番外編 サンタクロースになる十日前



 もうすぐやってくるクリスマスのために小さなツリーを買いに、アーサーと近くのデパートへ出かけたら強盗に監禁された。


 もしリオが「今この状況を端的に説明してくれ」と言われたらこう言うしかなかっただろう。


 しかし説明するような相手はいなかったし、そもそも周囲にいるのは同じく監禁されている哀れな人質たちだったので、リオは後ろ手に縛られたままデパートの床に座りこんでいた。


「何なんだ、何が起こっているんだ」


 呆然としたまま呟けば、隣に座っているアーサーが肩をすくめた。


「まあまあ、いったん落ち着けよリオ。唯一分かることはあれだな、俺らは恐らく世界で一番アンラッキーだ」

「そんなことは僕にも分かっている。もっと有意義なことを言ってくれないか」

「戦争中ですら捕虜になったことねえから、意外とこういうのは初体験だな。ってかあのときは捕虜でもガンガン殺されてたけど」

「一切聞きたくなかった……」


 リオはがっくりとうなだれた。おろしたてのベージュのコートがさっそく砂で汚れている。もぞもぞと身体を動かしてみるが、拘束されているのでますます汚れが付くだけだ。リオは諦めてため息を吐いた。


「人質として監禁されるなんて、一体何%の確立を引いたと言うんだ、僕たちは……」

「この確率で宝くじ当てたかったよなあ。もしくは隕石に当たりたかった」

「死ぬぞ?」


 監禁される心の準備などまったくせずに来てしまったので、するならするで先に言ってくれと恨んだが、そんな準備をしたい気持ちには微塵もなれなかった。 






 経緯と呼べるような大層なものはなかった。


 十二月十五日。クリスマスも目前というところで、二人の家にはツリーがないことに気が付いたので買いにきたのだ。


 ただデパートに着いて、クリスマス関連の商品が並んでいる三階へ上がって、ぐるぐる歩き回った末にようやく見つけたミニツリーを掴んだ瞬間、銃声が響き渡った。


 フロアに「動くな!」という怒声が反響する。


 リオは混乱しすぎてミニツリーをがっしりと掴んだまま硬直し、犯人たちに拘束されたのであまりにも間抜けだった。残念ながらミニツリーは奪われてそのへんのカゴに放りこまれてしまった。


 アーサーといえば、特に逃げることもなかったのでリオと一緒に拘束された。そういうわけでリオの隣で同じように縛られているのだ。何の事情も分からないままに。


 アーサーは「今何時だよ」と呟いた。リオは身体をねじって、つけている腕時計を見せてやった。


「十六時か。ちょうど三十分くらい経った感じだな」

「そろそろ警官も動いているかもしれないね。犯人の要求はやはり身代金だろうか……?」

「そうとも限らねえんじゃねえの? 一人ずつ殺して生スプラッターショーを鑑賞したいとかあるだろ」

「なかなかないよ」

「とにかく気にしても仕方ねえことは気にすんな」

「君の所為でだいぶ気になってきたんだが」


 アーサーは「はは」と短く笑った。笑っている場合ではないとリオは思った。


 デパートの広々とした売り場の隅に、リオたちと同じように拘束された人間が七十人ほどいる。上手く逃げられなかった運の悪い人たちだ。そんな人質を見張っているのは犯人のうちの一人だった。


「犯人は何人くらいいるんだろう」


 リオが落ち着きなく囁きかけると、アーサーが即答した。


「俺が見た感じ全部で三人だったな。他のフロアにいるのは知らねえけど」

「……なぜ把握しているんだ」

「おまえとは臨機応変さが違うんだよな。っていうかおまえも元軍人だろうが、これくらいできろよ」


 リオはぐっと言葉を詰まらせて顔を歪めた。完全に正論だったので反論できない。代わりに勢いよく傾いて肩で攻撃した。絶妙に痛かったのか、アーサーはうめき声を漏らした。


「おまえのその度胸はどこからくるんだ? ちょっとくらい人質としての自覚を持てよ。おまえマジで人質に向いてねえよ」

「そんなものに適性を見出されたくないよ、誰も」

「どっちにしろ大人しくしてろよ。目立つな。隣にいる俺まで巻き添え食ったらどうしてくれんだよ。地獄の底からおまえを恨むからな」

「このくらいでは目立たないし、いざというときは君も一緒だから安心するといい。確実に巻き添えだよ。なにせ僕たちはルームメイトだからね」

「連帯責任が重すぎねえ?」


 アーサーはごそごそと手を動かしながら文句を言った。縛られている手が痛むのだろうか、とリオは視線をやる。やや内出血になっているようだが、血が止まるほどではなさそうだ。


 リオはややあってから見張りに視線を戻した。人混みの向こうに立っている男は忙しなく顔を動かしていて、人質を逃がさないようにと必死だ。


 状況は最初から何一つ変わっていない。張り詰めたフロアで、リオは声を潜めた。


「……ねえ、アーサー」

「ん?」

「どうして君はこんなところで人質になっているんだ?」


 アーサーはよく分からないといった顔でリオをの方を見た。とぼけているのか本気なのか、リオにもいまいち見分けがつかない。リオはむっとしたように唇を曲げる。わずかに身体を寄せて、もう少し丁寧に付け加えた。


「あの時、君だったらすぐに身を隠して、フロアに潜伏できただろう。僕は十分囮として使えた。なのになぜそうせずに、呑気に人質を謳歌しているのかと訊いているんだ」

「謳歌はしてねえだろ」

「そこはどうでもいいから」


 彼は自分からぺらぺらと話すような性格でない。そんなことはとっくに知っていたので、リオがなおも追及すれば、彼はゆるく首を傾げた。


「まあ、できたわな」

「だったらどうして」

「一般人にそこまで求めんなよ。俺は他人を囮にしてまで動くつもりはねえよ。まだそういう段階じゃねえだろ」


 彼は「それに」と付け足す。


「俺も囮としては十分役に立ったしな」


 彼はなんということのなさそうな表情で言う。

 リオはゆっくりと瞬きをして、考えてみる。


 そういえばあの時、近くには家族連れがいたような気がする。小さな子どもを連れていたはずだが、彼らは上手く逃げることができたようで人質の中には混じっていなかった。

 彼の言わんとしていることを察したリオは静かに息を吐いた。


「…………君は本当に」

「んだよ、その目は」

「何でもない」


 リオは「納得したから、この件はもういいよ」と首を振った。まったく彼らしいと思いながらも、今の状況から解放されたわけではない。背中をやや丸めながら見張りをちらりと見る。


