番外編 こんな夜にはドーナツを


 バスを降りて徒歩五分。リオは肩からずりおちそうなトートバッグをかけなおして歩く。ずっしりと重い鞄の中には、授業で使う医学書やらノートやらが詰め込まれていて、ちょっとしたダンベルよりは筋トレ向きだ。


 大学での授業が終わったのは十六時くらいで、寄り道せずに真っ直ぐ帰ってきたけれど、すでに十七時を回ってしまっている。


 今日の夕食当番はアーサーなので、そう急ぐ必要もなかったが、今朝家を出るときに「帰ったら手伝うよ。マッシュポテトなら僕の方が上手く作れる」と言ってしまったので、反故にするのは何となく気が引けてしまうのだ。

 ちなみにマッシュポテトはアーサーが作っても大差ない仕上がりなのだが、リオは自分の方がやや美味しいのだと自負していた。


 アパートの敷地内に入り、駐車場を横切って階段へ。外階段を上って踊り場でくるりと身体を回転させる。

 そのとき、ちょうど向こうからも人がやってきたのか、ばったりと出くわした。


「あ、すみま――」


 寸前で立ち止まったリオは顔を上げた。そして自分に影を落としている男の正体に気が付くと、「なんだ、君だったのか」とあからさまに態度を変えた。


「アーサー、こんな時間に外出なんてどうしたんだ」


 シャツの上からコートを羽織って、マフラーまでしている。料理をしている途中にはとても見えなくて、リオは首を傾げながら尋ねる。


「もしかして食材が足りなかったか? ちゃんと買っておいたと思うんだけれど」

「いや、そっちはもういいんだよ」

「……?」

「まあなんにせよナイスタイミングだ。なかなか戻ってこねえから車で拾うつもりだったんだけどな。それで入れ違いになっても面倒だったし」


 いまいち会話が噛み合っていない。リオはそこはかとない嫌な予感がしたので、足を後ろに引いたが、アーサーはぴくりと眉を動かした。逃げの一手がバレている。

 リオは圧のようなものを感じて思わず身体を硬直させた。


「よっしゃ、行くぞ」

「行く? え、僕も? どこに?」


 手首をガッと掴まれて、ほとんど引きずられるようにもときた道を戻らされる。

 リオは足だけ動かしながら「待て、何一つ答えになっていないし、こういうときの君は大抵ろくでもないことをするんだ!」とストップをかけるが、アーサーがぐいぐいと遠慮なく引っ張ってくるので、リオはついて行くしかなかった。下手に抵抗して肩が外れるのはごめんだ。


 階段をすべて降りて、また駐車所へ。

 アーサーは自分の車のもとまで行くと、ポケットに手を突っこんだ。手探りで車のキーのボタンを押してドアを開けたかと思えば、リオを放りこむように押しこめたのだ。


「っ!?」


 目を白黒させているうちにドアが閉められてしまう。アーサーは運転席に乗り込むと、片手でハンドルを握った。さっさとエンジンをかけてそのまま発進させられる。いよいよ逃げ場がなかった。


「さあて、出発進行。あ、シートベルトつけろよ」

「僕を雑に扱うのはやめろ!」


 とは言いつつもいそいそシートベルトを巻く。リオは道路交通法に関しては人一倍うるさいタチだった。


「君、まさかとは思うけれど酔っているんじゃないだろうね」

「さすがに飲酒運転はまずいだろ。飲んでねえよ」

「だったらまた徹夜でもしたのか? もしかしてそれは徹夜テンションなのか?」

「むしろ一日ぐっすり寝てやったわ。朝飯食べたあとにもう一回寝て、起きたのは三時間くらい前」


 また自堕落な生活を、と白い目を向けるが、アーサーはどこ吹く風と言ったように笑っている。


「論文終わりの解放感がやべえ。今なら世界のすべてが思い通りになる気がする」

「根拠のない万能感にひたるのはやめなさい。そして僕を巻き込まないでくれ。頼むから一人でやってくれないか……」


 リオは心から懇願したい気持ちになったが、すでに車は高速道路を爆走しているため今さらどこにも止まれない。遥か彼方のアパートに想いを馳せながら、リオはため息を吐いた。


「それで、その万能感の行きついた先は何なんだ。今夜は外食でもするのか?」

「いや、旅行する」

「……なんて?」

「旅行。今から」


 リオはぱちぱちと瞬きをした。そしてぽかんとした顔で、運転席のアーサーを見つめた。


「着替え」

「適当に積んだ」

「戸締り」

「俺がした」

「洗濯物」

「干して畳んだよ」

「僕の財布」

「おまえいつでもカバンに入れてるだろ。クレカもそこに入ってんだろ?」

「あ、そうか」

「他に質問は?」

「……ない、です」

「よろしい」


 アーサーはにやっと笑ってアクセルを踏みこんだ。軽くハンドルを回しながら、前の車を追い抜いてますます加速する。


 リオはゆっくりと現実を咀嚼すると、大きくため息をついた。少なくとも現状については強く追及しまいと思った。というより何を言っても無駄であることをとっくに知っているのだ。だったらせめてこれから先のことを考えた方がいくらか有益だ。

