IF番外編 目を焼く残像



 数百メートル先。スコープのきらめきは見えていた。

 それが自分たちの命を狙っていることも知っていた。


 雪の降り積もる真っ白な丘で、敵兵がこちらへ銃口を向けている。敵味方の入り混じるひっちゃかめっちゃかの銃撃戦――それに気が付けたのはひとえに勘の良さのおかげだった。誰かは自分を「鬼兵」などと呼んだけれど、あながち間違いでもなかったらしいと思う。


 とっさに振り返って彼の名前を呼んだ。伏せろ、と叫ぶ。


 そばにいるのはライフルの似合わない青年で、彼はまだ敵意に気づいていない。


 このままではやられる。腕を伸ばして彼を突き飛ばそうとした。けれど一瞬自分のライフルを掴もうか迷った。今射ったらほぼ確実に仕留められる。瞬きほどの短い硬直だった。


「あ――……」


 一直線に貫く軌道。彼の細い身体がガクンと揺れる。衝撃を受けてどさっと雪に倒れこんで、もう起き上がれない。深く降り積もった雪はゆっくりと赤く染まっていく。


 選択を間違えた。

 アーサー・グレイはそう悟って、目を見開いた。






 彼はわけがわからないという顔で静かに瞬きをして、「何が」と呟いた。「何が起きた?」とたどたどしく口にして、けれどすぐさま激しく吐血する。口からはだらだらと血が零れていて言葉にならない。


 アーサーはライフルを構えながら横目で彼を見る。

 胸のあたりを貫通していた。もう助からないと一目で分かった。


「傷を塞げ! 止血しろ!」


 そんなことを言うのはいつだって彼の方だったのに。


 牽制の射撃を続けながらも彼の身体を引きずって、近くの木陰に飛びこむ。そして彼の胸元をきつく押さえた。これ以上血が溢れないように必死に押さえつけた。


 彼はぼんやりとした顔でこちらを見ていた。傷を塞ごうとするアーサーの手を力なくさすって名前を呼ぶ。


「無理、だよ。駄目だ。この出血量じゃとても――」

「ああ!? じゃあなんだ、いっそとどめでもさせってか? 俺に弾の無駄遣いさせんじゃねえよ」

「そんなことは言っていないじゃないか……」


 彼は「勘違いしたあげく逆ギレするのはやめないか」と冷静にたしなめた。致命傷を受けている兵士の言うことでもなかったし、それが最後の一言になってはあまりにも忍びないので、「今のうちに言い残したことでも考えてろ」と返した。


 彼のバックパックを漁る。だいたい自分と似たようなものしか持っていないけれど、医療道具が少し多い。片手でタオルとガーゼを引っ張り出して、傷口を圧迫するように彼の手に握らせた。その間に自分は止血帯できつく縛り上げる。


 彼はぐっと息を詰めて、眉間にしわを寄せた。


「言い残したこと、そうだな、たくさんあるけれど」

「縁起でもねえこと言うんじゃねえよ。奇跡的に助かるように神様にでも祈ってろ」

「君が考えておけと言ったのでは?」

「一秒前の俺は別人なんだよ。覚えとけ」

「認知症かい?」

「ぶん殴るぞ」


 危ない、うっかりとどめをさしてしまうところだった。死にかけのくせに驚くほど生意気なのだ。アーサーはゆっくりと呼吸を整えながら、応急処置を続ける。彼はあっと声をあげた。


「そうだ、一つ思い出したことがあるよ。君に言っておかなければいけないこと……」

「なんだよ」

「この前、君のテントに穴が開いていただろう」

「……そういやそんなことあったな。朝起きたら雪解け水で寝床が水浸しだったわ。おかげで全身凍り付いたっての」

「あの穴は僕が開けたんだ」

「言いたいことは山ほどあるが、それが死に際の台詞でいいのかは熟考した方がいいだろうな」


 アーサーが一応理由を訊いてやると、「焚火が燃え移ったんだけれど、君のだったからまあいいかと思って」と返ってきた。アーサーは静かにかぶりを振る。何もよくなかった。


 彼は基本的に真面目だし善人だけれど、アーサーに対してだけはやけにあたりがきついのだ。むしろそのことについて問いただしておくべきだったかもしれない。


「あのあと僕の寝床を半分以上取られるとは思わなかったよ。とても狭かったし煙草くさかった」

「小隊長なんて言ってたっけな。表面積から考えて合理的だろう――だったか?」

「なるほど、君は僕の道連れにされたいと」

「小隊長だって言ってんだろ。おまえは着火までが秒だな。もうちょっと落ち着け」


 彼はぜえぜえとか細い息を続けていた。


 ガーゼはすぐに血を吸ってずっしりと重たくなる。次々に取り換えていくけれど、彼のバックパックにあった分はこれで最後だ。自分の背負っていた分からも取りだす。


「君は」

「うん?」

「君は、案外諦めが悪いんだね。そんなことも知らなかったよ……」


 彼は短く笑って、自分の傷口に目をやった。元衛生兵である彼の方がよっぽど詳しいだろう。彼ならもっと上手く処置ができたかもしれない。


 けれどそんなことを言われたって仕方がない。アーサーにできるのは照準を合わせて引き金を引くことだけだ。この手は誰かを殺すことでしか誰かを守れない。彼とは違う。彼のように生きることはとてもできなかった。