 男はトランシーバーのようなもので時々連絡を取っていた。仲間から何かの連絡を受けているようだ。リオは耳を澄ませてみるが完全に無駄な行為だった。細くため息を吐く。


「こうなったら、普通に逃げ遅れた僕と人質を謳歌するつもりなのか?」

「だから謳歌はしてねえって言ってんだろ」

「君のことだから、このまま大人しくしているとは思えないんだけれど」

「おまえと違って、俺は人質に向いてんだよ」

「それは初耳だ」

「俺も今日初めて言ったな」

「うん、あとそれは完璧に君の思いこみだから他人に言わない方がいいと思うよ。恥ずかしいから」

「喧嘩売ってんのか?」


 アーサーは相変わらず腕をもぞもぞと動かしながら返す。濃紺のPコートの裾が絶え間なくゆらゆらと揺れている。


「いいか、いい人質ってのは慌てず騒がず、虎視眈々と敵の隙を狙ってる奴のことだよ。分かったらおまえもちょっとは見習え」


 アーサーは「煙草吸いてえなあ」と片手をひらひらとさせた。リオは「こんな時までニコチンとタールのことを考えるのはやめなさい。完全に中毒じゃないか」と注意したが、わずかに遅れてその異質さに気が付いた。


「……片手?」


 もし見間違いでなければ、アーサーは確かに片手をひらひらと動かしていたはずだ。背中でひとまとめにされているはずの腕を。

リオははっと目を見開いてアーサーの背後を覗きこんだ。床には結束バンドが落ちていて、なぜか彼の両手が自由になっていたのだ。


「な、なんで。君は超能力者とか、そういうタイプの人間だったのか?」

「そういうタイプの人間じゃねえよ」


 彼は縛られているふりをしながらリオに耳打ちをした。


「普通に外しただけだ。縛られる前にこう、手首を横にしておいたんだよ。手首をひねったらスペースができて抜ける」

「ずるじゃないか」


 仕込みがあっただけだと分かったリオは真顔で返したが、彼は肩をすくめた。


「おまえはどんな立場から意見してんだよ。もっと喜べよ。おまえのルームメイトが解放されたんだぞ」

「た、確かに……」


 リオは冷静になった頭で「おめでとう」と言った。アーサーは「どうも」と会釈してみせた。


「それでどうするんだ。先に言っておくけれど、このまま一人で行ってしまうつもりなら、僕は奇声を上げて目立ってやるからね」

「普通に怖えよ。変質者か?」

「君のルームメイトだよ」

「そんなルームメイトはいらねえ。クーリングオフだ」

「期間ならとっくにすぎているよ」


 リオは苦笑いを浮かべた。そしてわざとらしく小首を傾げてみせる。


「だから僕を捨て置くなんてことはしないように。君がいないと、僕はこの七十人弱を無事に生かす自信がないんだ。……だから君一人ではどこにも行かせないよ」

「その点に関しては、俺も百年前の行動を反省してるからな。あっさり二の舞はごめんだ」


 彼は眉を下げながら、「俺のいない場所の責任は俺も持てねえしな」と呟いた。


 しばらくするとブライドの向こうがにわかに騒がしくなってきた。外の様子は見えないが、拡声器で交渉を持ちかける声がひっきりなしに響き始めた。見張りの男はますます連絡に夢中だ。


「頃合いだな」


 アーサーはぽつりと呟いた。


 つまるところ、最初から大人しくしているつもりなどないと分かったリオは呆れた顔をしようとしたが、失敗して少しだけ笑ってしまった。






 犯人グループは外との交渉に応じることにしたらしい。見張りが最前列にいた女の腕を掴んで、どこかへ連れて行こうとした。


 ピストルを突き付けられている女はひどく動揺したように顔を青くしている。足元がおぼつかないようで、震える足が絡まってつんのめってしまう。見張りは短く舌打ちをした。


 他の人質たちは黙りこんだままでその様子を見ている。誰もが銃口を向けられることに恐怖している。 


「人質なら僕を連れていけばいい」


 そんな中で、しんと静まっているフロアに声が反響した。見張りは勢いよく振り返る。


「その人では足手まといになるだろう。だから僕にすればいい」


 リオは顔を上げて、真っ直ぐに見張りの男を見ていた。縛られたままのリオは身体をひねりながらなんとか立ち上がって、「代役として不足はないはずだ」と言った。


 見張りは女とリオを見比べて、やや考えるように視線を巡らせる。


 リオは成人男性にしてはかなり華奢だったし、背丈もない。顔も童顔でとても抵抗できるようには見えなかった。その上、今連れている女よりも使いやすそうだ。


 ようやく結論が出たのか、男は「こっちに来い」と短く命令した。


「ゆっくり歩け」

「分かっているよ」


 リオは人質たちを踏みつけないように間をぬって歩く。男のすぐ目の前まで行くと足を止めて、女を返すように目線だけで訴えた。


 見張りはピストルの銃口をリオに向けて、女を突き飛ばすようにして人質を交換した。「乱暴なことをするな」と思わず口にしてしまいそうだったが、今目立つのは得策ではないことも分かっていた。


 リオはすたすたと歩いて人質の集団から離れていく。外からは相変わらず拡声器の声が聞こえてくる。リオたちが十メートルほど進んだところで、男の腰からトランシーバーの通信音が鳴った。


「――」


 仲間からの連絡だろう。


 男は手に取ろうかと一瞬の迷いを見せた。トランシーバーに意識が向いたからか、わずかに銃口がそれて壁の方へ向いた。呼吸を止める。それを見逃すほどリオは耄碌していない。


「っ!」


 リオは腕を振り切ってしゃがみこんだ。男が慌てて銃口を向けようとするが、遅い。一気に重心を低くしたリオは、床に手を付いて足払いをかける。強かに蹴り飛ばしたから男はバランスを崩した。


「アーサー!」


 彼はいつの間にか距離を詰めていたようで、もう床を蹴っていた。男の首根っこを掴んだ彼は、流れるような動きで膝蹴りをくり出したのだ。


「うわ……」


 嫌な音がする。

 ノーガードの顔面に膝がめりこんでいるのを目撃してしまったリオは、思わず顔を歪めた。とてもではないが人にしていい攻撃ではない。


 アーサーはどこ吹く風といった様子で、軽やかに足を着地させた。ふうっと爽やかに息を吐いている。


 一切の遠慮なく、もはや鮮やかなまでに打撃が入っていたので、男はぐらりと真後ろに倒れていった。敵とはいえ同情を禁じ得なかった。まず間違いなく折れたであろう前歯に、リオは合掌する。