 リオは眩暈がしそうな頭に手をやって、苦々しく顔をしかめた。


「世の中ではこれを拉致と呼ぶんだよ」

「合意の上だっただろ」

「微塵もしていないけれど?」

「痛い目見たくなきゃ合意しろ」

「君、合意の意味知らないだろ。旅行と言うなら、せめてプランを示してもらいたいものだね」

「んなもんあると思うのか?」

「そう言うだろうと思ったよ!」


 あまりにも予想通りの言葉が返ってきたので、リオは思わず声を荒げてしまった。


「いつも言っていることはではあるけれど、君は計画性という大切な要素が欠如しているよ。あとからどうとでもできるのと、何も考えずに動きだすのは別だと何度も何度も――」

「ごちゃごちゃうるせえ。むしゃくしゃしてやった」

「いつもに増して雑だね!?」


 どうやら最低限の言い訳を考えるのすら面倒らしい。

 リオは「こんなことなら僕も免許を取っておくんだった。そうしたら今すぐ君を外に放り出して僕だけでも帰れたのに」と嘆く。


「いや、俺も連れて帰れよ。平然と置いて行こうとするなよ」

「君は夜道を歩いて少し頭を冷やすといい」

「高速道路を夜道換算するな。この距離は散歩じゃなくて巡礼だろうが」

「……行軍でもあるね」

「まあ、そーだな」


 リオは今の発言を失言だとは思っていないけれど、お互いどうしたって意識せずにはいられない。

 アーサーは車の窓を少し開けた。真冬の風はひどく冷たかったけれど、まだ雪は降りだしていなかった。


 窓の外を眺める。あの頃は一日に何時間も歩いたものだ。肩に食いこむほど重いバックパックとライフルを携えて、凍傷になった足で、どこまでも広がる森を。

 あの頃に比べればずいぶんと楽な暮らしだ。車があるし、鉄道でどこにでも行けるし、飛行機にだって乗れる。

 だからといってアーサーの衝動的かつ突発的行動にうんうんと頷けるわけではなかったけれど。といより彼がハンドル握ってさえいなければ、その頭に拳骨を落としていたところだ。彼は命拾いしたと言えるだろう。


「さーて、どうすっかな」


 慣れた手つきでハンドルを回しているアーサーは、ここ最近にしては珍しく上機嫌だった。しばらく論文の提出があるからと引きこもって唸っていたり、かと思えば大学院に行って心底うんざりした顔で帰ってきたり――その繰り返しだったのに。

 リオはもう何度目かもわからないため息をついてから、背もたれにどっかりと寄りかかった。


「今日は僕が折れてあげるから、ありがたく思いなさい」

「お、盛り上がってきたな」

「ちなみにこの旅行のゴールくらいは訊かせてもらえるんだろうね」

「美味いもん食べて俺が満足したら帰れる旅行」

「ゴールに主観性を盛り込まないでもらえるか?」

「おまえにいいことを教えてやるよ。この世界の中心は俺だ。そういうわけでおまえの返事はイエス一択だな」


 アーサーはけらけらと笑った。しばらく利口にしていることが多かったからうっかり忘れていたが、アーサーは基本的に他人を振り回しては楽しんでいるような人種である。

 なんとなく懐かしさを感じつつも、「僕の世界の中心は君じゃない、僕だ」と訂正しておいた。


「ところで僕、とてもドーナツが食べたい気分なんだけれど」


 むくれたフリをしながら言う。

 アーサーは少し驚いたように目を見開き、そして口角を上げた。


「よしきた」


 彼はちらりと標識を見やると、一般道へと車を寄せた。






 チェーンのドーナツ屋を見つけると、ウィンカーを出して駐車場に入った。

 アーサーが腕を助手席に回してバックさせている間に、リオはグローブボックスを開ける。彼は大抵そこに財布を入れていると知っていたからだ。


「わりーな」


 アーサーは取ってくれてありがとう、とでも言いたげな顔で片手を伸ばした。当然その手のひらに財布が乗せられるものだと思っていただろうし、疑う余地はなかったはずだ。


「………………」

「………………」


 視線が交わって瞬き。両者ともに無言の数秒。

 リオは無言のまま財布を鷲掴みにすると、助手席のドアを勢いよく開け、そのまま走り出したのだった。


「油断したな!」

「は? は!?」


 リオは一目散にドーナツ屋へ駆けていく。状況を理解したらしいアーサーもやや遅れて追いかけてきた。足の速さでいえばアーサーに軍配が上がるけれど、リオも運動神経はかなりいい方だ。スタートダッシュが完璧だったのでいい勝負である。


