。
暗闇でごうごうと激しく燃え盛る炎。いたるところで眩しいほどに輝いている。それに身体を撫でられると熱い。逃げなければ。けれど退却できない。瞬きの次の瞬間、また人が倒れていく。
戦え、と自分に呪いをかけた。
一人でも多くを守らなければならなかった。それが意味だと信じたかった。あの場所では信じるしかなかったのだ。手段だって自分の手にあって――。
呼吸がとどこおる。
思い出すと、なぜだか喉が渇いた。手先がぴりぴりと痺れて気持ちが悪い。
「……俺の荷物」
アーサーはベッドから身を乗り出して、傍に置かれたバックパックの中を漁った。内側の小さなポケットからそれを取りだすと、彼はひょいっとベッドから飛び降りた。
「……どこへ、行くんだ?」
隣のベッドに寝転がっている男から声をかけられる。アーサーはへらりと笑って、「俺の唯一の楽しみ。内緒にしてよ?」と返し、テントを後にした。
明かりを持っていなくてもアーサーは夜目がきく。
上手く動かせない身体を引きずりながら野戦病院を出た。遠くまで離れれば、簡素なテントがずらりと並んでいるのがよく見えた。
アーサーはよろめきながら歩き、時々生えている木の根元に座りこんで、よりかかる。動いた拍子に傷が痛んだが、大したことはない。
「いやあ、残っててラッキーだったわ」
アーサーは胸ポケットに入れておいたものを取りだした。銀のパッケージが印象的な煙草だ。小箱の端をとんとんと叩き、煙草を一本出す。マッチを擦って火を付ければ、見慣れた煙がゆるやかに上がった。
指先に挟んで、軽く灰を落とす。アーサーが初めて煙草を吸ったのはいつだっただろうか。自分ではあまり覚えていなかったが、どうせ大したきっかけでもないのだろうな、と一蹴する。少なくとも今は美味いし、落ちつくのだから、始まりなどどうでもいいのだ。
「はー……」
煙を吐き出しながら、このまま朝まで戻らなかったらどうなるのだろう、と思った。思ったけれど、それが特に何の意味もないこともすぐに分かったので、考えるのはやめた。
すると考えるべきことはもうなくなったので、しばらくぼうっとしていた。時々は煙草を吸ったけれど、ほとんど指の先でちりちりと焦げていくだけだ。
もったいないが、手を動かすのも億劫だった。揺らめく煙を見ているのでちょうどいい。
この国は血も凍てつくほどに寒かった。
身体を縮こまらせながら震えていれば、なんとなく眠くなってきたので、アーサーは目を閉じてみる。今なら少しは眠れるような気がして、呼吸を深くした。
「――?」
寒さと心地よいまどろみの中、瞼の向こうが光ったような気がした。薄目を開けて見てみると、遠くで光が揺れていた。
「ランプ……か……?」
じいっと目を凝らしてみれば、だんだん近づいてくるのが分かる。アーサーの右手は無意識にライフルを探していたが、こんなところにあるはずもないので宙を掻いただけだった。
思わず身を引いて立ち上がろうとした。しかしランプを手にしているその青年が、すっかり見知った顔であることに気が付いて、アーサーは浮いた腰を地に付けた。
「……おまえかよ」
例の衛生兵だ。速足で向かってくる彼に、軽く声をかけた。
「あー、ったく。なんだよ、こんなとこまで。頼むからビビらせんなって、もし俺がライフル持ってたら五十パーセントくらいの確率で撃って――」
アーサーはわざとらしい笑みを浮かべて、身振り手振り交えながら冗談を言う。だが衛生兵は大股で、ランプをぐらんぐらんと揺らしながら突っこんできた。
アーサーはゆっくりと首を傾げた。
止まる気配を一切見せない彼に「お、おい」と声をかけてみる。今俊敏に動けるほど、身体は治っていない。だから腕を前に突き出すくらいしかできなくて、「おいおいおい!」と本格的に声を上げた。
彼は止まらない。ランプの火が顔面にくっつきそうなほど近くなる。彼は空いた右手でアーサーの胸倉を掴み上げた。
「――君が!」
青い目が、アーサーをめいいっぱい睨みつけている。
「ここまで馬鹿げた人間だとは思っていなかった!」
直後、脳天を貫くような痛みが走った。彼の固く握られた拳が、真上から遠慮もなしに叩きつけられたのだ。
「――っ!?」
アーサーといえどさすがに痛い。痛かった。指に挟んだままだった煙草を落っことし、頭を抱えて悶絶する。
うめき声のようなものを漏らしながら、下からねめつけるように彼を見れば、彼は怒りで顔を赤くしながら、唇をぎゅっと結んでいた。
「……っ、なんだよその面は!」
「至極残念な脳を持っている人間を見下ろしている時の顔だ!」
「はあ?」
「君のその頭はお飾りなのか? 考えることを放棄した人間はただの葦だろう! 僕はこの数日間、草に水やりをしていたつもりはないが⁉」
「意味分かんねえし、とりあえず突然人を殴ってくるような立派な野蛮人に言われたくねえんだわ、こっちも」