「今日の夕食がまずくなりそうな光景だった……」

「この状況で夕食のことを考慮している呑気さに俺は驚きだな」


 アーサーは足先で男の身体をつついている。男はぴくりとも動かない。「えげつない」とリオは呟いたが、アーサーは気にした様子もなく男のそばに腰を下ろした。


「打ち合わせ通りだな。おまえも結構余裕あったじゃねえか」

「これでもいろいろあったし、今のは心の準備ができていたからね。それに大した腕前でないことも分かっていたし」


 男の服やら覆面やらを剥ぎ取り始めたアーサーは、内ポケットを探ってナイフを取りだした。ピストルを奪われたときの予備だったらしいそれを使って、リオの結束バンドを切る。


「いつも君は僕を乱暴だと言うけれど、君だって十分乱暴だよ……」


 リオが男の口をぱかっと開けさせ口内を確認している間に、アーサーは服を着替えてしまった。強盗犯に扮した彼は本物そっくりだ。


「これで紛れこめるな。あとはケースバイケースだ。今のと同じ要領でいくぞ」

「一人ずつ前歯を折っていく気かい?」

「顎でもいいぞ」


 そもそも折るな、という言葉はひとまず飲みこんだところで、またトランシーバーから呼びかけがあった。無視し続ければいずれ不審がられると危惧したのか、彼は手に取った。


「こちらC。なぜ応答しなかった。どうぞ」


 トランシーバーから聞こえてくる声に返事を促される。どうするつもりなのかとリオがはらはらしていると、アーサーは咳ばらいをした。


「アー、こちらD。トイレに行っていました」

「おまえ緊張感がないのか?」

「社会性を失う危機でした。どうぞ」


 もっとマシな言い訳があっただろうと頭を叩く。思いのほか痛かったのか、アーサーは「いてっ」と地声でうめいた。


「どうした? おまえそんな声だったか?」

「エー、たった今風邪をひきました。どうぞ」

「そんなスピードでひくのか?」

「悪性のウイルスがデパートに蔓延しているようです。どうぞ」

「おまえ本当に変じゃないか? 頭とかが」


 アーサーは「もともとこんな感じです」とだけ答えて連絡を続ける。清々しいまでの風評被害だった。


 連絡は続く。交渉のために人質を一階まで連れていかなければならないらしく、アーサーは非常階段で人質を受け渡す役割のようだ。


 電源を切ったアーサーは、「どうすっかな」と腕を組んだ。


「様子見にきた奴を順番にやってくか?」

「終わった頃には僕たちの足元は前歯だらけだよ」

「だから俺は顎でもいいって言っただろうが」

「そういう問題なのか?」


 もっと別の何かを否定しなければいけない気がする。


 リオの疑問もそこそこに、アーサーはぐるりと肩を回した。


「何にしろ、ちょっと他のフロアの様子見てくるわ。人質集団はおまえに任せたぞ。それで、なんかあったらおまえを人質にして連れていくから」

「普通の話のはずなのに、なぜか僕がひどい目に合っているようにしか聞こえないな」


 リオは首を傾げながら集団へと戻った。アーサーの背中はもう見えなくなっていたので、どうしようかと思いつつも空いているところに腰を下ろす。


 見張りはいなくなったが、フロアの緊張感はまったく消えていない。リオは居心地悪そうに膝を抱えていた。人質たちは息をひそめている。


 日常ではありえない、異質な状況だ。

 人質を任せたと言われても、何もすることがない。妙なもどかしさと歯がゆさを覚える。だが自分の役割であることに間違いはないので、まっとうしなければならない。


 数分が経った。

 アーサーが場を離れてしばらくしたころ、後ろに座っている男が「相変わらずの暴挙だね」と不意に言った。


 ひとり言のようで、けれどリオに語りかけるような言葉だった。


 リオはひゅっと息を止める。


 それは本当に突然のことだったのだ。


「君もあの子も、本当にやることが無茶苦茶だ。私はそんな風に教育したつもりはなかったんだがねえ。やれやれ、そんな悪さをどこで覚えてきたのか分かったものではないよ」


 リオはぱちぱちと瞬きをした。


 聞き覚えのある穏やかな声色と、それに馴染まない皮肉交じりの話し方。知性と品性が感じられるそれらはやけに耳慣れたものに思えた。


 慣れているというより、リオはそれを知っている。百年経っても、死んでもう一度生まれても忘れることなどなかった。きっとアーサーもだ。


「……⁉」


 リオはぐるんと首を回して振り向いた。


「やあ!」


 後ろで縛られているから手は上げられなかったらしいが、やはり見知った顔をした男が背後にいた。彼はにこりと柔和な笑みを浮かべていた。


「し、小隊長」


 声が裏返った。リオが目を白黒させているから、彼はけらけらと愉快そうに笑った。


「いやあ、いい反応だね。結構、結構」


 からかうように言った彼は、目を細めた。


 リオは口をあんぐりと開けたまま固まっていた。青天の霹靂だ。この人生で、アーサーと再会したのですら半年前なのに、短期間にそんな奇跡が連続してたまるかと思う。

 だが小隊長は特に驚いた風でもなく肩をすくめた。


「まあ今は非常時なのでそういうのは後にしてもらおうか。あまり時間的な余裕もないしね。なにせ私たちは哀れなる捕らわれの姫なのだし」

「いや、えっ、あの」

「とりあえず私の拘束もどうにかしてもらっていいかな? アーサーと違って上手くいかなくてね。まんまと動けなくなってしまったよ」


 小隊長は腕をちょいちょいと動かして見せる。リオは狼狽しながらも隠していたナイフを取り出して、結束バンドを断ち切った。


 解放感からぐるぐると肩を回している彼は、軍服を身に付けていなかったが小隊長そのものだった。疲れきった顔をしていないからやや年若く見えるが、それ以外はほとんど何も変わっていない。