「それは! 俺の! 財布だが!?」

「僕は君の金でとてもドーナツが食べたい気分だと言ったはずだよ!」

「記憶にねえぞ!?」

「ものすごく小声で言った気がするけど、そうじゃなかった気もする!」

「おまえもだいぶ雑だな!?」


 だだっぴろい駐車場を全力疾走する成人男性二名はさぞ滑稽に映っただろう。


 一足先にドーナツ屋に滑りこんだリオは、光の速さでトレイとトングをつかみ取ると、一番端から順番に全種類を盛った。

 アーサーは信じられないものを見るような目でその背中を見つめていた。なんなら「こいつマジでやりやがった」と大声をあげながら指差していた。


 二人してぜえぜえと息を荒げながらレジに並び、リオは一切の躊躇なく彼の財布から全額支払った。


「お、おま……ざっけんなよ……⁉」

「たまには、年上の気概を、見せるといいよ……!」

「自分で言うのもなんだが、俺はだいぶ寛容な方だと思うけどな!」


 それはリオも否定しないが話が別なので、澄ました顔でドーナツの詰まった箱を受け取った。馬鹿みたいに大きな箱だったのでリオの身体はほとんど隠れてしまっていた。


 買ったものは仕方がないので、二人で車に戻って箱を開ける。

 リオは満足げな顔で「君が先に選んでもいいよ」と言ったが、アーサーは何の恩義も感じなかった。何故なら今さっき財布を強奪され、その結果鎮座しているドーナツだからだ。


 チョコレートがたっぷりかかったものを取ると、リオは粉砂糖のまぶされたドーナツを慎重に持ち上げた。車の座席を汚さないように気を遣いながら一口かじる。唇に付いた粉砂糖を軽く拭った彼は小さく頷いた。


「カロリーを感じる」

「おまえ食レポの才能もねえのかよ」


 アーサーは三回かじっただけで一つたいらげてしまって、次のものに手を伸ばしていた。さしてこだわりはないので、リオが食べなさそうなものを適当に選ぶ。


「っていうかどうすんだよ、これ。どう考えても食いきれねえだろ。フードロスで活動家からブチギレられるだろ」

「残りは小隊長の家におすそ分けする予定だから心配しなくていいよ。娘さんはドーナツが好きだと聞いているし、三人家族なら充分食べきれるだろう」


 三つ目のドーナツを掴みもぐもぐと口を動かしているリオは、なんてことはない口調で言った。けれどアーサーは数秒真顔になってから、「あー、なるほど。やられた」とけらけら笑った。


「つまり腐らせねえうちに戻れよってことな」

「……保険をかけただけだよ。別に君に付き合うのが嫌というわけじゃないから。折れてあげると言ったのは僕の方だしね」

「そりゃどうも」

「どういたしまして」


 お互いにわざとらしく頭を下げ合ってから、無言のままシートベルトをつけた。買い物が終わったのだからいつまでも駐車場にいるわけにもいかない。


「次はどうするんだ? 君の希望を訊いてあげなくもないよ」

「妙に上から目線なのはつっこまずにいてやるよ。そうだな、ドライブがてら海でも行くか。ここから近いらしいぞ。駐車場を右に出るんだったはず――」

「待ちなさい、マップで確認するから」

「おまえ俺のこと一個も信用してないだろ」


 アーサーは白い目を向けてきたが、リオは「少なくともこの手の展開で君を信用したことはないね」と大真面目に頷いてやった。






 強い陸風が吹き付けてマフラーの端をなびかせる。


 夜の砂浜に座っている二人は、無言で打ち寄せる波を眺めていた。

 月明りがキラキラと反射して綺麗だが、しばらくしてアーサーが「男二人で来るもんじゃねえな。っていうか死ぬほど寒い」とぼやくように言ったので、リオは心底同意した。


「まるで趣がねえよ。こんなことあるか?」

「同感だ。君の顔がちらつくとムードがなくなる」

「チクチク言葉を使うんじゃねえよ。海に沈めるぞ」

「それはただの暴言だよ」


 よっ、と声を出しながら立ちあがったアーサーは、服についた砂を払った。まだ座ったままのリオの顔にかかるのでとんでもなく迷惑だった。


「つまんねえし、腹ごなしにちょっと走ろうぜ。どうせなら勝負にしてなんか賭けるか?」

「次の食事代かな」

「いいじゃねえか、乗った。そんじゃ次は魚が食いてえな~」


 アーサーは上機嫌に笑った。自分が負けたときのことなど欠片も想像していない顔だ。それもそうだろう、まともにやればアーサーに負ける理由はない。

 リオは軽く膝を曲げたり伸ばしたりしながら「ルールは明確にしておこう。スタート地点は適当に線を引くとして――ゴールはどうする?」と訊いた。


「あそこに落ちてる枝、見えるか? あれ拾った方が勝ちな」

「ビーチフラッグということだね。勝利条件もわかりやすいしそれでいこう」

「スタートは次の車が通りかかったらでいいだろ。俺は親切だから、多少のハンデならやってもいいぞ」

「結構。砂浜とコンクリートじゃ勝手も違うだろう。それに僕は何の勝機もなしに賭け事はしない」

「奇遇だな、俺もだよ」


 お互い妙に自信満々だった。


 ズボンのすそをまくり上げて準備は万端。砂浜に引かれた線の前に立つと、無言のままでスタートを待つ。

 海岸沿いの道にヘッドライトの灯りが伸びた。数秒後、車体が姿を見せる。スタートの合図だった。


 リオはすぐさま砂を蹴った。ゴールを目指して真っ直ぐと――ではなく、くるりと身体を回転させてアーサーの方を振り向く。そして非常におかしなことに、リオは全身全霊の蹴りを繰り出したのだった。