「なっ――ば、馬鹿! 馬鹿! ばーか!」
「語彙力が低すぎんだろ。おまえの頭もアクセサリーじゃねえか」
彼は地団駄を踏みながら、手元のランプを地面に投げつけそうになった。さすがに我に返ったのか、一瞬きまり悪そうな顔をして、それから肩を力ませた。
「一人では真っ直ぐにも歩けないような身体で、真夜中、凍死しそうなほど寒いこの国をさ迷い歩くような人間を、馬鹿と呼ばずになんと呼べばいいんだ。言葉を知らない僕に教えてくれよ。お願いだから」
彼は笑いもせずに、依然としてアーサーの目を鋭く射抜いている。
喉の奥がざらついた。彼の目があまりにも真っ直ぐだったから、アーサーはたじろいでしまった。言葉に詰まって、唇がわずがに開く。だがそんな動揺を見せられるほど素直な人間でもない。
アーサーは「はっ」と笑い飛ばして、片手をひらりと振った。
「そんなに怒んなよ。面倒くせえ奴だな」
それが悪手だったと気づくのは三秒後だ。彼の腕が伸びてきて、ふたたび胸倉を掴み上げられたアーサーの息は止まっていた。
「怒って何が悪いんだ!」
いっそうの怒気をはらんだ声が、アーサーの耳をキンと貫いた。いい加減にうんざりしてきて、振りほどこうと彼の細い手首を掴んだ。しかし上手く力が入らない。
彼は目元を歪めて、吐き捨てるように言う。
「僕は君を助けた。それが正しいことだと信じていたから! それなのに嘲笑とともに踏みにじられて、はいそうですねと黙っていられるはずがないだろう」
「んな大袈裟なもんかよ」
「大袈裟でもなんでもない、これは僕のすべてだ!」
はっきりと言い切った彼は、わなわなと震える唇を噛んだ。視線はまだ逸らさない。じれったくなるほどの時間が流れて、彼は唐突に口を開いた。
「……君の手術に、僕も立ち会った」
ようやくでてきた言葉がそれだ。アーサーは笑いたくもないが口角を上げた。
「はあ?」
「軍医殿の助手として、あのオペ室に僕もいた。君の傷を押さえたり、点滴をしたり、小さな傷なんかは僕が縫合した。右腕のものだよ。君は麻酔で眠っていたから知らないだろうけど」
「……何が言いたいんだよ」
「僕は、君を助けた人間の一人だ。だからそれを台無しにするような行為は許さない」
アーサーは笑ったまま、頬をひきつらせた。さっきから黙って聞いていればこれだ。カッと身体の奥が熱くなって、思わず眉をピクリと動かした。もし身体が簡単に動いていたなら、腕を振るっていたかもしれない。
冷静であろうとするのに、胃のあたりからせり上がってくる何かを飲みこめない。
「……俺が、いつ! おまえに助けてくださいってお願いしたんだよ。なあ? 俺の頭がキーホルダーだから忘れてるだけか?」
「っ、それは」
「言っとくけどな、おまえがせっせと一人助けてる間に、前線では十人死んでるよ。それでその間に俺は五人殺す。分かるか? そういうことだよ。おまえが知らないだけで、そういうふうにできてんだよ、ここは」
「そんなこと――」
「俺を助けたのはおまえだ? さいっこうだわ。自分で言ってて恩着せがましいとか思わねえの?」
言い切って、アーサーは頬が痛いほど強張っていることに気が付く。ゆっくりと口角を下ろして、「どうなんだよ、俺の命の恩人さん?」と問いかければ、彼は目を見開いた。
「知ってるよ、そんなこと!」
彼は顔を歪ませたかと思えば、口を大きく開いた。
「前線で十人が死ぬ! 君が五人殺す! その間に僕がやっと一人助ける! 知ってるよ。もう十分知っているんだよ、僕は」
「知っていて、よくあんな台詞が吐けるな」
「だって!」
彼は目を見開いて、短く息を吸う。そして力なく俯いた。アーサーの襟ぐりを握ったまま、揺さぶるように引っ張った。
「だってそれくらいしか、僕にできることがないんだ……」
感情を押し殺すように言った彼は顔を上げない。アーサーは一度だけ肩を揺らして、あとはされるがままになっていた。
ずっと黙りこんでいた彼は「誰も死ななくていいはずなんだ」と静かに言った。
「それなのにみんな死んでいくんだ。僕の目の前で。僕の手があとちょっと届かないところで。僕の知らないところでも。ここが戦場だから。分かってるよ、全部。……それでも僕にできることは、死ななくてもいいはずの、たった一人を助ける、それだけなんだよ」
彼は「君も死ななくていいんだ。絶対に」と泣きそうな顔で呟いた。
「そんなもん、ただの」
「何もかもが許されてるこの場所で、誰も許せなくなることがあるかもしれないけど、それでも、僕たちは自分にできることをやるしかない。十人が死んで、君が五人を殺して、その間に僕は一人を――君を助けるしかないんだ」
彼はそれきり何も言わなかった。最後は声が震えていて、今はぎゅっと目元を力ませて何かを堪えるようにしている。