 百年前に引きずり戻されたのではないかと勘違いそうになるほどだ。


 リオは心を落ち着かせようと深呼吸を繰り返した。バクバクと音をたてていた心臓がようやく冷静さを取り戻して、リオは口を開いた。


「な、なぜ監禁されているんですか?」

「まだ声が裏返っているがね」


 突然過去の上官が背後にいると分かってすぐに落ち着けるほど、リオの適応力は優れたものではなかった。


 小隊長はやや呆れたように「あとそれはブーメランだよ。君たちこそなぜ監禁されているんだ」と返した。


「ツリーを買いにきたからです……」

「奇遇だね。私は娘へのクリスマスプレゼントを買いに来たところだ」


 向こうにも大した経緯はなかったらしく、この話はすぐに打ち切りになってしまった。知り合いに世界で一番アンラッキーな人間が二人いたということだけが分かった。


 彼はにこにことしたままで遠くを見遣る。


 わずかな沈黙を破るように、リオは「あの」と声を出した。


「それで、どうしてすぐに声をかけてくれなかったんですか。あれだけ目立っていたら、僕たちがいることには気づいたはずです」

「うーん、まあいろいろとね。そういうのも後にしよう」

「後って、そんな」

「私が指揮を取るから任せなさい。久々だから腕が鳴るね」

「でもアーサーが、別のフロアに行っていて」

「心配する必要はない。あの子の考えていることに乗っからせてもらうだけだ」


 小隊長はふふっと笑みを零して、非常階段の方へと視線を向けた。


「もうそろそろアーサーも戻ってくる頃だろう。君は彼と合流して先行しなさい。ここは私が受け持つから考えなくてもいいよ」

「はあ……」

「敬礼!」


 リオはびくっと肩を揺らした。身体は反射で動いてしまう。敬礼の形を取っていることに気が付いたリオが思わず睨みつければ、「まだ使い物になりそうで安心したよ」と彼は笑った。


「人の習慣で遊ぶのはやめてください」

「失礼。こちらも習慣でね」


 小隊長はすっと口角を下ろして、顔つきを険しくさせる。


「それでは作戦開始!」


 リオはまたしても背筋をまっすぐに伸ばしていた。






 フロアの端にある非常階段の扉を開けたリオは、壁に背をつけたままで左右を見回す。警戒しながら降りていった先でアーサーと合流した。 


「おい、なんでこんなとこにいんだよ」

「こっちにも事情というものがあるんだよ」


 ピストルの銃口を下ろしたアーサーは、覆面を取り去った。どうやらあまり気に入っていないらしい。アーサーは階段の手すりにもたれかかりながら、「それで?」と尋ねる。


「事情って、具体的には?」

「これは僕の幻覚ではないんだけれど、僕は小隊長の指揮下で動いている」


 リオが言いづらそうに言えば、アーサーは考えるように視線を落とした。数秒の沈黙のあと、肩にぽんと手を置かれた。


「おまえ、いくら現実がつらいからって妄想に浸るのはやめておけ。脳に悪いぞ」

「僕をかわいそうなものを見るような目で見るな!」


 何一つ伝わっていなかったので、リオは憤慨しながら彼の手を払った。


「僕も細かいことは一切知らないが、事実なんだから仕方がないだろう!?」

「ああ、そうだな。早くここから脱出して精神科医にかかろうな」

「病気じゃないが!?」


 リオがますます怒りをヒートアップさせているところで、ポケットの中に入れてある携帯が震えた。指だけで通話ボタンを押せば、片耳につけたイヤホンから小隊長の声が聞こえた。


「そろそろ君がアーサーを殴ろうかと考えている頃合いだろうと思って電話をかけたよ。それは後回しにして、二階フロアを制圧しなさい。ちょうど犯人の二人が正面玄関に行っているから、絶好の機会だ」


 リオはここにいない彼に向かって頷いてから、アーサーの方を向いた。


「僕たちは二階フロアの制圧に向かえとのことだ」

「おまえ、内なる声にだいぶ侵されてねえ?」

「だから病気ではないと言っているだろう!?」


 もはや何を言っても無駄だったし、よく分かってもいない事情を説明する時間も労力も惜しい。リオはずんずんと歩き出す。


 作戦自体は理にかなったものだったので、アーサーも特に提言することなく歩き出して、リオの前へと出た。


 リオが人質のふりをして近づき、アーサーとともに仕留める。


 アーサーの回し蹴りがこれまた華麗に入り、三人目が床に沈んだころ、リオはすっかり慣れた様子であたりを見回していた。


「二階はこれで全部かな」


 アーサーは少し離れたところで様子を伺っている。リオが携帯を取り出して「制圧しました」とだけ伝えると、イヤホンからは「そろそろアーサーに代わってくれるかな」と返ってきた。


「アーサー、小隊長が話したいと言っている」

「ものすごく言いづらいんだが、俺はお前の内なる声とは通信できねんだ……。悪いな」

「僕を頭のおかしい人間みたいに言うんじゃない」


 憐憫の表情を向けられたリオは、もう片方のイヤホンを無理やりアーサーの耳に突っこんだ。「何しやがる」と文句を言っているが、少し音量を上げてやれば彼の声がよく聞こえる。


「やあアーサー、久しぶり。少し時間がかかっているようだね。平和ぼけして腕が落ちたかな?」


 疑う余地もないほどに小隊長の台詞だった。

 アーサーはゆっくりと目を見開くと、これまたゆっくりイヤホンを指さした。


「し、小隊長」

「もうそのくだりはさっきやったからいいよ」

「は? ん……? はあ!?」

「それもやった」


 リオは真顔のまま言う。ようやく現実だと信じてもらえたようで、大げさにため息をついた。


 アーサーはリオのポケットに手を突っこんで携帯を引っ張り出してくる。口元に持っていって、ごくりと生唾を飲みこんだ。そして緊張気味の面持ちで口を開いた。


「いや俺の腕は一切落ちてませんけど? 撃っていいなら五分で終わらせますけど?」

「今世の第一声がそれで良かったのかい?」


 感動の再会であったはずだが、くだらない会話をしている暇はなかったので、小隊長は早々に切り上げて本題に入った。


「人数がだいぶ減ったようだね。だが外にいた一人が戻ったようだから、そろそろ決着といこう。私は夕飯前には帰りたいのでね」

「何ですか? 人質としての自覚が足りない人間が多くないっすか?」

「リオ、君は人質のふりをして入り口付近男の注意を引きなさい。アーサーは誤射されないように服を着替えて、死角から援護を。ただしアーサーはともかく、リオは絶対に敵に向けて発砲しないように」

「なぜ僕にだけ禁止を?」


 小隊長は不思議そうな声で返す。


「なぜって、君の腕だとうっかり当てて殺しかねないからじゃないか! 知り合いに殺人犯はほしくないよ。夕食がまずくなる」

「なるほど、僕が貶されていることは分かりました」


 狙って外すなどという芸当ができないのも事実なので、小隊長は正しい。中途半端に訓練されてしまったのが仇になっているのだ。リオはそれ以上の文句は飲みこみながら、続きを促す。