 だが同時にアーサーも振り向いていて、彼は彼でリオの胸倉を掴んでいた。さすがの反射神経でリオの蹴りを受け止めると、そのままギリギリと力比べにもつれこむ。


「てめっ……走れよ! 普通走るだろ! なんで一切の迷いなく俺を攻撃するんだよ!」

「その台詞、そっくりそのまま返すけれど!?」

「は~!? 走るよりおまえを投げ飛ばした方がコスパいいからだろうが!」

「君の思考って原始時代からなんの成長も遂げていないんじゃないか!?」


 二人してスタートダッシュを切ることすらなかったというのに、自分の蛮行を棚に上げて相手を非難し始めた。あまりにも醜い争いだった。


「言っとくがその罵倒は全部切れ味鋭いブーメランだからな! あまり余計なことを言うとおまえの身にも刺さるぞ!?」

「今日の僕は財布を出す気がまるでない!」

「清々しさが美点じゃなくなることってあるんだなあ!」


 アーサーがやけくそで叫んでいた隙に左腕を取って、流れるように組み伏せる。全身を使って関節を固めれば、彼は「マジでこいつ財布出す気がねえ!」と驚愕していた。


 けれどアーサーが黙って降参してくれるはずもない。

 左腕を肩から固められているというのに、ぐるりと身体を回転さたかと思えばリオを蹴り飛ばした。身体の柔軟さでいえば彼は相当のものだった、とリオは今さらになって思い出す。

 どのあたりでテンションが上がってきのか知らないが、アーサーは肩を回しながらニヤニヤ笑った。


「適当にドリンク代くらいで勘弁してやるつもりだったけど――なーんか興が乗ってきたわ。“これ”で俺に勝負しかけたんだ、それなりの覚悟はできてんだろうな?」


 彼にはときどきこういう、何かのスイッチが入る瞬間があるのだ。とてもいい顔をしていらっしゃったので、リオは思わず身構えた。


 嫌な感じがしていたが、ここで素直に降参できる性格なら数多くの困難を避けてこられたはずだろう。

 リオは条件反射で「這いつくばるのは君の方だよ」と無意味な虚勢を張っていた。






 しばらく取っ組み合い――といっても一方的にアーサーに遊ばれていただけだが――をしていれば全身が砂まみれだ。靴をひっくり返せばざらざらと流れ出てきた。


 当初のビーチフラッグの勝敗が決することはなくて結局うやむやになってしまった。いい大人が大暴れしていたら通報されかねないとようやく気が付いたのだ。服の中に入った砂をなんとか払って、車の近くまで戻る。


 海沿いの道路に並んだ街灯がぼんやりと砂浜を照らしていた。

 そのうちの一つにもたれかかっているアーサーはポケットに手を突っこんでもぞもぞとさせている。リオはくたびれた顔で「もし煙草を出してきたら僕は君を投げ飛ばすよ」と言った。


「上等だな。第二ラウンドがしたいならやってみろよ」

「目を血走らせないでくれないか? やや恐怖を覚える」

「こちとらニコチンとタールが切れかけてんだよ。身体の節々が悲鳴を上げてんだよ。一大事だろうが」

「そのまま枯渇すればいいと思うよ」


 最近はアーサー本人も煙草を控えようとしているのに気づいていたので、リオは少し強めに止めた。

 けれど本当に限界だったのか一本だけ、頼むから一本だけと懇願してくる。必死すぎてやっぱり怖かったので、リオは無言で風下を指さした。


「サンキュー」


 彼は慣れた手つきでパッケージの端をとんとんと叩いて一本取り出した。吹き付ける海風から庇うようにして火をつけると、ふーっと煙を吐き出した。


「生き返る。もう一生やめられねえ気がする」

「このペースならそうだろうね」


 リオはジャケットのポケットに両手を入れた。真冬の海に吹き付ける風に身体が凍えそうだった。


「というか君、煙草をやめようという意識が少しでもあるなら、どうしてこの時代でも吸ってしまったんだ。最初から吸わなければ中毒にならずに済んだのに」

「魂が覚えてんだよ、ニコチンとタールを」

「聞くに堪えない台詞だね」


 あまりにもな返答にリオは呆れたように眉を下げた。


「だいたい俺が吸わずにいられると思ってねえのはおまえもだっただろ」

「?」

「こっちで初めて会ったとき、おまえ煙草持ってただろうが」


 リオはぱちぱちと瞬きをして、確かにそうだったかもしれないと呟いた。

 どうしてだか煙草を吸っていないアーサーを一度も想像できなかったのだ。リオの記憶のなかではどんなときだって彼は煙草のにおいをまとわりつかせていたのだから。それを好ましいと思ったことはただの一度もないけれど。