「残念だったな、近くにいたのが俺で」

「そう卑下しなくていい……君はそこまで下手でもないから……」


 まあ上手くはないけれど、と一言付け加えられたのでふはっと笑ってしまった。「そりゃ正直にどうも」と返す。


 傷口はどくどくとうごめいて血を吐き出し続ける。ガーゼはもうすべて使い切ってしまって、アーサーは唇を噛んだ。そんな顔を見ていることしかできなかった彼は、力なく口を開いた。


「もし君が生き残れたなら、僕の家族に」

「ああ」

「伝えてほしい。僕は大して役に立たなかったけれど、それでも、救えた命があったって」

「わかった」

「父と母には、親不孝で申し訳ないとも」

「それは自分で言いに行くんだな」

「どうやって……」

「世の中には黙ってた方がいいこともあるって話だよ」

「ふふ。兄には、立派な医者になってほしいと伝えてくれ」

「それは承った」

「ずいぶん勝手な遺言だね。不安になってきた」

「だったら死なねえほうがいいだろうな。言っとくが、俺は忘れっぽいぞ」


 彼は「そうだった、君には認知症の症状が現れているんだった」などとほざくので、本当にぶん殴ってやろうか二秒ほど迷った。さすがにまずいので拳をおさめることにした。


 彼は言うことを言い終わってすっきりしたのか、ふーっと息を吐いた。淡い空色の瞳はまどろむように宙を見上げている。もう痛覚もはっきりしないのか、穏やかな表情だった。


 アーサーは彼を引き止めるように、肩を強く掴む。まだどこにも行かせるわけにはいかない。彼は閉じかけた目を堪えるように開く。


「そうだ」


 真っ赤に濡れた唇がゆっくりと動く。


「最後に、言わなきゃ、いけないこと」


 声がかすれてよく聞こえない。アーサーは耳を近づけてなんとか聞き取ろうとする。少しの声も聞き落とさないように。

 彼はひきつった呼吸を整えて、静かに呟く。


「僕は君に出会えて幸せだった」


 確かにそう言って、それきり彼はもう何も言わなかった。アーサーは次の言葉を待っていた。ずっと待っていたのに彼は黙ったままだった。「なんだよ」と零す。冗談だ、とでも言ってくれたほうがよっぽどマシだった。


 木の幹にもたれかかったままの彼は、人の気も知らないで眠るように目を閉じている。


 アーサーは彼の首元をまさぐって、認識票の片方を引きちぎった。胸ポケットに放りこむそのしぐさを今までに何度してきただろう。少なくとも数えられるような回数ではない。アーサーはまだ血の乾かない両手を見つめた。


 はー、と深くため息をつく。白い息が宙に消えていく。


 今、無性に煙草が吸いたい。

 煙草が、吸いたい。


 煙草。


「俺の人生、こんなことばっかりだな」


 空は晴れない。


「なあ、リオ」


 望んだ分だけ罰が下るというのなら、最初から何も欲しがらなければよかったと思う。






 夜が明けていく。


 弾丸をすべて使い切ったアーサーは、ライフルの引き金をがちゃがちゃと引きながら「撃てねえじゃねえか」と舌打ちした。自分のと、リオが残した分を合わせれば何十発もあったはずなのに、残弾は一つもなかった。

 敵兵が逃げていくのを見ながらくそっ、と吐き捨てる。


 指定されたポイントにたどり着くと、すでにほとんどの兵が集まっていた。アーサーはライフルを担いだまま大股で進む。人波はアーサーの顔を見て、黙ったまま一歩後ろに下がって道を譲った。


「小隊長」


 割りこむように声をかける。見慣れたその男は眉を下げた。


「ご苦労――と言った方がいいんだろうね、私の立場としては。君のおかげで敵軍にかなりの圧をかけられた。夜が明けるとともに撤退していったよ。でもあまりその顔で歩き回らないでもらえるかな。治安が悪くなる」

「人のご尊顔にケチつけないでくださいよ。訴えますよ」

「おや、ここで法がまかり通っているとでも?」

「一人、司令官らしい奴を撃ちました。誰でもいいんで確認に向かわせてください」

「わかった。すぐにでも」


 彼はきょろきょろとあたりを見回して、「そういえばリオは?」と尋ねた。「てっきり君と一緒なんだとばかり」と言うから、「一緒でしたよ」と返す。


 何の感情もこめずにそう言ったつもりだったけれど、声は少しだけ震えていた。


「ここにいないってのが答えでしょ」


 胸ポケットから認識票を取り出して小隊長の手に握らせる。彼は両目を見開いてアーサーの顔を見る。責められているような気がして、そんなはずはないのに、アーサーはへらりと笑った。


「あいつは最後の最後まで変な奴だったよ」 


 小隊長は何か言おうとして、けれど言葉にならなかったのかアーサーの目を見つめるばかりだった。しばらくして絞り出すように「君の心中は察するが」と前置きした。


「自暴自棄にだけはならないでもらいたいね。君が欠けたらこの小隊は終わりだ」

「言われんでもわかってますよ。今さら一人死なせたところで大した違いはありませんし。俺がやることはこれからも同じっすよ」


 ライフルを撫でる。今まであまりにも多くの命を奪ってきた。誰かにとっての大事な人間を躊躇なく撃ち抜いてきた。だから敵兵もそうしただけだ。責める権利なんてあるはずがないと思う。