「上は私に任せなさい。ただ私は人質たちのもとから動けないので、援護は期待しないように。そちらは君たちに任せてあるからね」

「了解しました」

「丸投げして申し訳ないね」

「司令官は現場に出ないものでしょう。危険な場所は僕たちに任せるべきです」


 彼は「まあね」と呟いた。


「なに、警官が突入できる隙を与えればいいだけだ。それですべて終わりだよ」


 小隊長からの通信はぷつりと途絶えた。






 非常階段から一階まで降りたリオは、両手を縛られたふりをしながらゆっくりと歩いた。アーサーは先回りして援護射撃できる位置についているから別行動だ。


 正面入り口までやってきたリオは、犯人から銃口を向けられた。思わず肩を揺らすと、片耳のイヤホンから声が聞こえてきた。


「あの男を左に三歩移動させろ」


 連絡の相手はアーサーだ。


「向かいのビルに警察の狙撃手が配置されてる。だがその位置じゃ狙えねえ」


 リオはやや顎を引いた。

 そんなことを言われても、と思ったが、できなければアーサーが引き金を引くことになる。彼なら上手く外すだろうが、こんな時代になってまで撃たせるわけにはいかなかった。


 リオは止まっていた呼吸をゆっくりと吐き出す。


「君たちの仲間に、ここに行けと言われた」


 リオはそろりと足を出して男に近づいていった。男は警戒したように銃口を向け続けているが、引き金の指は動かない。リオはもう一歩近づいた。


「おまえを連れてきた男はどこへ行った」

「知らない」

「上に戻ったのか」

「さあ」


 上でのびている。そして前歯も持っていかれた、とは絶対に言えなかった。リオはやや視線を逸らしながらとぼける。


「こちら、A。応答しろD」


 男はトランシーバに呼びかけるが、返事はなかった。なぜならアーサーが持っていて、電源も落としているからだ。

 男はB、Cと順番に通信しようとするが、やはり結果は同じだった。


「くそっ、どうなっている」


 男は苛立ちを隠すことができず、今度は別の男に通信した。


「おい、F。三階フロアを見てこい」

「了解」


 今度は返事がある。リオは唇をわずかに開いて、振り返りそうになった。寸前で堪えたが動揺は飲みこみきれない。


 敵にはまだ仲間がいて、自由に動けるのだ。リオたちといえばそれぞれの位置から動くことができず、特に小隊長は守りが手薄だ。もし見つかればどうなるか分からない。


「……っ!」


 すぐさま状況を天秤にかける。リオは背後に回した手で「行け」とハンドサインを出した。指先を振ってアーサーに指示を出す。だがアーサーは「無理だ!」と返した。


「こんな状況でおまえを置いて行けるか。俺はここから動けねえよ」


 でも、と唇だけ動かす。このまま小隊長を見殺しにすることなどできるわけがない。それはアーサーも同じで、彼は沈黙のあとに続ける。


「……分かった、俺が撃つ。撃って隙をつくって、それから俺が援護に向かう。おまえはその間に制圧しろ」


 リオは止まれのハンドサインを出した。駄目だ、と唇を噛む。アーサーに撃たせるわけにはいかない。いかないのに、それしか方法が思いつかない。


 一秒ずつ過ぎていく。冷や汗が伝う。


 どうしよう、どうしよう、どうしよう。 


 リオは全身を硬直させながら考えだけを巡らせる。アーサーは今も照準を合わせているだろう。早く動かなければ、彼がまた人を撃ってしまう。こんな時代になってまで。リオを庇うためだけに。


「っ!」


 リオはじりっと一歩前に進む。男は警戒したようにピストルを向けている。目つきは鋭い。リオは負けじと睨み返す。


 あたりは静まりきっている。

 だが静寂を断つように、遠くで銃声が響いた。


「――!?」


 続いて二度。合わせて三度。


 わずかに反響している。


 誰が撃ったのか分からなかった。とにかく上から聞こえたことは確かだ。リオは「小隊長」と呟いていた。


 耳のイヤホンからアーサーの声も聞こえたような気がした。何を言ったかは分からない。けれどアーサーが銃口を向けて引き金を引こうとしていることだけは何となく分かった。


 リオは息を止めていた。


 何が起こっているか理解できない。それでもだんだんと悪い状況へ向かっていることは分かる。打破しなければならない。自分が動かなければならない。今、ここで。


 息を吸いこんで、そして両手を強く握りしめた。秒針は進む。時間はもう残っていない。


「……アーサー、いいから行け!」


 リオは叫ぶ。


「僕は君に守られなければならないほど弱くはない!」


 リオはフロア中に響き渡るような声で言った。乾いた喉が痛む。男はぎょっとしたように両目を見開いている。身体は強張っていて、戸惑っている。


 耳元のイヤホンから雑音が聞こえて、それきりアーサーからの返事はなかった。どうやら行ったらしい。


 リオはやや引きつった笑みを浮かべて、男に視線を投げかけた。


「……僕の仲間が上に行ったぞ。追いかけなくていいのか」

「くそっ。おい、F。聞こえるか、F!」

「よそ見なんて、ずいぶん余裕があるんだな!」


 リオは全速力で駆けだした。棚の後ろへ回って、背を付けたまま身を隠す。


 わずかな間のあと、銃声が響いた。男が発砲したのだ。しかし狙いは逸れていて、棚のすぐそばをかすめていっただけだった。


 リオはすぐさま身体を晒して撃ち返す。与えられた命令は忘れていない。決して狙わないように、天井に向けての威嚇射撃だ。


「次は狙う!」


 リオはピストルを構える。


「言っておくが、僕には急所を避けるなんて器用なことはできないから、どこに当たるか分かったものじゃないぞ! なにせ僕は射撃が下手だからね!」


 脅しているのか自虐しているのか分からない台詞を吐いて、リオは足を引いた。物音を立てないように移動して棚と棚の隙間を駆け抜ける。


 弾が飛んできたが、照準が合っていない。リオは止まることなく移動する。動き続ければそう簡単に当たらないことは嫌というほど知っているのだ。わざと位置を明かすように撃ち返して、それからまたすぐに走る。