 アーサーは「おまえこそ吸ってみようと思わねえの?」と思い出したように訊いてきた。


「ずっと持ってたなら一回くらい試したことあるんじゃねえのか?」

「……ある、けれど」

「マジで?」

「正気の沙汰とは思えなかったね」

「世界の全ヘビースモーカーに謝れ」


 特に謝罪の必要性を感じなかったリオはかたくなに意見を曲げようとはしなかった。


 少し落ち着いてきたのかアーサーは味わうように煙草を吸っていた。すっかり赤みをおびた指先で軽く挟む。

 彼は煙を吐き出して、やや嘲るように笑った。


「吸い始めた理由なんか覚えてねえよ、今も昔も。おまえが思うほど大した理由なんてねえんだよ。気づいたときにはこれなしじゃ生きられねえようになってただけだ」


 街灯はジーツとかすかな音を立てている。リオは彼を横目で見ながらひとりごとのつもりで口を開いた。


「あのときは」


 言いかけて少しやめる。迷って、やっぱり続ける。


「……あのときは、君がそれに縋りたくなるのは仕方なかったとは思うよ。君が守ったものは多かったけれど、君を守ってくれるものはなかったから。それでもやっぱり僕は好きじゃない」

「はっ、そりゃどうも」


 少し意外そうな顔をしたアーサーは、けれど皮肉っぽく笑った。


「これは俺を守るどころか、健康を害してきてるけどな」

「だから僕は止めたんじゃないか。わかっているなら控えたらどうなんだ」


 いつもの調子で小言を続けようとしていたら、アーサーが煙草を指に挟んだままぼんやりしていることに気付いて、思わず口を閉じてしまう。

 煙草の先に灯る火は赤く、チリチリと焦がしていく。

 リオからは何も言うことができなかったので、沈黙の時間が続いた。しばらくして彼はぽつりと呟いた。


「なんでおまえは、そう俺のことを持ち上げるんだろうな」


 煙が風になびく。リオは顔をあげた。


「……どういう、意味だい?」

「まあ視点の違いだとは思うけどな、俺は味方を守るために散々敵を撃ち殺してきたわけだ。おまえらが俺を鬼兵だ英雄だのとあがめているうちに、敵兵は俺を全力で罵ってたぞ。人の心のない悪魔だってな」


 まあその間に山ほど撃ったが、とアーサーは自嘲気味に付け足した。

 波の満ち引きが延々と繰り返されている。心地よい水の音を聞きながら、あの時代ではついぞ海を渡って帰ることはできなかったな、と思い出した。潮の香りも、粟立つ海面も、遠い記憶の彼方に追いやるしかなかったのだ。


 吐き出した息が白い。いつかのあの日みたいに。


 なんとなく今日のアーサーには違和感があった。

 ずっと、変な感じがするとは思っていた。でもその正体がずっと分からなくて、ひとまず気付かないフリをしていたけれど――ようやく合点がいったのだ。


 リオはわずかに言葉に迷ってから、それでも言っておかなければならないと強く思った。だから口に出した。


「なるほど、君は少し疲れているんだね」


 一瞬言葉に詰まったようなアーサーに、リオは何も言わせない。


「自分で言ったじゃないか。視点の違いだよ」

「…………」

「僕が君に庇われたのは事実だし、敵兵が君を恨むに値するのもまた事実だ。お互いの主張に齟齬はない。そして僕は君に感謝しているし、それ以上に後悔している」

「後悔、ね」

「あのとき僕は君を生かしたかった。でもそれは叶わなかった。だから君に許されたって、たとえ意味なんてなくたって、僕はいつまでも後悔する。そういう目で君を見てしまう。それだけだよ」


 まあ、君を英雄に仕立て上げたいわけではないけれど、と付け加える。

 アーサーは少しの間黙っていたが、思い出したように「ふーん、欠片も嬉しくねえな」と返した。彼のアーモンド色の瞳は遠く海の向こうを見つめていた。


 彼があまり納得していないことは表情を見ればわかった。

 理解はできても腑に落ちない――そんな目をしていたのだ。


「……そんなの、君も同じじゃないか」


 リオはゆっくり息を吐くと、彼のポケットに手を伸ばした。何すんだよ、と言う声を無視して中から煙草のパッケージを抜き取る。くしゃくしゃに潰されると思ったのか慌てて手が伸ばされたが、それよりも早く一本だけ取り出した。