 それでも彼だけは生かしたかったのだ。誰にも奪わせたくなかったのに、たった一瞬の迷いでこのザマだった。アーサーはふっと視線を逸らして空を見上げた。


「あと何人殺せば、俺の人生は報われるんでしょうね」


 小隊長の顔が曇る。そんなことを考えてる時点で駄目か、とアーサーは口角をつりあげた。






 いつだったか、激しい銃撃戦になったことがある。

 たぶんリオが第五小隊に合流してしばらくたったころだったと思う。


 真昼間、雪が日光を反射して眩しかった。両軍ともに左右に広く展開しての撃ち合いになった。第五小隊は数で負けていたし、撃てば撃つほど押されていく。じりじりと後退を続けながらもアーサーは最前線で牽制射撃をしていた。


「っ、動けねえな」


 木の幹からわずかに顔を出して様子を伺う。するとすぐさま銃弾が飛んできたので、あわてて顔を引っこめる。


 左手からは血が伝ってぽたぽたと流れ落ちた。敵の弾がかすって左腕をやられているのだ。致命傷ではないが、出血が激しい。ろくな手当てもできていないから動くこともできない。


 誰か呼ぼうにも、それぞれの場所で苦戦しているらしい。次の弾をこめながら浅く呼吸した。


「――今からそっちに行く! 援護してくれ!」


 後方からそんな声が聞こえてきたから、反射でライフルを構えていた。当たらなくても連射して敵兵を退かせる。わずかにできた隙を狙って小さい身体が滑りこんでくる。


 ふはっと息を吐きだした彼は、冷や汗のにじむ顔でアーサーを見た。


「死ぬかと思った」

「同感だな。おまえそのうち死ぬぞ」


 冷静に返す。アーサーだったから的確な援護射撃ができたけれど、もし他の兵だったらリオの命はなかっただろう。「その役に立たねえライフル担いで最前線来るとか馬鹿か……?」と思わず訊いてしまった。


 リオ・エイデンは思い出したように顔をこわばらせながら、抑揚のない声で答えた。


「重いから捨ててきても良かったんだけれど」

「よくはないけどな」

「一応持っておこうかと思って。僕も自分の存在意義を見失いたくはないし」


 少なくともそのライフルにはねえよ、と返した。弾は滅多に減らないし、たまに撃ったかと思えば見当違いの方角だ。彼の本能が拒否しているのが見ただけでも分かってしまう。


 だったらなぜ最前線などに来たのだろう。いつも怯えるようにライフルを握りしめている彼が、なぜ。


 アーサーが考えるように黙りこむと、彼はライフルを雪の上に放り投げてバックパックを下ろした。


「応急処置をする。袖から左腕だけ抜いてくれ」

「お?」

「てきぱきと動かないか! 手当ては時間との勝負なんだ!」


 あれよあれよという間に軍服を脱がされて、気付けば左腕を差し出していた。


 数秒傷口を眺めていたリオは、ヨーチンとガーゼを取りだした。「しみるよ」と言われて、なるほどそうかと頷く前に当ててくるから、アーサーは短い悲鳴を上げた。


「おまっ、人に心構えをさせようって思いやりがねえのか!?」

「君は弾が貫通しても平気で動き回るくせに、消毒の痛みには耐えらないのかい?」

「びっくりした顔で言ってんじゃねえよ。腹立つな」


 リオの言うこともわからなくはないが、それとこれは別というか、嫌なものは嫌なのである。子どものころからの擦りこみに違いなかった。


 リオは自分の手にもどばどば消毒液をかけながら、アーサーを見上げた。


「今の僕にできることは二つある。一つ目は最低限の止血だけして君を撤退させる。ただその後の戦況は保証しない。それは僕の領分ではないから。二つ目は――僕としてはあまり好ましくないんだけれど、ここで傷を縫う。そうすれば君はもうしばらく動けると思う」

「麻酔は」

「あると思うのか?」

「そーですね。訊いた俺が馬鹿でしたね」


 アーサーはほとんど考えることなく「二つ目だ」と返した。


「どれくらいかかる?」

「アーサーが大人しくしてくれればそんなに。本当におすすめはしないんだけれど。たぶんすごく痛いし、あとの処置が余計に大変だし」


 なら最初から選択肢にしなければよかったのに、医療の選択肢として律儀に言ってしまうあたり、彼の性格がよくわかるというものだ。アーサーは笑ってしまった。


 戦うための覚悟ならできている。アーサーは短く息を吸いこんで、声を張り上げた。


「――二班! 状況を報告しろ!」


 四時の方角から「報告します!」と声が飛んできた。


「被害甚大! 二名負傷!」

「三班!」

「全員動けます!」

「よし、今から指示出すからよーく聞けよ! 俺は今からリオ・エイデン先生の即席インスタント手術を受けるはめになった! そんなわけでおまえらには時間を稼いでもらうわけだが」