「――っ」


 だんだんと男の射程範囲から離れていく。今の位置からは狙いを付けられなくなってきたのか、銃弾は見当違いの方へと飛ぶだけだ。


 男は焦れたように足を踏み出した。

 リオを狙うために左へ。一歩、続いてもう一歩。リオはさらに横へずれる。つられて男も三歩目を踏み出した。


 左へ三歩。

 それがアーサーからの指示だった。


「かかったな」


 リオは物陰にしゃがみこんで顔を伏せた。顔を腕で覆って目を閉じる。


 次の瞬間、ガラスが割れるような派手な音がフロアに響き、男の腕は銃弾に貫かれていた。


 弾丸の軌道は一直線。狙いは完璧だった。遠くで叫び声があがって、男の身体はぐらりと後ろへ倒れる。バリケードの上部、わずかに見えるガラスの部分から狙撃されたのだ。


「……った!」


 ガラスの破片が雨のように降り注いでくる。リオの手の甲もかすって、小さく声をあげた。


 だがか細い悲鳴はかき消されて、遠くで「突入!」という声が聞こえていた。バリケードが打ち破られて、外の人間が次々に踏みこんでくる。


 リオははっと顔を上げた。「小隊長」と呼んで、もつれる足で駆けだした。






 リオは三階まで一目散に向う。

 手足に力が入らない。


 フロアの階段をのぼりきって人質のもとまで戻れば、小隊長が「やあ、お疲れ様!」と朗らかな笑みを浮かべていた。


「な、なんだ……無傷なんですね……」


 小隊長は汗一つかいていない。むしろリオの方が疲弊しているくらいだった。


 ぜえぜえと呼吸しながら膝に手を付けば、ほっとしたように全身の力が抜けた。このまま床に座りこみたくなったが、情けないと笑われるのは癪だったから気力だけで顔を上げる。


「てっきり、血の海かと思ったんですけれど」

「このくらいでくたばる程、軟弱ではないものでね。それより慌ててどうしたんだい、君は」


 小隊長はゆるく首を傾げた。からかうような声色に、リオは「心配して損をしました」と返す。


「ここまで走った分、カロリーを無駄に消費しました。返してください」

「いい運動になったじゃないか。この調子で体力を付けなさい」

「……これでも人並み以上には運動神経がいい自信はあるんですが」

「うーん、君の隣にアーサーがいる所為で何もかもかすむよね」


 彼は楽しそうに笑った。笑いながらも、リオの右手に切り傷があるのを目ざとく見つけた彼は、ポケットから出してきた高価そうなハンカチをぐるぐると巻き付けて止血をした。


 本当はもう血は止まっていたので、そうする必要はなかったのだが、彼は気付かないような顔をして手当てする。「これでいいかな、衛生兵?」と訊いてくるので、リオは「応急処置としては問題ありません」といたって真面目に答えた。


「それから今は医学部生です」

「おっと、私の知らないうちに立派になったね」

「消毒液があればより良いのですが」

「ヨーチンは今の時代にそぐわないしねえ。百年のうちに人類も進歩したものだよ。まあ監禁されたあとに思う感想でもないが」


 リオは真顔で頷く。今日の出来事を振り返ってみると、百年前とそう変わっていないような気がする。


 だがすべてが無事に終わったのだ。リオは荒い呼吸を落ち着かせるように深呼吸を繰り返した。大きく息を吸って吐いて、にじんでいた汗を拭う。良かった、と心の中だけで呟く。


 そしてふと視線を巡らせたとき、彼がピストルを握りしめていることに気が付いたのだ。


 心臓がドクンと高鳴る。

 リオはうっすらと唇を開いた。


「あの……小隊長、なぜ、ピストルを」

「うん? ああ、これか」


 小隊長は何でもないようにピストルを掲げると、視線を階段の方へやった。


「二階まで降りて回収してきたものだよ。万が一ということがあるから、武器は持っておくに越したことがない。例えばさっきのときのようにね」


 嫌な予感がする。リオはごくりと唾を飲みこんだ。


「……そういえば小隊長、さきほどの銃声は? 敵に撃たれたのではないんですか」

「ああ、安心しなさい」


 リオはぱっと顔を上げる。小隊長はあっけらかんとした顔で言った。


「二発は私だ。急所は外したから、出血は少ないよ。かすめるように撃った」


 その言葉に、リオは両目を見開いた。人の声でざわつき始めたフロアの中で、リオは指先まで硬直させていた。


 彼はにこやかで平然としている。思考が止まって、しばらく何も言うことができない。唇がわずかに震えて、ようやく出てきたのは「なぜ」という声だった。


「なぜ、あなたが撃ってしまったんですか……」


 息が詰まっている。喉の奥から絞り出すように言えば、彼は「訊く必要のあることかな?」と返した。彼は手の中にあるピストルを見つめながら、静かに瞬きした。


「私は危険にさらされた。人質たちを保護しなければならなかった。だから撃った。それだけのことだろう」

「……でも!」

「必要があったんだ、仕方がないだろう? 撃っていなければ、それこそ私は血の海に浮かんでいたしね」


 ひらひらと手を振って見せる。ずいぶんあっさりとした言い方に、リオは唇を噛んだ。


 彼の言いたいことは分かっていた。撃たなければ撃たれる、そんな状況をリオはもう知っている。だから彼の行動は自然なものであって、反論の余地はない。それでも納得しきれないのは、彼がやけにすべてを見通したような態度でいることだ。


 何かがおかしい。

 リオは指先をぴくりと動かして「そうか」と呟いた。


「……最初から予測していたんですか?」

「なにが」

「人質の多い三階の方が危険だと分かっていたのでしょう。分かっていて、僕たちを一階に行かせた。丸投げなんて言いながら。そうでしょう?」


 詰め寄るように言えば、穏やかな眼差しだけが返ってきた。何も言わない。けれどそれが肯定であることは何となく分かった。


 思考を重ねるごとに、だんだんと彼の考えていることが読めてくる。リオたちは彼の指示に従っているうちに危険から遠ざけられていたのだ。


「……わざと僕たちを危険ではない正面に行かせましたね」


 一歩踏み出す。もし彼が元上官でなければ胸倉を掴み上げていただろう。気が付けばまくしたてていた。


「一階には外に警官隊もいて、いざというときには無理にでも助けてもらえる。負傷してもすぐに外へ連れ出されるでしょう。だから想像よりも安全だ。なのにあなたはここに残った。犯人が三階まで戻ってくると知っていたから。危険だと分かっていて、なぜあなた一人がここにいたんですか! そういうのは僕たちの仕事で――!」