 手のひらを差し出して「ライター」とだけ言う。

 アーサーは一瞬意味が分からなかったのか、ぱちぱちと瞬きをしていた。もう一度「ライターを貸してくれ」と言えば、真顔でちょこんと乗せてくれる。


「僕だって、人を撃った」

「…………」

「君が死んでしまってからも僕は撃ったよ。あれは間違いなく自分の意志だった」


 かじかむ指でライターをカチカチ押して、煙草の端に火をつける。手つきはたどたどしくなかった。彼がそうするのを何度も見てきたのだから。


「そうせざるを得ない状況だったんだ。あの場所じゃ敵か味方か選ぶことを強制されていた。選ばなくちゃ何も守れなかった。だから僕はせめて自分にできることをしようと思ったんだ」


 あれを正しかったと言うつもりはない。きっと非難されてしかるべき行為だ。

 だからあの感覚を忘れることは永遠にないだろう。凍るように冷たい銃弾を充填して、敵兵の身体に照準を合わせ、指先で引き金を引いて――その先の光景も。


「アーサー、君と何が違う?」

「……違うだろ。俺は人を撃つたびにいちいち悔んでねえよ。人間らしい倫理観なんざとっくに失せてる」

「なら僕だっていつかはそうなっていたかもしれないよ」

「――ッ」


 アーサーが「本気でそう思ってるのか?」と訊いてきた。リオはどうだろうかと少し考える。

 実のところリオ自身にもわからなかったのだ。少なくとも他人を手にかけて何も感じずにいられる人間になりたいとは思わなかったが、それを否定することはできない。


「君こそ、どうして僕をそこまで持ち上げる?」


 煙草を口にくわえる。


「僕は君が思うほど綺麗な人間ではないよ」


 リオは静かに煙を吸いこんだ。彼がいつもそうしていたみたいに煙を口の中にためて、そしてゆっくりと肺の奥へと流しこむ。舌にピリピリと痺れるような辛みが広がり、喉から肺にかけて煙が移っていく。


 ――げほ、と咳きこんだ。


「ふ、ぐふッ――」


 一度喉に引っかかると激しくむせてしまう。肺から空気が逆流してくるような感覚に、リオは何度も咳を繰り返した。喉を押さえながら身体を丸める。息が苦しい。目の端に生理的な涙が浮かんでいた。

 おかしい、上手くできたはずなのに。彼はいつだってこうやっていたのに。


 身体は吐き出しきれなかった煙をまだ押し戻そうとしてくる。なかなか咳が止まらなくて、その間に煙草はコンクリートに落としてしまった。

 アーサーは靴裏でザッともみ消すと、慌てたように背をさすって、「そりゃそうだろ。この銘柄は初心者向けじゃねえよ。慣れねえもんなんだから先に確認くらいしろよ」とわけもわからずに説教をしてきた。


「あー、水。水だ。そこの自販機で買ってくる」

「さ、いふ。僕の財布……かばんに……」

「マジで今さらだな!? おまえが気を遣うポイントがさっぱりわからねえよ」


 彼は小走りで自販機に向かったかと思えば、「高!? 観光地価格じゃねえか。こいつ自販機の癖に俺らの足元見てきやがるぞ!」と大声で文句を言っていた。

 リオはだから僕が払うと言っているじゃないか、と思ったけれど声がでなかったのでまともに抗議できなかった。


 蓋の開いたペットボトルが手渡された。一気に半分ほどまで飲んだリオはようやく落ち着いて、目にたまった涙をぬぐう。


「神に誓って二度と吸わない」

「ひとまず俺にも誓っておけよ」


 リオは彼に向かって律儀に両手を合わせ、「金輪際吸いません」と言った。アーサーは「金輪際吸うんじゃねえぞ」と深々と頷いた。たぶん彼の思う神様ムーブがそれだったのだろう。かなり大雑把な理解だった。


 なんだかいろんなことがどうでもよくなってしまって、アーサーは街灯にもたれかかると空を見上げた。真冬の空は冷たく透き通るようで星が明るかった。


「飯でも食いに行くか」


 そう言った彼の顔は少しすっきりしたようにも見えた。






 海沿いの道をしばらく走ったところにあるパブにふらりと立ち寄った二人は、隅のテーブル席に通された。狭くて雑多な店内はガヤガヤとにぎやかだ。誰もが大声で話すから、リオたちも声を張り上げなければお互いの話がよく聞こえない。

 

 リオはカウンター上のメニュー表を見上げながら「よかったね、魚料理もありそうだよ」と言う。アーサーは近くにいた店員を捕まえて適当に注文をしていた。


 しばらくすると料理が次々に運ばれてきた。何を頼むのかは彼に任せていたので特に口出しはしなかったが、届けられたものの中に魚料理は一つもなかった。

 リオはポテトをつまみながらアーサーを罵倒した。


「驚いた。君は自分の食べたかったものすら三歩で忘れるのかい?」

「酔っ払いの暴言なら百歩譲って目をつむってやるが、なんと一滴も飲んでねえんだよなあ」


 彼は炭酸水の入ったグラスを片手に「俺の気分は五秒で変わる。覚えとけ」と言った。リオは「最悪だよ」と間髪入れずに返した。振り回される身にもなってほしいものだと思う。