 あたりの隊員からは「ひえっ」とか「夢に出る」とか「グロ映像を公開するな」とか散々な言われようだった。そんなことを言っている暇があるなら一発でも多く撃てと思った。


 あらかたの指示を出してしまってから、しゃがみこんでいるリオを見下ろす。


 リオは針と糸を準備しながら、もう一度だけ「いいのか」と訊いてきた。やっぱりやめだとでも言ってほしそうな顔をしていたから、アーサーは迷うことなく頷いてやった。


「頼むから失敗すんなよ」

「全力を尽くす」

「失敗すんなって言ってんだよ」


 アーサーも雪の上にどっかりと腰を下ろした。そして傷付いた左腕を差し出す。


「何でもいいから口にくわえてくれ」

「煙草は?」

「発言の意図を汲みとる努力をすべきだろうね」


 彼は息を止めて、もくもくと手だけを動かし始めた。青い瞳はほとんど瞬きをせずに傷口だけを見ている。そんなに時間はかからなかったはずだが、途方もなく長い時間に思えた。


「……なんか話せよ……」

「黙っていてくれ。絶対に助けるから」

「そりゃ頼もしいな……」


 痛みで頭の奥がくらくらとする。アーサーは汚れた布を強く噛みしめながら、ただリオの横顔を眺めていた。


 真剣で生真面目なその横顔がたぶん好きだった。


 兵士なら今までに何人も見てきた。十五歳で軍に入ってから山ほど。第五小隊にだって四十人もいる。けれどリオはその誰とも違う目をしているのだ。生き残れるはずがない絶望的な戦場で、まだ誰の死を受け入れることができずに必死に足掻いている。それが苦しいことだともわからずに。


 馬鹿だな、と笑うにはあまりにも眩しすぎた。


 ――おまえは死にたくないくせに、他人を助けるためなら銃弾の中だって走って来れるんだな。そのくせふと我に返ったとき、自分が死の淵に立たされてるって気づいて恐怖するんだから本当に変な奴だよ。


 あのころの記憶を思い出していたアーサーは唇に笑みを浮かべる。


 そんな彼だからこそ守りたかったし、生きて国に返してやりたかったのだ。それだけが自分に残された希望だとさえ思っていた。結局、叶うことはなかったけれど。


 リオ・エイデンは敵国の雪の下で骨に還るのだろう。






 敵を撃ち抜くその指先はますます苛烈さを増していく。


 アーサーの肩を抱きにくるような人間はめっきり減ってしまって、今では小隊長が「君は何本煙草を吸えば気がすむのかな」と眉をしかめるくらいだ。


「アーサー、君は笑っていないと怖いんだよ」

「へえ、それは初耳っすね。どうりで避けられてると思いましたよ」


 ふーっと煙を吐き出した。足元にはすでに吸い殻が二本転がっていた。


「いい加減に煙たいね」


 小隊長は隣に並んで、アーサーの指から煙草をかすめ取った。雪に放り捨てて足でぐりぐりと踏みつけて火を消してしまう。


「――――」


 それがどこかの誰かを思い出させたから、アーサーは目を見開いた。


 思えば彼がいなくなってから、アーサーの喫煙を咎めてくれる人はいなくなってしまった。それ以来好きなだけ煙草を吸えている。軍服には煙のにおいがしみついていたし、肺はきっと真っ黒だろう。


 煙草の箱を胸ポケットに押しこみながら彼の方へ視線を投げた。


「それで何の用ですか」

「斥候が敵兵の動きを察知した。君には狙撃兵と一緒に動いてもらおうと思う」

「……俺が抜けて、前線の指揮はどうするんすか」

「他に任せるよ。君は気にしないでくれ」


 ぴくっと眉を動かす。大げさにため息をついて、それから小隊長を睨みつけた。


「俺に気でも遣ってるつもりならやめてもらっていいですかね。不愉快なんで」

「不愉快なのはこっちだよ」


 彼は笑みを浮かべたままで「私が今さらそんなことをするとでも?」と返す。


「今の君はそこにいるだけで空気を悪くする。正直言っていい迷惑なんだよ」

「うわ、普通に傷つくんですけど」

「なんでも茶化して流そうとするのは悪い癖だよ、アーサー」


 小隊長には通じそうもない。降参するように軽く両手を上げると、彼の目にはますます苛立ちがつのるばかりだ。だったらどんな返事がお望みだというのだろう。


 彼は幹にもたれかかって背中を預ける。しばらく何も言わないままで宙を見つめていたけれど、ゆっくりと息を吐きだした。そしてアーサーの方を向き直って真っ直ぐに見つめた。


「君との付き合いは長いし、こんなことを言いたくはないんだがね――それでも私に軍人でいろと言ったのは君の方だよ。だから君もそうありなさい。何が起きたとしても、誰が死んだとしてもだ」


 アーサーが息を詰まらせたのも構わずに、「彼のことは残念だった。君がやりきれないのも知っている」と言う。


「だが被害者面をするのはもうやめにしなさい」


 アーサーはやっぱり煙草を吸おうと思って、せっかくしまった煙草の箱を取り出した。銀のパーケージがぎらぎらと反射して目に眩しい。


 わかってますよ、と呟いた。わかっているつもりだった。奪われたと嘆くにはあまりにも多くを殺しすぎたのだ。だからこれはひどく身勝手な絶望だ。


 きっと誰も許してくれない。






 アーサーはライフルにスコープを取り付けて、狙撃兵として動く。小隊長はああ言っていたけれどやっぱり自分に気を遣っていたのだろう。ここしばらく最前線では無理やり押し切るような動きばかりしていたのだ。