 彼は遮るように「違う」と言った。


「君たちの仕事ではないよ」


 ゆるやかにかぶりを振って、彼は目を細めた。


「いいかい、リオ。こういうときに盾になるのは、私のような年長者であるべきだと私は思っているよ。まだ若い君たちは守られなければならない」

「でも、僕たちは」

「……そうあるべきだったんだ、最初から」


 フロアのざわめきがもう聞こえない。耳に入ってこない。

 小隊長は脱力した。最初という言葉が何を指しているのかは分かっている。リオは瞳を揺らす。彼は細く息を吐いた。


「……私が、君たちに死ねと命令した」


 小さく呟かれた言葉に、リオはぴくっと肩を揺らした。小隊長は構わずに続ける。


「あのときは無茶苦茶だったんだ、何もかも。それでも受け入れるしかなかった。本望ではなかったが私はそういう役割だったし、君たちもただの駒だったから。いや、今さら被害者面するつもりはないよ。私は自分であの道を選んだのだからね。今も昔もそう言い聞かせるばかりだ」


 彼は言葉を切って、そして吐き出す。


「結局、そうやって私は全員死なせてしまった。死なせたんだよ。……けれど地位とか立場とか、そういうしがらみがない今、私が矢面に立たない理由はないと思うがね」


 彼は何かふっきれたような顔をしていた。たった今人を撃ったというのに、何かから解放されたようにすっきりとした目をしていたのだ。


 リオは目元を力ませる。


 ――僕が君を殺した。


 自分の吐いた台詞がふとよみがえってくる。

 まるで少し前の自分を見ているかのようだった。


 違う、と唇が動いていた。違うと思った。あのときはすべて仕方がなかったとリオは思っているのだ。彼一人に責任を押し付けるつもりはない。リオが死んだのは顔も知らない敵兵に撃たれたからなのだ。


 やっとアーサーの言いたかったことを理解したリオは、襟元が皺になるまでぎゅっと掴んだ。だが黙って納得できるほど物分かりはよくない。リオが食いつくように「小隊長、僕は」と口にするが、また遮られてしまう。


「ま、あんたがそうしたいなら、それでいいんじゃないっすか?」


 非常階段の方からゆっくりと歩いてくるのはアーサーだ。小隊長に代わって後始末でもしてきたのか、疲れたような顔をしている。彼はわざとらしくため息を吐いてから肩をすくめた。


「別に止めませんよ、俺は。今世くらい好きに生きればいいんじゃないですかね。それがあんたの心残りならなおさらだ。あんたに庇われてるってのは癪ですけどね」

「ありがとう」

「……それで、これは誰かさんの受け売りっすけど、何一つなかったことにはならないらしいですよ。昔にやったことも、思ったことも、後悔も。だったらお互い好きにした方がよっぽどマシでしょ」


 アーサーが「なあ?」と視線を投げてくる。リオは喉をつまらせながら目を逸らせた。


 それを言ったのは自分で、だからこそアーサーに妥協させているわけで、これ以上もう何も言えなくなってしまう。否定してしまえば、それは自分の論理の破綻だ。


 悔しそうに両手をぎりぎり握りしめていれば、小隊長は苦笑した。


「……君って私に対しては結構適当だよねえ? 昔から」

「あんたにまともに取り合ってたら日が暮れる」


 アーサーはため息まじりに口角を下げた。


「まあ、俺は何となく勘付いていましたけどね。小隊長に誘導されてるって」

「えっ」

「長年の勘ってやつだな」


 リオは「だったらなぜ言ってくれなかったんだ」と恨みがましく尋ねる。彼からは「あの状況でいちいち対抗してたら時間ねえだろ」と返ってきた。


「それにこの人、おまえの十五倍は射撃が上手いぞ」

「リアルな数字を出すんじゃない」


 アーサーは「ま、俺よりは全然下手だけどな」と付け足した。


「いやでも善処してますよ、小隊長は。ってか俺より上手いやつなんてそうそういないんで大丈夫ですけど」

「人並みにしんみりしていたら突然喧嘩を売られたんだが、撃っていい? この子撃っていいかな?」

「手元のピストル見るのをやめてもらっていいですか……!?」


 リオは慌ててアーサーの隣から逃げた。流れ弾に当たってはたまらない。結局いつもの空気に戻ってしまってげんなりとしていれば、小隊長がパンッと手を叩いた。


「何はともあれ、そういうわけだ。厄介な記憶を持ってきてしまったんだ。それならお互い、開き直って好きなように生きていこうじゃないか!」


 彼はにこにこと笑みを浮かべながら話をまとめてしまった。


 リオは「え、え?」と戸惑ったように声を発するが、雑ながらも綺麗にまとまってしまったので続けられない。もっと何か言わなければならないような気がして、リオは慌てて思考を回す。そして別の疑問を引っ張り出してきた。


「そ、そうです。もう一つ訊きたいことがあるんですが!」

「ええ? まだあるのかい?」

「僕たちがいると気づいていたのに、なぜすぐに声をかけてくれなかったんですか? まだ答えを聞いていません!」


 リオは「さっきは誤魔化されました」と付け加えれば、小隊長は思い出したように髪をかき乱した。どう返事をしようか迷っているような顔だったが、アーサーも「ああ」と声をあげた。


「そういや俺も気になってましたね、それは」

「ええー……。別に大したことではないんだが」

「だったらいいじゃないっすか」

「そうですよ」


 上手い具合に味方が増えたので、押し切るようにやいのやいのと言う。小隊長はしばらく明後日の方を見ていたが、分が悪いと見たのか大きく息を吐きだした。形勢判断が早いところは彼の長所だった。


「実はだが、君たちの存在にはかなり前から気付いていたよ。君たちが私に気付く、ずっと前から」

「ですよね」


 改まって言われるようなことではないので、リオは適当に相槌を打つ。だが小隊長は苦笑いを浮かべながら続けた。


「例えばリオ、君の存在に気が付いたのは、大体十年前だ」

「…………え?」


 ゆっくり、本当にゆっくりと唇を開く。


 長い沈黙のあと、リオはやっと声を発した。ぽかんとした顔で返せば、分かっていたかのように小隊長は深く頷く。


「ついでにアーサー、君を見つけたのは三年前かな。君は大学進学のためにこちらに来たというところだろう? デパートで家電を見繕っているところだったからね」

「………マジっすか?」


 さすがのアーサーも反応に困ったのか、リオの隣で固まっていた。珍しく間抜けな表情のままだ。


「あの、ちょっと想像していたのと違う感じなんすけど……」

「そういうこともあるさ」

「どういうことっすか!?」


 ようやく我に返ったリオが、遅れて何か言おうとしたが、ろくに言葉が出てこなかったので口をぱくぱくとさせているだけだった。酸素を求める金魚のようだった。その間にアーサーはひとしきりのことを言い終えてしまう。


 小隊長は「これでも君たちには申し訳ないと思っているんだよ?」と目尻を下げた。


「だからこそ君たちの正しい人生の邪魔をするつもりではなかった。だって私がいたら、君たちはまた私のしたことを許してしまうだろう? それはお互いにとって良くないことだ。君たちは私を恨んでいるべきだよ、本当のところはね」