「まあ僕は魚が食べたいから頼むのだけれど」

「おまえも割と自由だよな」


 結局もう二皿追加されて、小さなテーブルの上は料理でいっぱいになってしまった。リオは皿を押し出してしまわないようにワイングラスを置いた。辛めの白ワインを選んだのはアーサーだったけれど、なかなか好みの味だ。

 当のアーサーは炭酸水しか注文しなかったのか、料理を端からつまんでいくだけだった。


「僕だけ酔わせてどうするつもりだ? 言っておくけれど財布は出さないよ」

「あと四杯はくるから、一時間後のおまえはテンション上がって財布をテーブルに叩きつけてるぞ」

「ふっ、誰がそんなことを……」

「この前財布カラにして帰ってきたの知ってるからな」


 彼は面白がるように頬杖をついた。逆にリオは急に慌てて「なぜそれを」と早口になる。

 確かに彼の言うとおりだが、酔った勢いで全額おごってきてしまったなど知られた日には彼への小言の説得力が皆無になるので隠していたのだ。残念ながらバレていたが。


「出かける前と後で財布の厚みが全然違ったから、スリにあってねえか確かめてやったんだよ。そしたらレシート出てきた。あの長さ見たらだいたい察するわな」

「く、余計なときに限って余計なことを……!」

「俺は余計な勘が働くことに定評がある」


 一応言い訳をすると、あの日一緒に食べに行ったのは後輩ばかりだったから、もともと多めに出すつもりではいたのだ。さすがに全額はテンションと見栄だったけれど。


 リオが二杯目のグラスを空にして少し酔いが回ってきたのを見た彼は、「おまえにならって義理を通すつもりで言うだけだ。三歩歩いたら忘れていいぞ」と前置きをしてから話し始めた。


「結論から言って、今うちの研究室がゴチャゴチャしてるんだよな――」


 アーサーは文学部の大学院生で、とある研究室に属している。卒業後も大学に残ることが決まっているのもあって、たいてい論文の締め切りに追われている彼だが、ここ一ヵ月トラブルに巻き込まれていたらしい。


 彼は事故みたいなもんだな、と言った。

 数秒して、自分から轢かれに飛び込んだようなもんだが、とも補足した。


「論文の連名で揉めたんだよ」


 本来アーサーとは無関係なところで起きた騒動だった。同じ研究室に所属している学生同士のトラブルだったのだ。


 片方はチームの一員として貢献したのだから名前を載せろと主張し、もう片方はたいして参加もしていなかっただろうと主張し――なかなか解決しないものだからどうにかしてやろうと首を突っ込んだら、何故か泥沼化したあげくにアーサーまで火の粉が飛んできたらしい。

 結局アーサーが上手くやったおかげで片付いたが、今でも空気と人間関係は最悪だ。論文執筆の遅れを取り戻すのにもなかなか苦労した。


 一通り起こったことを聞き終わったリオはチーズを口に放り込んだ。


「君は相変わらずそういうのが得意だね……」

「デカいため息つくんじゃねえよ。今回に関しては俺も若干自分に呆れてる」

「僕は呆れていると言うより、一周回って感心してるよ。どうしてそう他人の厄介事を引き受けたがるのかな」

「正直おまえにだけは言われたくないけどな」


 リオは意味が分からなかったので首を傾げた。彼は「自分の人生をよく振り返った方がいいぞ。そして多少は反省しろ」と肩をすくめた。


 何だかんだで今日の全体像が見えてきた。

 つまるところアーサーは日々の険悪な雰囲気にうんざりしていて、そのストレスの発散としてリオを拉致し、好き勝手に連れまわして現実逃避をしていたのだろう。リオはこっちこそ巻きこみ事故にあったようなものだと思った。


「だいたい、どうして僕まで」


 彼はナイフとフォークを持つ手を止めて、悪戯をするときみたいに笑った。


「んなもん、おまえがいた方が面白いだろ」


 数回瞬き。思ってもいない言葉が返ってきたのでリオはうっかり黙りこんでしまった。

 それからふはっと吹きだして、リオはしばらく笑っていた。そりゃそうだ、一人より二人の方が面白いにきまっている。同じ状況ならリオだってアーサーを連れてきたかもしれない。