 だからその気持ちを裏切って申し訳ないなと思う気持ちも多少はあった。


「め……命中を確認! 敵部隊、すでに戦力の六割を喪失しています!」


 隣に立ってる観測手が声を張り上げた。敵部隊はとっくに退却を始めているが、逃がしてやるつもりはない。一人もだ。


「そうか。まだ四割も残ってるな」


 膝をたてて狙撃姿勢を取り続けているアーサーは「この状況で反撃はないだろ。撃ち続けろ」といたって冷徹に指示をくだした。誰かは動揺で息を呑んだ。


 遠くで戦況を見ているであろう小隊長がどんな顔をしていたか、さして知りたくはないと思いながら引き金を引く。


 そのたびに一人、また一人と倒れていく。


 罪悪感も消えて、平然と人を撃てるようになったのは一体いつのことだったか。もうよく覚えていない。リオが生涯越えることのできなかった一線を軽々と踏み越えてしまった自分は、きっと地獄へ落ちるのだろう。彼が知ることもなかった地獄へ。


「何言ってんだろうな、ここが地獄だろ」


 アーサーがぽつりと呟いたそのとき、観測手が「報告!」と叫んだ。


「前線に動きあり! 小隊長を含む一班が敵軍に挟まれています!」

「――ッ!」


 アーサーはスコープ越しに小隊長を探す。一班は前方の敵部隊とじりじりにらみ合いを続けているが、後方から別の敵部隊が近づいてきていた。小隊長はまだ気が付いていない。まだかなり距離はあるけれど、このままでは射程圏内だ。


「四班がカバーに入るはずだろ、どこで何をしている!?」

「別動隊の奇襲を受けて動けていない! 他も交戦中だ!」

「誰かが小隊長に連絡しないと――」

「連絡に向かったところで巻きこまれて終わりだ、どのみち他の隊が合流できるような時間も残っていない!」

「ここから狙うか!?」

「遠すぎる。射程外だ!」


 アーサーの唇がはくっと動いた。頭はカッと熱くなって、冷静になってを一秒ごとに繰り返している。心臓が嫌な音を立てていた。


 だから言っただろ、とそんな言葉ばかりが頭の中をよぎっていた。


 自分をこんな丘の上に追いやるから、最前線での指揮が混乱してしまっているのだ。小隊長にしては珍しく私情を挟みすぎていた。その結果、彼自身が窮地に立たされているのだから皮肉だ。


 けれどそんなことを言っている場合でもない。丘の上では怒声が響き渡っている。一人は「アーサー、俺たちはどうすればいい」と訊いた。視線が集まる。みんなが指示を待っていた。


「…………俺が行く」

「え?」

「俺が直接行くのが一番早いだろ」


 アーサーはスコープを取り去って、仲間の一人に放り投げた。


 ライフルを肩に担いだままで斜面を滑りおりていく。白い外套をひらめかせながら森の中へ飛びこんだ。息を吐く間もなく走りだす。深く積もった雪を踏みしめながら前へ。


 丘の上から見えていた敵の配置を浮かべながら、頭の中でルートを組み立てていく。最短距離で突っ切ることもできるが、敵分隊がうろついているから戦闘は避けられない。


 正面に人影を確認した。


 アーサーはすぐさま身を隠して、それからライフルを構えた。わずかな時間で照準を合わせて撃つ。耳をつんざくような銃声。残りが硬直してパニックになっている間に、端から順番に撃ち抜いた。引き金にかかった指には何の迷いもなかった。


 その両目に温度なんて宿らない。


 アーサーが駆けつけたころには、小隊長たちはすでに戦闘を開始していた。アーサーは逆側から回りこんで、敵の懐へと突っこむ。


 小隊長が「待て」と言った。

 聞こえていたけれど待たなかった。


 一発撃って、リロード。ほんの一瞬の隙を狙うように敵が掴みかかってくる。肘を突き出して顔面に叩きこんだ。ぐえっと潰れた声を聞きながら蹴り飛ばす。死角から近づいてきた奴は銃床で強かに殴れば、骨の砕ける感触がする。弾を装填したころには数人目がそこにいた。


「悪いな、今は機嫌が悪いんだよ」


 敵の腹に銃口をぴたりとつける。そしてゼロ距離で引き金を引く。


「俺を恨みたけりゃ好きなだけ恨んでろ」


 とっくに息があがっていてもいいはずなのに、興奮状態の頭と身体は疲れなど微塵も感じていなかった。

 アーサーはふっと息をついた。まだまだ敵がいる。一度暴れだしたアーサーを止めてくれる人など誰もいなくて、あとは独壇場だ。


 銃声が響く。煙が風に揺れる。血が舞う。死体が増える。アーサーは笑った。笑えと言われたから笑ってみせた。


 だというのに小隊長はひどく傷ついた顔でアーサーを視界に映していたのだ。何がそんなに悲しいんだよ、と訊いてやりたかった。「それが軍人のする顔かよ」と嘲笑う。


 始めは一人で飛びこんできたアーサーを仕留めようと躍起になっていた敵兵も、一人ずつ順番に倒れていく仲間を見て、やがて顔を凍り付かせだした。自分だけでも逃げようと背中を向ける奴までいる。アーサーはいたって平等に撃ち抜いた。