その顔が幼い子どものようで、撃てば死んでしまう脆い人間のようで、けれど戦場で死んでいった彼らと同じ目をしていたから、アーサーはひどく泣きたいような気持ちになった。
素直に認めたくなくて、「……おまえが助けた一人は、明日、百人を殺すかもしれないぞ」と意地悪く尋ねれば、彼は「それは君が死んでいい理由にはならない。少なくとも今、こんな場所では」と返す。
「降参」
アーサーはゆるりと両手を上げた。彼が面食らったように瞬きをしたので、アーサーは目を細めた。
軽く握った拳で、彼の額をコツンと殴る。すると彼は我に返ったように「な、何をするんだ!」と憤ったので、アーサーは久しぶりに声を出して笑った。
「おまえ、変な奴って言われねえ?」
「……よく言われる!」
特に君にね、と彼はむすっとした顔でランプを掲げた。
何日かしてアーサーの身体はほとんど回復した。古傷だらけになった腕を回しながら、少しストレッチし、足元に置いてあったバックパックを担いだ。肩からはライフルをかけ、最後に軍帽をかぶれば出立の準備は終わりだ。
「世話になったな」
ベッドの傍に立っている衛生兵は、「やっと静かになる」と呆れたように眉を下げた。
「君の無駄話に付き合わされて、毎回作業が遅れるから、軍医殿から叱られていたんだ」
「どうせなら怪我人に拳骨かました前科をチクっといてやろうか?」
「チクってみろ、生きてここから帰れると思わない方がいい」
そういやこのやり取り、前もしたような気がするな、とアーサーは腰に手をやった。衛生兵も気が付いたのかわずかに首を傾けた。
視線が交わって、沈黙する。今までで一番心地の良い沈黙だった。
「そんじゃ、もう行くわ」
アーサーはいつものようにへらっと笑った。けれどすぐに笑みを消した。すっと腕を上げて美しく敬礼する。衛生兵は静かに微笑んで、同じように敬礼を返した。
「ここにはもう、戻ってこないでくれ」
「俺も二度とおまえに会いたくねえな」
武運を、と形式めいた言葉を口にした彼は、赤十字のマークを強く握りしめていた。
アーサーに隊をうつるよう命令が下ったのは、一年後だった。
戦況の悪化にともなう大幅な戦力低下、歩兵の減少、おかしくなり始めた上層部、けれど何ら変わらない日々。
隊の再編成によって生まれた第五小隊──通称・第五に割り振られたアーサーは、前線からは遠ざかったものの、新しい死地へと向かうだけだ。
「小隊長ー、めっちゃ寒くて死にそうなんですけど。腹とかぎゅるぎゅるいってるんですけど」
「五分前、雪って美味しそうじゃん、などと発言してむしゃむしゃ頬張っていたのは誰だったか、私にはさっぱり見当がつかないね」
「可愛い部下に何たる仕打ち」
「そういうものは自滅というのだよ」
第五に与えられた任務は、敵兵の潜む森で戦闘を行い、可能であれば森の先にいる大隊と合流するというものだった。
要は、全員死ぬまで戦い続けろ、という意味であることは全員が知っていた。
「これ以上貴重な戦力を失いたくないんだ。頼むからまともな行動をするか、強靭な胃を手に入れてくれるかな」
「俺だって腹下して死んだら死にきれねえっすよ。末代まで雪を祟るしかねえ」
森の手前に設置された司令部にたどり着いたアーサーは、「そういや」と思いだしたように呟いた。
「今日は新しい歩兵が補充されるんでしたっけ?」
「確か四人だったかな。この司令部で合流する手はずだ」
小隊長は一人で奥へと向かい、敬礼をした。通信兵や将校たちと少し話をしてから急ぎ足で戻ってきて、後ろを振り返った。
「この三人だ。一人はこの前の戦闘で死んだらしいので、なかったことになったよ。とりあえず名乗ってもらおうか」
小隊長は横にずれて、背中に隠れていた軍人たちの顔を見せる。三人並んでいる若い歩兵たち――その中央にいる青年を見たとき、アーサーは息をすることができなかった。
もう何に祈っていたわけでもないのに、何かに裏切られたような気がしたのだ。
「…………なんで」
そこにいたのは、軍人にしてはずいぶんと小柄な男だった。身体の線が細くて、軽く小突いただけでもひっくり返りそうだ。
あの野戦病院にいたときよりずっと陰鬱な空気をまとっている彼は、腕に赤十字のマークを巻いていなかった。それが意味することなどたった一つだ。
「陸軍上等兵、リオ・エイデン」
くすんだ青い目が、ずらりと並んでいる四十人弱の軍人の中からアーサーを見つけ出した。彼は両目を見開いて、やはり泣き出しそうな子どもの顔でアーサーを見返したのだ。
彼が縫合したという右腕の古傷がしくしくと痛んだ。
アーサーは「ここも地獄じゃねえっていうなら、本当どこにあるんだろうなあ」とライフルを撫でた。
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