「それで君は満足したのかい?」

「悪くなかったな」


 アーサーは照れ隠しだったのか、ビールジョッキを掴んで一気に傾けた。リオのものだったのに半分ほど飲んでしまう。


「今の僕はとても気分がいいから、もう一日くらいなら付き合ってもいいよ」

「あー……一応今日帰るつもりではあったんだよ。お前は明日も授業あるだろ」

「は? だったらどうして僕の着替えまで積んだんだ?」

「何日かかるかわかんねえ方がハラハラして面白いだろうが」

「いやその点に関してはまったく面白くないよ。迷惑極まりない」


 とはいえ現実的に考えて、今日帰れるならその方がずっと助かる。リオだって試験が近づいてきて忙しい時期なのだ。

 少しほっとしながらアーサーの手元を見て――彼の右手がしっかりとビールジョッキを握りしめているのを発見した。思わず二度見してしまった。


「…………アーサー、それ」


 そっと指さす。彼はつられたように自分の右手に目をやり、そして「あっ」と声をあげた。珍しく素で驚いたときの声だった。


「…………おっと悪いな、これお前のだったわ。無意識で飲んじまった」

「そういう話ではなくて」


 今日の旅路を思い返す。二人はここまでアーサーの車でやってきた。運転免許を持っているのはアーサーだけで、法律を遵守するならリオでは運転ができない。

 もともと二泊はさせられる覚悟が決まっていたからそれならそれで構わないが、けれど彼はさっき日帰りのつもりだったと言った。ということは。


「ホテル――予約は?」

「……ちなみに頭のいいお前の予想だと?」

「まさか、君」

「そのまさかだなあ」


 どうか冗談であってくれという思いでアーサーを見た。

 彼の目はとても美しく澄んでいた。


 リオとアーサーは同時にスマホを取り出すと一心不乱に検索した。ここから徒歩で行ける、今から泊まれるホテル。ゲストハウスから値段の張りそうなラグジュアリーなホテルまで順番に確認するが、現在二十二時、見つかるはずもなかった。

 なら朝まで過ごせそうな店を、と思ったけれど、観光地のオフシーズンゆえにどこも店じまいが早いうえ、唯一の救いだったこのパブもあと三十分で閉店らしい。


 地図の端から端までしらみつぶしに見て、もう一回見て、一部屋も見つけることができなかったリオは静かにスマホを伏せると、目の前に座るアーサーを真剣に見つめた。


「君、少し知能が低下したんじゃないか?」

「背が伸びたねと同じニュアンスで人を罵倒するなよ。普通にちょっと傷ついたわ」

「だったらもう少しストレートな言葉で罵ってあげよう。……馬鹿じゃないのか!?」

「こっちも申し訳ねえと思ってるからそんな目で見るな! これ以上俺を追い詰めてくるな!」


 リオは「君に反省と計画性という機能が搭載されるのは一体いつなんだ!? 来世か!?」と叫んだ。彼からは「次がありそうなら神様にリクエストしておく」と返ってきたが、「良い大人が人任せにするな」とごくまともな説教をした。


 半分残ったビールを一気に飲み干したアーサーは、勢いよく両手をテーブルにつくと「大変申し訳ございませんでした」と頭を下げた。リオはおもむろに立ちあがると、彼の頭をスパンとはたいた。






 真冬の車中泊ほど過酷なものはない。


 寝袋も積んでいなかったから、二人は凍えるような寒さの車内でガタガタ震えていた。

 ありったけの服を着こんで、窓に銀マットを張って、隙間風を荷物でシャットアウトして、できる限りのことをしたけれど海沿いの気温には勝てない。


 リオは「眠ったら死ぬのでは?」と本気で思った。冗談抜きで低体温症になりかねない。

 自販機で買った缶コーヒーをちびちびと飲みながら吐く息はやっぱり白い。


 うとうとしながらも、体温を維持するために残っていたドーナツをかじる。こんなことのために買ったわけではなかったが、今ものすごく役に立っていた。

 甘ったるいカスタードクリーム、チョコレートチップ、キャラメリゼされたナッツ。半分眠りそうになりながら頬張る。非常食にしては美味しすぎる。


 波のようにやってくる眠気と戦いながら、リオは昔のことを回想していた。あまりにも寒いものだから過去と錯覚していたのだ。記憶が入り混じってごちゃまぜになっていく。うつらうつらとした脳内に広がっていたのはあの銀世界だった。


 二人きりで不寝番をした夜があった。いつ凍え死んでもおかしくない寒さのなか、揺れる焚火の前で二人座っていた。アーサーが自分の身代わりになって死んでしまう少し前のことだ。


 ――おまえはまだ人間なんだなって、思っただけだよ。


 アーサーは薄っぺらな笑みを浮かべてそう言った。

 あのときリオはひどく傷ついたような気がするけれど、同時にアーサー自身も傷ついていたのだろう。自分で吐いた言葉で自分を切りつけるのだから世話がない。

 朦朧とする意識の中で馬鹿だな、と百年越しに返した。呆れたみたいに少し笑って。


 何度やり直すことになっても、きっと僕は君と同じ地獄に落ちるよ。


 自分の選択の果てにあるものは自分で引き受ける。どれほど苦悩に満ちていたってそれを彼に押し付けるつもりはない。これまでも、これからも。

 理想を汚してでも守りたいと思ったあのとき、すでに覚悟はできていたのだから。たとえ彼に望まれていなくても。


 窓にしきつめた銀マットの隙間から夜の海が見えた。しばらく眺めていたら一瞬空が光った気がして、それが流星だったことに遅れて気が付いた。

 思わずアーサーの方を振り返ると彼は爆睡していた。度胸があるというか、呑気というか――リオは長いため息をつくと、荷物の中からボールペンを取り出して彼の手の甲に刺してやった。

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