 雪は血で濡れていく。


 敵兵の一人が尻餅をついた。

 もはや戦意なんて欠片も残っていなかった。


 ゆっくりと近づくアーサーを見て「頼む」と口走る。「頼む、家族がいるんだ。子どもも二人。まだ十歳にもなっていない」と震える声で言った。アーサーは静かに見下ろして「そうか、一番かわいい時期だな」と頷いた。男はすがるような目をしていたけれど、アーサーは無表情のまま銃口を向けた。


「神様に祈る時間ならたっぷりあっただろ」


 一発の銃声とともに男の身体は雪に沈んだ。「来世じゃ家族なんて作らない方がいいだろうな」と助言してやるが、聞こえていなかったかもしれない。


 雪にまぎれるための真っ白な外套は、いつの間にか返り血でずっしりと重くなっている。それを脱ぎ捨てようとしたころには、もう一兵の敵も残っていなかった。足元には動かなくなった身体ばかりが転がっていた。


 喉がカラカラに乾燥している。


 ぜえ、と息をした。


 思い出したように心臓はばくばくと動きだした。崩れ落ちたくなるほど苦しかった。全身の筋肉が引きつるように痛む。それでもライフルだけは掴んで離さなかった。それだけはできなかった。


 茶色の柔らかな髪から、ぽたりと血が伝う。ぽたぽた伝う。


「アーサー」


 小隊長の声は上ずっていた。


「アーサー、それを置きなさい」


 ゆっくりと首を傾げて、背後にいた仲間たちに目を見やった。少なくともアーサーは彼らを守っているつもりだった。それが自分のいる意味だと信じていたから。


 振り返る。なのにアーサーを見るその目といえば、ひどく恐ろしいものでも目の当たりにしたような――。


「なんだよ」


 アーサーは眉を下げる。


「言いたいことがあるならはっきり言ってくだくさいよ」


 喉がひりついた。小隊長はひどく悲痛な面持ちだった。


「……ここでは降伏なんて仕組みはないし、敵兵を捕虜にすることもない。生かしておく理由はさしてないからね。法などまかり通っていない。だから君が間違っているなんて言うつもりはない」

「でしょうね。俺も思ってません」

「それでもアーサー、君はそんなに死体を積んで何がしたい?」


 わざとらしくあげた口角を下ろして、「軍人としての本分を果たしてるまでっすよ」と返す。


「なるべく敵をたくさん殺す。なるべく仲間をたくさん生かす。それが俺の仕事でしょ」


 何を責められているのかさっぱりわからない。


 アーサーは「煙草どこやったかな」と呟きながら胸ポケットをあさった。敵を蹂躙しているうちに落としてしまったらしく、銀色のパッケージは血だまりの上に浮かんでいた。「誰か一本くれねえ?」とたずねる。誰も返事をしてくれなかった。


「君はいつか英雄と呼ばれるのかもしれないね」


 小隊長はそう言って目を閉じた。


「反吐が出る」






 戦争は唐突に終わりを迎えた。


 本国に攻めこまれたと思えばあっという間に首都が陥落し、敗戦の知らせが駆け抜けたのだ。敵国の深い森で戦っていた第五部隊が知るまですら、そう時間はかからなかった。


 アーサーは順番に数えていく。自分をいれて十九人。最後の人員補充からだいたい半分が生き残った計算だ。

 

 思っていたよりも多かったな、と他人事のように呟いた。あの日アーサーが皆殺しにしてしまった部隊は、森での中心的な部隊だったらしい。おかげでずいぶんな延命になった。


 それでも、あともう少し早かったら、と思う。


 もう少し早く終わってくれていたら、彼は生き残れたかもしれない。意味のないもしもの話を考えてしまうから、アーサーは手に爪を立てた。






 森を抜けた第五小隊は連隊と合流し、港へと向かった。


 広い港には大きな船がいくつも停泊していた。軍人たちがずらりと並んで乗りこんでいく景色は圧巻だ。あれに乗れば数日で本国へ戻れるのである。第五部隊の順番はもうすぐだ。


「この船に乗れるなど夢にも思わなかったよ」


 アーサーのすぐ前に並んでいる小隊長は、ふと零した。


「しかも五体満足ときた。私は来世の分まで運を使い果たしたかな」

「俺、俺のおかげですよ。もう少し感謝してほしいもんですね。具体的には石像とか立てて未来永劫あがめてほしい」

「そういうことを堂々と言われると、まったくありがたみがないね」

「尊敬する小隊長殿のために馬車馬のごとく働いたってのに酷くないっすか」


 彼は「寒気がしてきたよ。風邪でも引いたらしい」とわざとらしく腕をさすった。


 ほとんどは冗談にしろ、生きて船に乗れると思っていなかったのはアーサーも同じだ。せいぜい野ざらしの骨だろうと諦観していたというのに、ずいぶん恵まれた結末だった。余生は穏やかに過ごせそうである。