 小隊長は相変わらずにこにこと笑みを浮かべているだけだ。本心を取り繕うような顔だった。それは百年前からよく知っている顔の気がした。


 遠くでサイレンが響いている。


 はあ、とため息をついたのは二人同時だった。リオとアーサーはお互いの顔を見遣ってから、呆れたような表情で彼を見た。


「それでも声くらいかけてくれりゃあいいじゃないですか。こちとら一体何年の付き合いだと思ってんですかね。本当に変なところで気を遣う人だな、あんたは。そんなこと今さらでしょ」

「そうですよ。あなたが加害者だというなら僕やアーサーだって同類です。正しいとか正しくないとかは分かりませんが、僕はもっと早くにあなたと出会いたかった」 


 はっきり真正面から言い切る。


 小隊長は笑みを崩した。面食らったような顔で固まっていたが、やがて眉を下げてぼそぼそと声を発した。


「……そうか、君たちはそういう風に言ってくれるのか」


 彼は顔を隠すように俯いた。手の甲で顔を覆うとするが、へにゃっと子どものように笑っているのが見える。


「嬉しいものだね」


 彼は少し困ったような、けれど本当に嬉しそうな笑みを浮かべていた。






 夕飯前には帰りたいなどと言っていた小隊長ではあったが、人に向けて発砲したとなればそのまま帰宅できるはずもなく、事情聴取のために連れていかれることになった。


「あっ」


 連行される直前、彼は声をあげると、胸ポケットから出してきたメモにさらさらと何かを書きつける。彼はリオの右手を持ち上げてそっと握らせた。


「クリスマスイブに到着でよろしく」


 リオは手のひらを開く。のぞきこんできたアーサーとともに見てみれば、おもちゃの商品名と住所だけが書かれたメモだった。ついでに紙幣も数枚ある。


「……何ですか、これ」

「娘へのクリスマスプレゼントさ!」


 意味が分からなくておうむ返しすると、彼は平然とした顔で言う。


「うっかり監禁されたおかげで買い損ねてね。君たちにお使いをしてもらおうかと思ったわけさ。今日中に買わないとイブに届かなくなるし……」

「あの流れでさっそく人を便利に使うのやめてもらっていいっすかね!?」

「頼りにしているだけじゃないか!」


 彼は「いやあ、可愛い部下たちがいて助かった。おつりが出たらパンケーキでも食べて帰りなさい」と言い残して連行されてしまった。


 ははは、と爽やかに笑っていたが、両脇をがっしりと警官に固められていたので犯人にしか見えない。


 まるで嵐のようだ。取り残されてしまった二人はまたもや顔を見合わせた。


「……いやどう収集つけるんだよ、これ。マジかよあの人。何もかもぶち壊して帰っていきやがった」

「と、とりあえずパンケーキを食べようか?」

「おまえが混乱していることはよーくわかった。それからパンケーキは食わねえ」


 アーサーは足先でとんとんと床を叩く。何か考え事をしているのか、ゆるやかに腕を組んだ。


「このままただのお使いじゃつまらねえよな」

「……確かに」


 こういうとき意見が合うのは妙に速い。

 二人はまたしても顔を見合わせてから、ずんずんと歩き出した。

 





 街のいたるところでクリスマスソングが鳴り響いている二十四日。イルミネーションの光で薄暗い夜でも明るい。すっかりクリスマスムードにそまっている。


 チャイムを鳴らせば、扉の向こうでばたばたと足音がした。


「郵便でーす。お荷物お届けに参りました」

「はいはい」


 ガチャリと鍵の開く音とともに扉が開かれた。


 五歳の娘を抱きかかえながら、頼んでおいたプレゼントを受け取りに来た小隊長が、ひょこりと顔を出す。片手にはサインのためのペンを持っている。


「メリークリスマス!」


 そんな彼の顔面めがけてクラッカーを鳴らした。紐を引けば勢いよく飛び出す紙とリボン。まともにくらった彼は、悲鳴をあげる暇すらなく頭からすっかりファンシーだった。


「…………?」


 彼は何が起こったのか分からず石のように固まっている。ぽかんと口を開けたままだ。娘は身を乗り出しながら「きれい!」と頭にのったリボンをむしり取っていた。


 クリスマスソングだけが間抜けに流れている。


 だいぶ時間があってから、小隊長は空いた左手をふるふる揺らしながら指さした。


「……アーサー?」

「はい」

「……リオ?」

「はい」

「何……その愉快な格好は……」


 リオもアーサーも赤と白のもこもことした衣装に身を包んでいた。今日にもっともふさわしい恰好をしている自信があったので、二人はにやりと口角を上げる。


 娘は「サンタさん!」と嬉しそうに笑った。


 二人は赤い帽子をかぶりなおすと、わざとらしく咳払いした。


「いやあ、今日の俺らはサンタさんなんで。あんたの娘ちゃんにプレゼント届けにきたんですよ。もっと喜んでもらっていいっすか?」

「そういうわけです」

「リオ、君のは何の説明にもなっていないが?」


 彼は「まさか駅からここまでその格好で歩いてきたのかい?」と、信じられないものを見るような目で見てくる。リオは「ケーキの販売員と間違えられましたね。三回」と返した。


「僕たちに住所を晒したのがすべての失敗ですよ、小隊長。現代社会をなめないでください。呪うなら自分の行動です」

「美味しいお料理とかご相伴にあずかりてえな~。サンタさんなんで」

「そんな我の強いサンタは聞いたことがないが?」


 小隊長は終始白けた目だったが、娘はキャッキャと楽しそうに笑いながら二人に手を伸ばしている。「図々しさがうつるから触らないでおきなさい」と小隊長が小さな手を遮った。


 そうこうしている間に身体が冷えてきて、リオはくしゃみを一つした。安物のパーティーグッズなので生地が薄っぺらいのだ。「ものすごく寒いです」と報告すれば、彼は「だろうね」と真顔で返した。


「ほんっとうに無茶苦茶するよね、君たちは」 


 彼は思わずといったように笑みを零す。


「だが嫌いではないんだよねえ……」


 クリスマスソングにかき消されそうなほど小さな声で呟いたかと思えば、扉を押し開く。中からチキンの香ばしい香りが漂ってきていた。


「入りたまえ、私の可愛い部下たち。せいぜい盛り上げてもらおうじゃないか」


 彼は優しく目を細める。

 二人は声をそろえて「はい!」と返した。


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