 アーサーはぐーっと伸びをした。


「あんたの奥さんもさぞ喜ぶでしょうね」

「そうだといいが。たぶん君にも会いたがるよ。彼女は君のことを気にかけていたから」

「娘さん、今何歳でしたっけ」

「一歳になるころさ。子守りのしがいがあるね」

「そのうち一緒に出掛けてくれなくなりますよ。せいぜい今のうちに可愛がっておくことですね」

「私の娘はそんなことを言わない」

「世の父親はたいていそう言うんすよ」


 けらけら笑った。


 どうでもいい話をしながら前へ進んでいく。船の入り口はもうすぐそこだ。誰もが望んだ帰り道はまっすぐに伸びていた。


 アーサーはそれを見つめながら、ふと思いついたように言った。


「俺はこっちに残ろうかな」


 冷たい海風が身体に吹き付ける。海面が波立つ。小隊長は目を見開いた。


「酔狂なことを――と言いたいところだが、その方がいいだろうね。私も君みたいなのと同じ国にいると思ったらおちおち眠れないよ。警察も夜回りで忙しくなりそうだ」

「ひっでえ」

「君は戻るべきじゃないよ」


 そうっすね、と短く返す。

 本当はずっと前から考えていたことだった。


「ここならいつ誰を撃っちまっても大して後悔しないってのが、俺の精神衛生上よさそうだ」

「残念だがね、アーサー。ひとたび終戦してしまえば君はただの大量殺人犯さ。せいぜい投獄されないように上手くやることだね」

「一応訊いておきたいんですけど、俺のことなんだと思ってます?」

「そこそこの狂人」

「フォローが一切なくて逆に盛り上がってきましたね」


 さすがにそこまで言われるとは思っていなかったので、アーサーは肩をすくめた。どちらと言えば自分を常識人の枠だとすら考えていたが、彼に言わせればそうでもないらしい。


 それは嘘でしょ、と不服を申し立てれば、「敵国に残ろうとする人間の精神がまともだとでも?」と至極冷静に返された。アーサーはそれもそうだなと頷く。


「気が向いたら遊びにでも来てくださいよ。昼飯くらいは俺が出しますんで」

「誰がこんなところに舞い戻りたいと言うんだ。私はもう充分懲りたよ。君こそ、落ち着いたら手紙を出しなさい。司令部にあてれば私に届くはずだ」

「……はーい」

「今、面倒だなという顔をしたね」

「バレてら」

「早々に諦めるんじゃない。もう少し粘ってみせたらどうなんだい」


 海の流氷はいまだに溶けない。アーサーは言うか言わないか少し迷って、けれどこの先延々後悔するのも嫌だったので口を開いた。


「すみませんでした」

「なにが」

「あんたの気持ちを裏切って、踏みにじりました。それでも俺はあんたにとっての守るべきものにはなれませんでした。だから、すみません」


 アーサーは深々と頭を下げた。ずっとそうしなければいけないと思っていた。


 彼は驚いたように瞬きをして、それからははっ、と笑う。「君も案外気にするタチだね」と笑い飛ばして、アーサーの頭をぐりぐりと撫でた。昔何度もそうしたように。


「勝手に期待したのは私の方だ」


 そうこうしているうちに順番が巡ってくる。小隊長は港と舟を繋ぐ木の橋に足をかけた。靴がコツンと軽快な音をたてる。アーサーは立ち止まったまま、遠くなっていく背中を見ていた。


「中尉!」


 彼は振り返る。どこか名残惜しそうな顔で。

 それがアーサーの嘘だと気が付いていたから。


「また、いつか」


 アーサーは唇に笑みを浮かべたままで敬礼した。だから小隊長も咎めるようなことはせずに微笑んだ。


「――ああ、またいつか」


 そのやりとりを最後にアーサー・グレイは消息を絶つ。生涯彼と再会することはなかった。 






 終戦してから数年の時が過ぎる。


 片田舎の小さな村に古本屋があった。埃くさい家に天井まで届くような棚を並べ、本をぎゅうぎゅうに詰めこんだ古本屋だった。


 店主はよそ者の若い男だ。


 もともとは昔から住んでいた老人の店だったが、その老人と言えばふらりと村に現れた男を拾い、店を押し付けてから勝手に亡くなってしまったのだ。それからは男が店主を名乗って、昼から夕方まで店番をしている。


「ねえ、おじちゃん」

「おじちゃんはやめろ。俺はまだ二十九だ」

「えー、おじちゃんだよ」


 村の子どもが店に入ってくる。男は今さっきまで吸っていた煙草をもみ消して、大きくあくびをした。


「おい、いつもの兄ちゃんはどうしたんだよ」

「置いてきた!」

「かわいそうだな。あとで俺が慰めといてやるよ」


 男は片肘を付きながら言った。


 子どもはこの間九歳になったところだ。本が好きというわけではないし、むしろ読んでいる途中で遊びに行ってしまうか寝るかだが、なぜか古本屋にはよくやって来る。


 というより、怪しいよそ者がやっている古本屋に来るのは、この子どもくらいだ。村人は誰一人として寄り付かなかった。


 噂をしていれば店に向かってくる足音がする。男はぴくっと目元を動かして、お出ましだなと呟いた。


「レナート!」


 どたばたやってきた少年は、大声をあげながら駆けこんできた。だいたいいつものパターンだ。


 男の姿をちらりと見ると、少し怯えたようにうっと言葉を詰まらた。慌てて目を逸らして弟の耳元で囁く。


「もうこの店には行っちゃ駄目だって言っただろ……!」

「なんで?」

「この人は敵国なんだから。父さんと母さんも言ってたじゃんか!」

「テキコクだと何がいけないの?」

「しーっ、あいつに聞こえる」

「ねえ、なんで?」

「な、なんでもだよ!」


 彼らにとっては小声なのかもしれないが、いたって丸聞こえである。男は「おい、ばっちり聞こえてんぞ」と口を挟んだ。


「戦争が終わってもう三年は経つんだぞ。今さら敵国もあったもんかよ。あとおまえらのご両親に言っとけ、この間村に出た熊を撃ってやったのはどこの誰だってな」

「……性格悪っ……」

「もうちょい俺の近くで言えたら満点やるよ。ぶん投げるぞ」


 男は組んだ足をぶらりと揺らした。


 弟はきらきらした目で「おじちゃんはなんで銃が上手いの?」と訊いた。「前は向かいのじいちゃんが一番の猟師だったけど、おじちゃんの方がもっともっと上手いよ」と言った。


「だってあんなに大きい熊を一発で撃っちゃうんだもん」


 男は、数年前まで山ほど人を撃ってたんだ、と心の中だけで返した。毎日、毎日、たくさん。うんざりするほど。口に出すほど愚かでもなかったので「なんでだろうな」と適当に流した。


 兄は真正面から指を突き付けると、堂々と啖呵を切った。


「母さん言ってたぞ。おまえはいつか絶対村の奴も撃つって!」

「撃たれたら間違いなく撃ち返すだろうな。それ以外は――まあ俺の気分次第だ」

「ほらみろ! 聞いたか、レナート! こいつやっぱり危ない奴なんだよ!」


 少年は背中に弟をかばった。いつまでたっても男のことが怖いくせに、そういうところで兄としての矜持を発揮するのだ。


 なのに弟といえばその頑張りをあっさり台無しにして、ひょっこりと顔を出した。


「でもおじちゃんは撃たないよ」

「っ!」

「撃たないよ、絶対」


 どこからそんな自信がわいてくるんだか、と男は鼻で笑った。今撃てと言われたら、この幼くて可愛い兄弟をあっさり撃ち抜けるだろう。罪悪感などとっくに捨ててきた。もう持っていない。


 男は机の下に忍ばせているライフルに手を伸ばしていた。右手の指先がグリップを撫でて、感触を確かめる。ひどく慣れた冷たさだ。


「おまえ、どうする?」

「なにがっ」

「もし俺が、今、ここで銃を握ったらだよ」


 男の目は存外冷ややかだった。


 兄はびくっと肩を揺らして、無意識に後ずさった。弟の腕を強く掴んだままで今すぐにでも走って逃げだしそうだ。対する弟は不思議そうにぱちぱちと瞬きをしていた。


「また獣がくるから撃ってくれるの?」


 狭い部屋はしんと静まり返る。


 今度は男が瞬きをする番だった。それなりに本気だったのに、うっかり毒気を抜かれてしまったから「降参だ」と笑い飛ばした。


 他人の悪意なんて知ろうともしない純粋さには弱いのだ、昔から。弱いくせに他人を守ろうとしてしまう愚か者にも。男は思わず声をあげて笑ってしまった。


「何がおかしいんだよ!」

「いやあ、なんか懐かしいなと」

「おまえのことなんか知らねえし!」

「こっちの話だ、気にすんな」


 こんなに笑ったのは久しぶりだった気がする。男は長く息を吐くと、「今さら言うのもなんだが、大人に向かっておまえはないだろ」とニヤリと笑った。


「こちとらアーサー・グレイ様だぞ」


 少年は「はあ?」と盛大に吐き捨てた。


「様とかつけねーし」


 かつては鬼兵と呼ばれ、ある者には戦場の英雄とあがめられ、ある者には戦場の悪魔と罵られたアーサーも、何も知らない子どもの前ではかたなしだった。






 季節は巡る。

 雪はとける。

 それでも認識票の片割れは見つからない。


 アーサーは本に囲まれた薄暗い部屋のなかで、大きく天井を仰ぐ。


「俺はいつでも撃てる。いつでも――」


 言い聞かせなければ忘れてしまいそうだ。けれどそれを忘れてしまったら自分が自分でなくなってしまいそうで、ライフルを手放すこともできずにいる。今さら人が撃てないなど、だったらあの光景はなんだったのだと言いたくなる。


 動かなくなった彼を森に置き去りにしてから、もう三年以上過ぎていた。


 だから見つけてやることはできないだろう。本当は骨の一かけらくらい封筒にいれて彼の家族に届けられればよかったが、望みは薄いので遺言だけを書いて送った。


 アーサーが出した手紙はそれで最後だ。名前も住所も書かなかったから、さぞ不気味だっただろう。捨てられてなきゃいいけどな、と傷だらけの認識票に呟く。


 今でも彼の最後の言葉は呪いのようにこびりついていた。


 掠れる声が、透き通る青の瞳が、真剣なまなざしが、宿る強い意志が、いつまでたっても消えてくれない。


 ――僕は君に出会えて幸せだった。


 出会えて、幸せだった。


「んなわけねえだろ」


 しかたがなさそうに笑う。

 煙草の煙はゆらりと天井へのぼる。


「冗談だって言えよ、なあ」


 あの言葉の続きを何回だって想像するのに、リオ・エイデンはあの真面目な顔で「嘘を言ったつもりはないよ」と言い切るのだろう。アーサーがあの後どれほど手を汚したか知っても、きっと。


 おかしな奴だな、とアーサーは苦笑いした。


 今でもずっと彼を眩しいと思う。

 焼かれた網膜はもう一生、元に戻りはしない。

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行軍短編 月花 @yuzuki_flower

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